✱✱✱✱✱ 魈 ✱✱✱✱✱
三杯酔の外で、卓に拳を振り下ろす音が夜気に混ざった。
「はあ〜?まさかまだ白に好きって言ってないなんて」
振り下ろした本人である旅人は半眼になった。反対の手の中で茶杯がミシリと鳴る。その琥珀色から目を逸らし、卓の上の杯に視線を落とした。中身の酒は全く減っていない。
「なんで欲しいは言えるのに、好きは言えないの」
「旅人、あまり虐めてやるな」
言い募る旅人を、静かに杯を傾けていた鍾離様が止めた。旅人はそっぽを向く。
「だって、好きの一言も言えないやつにうちの白はやれないもん」
その物言いに神経を逆なでされた。膝の上で手を握りこむ。
「あやつはお前のものではない」
「でも、魈のものでもないでしょう」
「……っ」
ゆるりとこちらを見る琥珀色に、試されているのだとわかった。微笑を浮かべた旅人の顔は凡人だというのに憎らしいほど泰然としている。
「……好きだと言えば失わずに済むのか」
旅人の顔から笑みが消える。鍾離様は黙したまま何も言わない。
「わからない。でも気持ちを伝えないなら、失うときに足掻く権利すらない」
失う。白を、花天のように。あのときの我に止める権利はなかった。もしも、白を同じように失ったらと考えるだけで、業障がざわめき、胸元を握りしめた。
「怖いんでしょ、白に拒絶されるのが」
「違う!……恐ろしいのは、我だ」
旅人の眉が動く。鍾離様がこちらを見やった。
「……花天は手の届かない空だった。けれど、白は触れられてしまう」
抱きしめたときの体温を、甘やかな匂いを、覚えている。
「嫌がられても、拒まれても……手を離してやれない」
抱きしめたときに逃げなかった。それはきっと好意でなく優しさだ。
「好きだと言ってしまえば、あやつを縛る」
旅人は凪いだ顔のまま、茶で唇を湿らせた。
「でもまあ、自覚してるなら大丈夫なんじゃない?」
瞬き一つで雰囲気を一変させた旅人は、片手で茶杯を弄んだ。
「白を壊すのは、魈が望むとこじゃないだろうし」
「だが、我は夜叉だ。触れれば壊す」
「でも、白は壊れてない」
「今はまだというだけだ」
「じゃあさ、魈は」
白が別の誰かを選んでもいいの?
杯に落ちた言葉に、冷水を浴びせられたような気がした。けれど鍾離様や旅人、あるいは別の誰かがあの柔らかな白い髪に触れ、薄青の瞳を向けられ、あのほころぶような笑みを独占する。考えれば考えるほど、奈落に落ちていくようだった。
「選ばれる覚悟のない者に、選ぶ資格はない」
鍾離様が重々しい声で言った。その言葉が胸に突き刺さった。
「……返す言葉もございません」
握っていた拳を解く。仕えるべき主君を見つめた。
「……もし拒絶されたなら、我は彼女を縛らぬように努めます」
旅人が、いつものような笑みを浮かべた。けれどそれはすぐに消えた。
「その言葉、忘れないでね」
どこまでも彼女の守護者たるその有り様に、言いようのない熱が腹の底で渦を巻いた。その時だった。
「旅人〜!」
店の中にいたはずのパイモンの声が聞こえたが、距離がなかなか縮まらない。よくよく見てみれば、浮遊する彼女は迷子の手を引くように、白の手を引いていて、その白の歩みが遅いのだ。
「白?何があったのパイモン」
「オイラたち、酒蒸しおにぎりを食べたんだ!そしたら白がこうなっちゃって……」
彼女の頬は赤く、潤んだ薄青の瞳は焦点を結ばない。どこか気だるげな雰囲気があった。鍾離様が顎に手を当てた。
「ふむ、この店の名は、名物である酒蒸しおにぎりを三杯食べて酔ったことに由来する。彼女には少々酒気が強かったのだろう」
「とりあえず座って」
白は言われるがままに、旅人が空いている卓から持ってきた椅子に腰掛けた。手を離したパイモンは心配そうに彼女の周りを飛んでいる。
「大丈夫?白」
旅人が水で満たした杯を差し出す。それを両手で受け取り、口付ける白はまるで幼子のようだ。旅人の指が彼女の前髪を分けてやる。触れるなと言いかけて、声になる前に噛み砕いた。
「なんか、ふわふわします……」
「あ~本格的に酔ってるな」
白は杯を持ったまま、濡れているようにも見える睫毛を伏せると微笑んだ。
「いまなら、そらをとべるきがします」
その場の空気が凍りついた。鍾離様は口元に運びかけた杯を途中で止め、旅人は目を見開いた。それに気づいていないのか、白はいとけなく微笑む。
「そらがちかづくとうれしくて」
白は杯を置くと、左手で右の肩甲骨をなぞった。
「ずっとせなかがさみしいの」
重たげな白い睫毛が明かりに光るのが、ほのかに染まった頬が、あまりに儚げで、体温が下がったような気がした。
やめてくれ。やっと、花天への想いを未練だと認めることが出来たのに。
「……白」
搾り出した声は情けなく揺れていた。瞬いた薄青色がゆっくりとこちらを向いた。
「なぁに、しょうさん」
呼ばれて嬉しそうに笑う彼女は小首を傾げた。肩から白い髪が零れる。思えば、自分から呼んだのは初めてだった。
「……いくな」
結局、白を前にすると縋ってしまう。夜叉としては致命的だとわかっていても、欲さずにはいられない。だが誓いがある以上、全ては彼女の意思だ。
「じゃあ、とべなくてもいいっておもわせて」
とろりと蕩けた瞳が、夢現な声音が、あまりに甘美だった。
「わたし、そらがすきです。でも、ちじょうもすきです」
食べ物が好き、街明かりが好き、そこで生きる人たちが好き。宝を抱くような声音で指折り数えた白は、眉を下げて、へにゃりと笑った。
「いっしょに、ちじょうをあるいてくれますか」
薄闇の中で発光しているように見えるほど白い手が差し出される。焦がれてやまない体温が無防備に眼前に晒される。
「それをお前が望むなら」
どこもかしこも繊細な造りに怯える自分を抑え、腕を引いて喰らってしまいたい自分を殺し、柔く脆い手に触れた。握られないことを不思議がったのか、彼女の手が我の指を握った。淡く微笑む白が我を恐れ、この手が離される日が来たら、追わない。心を引き裂かれるような誓いが胸の奥に杭のように残っていた。
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「あれで拒絶されるかもとかよく言えたよね」
僅かに呆れをにじませて旅人は二人を見やった。
「ま、でもそうじゃなきゃ、とっくに白を連れて璃月から出てたよ。見込みなしの相手にあの執着は度が過ぎるもん」
頬杖をつく旅人に、鍾離の目が細められた。
「圧かけないでよ。言ったでしょ、決めるのは白だって」