✱✱✱✱✱ 白 ✱✱✱✱✱
数日たっても港の人の多さには慣れない。ざわめきは心地よくも、目まぐるしく寄せては返す。金色の髪を見失いそうになって、内心慌てながら人と人の隙間を縫った。
「大丈夫?白」
人混みに飲まれそうな私の手を旅人さんが繋いでくれた。飛べるために地上の混雑と無縁なパイモンさんも心配そうにこちらを見ている。
「はあ……大丈夫、です」
「急ぎの用事じゃないし、少し休憩しようか」
気を使われたことに申し訳無さを覚えつつも頷いて、皆で道の端に逸れる。背中に視線を感じることには慣れてしまったけれど、その持ち主は、現れない。
「……旅人さん」
「なに?」
「私は、魈さんに何かしてしまったのでしょうか」
思わず溢れた本音に旅人さんが目を見開く。
「そんなことはないと思うけど」
「そうだぞ!魈はもともとあんまり人と関わらないんだ!」
「そうですか、それならいいんですけど……」
ならばどうして視線だけを寄越すのだろう。どうして二度も助けてくれたのだろう。どうして、あんなふうに瞳を揺らしたのだろう。
わからないままだ。彼のことも、自分のことも。
「ありがとうございます、もう大丈夫です」
微笑むと、旅人さんがまた手を差し出した。幼子のようで恥ずかしいけれど、その手を取って歩き出す。あちこちから呼び込みの声が鳴り、笑い声が漣のように聞こえた。
船着き場に出ると、働く人々だけでなく、あちこちに子どもの姿も見えた。そのうちの一人が私を見て顔を明るくした。
「あー!白いおねえちゃん!」
数日前に風船を取ってあげた女の子だった。その子を筆頭に子どもたちが集まってくる。
「ねえねえ、おねえちゃんも遊ぼうよ」
幼い願いを無下にすることはできないが、このあとは予定がある。困り果てて旅人さんを見ると、笑って頷かれた。
「こっちでやっとくから、白は子どもたちと遊んでなよ」
「え、でも」
「いいから、気にしないで。パイモン置いてくし」
「おい!オイラの扱いが雑だぞ!」
プンプンと怒りながらもパイモンさんは残ることを了承してくれた。二人に頭を下げて、しゃがんで子どもたちと目を合わせる。
「いいですよ。じゃあ何をして遊びましょう」
「かくれんぼ!」
鬼役となった子どもが数を数えるうちに積まれた木箱の影に身を寄せた。
覚えてもいない童心に帰ったようだ。口元には笑みが浮かぶのに、胸に隙間風が吹き抜けた。
息を潜め、声を殺す。
けれど数える声は止んだのに、暗がりに、幼い声は差し込まない。喧騒がどこか遠くて、あの小島で感じた、世界から切り離されたような感覚が再び襲ってくる。目を閉じて身体を縮こまらせた。足元が崩れ、上下も左右もわからなくなるような。けれど、不意にあの視線を感じて顔を挙げた。遠くの屋根を見るも、もちろんそこには誰もいない。そうだ。一人ではあるけれど孤独ではない。あの金色が私を見ているのだから。それを思い出して小さく微笑んだ。そして、とうとう足音が私の前で止まった。
「おねえちゃん、みーつけた!」
自分の勝ちだと笑う子どもに、悔しさは湧いてこない。むしろ愛しさと安堵が胸を支配して自然と笑みが溢れる。潮風が身体を包み、肩甲骨の奥が疼いた。
「見つかっちゃった」
✱✱✱✱✱✱ 魈 ✱✱✱✱✱
屋根の上から白を見下ろした。かつての彼女なら、花天であれば、人の波に溺れることなどなかったはずだ。彼女は人を慈しみ、止り木に降りるように交わることはあれど、何よりも空を愛し、悠然と天に在った。
それなのに、溺れるものが藁を掴むように白が旅人の手をとった時、どす黒い感情が胸を焼いた。壊すことしかできない自分ではあんなふうに自然に手を差し出すことなどできない。思わず胸元を握りしめる。業障に苛まれるよりも、よほど胸が痛かった。
「違う……重ねるな……」
低く、呻くような声が出た。重ねれば、白が消える。けれど、そうしなければ花天がもういないことを認めざるを得ない。どうしようもない自分を殺してしまいたかった。
眼下では旅人と白が手を繋いで歩いている。優しげな笑みを浮かべる旅人とはにかむ白。ぎりりと噛み締めた奥歯が鳴った。船着場についた白が子どもに囲まれて、薄青の瞳が迷いを宿して旅人を見る。旅人は笑って頷き、白は子どもとパイモンと共に残された。
無垢な白色と無邪気な命が戯れる様は天ではなく地上にあってもなお触れ難い。子どもに向ける笑みの嫋やかさに思わず人混みに消えていく旅人の背を目で追った。平然と手を離すのか。お前は、当然のように彼女に触れる。壊すかもしれないなどと考えもしない。それが許されているというのに。
⸺⸺我には。
息が詰まり、伸びそうになる手を握りこんだ。詮なき思考を殺して、白に視線を戻す。木箱の影に身を寄せた彼女は何かに怯えるように目を閉じていた。もともと小柄な体躯はひとまわりもふたまわりも小さくなったようで、腕の中に収めてしまいたい衝動が腹の底から湧いた。
⸺⸺花天には、こんなことは思わなかった。彼女は手の届かぬ高みにあるのがいっとう美しい。けれど、白を見るたびに、焦がれども届かなかった白色が地に降りてきたようで息が詰まる。
不意に彼女が顔を挙げた。空を映した薄青色と目があった⸺⸺気がして咄嗟に身を引いた。錯覚だ。この距離で目が合うはずがない。それなのに、胸のどこかが満たされてしまった。
「魈」
驚きはなかった。彼女たちが別れてしばらくしてから気配はずっとそこにあった。声の主自身、気配を殺す気もなかったのだろう。振り返る。堂々と楼台の上で欄干に頬杖をつき、金の髪を靡かせて、旅人がそこにいた。
「見てるだけで満足ならそれでもいいけどさ」
こっちは魈の視線で射殺されそうだったんだよ?
冗談めかした声に、視線をそらした。
「……見てなどいない」
旅人が肩をすくめたのが気配でわかった。
「魈はさ、知ってるの。あの子の過去のこと」
喉が鳴った。低い声が口から溢れる。
「それを知ってどうする」
「別に?あの子は白だよ。それ以上でも以下でもない」
当然のことを言う口ぶりに、掌に爪が食い込んだ。
「白が不安がってた。何かしちゃったから会いにこないんじゃないかって」
その言葉に、思わず目を見開くと、旅人は欄干にもたれるのを止めて、冴えた瞳でこちらを見た。
「見守るならもっと上手くやってよ」
「……お前に何がわかる」
「わからないよ、魈が何も言ってくれないから」
何も言葉にならない。ただ息を呑んだ。旅人は一瞬、彼女の方に視線を投げた。
「守るつもりなら傷つけないで」
旅人は踵を返す。その手が震えているのが見えた。
⸺⸺余計なことを言わせてしまった。
金色の髪が見えなくなって、屋根の上にしゃがみこんだ。片手で顔を覆う。
「……そのくらい、わかっている」
それでも目は白を追ってしまう。いっそ抉りだしてしまいたかった。
✱✱✱✱✱ 白 ✱✱✱✱✱
鬼役の子どもに手を引かれて立ち上がった瞬間、後ろから何かがぶつかる音がした。反射的に振り返ると、木箱の山の上の方にある数個がぐらりと揺れた。
「あぶない!」
先程と反対に子どもの手を引いて抱きしめるように抱え込んで目を閉じた。けれど、覚悟していた痛みはやってこない。
「怪我はないか」
背の高い、石珀色の瞳の男性が、木箱を支えていた。その色になぜか胸の底がざらつくも、毛先に行くにつれて明るくなる濃い茶色の長髪が風に揺れるのを見て、一瞬だけ視線が彼の背後の空に吸い寄せられた。
「は、はい。ありがとうございます」
子供を抱きしめる腕を解き、彼の目を見上げて、ふと気がつく。視線が、合わない。それは呼吸一つぶんだったけれど、確かに私ではなく肩のあたりを見ていた。肩甲骨の奥がざわめいた。
「ここは、人の行き来も多い。気をつけるといい」
そう言って彼は木箱を置き直した。しっかりと芯の通った声だ。それなのに目があった瞬間に石珀色が定まらない。私は、この揺れ方を知っている。二度私を助けてくれた金色によく似ている。けれど、あの焦げてしまいそうな熱はない。
「あの、私は白と申します」
既視感につられて名乗った途端、彼の喉がひくりと動いて、指が強張った。石珀色の視線が私の肩のあたりを彷徨って、すぐに逸れた。一拍ののち、その顔に笑みが浮かぶ。
「……そうか。俺は、鍾離という」
私を見て瞳を揺らすひとたちは、みんなどこか苦しそうだ。
「鍾離、さん」
彼の瞳の奥に動揺を垣間見て、自分の失敗を悟った。彼のときもそうだった。私が名前を呼んだとき、彼らは傷ついたような目をする。
「あの、私なにか粗相を……?」
彼は一瞬目を閉じた。息が、静かに整えられる。
「……貴殿は、何も悪くない」
その静かな微笑みに胸が痛むのを感じて、声をかけようとしたとき、袖が引かれた。
「おねえちゃん……」
見れば、鬼役の子どもがどこか不安げにこちらを見上げている。幼子にはつまらなかったのだろう、瞳には微かに不満の色がある。その子の頭を撫でた。
「ごめんなさい、待たせてしまいましたね。鍾離さんのことも引き止めてしまって」
「……気にするな。それよりもその子を連れて行ってやるといい」
「はい、ありがとうございました」
頭を下げて、手をつなぎ、他の子どもたちのもとへ向かう。一度後ろを振り返ると、読めない表情をした彼が、私の背中を見つめていた。
似ているけれど、何かが違う。心のどこかが満たされない。私はあの金色が見たくなって、視線のもとを探した。
「どうしたの、白」
遊び疲れて帰路につく子どもたちに手を振っていると、用事を終えて戻ってきた旅人さんが、眉をひそめて尋ねた。何もないはずなのに、見透かすように澄んだ瞳に促されるように、言葉が口から転がり落ちた。
「魈さんに、伝えてくれませんか」
「何を?」
「見守ってくれてありがとうって」
「自分で言わないの?」
旅人さんの疑問は最もだ。首を傾げた拍子に揺れた金色を眺めながら、微笑む。
「魈さん、私を見ると少しだけ苦しそうだから」
僅かに丸くなった琥珀色に映りこんだ自分は存外寂しそうに見えた。
「ねえ、白」
「はい?」
「魈が苦しいのは白のせいじゃない」
「でも……」
「……魈が知ってるなら、他にも知ってる人がいるってことだよ」
「え?」
「なんでもない。パイモンと一緒に先に帰ってて」
「え、でも旅人さんは……」
琥珀色が細まった。優しいはずのその表情に言いようのない圧がある。
「ちょっと、野暮用ができた」
✱✱✱✱✱✱✱✱✱✱
「魈が知ってるってことはさ」
あなたも知ってるんじゃないの。香の煙がたなびく往生堂の一室で、旅人は鍾離と相対していた。茶杯の置かれた卓を挟んで、それぞれ椅子に腰掛ける。
「……彼女の過去には興味がないと思っていたが」
「興味はあるよ。でも、記憶を失う前の彼女に囚われて、白を悲しませはしない」
石珀の瞳が琥珀色を見返した。普段は何にも揺らがぬその瞳の奥に揺れる何かを垣間見る。
「……妙に棘のある物言いをするな」
「うん」
旅人は目を逸らさない。
「白が覚えてもいないことで傷つくのが嫌なんだ」
「……随分と彼女に肩入れするのだな」
「それの何が悪いの?まっさらな状態のあの子を拾ったんだ。もう娘みたいなものなんだよ」
それに、あんなに綺麗で優しい子、誰だって好きになる。旅人がそう言うと、鍾離は目を伏せて、フッと息だけで笑った。
「⸺⸺ああ、そうだな」
肯定の言葉は落ちた次の瞬間に石のように固まった。ピンと空気が張り詰める。
「だからこそ、取るべき距離がある」
その声に笑みの余韻はない。
「それが今の魈だって言うの?」
旅人の声は揺るがない。香の煙より真っ直ぐに逃げ道を塞ぐ。
「魈は壊さぬために距離をとった」
「でも、結局白を傷つけた。ねえ鍾離先生、それって誰のため?」
鍾離の眉がひそめられ、指が僅かに動いた。
「……誰のためと言っても、お前は納得しないだろう」
「まあ、否定はしないよ」
「だが、強いて言うのであれば皆のためだ。白は過去に囚われず、魈は壊れない。彼らの破綻を招かずに済む」
「囚われるって、決めるのは白だ。あなたじゃない」
「……」
「先生が決めていいのは、先生自身が白をどう扱うかだけだよ」
鍾離は目を閉じた。茶杯から立つ湯気がゆらりと揺れる。
「……理屈では、そうだ。だが、理屈では済まぬ相手もいる」
「……ねえ先生」
「なんだ」
「過去の彼女ってそんなに魅力的だったの?」
あの夜叉を業障よりも狂わせるくらい。言外に告げると鍾離は微かに笑った。脳裏に浮かぶのは曇りのない笑顔。誰の手をも、すり抜けた純白。
「何をもって魅力的とするかは難しいが、多くから好まれることだとするならば、そうだな」
そう言った声音には懐かしさだけではない何かが滲んでいる。
「夜叉や神の一人や二人灼けちゃうくらいだもんね」
「返す言葉もないな」
茶杯を手にしようとした鍾離の手が一瞬止まった。その顔に先程までの固さはない。けれど茶杯を置いた途端、雰囲気が一気に硬質なものになる。石珀の瞳が細まった。
「……かつて、彼女の背には翼があった」
茶杯から昇る湯気が細く切れた。
「それを知って⸺⸺お前はどうする?」
旅人はただ真っ直ぐに鍾離を見た。
「どうにもしない。白は白だ」
部屋の隅で香炉の灰が音もなく崩れた。
「……そうか」
指が茶杯の縁を静かになぞった。鍾離は一度目を閉じてから、旅人を見据えた。
「⸺⸺花天」
契約の神が宣った名は軽やかな響きと裏腹に、岩のように重く落ちた。
「かつて、彼女が呼ばれていた名だ」
すべてを記憶する神の脳裏に過ぎったのは。曇天の空に映える白髪と細められた青空の瞳。鼓膜の奥の残響はどこまでも晴れやかだ。
『馬鹿にしないで岩王帝君、これが私の自由なの』