✱✱✱✱✱ 魈 ✱✱✱✱✱
望舒旅館の一室で、片手で顔を覆って蹲った。脳裏に映っているのは、丸くなった薄青色。手には仄かな体温が残っている。自分が作り出した幻でない、それがいっそう苦しかった。
「…………花天 」
かつての彼女もきっとああした。泣く子を前に躊躇わず風船を取りに行っただろう。だが、違う。その名を今の彼女に重ねることは許されない。かつての彼女はあんなふうに穏やかに笑わない。記憶の中の白色は、もっと自由で奔放だ。魔神の跋扈するあの時代であっても、誰も彼女を縛れなかった。
⸺⸺自分も、帝君でさえも。
帝君に救い出された後に、空を飛ぶ彼女を初めて仰ぎ見た時の衝撃を覚えている。同じく翼を持つものだというのに、長きに渡り囚われ、罪に塗れた自分には、眩しすぎた。背中の真白で優美な翼を広げ、思うがままに空を駆る。今の時代であってもあの頃の彼女より自由に飛べるものなど、それこそ風神くらいであろう。
警邏の役目を兼ねていたのもあるが、何より彼女は空を舞うのが好きだった。一面の青に浮かぶ白色は空を裂く一筋の雲のようで。
けれど、今日見た彼女は地上を歩き、その背にかつての翼はない。
それなのに、同じ容姿をしていた。風が吹くと身体を前に傾ける癖さえも同じだった。けれど、花天であればそのまま風に乗り、伸ばしたこちらの手をすり抜けたはずだ。口から漏れるのは溜息ばかり。
⸺⸺違うとも同じとも認められない。自分が一番厭だった。
✱✱✱✱✱ 白 ✱✱✱✱✱
とうの昔に日は沈み、空は紺色に染まっている。街の中に灯る明かりは地上の星のようで。
「綺麗、まるで地上に夜空があるみたいです」
欄干に頬杖をついた旅人さんが優しい眼差しでこちらを見ているのがわかる。けれど、私の目は璃月の夜景に釘付けだった。夜の冷たさを、暖かみのある明かりが照らす。不意に背中に視線を感じた。鋭いが、傷つける意思を感じない。昼間、屋根の上から感じたのと同じもの。辺りをきょろきょろと見回していると、旅人さんとパイモンさんが心配そうに声をかけてきた。
「どうしたの?」
「大丈夫か?」
「あ、はい。なんだか視線を感じて……敵意は感じないんですけど」
そこで、ふとあの金色を思い出した。目があったあの一瞬の温度がよく似ていた。
「もしかすると、昼間に助けてくれた人がいるのかもしれません」
「助けてくれた?」
屋根で足を滑らせたことを告げると、旅人さんとパイモンさんは青褪めた。
「なんで言わないんだ!」
「は、はい」
「大丈夫?高いところは怖くない?」
「大丈夫です、むしろ安心するというか……」
空が近づくと、歓喜が湧き上がる。出会いが出会いだったからか妙に心配性な二人を宥め、周囲に視線をやるが、誰もいない。
「……気のせいだったのかもしれません」
そう言いながらも、胸の奥がざわついた。眉を下げた私を見て、二人は顔を見合わせた。
「できそうなひとに心当たりはあるけど……」
「たぶん、あいつだよな……」
「あいつ、とは」
首を傾げると、旅人さんは口を開いた。
「璃月を守る仙人だよ」
会いたいなら呼ぼうかと言われて、少し面食らうも首を横に振る。
「いえ、視線を感じるのに接触を避けているということはきっと向こうは会いたくないのでしょう」
お礼を言うのはまた今度にします。そう言って微笑むと、二人は釈然としていなさそうな顔をした。
瞼の裏にあの金色を思い描く。なぜ私はあの色を懐かしんだのだろう。そう思っていると、突風が吹いた。視界に白い髪がはためく。風に触れたい、できるはずもないのにそう思って欄干の外に手を伸ばした。その瞬間、背中の熱が勝手に身体を前に傾けた。足裏が床を離れる。
「白!」
身を乗り出した旅人さんの手を取ろうとして、伸ばした指先が宙に浮いた。夜空がどんどん遠ざかるのを見たくなくて、身体を丸めて目を閉じた。風に触れた肩甲骨の奥で何かが解けたような気がした。身体が風を切る感覚がなぜだかとても懐かしくて、恐怖よりも強かった。
✱✱✱✱✱ 魈 ✱✱✱✱✱
二度と触れまいと決めていた。触れたなら、欲しくなる。かつて手に入れられなかったぶんを今の彼女に求めてしまう。それなのに落ちていく白色を見た瞬間に、身体のほうが先に動いた。軽く、華奢な身体を抱きとめる。無意識に片手を肩甲骨の下に添えていることに気がついて、自嘲する。そこに、もう支えるべき翼はないのに、一瞬だけあの焦がれた白色を幻視して、胸の奥が鋭く痛んだ。
「あの」
溶け込むような静かな声だ。間違っても明るさに満ちてはいない。それなのに同じ声だと本能が理解する。白い容姿の中で唯一存在を主張する薄青が真っ直ぐに自分を見つめていた。
「貴方、ですよね。昼間に助けてくれたの」
「だったら、なんだ」
抑えねば、彼女を呼んでしまうと思った。今の名を呼べば花天を、かつての名を呼べば白を、壊してしまうような気がした。
「ありがとうございます。あの時も、今も。それから」
夜にあっても昼間の空のような瞳が柔らかく細められる。心臓が跳ねるのがわかった。
「璃月を守ってくれてありがとう」
目を見開く。お前が、それを言うのか。
「……礼を言われることではない。それは我の責務だ」
「それでも貴方が守ってくれなかったら、私はこんなに素敵なこの国に、出会えなかったかもしれません」
白く長い睫毛が伏せられた。薄紅色の唇が笑みを形作っている。晴れ渡る空のようではない、青の透ける薄曇りのような、柔らかな笑み。それがやけに目に焼き付いた。彼女は腕の中から地上を見下ろした。
「やっぱり、空が地上にあるみたい」
それを聞いた瞬間に胸が激しく痛んだ。違う。お前の空はお前の上にあるべきもののはずだ。唇を噛み締めた。白が地上を愛しむたびに空の彼女を思い出す。どうしようもない執着だった。
白を抱えたまま、旅人の前に立つ。壊さぬように彼女を下ろすと、姿を消す前に名を呼ばれた。
「白!魈!」
即座に駆け寄った旅人は、彼女を見ると、安堵したように息を吐いた。
「よかった……ありがとう、魈」
「無事でよかったぞ……」
「お騒がせしてすみません……」
「いいよ、怪我がないなら。白、こちらが魈」
「魈、さん」
聞き慣れぬ敬称が優しい刃のように胸を抉った。
『魈!』
かつて彼女が玉を転がすような声で名前を口ずさむたびに、己が何か素晴らしいものになったような気がした。あの晴天の笑みがどうしても手放し難かった。
「改めてありがとうございました。そして初めまして、私は白と申します」
違うと叫び出してしまいそうになって、唇を噛み締めた。差し出された細い手を取ることもできず、拳を握る。いや、もとより許されていない。花天でも、白でも、業と血に塗れたこの手で真白いその手を取ることなど。我の様子を見た白は、少しだけ寂しげに手を引っ込めた。やはり違う。花天なら、構わずに笑って手を取っただろう。彼女が空を裂く風そのものならば、白は風が吹き去ったあとの余韻だ。それなのに、相手を想う瞳の色は同じだった。
「……ああ」
我の態度が彼女を傷つけたと思ったのだろう。旅人とパイモンが慰めと我の弁護を口にする。その距離の近さに、躊躇うことなく伸ばされた手に、彼女を見つめる優しげな眼差しに、胃の腑が焼けるような感情が湧いた。彼女を花天だと認められないくせに、彼女に近づく全てを許せない。白い髪が夜風に靡くさまに、目が吸い寄せられるのを止められない。ただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう、旅人が白に声をかけた。
「色々あったし、今日はもう休もっか。魈、ほんとにありがとね」
「……気にするな」
彼女は会釈をして、旅人たちに連れられていく。その背に手が添えられているのを見て、槍を取り出してしまいそうになる。遠ざかる白色に胸が掻き乱され、視界から消えるのを待たずに風に溶けた。失えないのだ。彼女が花天でも、そうでなくても、あの白色をもう二度と。