「旅人……白殿」
露店を覗いていると、聞き覚えのある声が聞こえた。振り返れば、船着き場で木箱から守ってくれた鍾離さんが立っていた。
「鍾離先生?」
旅人さんが彼を知っていたことに、少しだけ驚いた。
「少し、彼女を借りてもいいだろうか」
石珀色の瞳が、私を捉えている。予想外の申し出だった。
「白がいいなら」
旅人さんがちらりとこちらを見た。琥珀色の瞳が案じていた。
「無理はしなくていいよ」
「……いえ、行きます」
少し迷ったあとに頷く。助けてもらったからだろうか。この人は私を傷つけないという確信があった。旅人さんは僅かに警戒を含んだ目で鍾離さんを見た。鍾離さんが苦笑した。
「何も取って食ったりはしない」
「白がいいならいいけどさ」
旅人さんは渋い顔で頷いた。鍾離さんが私を見下ろして微笑んだ。
「では、行こうか」
歩調を合わせてくれているのだろう、ゆっくりと喧騒が遠ざかり、波の音が近づいてくる。
「……貴殿は」
鍾離さんが静かな声で言った。
「過去を尊ぶことを罪だと思うだろうか」
我知らず喉が鳴った。やはりこの人は、過去の私を知っている。口の中が乾いたけれど、できる限り平静を装った。
「……罪だとは思いません」
でも、現在や未来から目を逸らすことになるなら、それは寂しい。
そう言うと鍾離さんが小さく息を漏らした。
私はちらりと横目で彼を見た。石珀の瞳はこちらを見ない。
「私からも一つ、いいですか」
「なんだろうか」
「過去を忘れたまま、今を愛するのは悪でしょうか」
いつの間にか港の端で二人立ち止まっていた。
鍾離さんがやっとこちらを見た。
「……悪ではない。だが、過去を知る者にとっては残酷だ」
目を伏せる。本当は最初からわかっていた。
「そう、ですよね」
「貴殿は、置いていくことを恐れているのだな」
「だって、置いていかれるのは、きっと寂しい」
眉を下げて笑みを浮かべた。彼の瞳にはちっぽけな私が映っている。
「だから過去の私が好きだった人たちを、今の私が大切にしたいんです」
そう言うと、鍾離さんは目を丸くした。瞳の奥で何かが解けるのが見えた。
「ねえ、鍾離さん」
できるだけ優しく笑いかけた。自分より大きな男性相手に、まるで子どもにするみたいに。
「私と、向き合おうとしてくれてありがとうございます」
彼の瞳が僅かに見開かれたまま固まる。それがなんだか可愛らしくて、フフッと笑みが溢れた。しばらく後に、低く、乾いた声が落ちた。
「向き合う……か」
「違いましたか?」
彼は小さく首を振った。
「いや、感謝されるとは思っていなかっただけだ」
そして、真剣な顔でこちらを見た。二人の間を潮風が吹き抜ける。
「……貴殿の答えを聞いておきたい。貴殿は過去を知りたいと思うか?」
揺らぎの消えた石珀に、一度唇を結んでから答えた。
「知りたいです。でも」
真っ直ぐに彼の目を見る。握りしめた拳が震えた。
「私は、私です。思い出しても、出せなくても、それは過去の私じゃない」
靄は未だある、空白も埋まっていない。もしかしたら晴れる日も、元の形に埋まる日も来ないのかもしれない。けれど、つけられ、呼ばれてきた名が今の私を形作っている。言い切ると、彼は空気が漏れるように笑った。
「……強いな、白殿は」
低く落ちた声に、首を振った。視線を下げる。
「強くなんてないです。知るのだって本当は怖い」
それでも、と精一杯の強がりを顔に載せた。
「知らないまま置き去りにしたくない」
鍾離さんの喉が微かに震えた。波の音だけがその場に満ちていた。
「鍾離さんにとって、過去の私はどうでした?」
鍾離さんの瞳がどこか遠くを見る。少し寂しかったけれど、もう胸を締め付けはしなかった。
「……眩かった」
焼きついて、離れないほどに。
その声音には、痛みも、後悔も、未練もあった。
「最期まで、己の意志で立っていた。誰かのための選択を、己のためだと笑う女性だった」
目を閉じた。胸の奥がじわりと痛む。
「自由だったんですね」
「……ああ、だからこそ、誰も彼女を止められなかった」
「後悔、していますか」
「しているとも言えるし、していないとも言える」
鍾離さんは不意に水平線の彼方の空に視線を投げた。
「止めれば、それは彼女ではなくなった。止めなかったがゆえに、彼女は消えた」
初めから、彼女を失うようにできていた。
声はやはり揺るがないのに、瞳だけが痛みを堪える色をしていた。知識はある。けれど思い出は一つも共有できない。それなのに、彼らが傷つくと痛む胸は何なのだろう。
「ずるい人ですね、過去の私は。こんなに想われているのに置いていくなんて」
「だからこそ皆、彼女を愛さずにはいられなかった」
皆には、きっとこの人も含まれている。遠くを見ていた鍾離さんの視線が今の私に定まった。
「だが、彼女が愛されたがゆえに貴殿が愛されぬわけではない」
頭に浮かんだのは、鋭くも揺れる金色の瞳。あまりに苦しそうだから、嫌われているのではないかとさえ思ったあのひとの色。鍾離さんの手がこちらに伸びてくる。頬にかかった髪に触れかけた手は直前で止まった。まるでその距離が今は許されていないというように。
「そうで、しょうか」
声が震えた。もしそうでなかったらと、胸の片隅で何かが囁いた。やはり、私はまだまだ弱い。
「ああ」
鍾離さんは目を閉じて微笑んだ。
「……そろそろ行くとするか。あまり遅くなっては旅人に睨まれてしまう」
ゆっくりと引っ込められた手を目で追いながら、私は小さく頷いた。
「白はさ、もし自分の昔の名前がわかるって言ったら知りたい?」
お昼どきの万民堂の喧騒の中であっても、よく通る声で旅人さんが言った。思わずぱちぱちと瞬きをする。
突然、答えを目の前に伏せられて、どうすればいいかわからなくなる。視界の端で、パイモンさんが米まんじゅうを頬張ったまま固まっていた。
「知りたい、です。でも貴方からじゃない」
そういうと、旅人さんは優しく目を細めた。厚意を無下にしたようで、心苦しくなるも、どうしてもあの金色が苦しげに揺れる理由を知りたかった。
「行こうか、望舒旅館」
卓の上に落ちた言葉に胸の奥が爆ぜた。望舒旅館。きっと、あのひとがいる場所だ。
美味しそうに湯気をたてる黒背スズキの唐辛子煮込みもチ虎魚焼きも全然喉を通らなくて、結局ほとんどパイモンさんの胃に収まった。
「お待たせ、行こう」
お会計を済ませてくれた旅人さんに連れられて、人の流れに逆らい、不思議な石像に辿り着いた。混乱しながらも、差し出された手を取った。旅人さんの反対の手が石像に触れて、一瞬、視界が暗転した。
「ついたよ」
その声にこわごわ目を開ける。
「わあ……」
いつの間にか露台の上に立っていて、彼方には地平線と霞む空まで見晴かせた。けれど、景色に見惚れている暇はない。
「いっておいで」
柔らかなその声に背中を押されるように、礼とともに足は床を蹴っていた。
「……大丈夫でしょ。どうせ見てるんだろうし」
旅人さんが何かを呟いた気がしたけれど、鼓膜に届くことはなく、風に紛れて消えた。
「はあ……はあ……」
昇降機が降りてくるのを待てずに、階段を駆け上がる。そして、最上階につくと同時に、胸に手を当てて、荒い呼吸と上下する肩をどうにか鎮めようと試みる。少したって、ようやく落ち着いてきた肺に、大きく息を入れて吐いた。
「……魈さん。見て、ますよね」
名前を呼んだ次の瞬間、今までになくひやりとした空気に背中が粟立った。それでも来てくれたことが嬉しくて、顔に笑みを浮かべて振り返った。
「あの、私ずっとお礼を⸺⸺」
そこで、彼の様子がおかしいことに気がついた。身体はふらつき、唇からは手負いの獣のような息が漏れている。明らかに只事ではない。
「どうしたんですか、大丈夫ですか、魈さん……」
私を見ると同時に、暗く濁った金色に一筋光が差し込んだ。いや、その視線は私を透かして通り過ぎている。
旅人さんを呼ぶために身を翻しかけた瞬間に彼は荒い呼吸の狭間で一つの名前を口にした。
「⸺⸺花天!」