✱✱✱✱✱ 魈 ✱✱✱✱✱
薄青色が自分を見つめている事実に、骨が軋むような業障が僅かに和らぐ。そして、全身から血の気が引くのがわかった。
⸺⸺いま、誰を呼んだ?
彼女は、白は、目を丸くしてこちらを見ていた。
「……ちがっ」
一体何が違うというのか。言い訳じみた言葉が口から溢れた。頭を押さえてふらつきながら後ずさる。
「それって、私の昔の名前ですか?」
「そう、呼ばれていた」
「じゃあ魈さんが私を見るたびに苦しそうなのは、そのせいですか?」
喉がヒュッと音を立てた。気づかれていただけではない、傷つけていた。旅人の言葉が遅れて胸を貫いた。何も言えないでいるうちに、白が目を伏せた。
「魈さんは」
私が白じゃなくて、花天のほうがよかった?
眉を下げて微笑んだ白の問いに、凍りついたような気がした。
「私、名前を聞いても思い出せません。そう呼ばれたかった気もするけれど、もう私はその人じゃない」
彼女は、白と呼ばれた期間が長すぎた。初めは無垢だったそれは、今や多くの声で染まっている。
「違う!」
伏せられていた薄青がこちらを見上げた。
「……正直、花天を忘れることはできない」
彼女の唇が引き結ばれるのが見えた。言葉を選べ。間違えるな。ここで間違えば、花天だけでなく白を失う。口が達者でない自分がこれほど厭になったのは初めてだった。
「だが、お前を失いたくはない」
喉が震える。口にしてしまえば、また花天を失う。けれど言わねばならなかった。
「花天は我の未練だ。だが、ここにいるのはお前だ」
潤んでいく青空の瞳に、心臓を掴まれている気分だった。
「不実を詫びよう……過去を重ねた。我の執着がお前を傷つけた」
白がふるふると首を横に振る。それがあまりにいじらしかった。頬にかかった一筋の白髪を除けようとして、触れる直前で手が止まった。
「花天を欲しいとは思わなかった」
誰のものにもならない白色をただ仰ぎ見た。
「欲しいと思うのはお前だけだ」
触れれば、縋ってしまう。それなのに、宙に浮いた手を引っ込める前に、白く細い手が添えられた。そのまま頬が寄せられて、心臓が大きく脈打った。
手が離れるのがやけにゆっくりと見えて、壊さぬように腕の中に閉じ込めた。彼女が胸に添えた小さな手が、か細い肩が、あまりに頼りない。
「嫌なら逃げろ」
力は込めていなかった。汚れきった手で、業障を背負う身で、触れてはならぬと思うくせに、自分から手放してはやれなかった。彼女はゆっくりと目蓋を閉じた。
「……いいえ」
腕をまわした背にもう翼はない。それでも確かにここにいる。細い首筋に、縋るように顔を埋めた。
「花天を忘れられないまま、お前を欲してもいいか」
白が笑んだのが気配でわかった。胸に添えられていた手が装束をキュッと握る。
「ずるい、です」
「……すまぬ」
「ふふ、意地悪言いました」
白の吐息が胸をくすぐる。
「魈さんの大切な人を忘れろなんて言いません」
でも、と彼女は声を震わせた。声だけでない、胸元を握る手も微かに震えている。
「花天じゃなくて私を呼んで。ここにいるって確かめて」
過去の幻影でない、腕の中にいる体温に箍が外れそうになる。初めて彼女の傷が見えた。それは疑いようもなく、自分がつけた傷だった。
「……白」
細められた薄青と嬉しそうな声に過去の影が、腕の中の体温に業障の痛苦が遠のいていくのを感じて目を閉じた。
✱✱✱✱✱✱✱✱✱✱
「今頃、少しくらい進展してるかなあ」
望舒旅館の露台の席で旅人は風に目を細めた。そもそも常の彼ならばただの少女に視線に気づかれることなどありえない。どれだけ執着を乗せて見ていたのかとため息が漏れた。
「彼らを信じるほかあるまい」
目を閉じた鍾離をちらりと見る。いつの間にかここにいた彼は、本当に凡人を名乗る気があるのだろうか。
「先生はさ、よかったの」
「彼女は花天でないと言ったのはお前だろう」
「だから言ってるんだけど」
茶杯に添えられた手が微かに動いた。
「……誰を選ぶかは、彼女の自由だ」
その声に嘘はなかった。それだけだった。熱い茶が音にならなかった言葉ごと喉の奥に落ちていく。視線を向けた空は、清々しいほどの薄青だった。