✱✱✱✱✱ 甘雨 ✱✱✱✱✱
七星の使いの帰り、曇り空の下の玉京台であの日の白色を見た。
「あれ、甘雨。久しぶりだね」
旅人さんの声は鼓膜を揺らせど脳にたどり着かない。こちらを見つめる薄青色と目があった瞬間、かつての光景がありありと眼前に蘇った。
鈍色の厚い雲が空に垂れ込めていた。せめて晴れていればと言葉にはせずとも皆が思っていた。誰もが口を引き結び、情けないけれど私に至ってはそれすらできずにぼろぼろと涙を零していた。彼女の白い手が私の髪を優しく撫でた。
『泣かないで、甘雨』
手と同じく、どこまでも温かな声がなおさら辛かった。なぜ貴女なのかと、嗚咽の隙間に縋るような声が出た。
『誰でもいいなら、私がよかったのよ』
そう言っていつもどおりの笑みを浮かべた彼女は、皆の前へ進むと振り返った。そして、帝君を見て、手を口元に寄せてくすりと笑った。
『なんて顔してるの』
槍を握って立つ帝君の顔は見えない。ただ、纏う空気がいつも以上に硬かった。
『俺に、お前から自由を奪えというのか』
声は揺れていない。けれど、彼が臣下の前で弱音めいたものを零したのは初めてだった。目を丸くしたあと、彼女は笑った。曇天などものともしないほどに晴れやかな笑みだった。
『馬鹿にしないで岩王帝君、これが私の自由なの』
空は相変わらず泣き出しそうなほどに暗いけれど、彼女の目には青空があった。灰色の雲と黒い海に映える真白の髪が悲しいくらいに美しかった。
『わかってるでしょう?あの封印は一時的。完全に魔神を制するには誰かがここに残らなくちゃいけない』
『……ああ』
『私、貴方たちが好きよ。だからこれは私のためなんだわ』
そう言って封印の台座の上に立った。皆を見回した薄青の瞳が慈愛を宿して細められた。彼女が背を向けると台座の刻印が光を放ち、彼女の翼が、彼女自身が、端からゆっくりと粒子となって消えていく。
『………っ花天!!!』
堪えきれなかったのだろう。悲鳴のような声が迸った。降魔大聖のそんな声を聞いたのはそれが最初で最後だった。彼女は一度振り返ると、微笑んだ。それが、最期だった。
「かん……う……甘雨……」
衝撃に指先一つ動かせない。ただ懐かしいその姿を見つめることしかできない。
「甘雨!」
強い声が鼓膜を叩き、意識が強制的に引き戻された。旅人さんとパイモンさん、そして彼女がこちらを心配そうに見ていた。
何か言わねばと思うのに、目は彼女に固定されて動かない。旅人さんが言い聞かせるように口を開いた。
「落ち着いて、甘雨。紹介するね、この子は白」
「……はじめまして、白と申します」
その瞳に、その声に、宿る色で思い知る。私たちは、また彼女を喪ったのだ。
「……っ」
顔が歪んでいるのはわかるのに、目から涙は溢れない。私はあの日の彼女に喪失の耐え方を教わった。けれど、あれから何度別れを繰り返しても慣れる日は未だ来ていない。果たしてそれが来るのかもわからない。
「甘雨さん」
あの日と違う呼び方が、また胸を刺した。
白さんは私に歩み寄ると手を持ちあげて下ろした。きっと頭を撫でようとしたのだ。私はとうの昔に彼女の背を追い越してしまっていた。唇を噛み締める。口を開いたら、きっと彼女を呼んでしまう。頽れそうになった身体が誰かに支えられた。
「泣いてもいいんですよ」
白さんが、何も覚えていない彼女が、私を抱きしめていた。少女といって差し支えない体躯では抱きしめるというよりも抱きつくといった方が正しかったけれど、背中に回った手があやすように優しく撫でた。かつては大きく見えていた背がこんなにも小さい。あの日と違う声音。あの日と違う言葉。けれど同じ温もりが、同じように私を案じていた。
「忘れなくていいんです、捨てなくていいんです」
小さな手の温度に解けるように唇が戦慄いた。白さんの声が躊躇うように一拍遅れる。
「私は花天だったけれど、花天は私じゃない。もはや別人です」
わかっている。記憶も役目も失った彼女は、器は同じでも別人だ。
だけど、と白さんは微笑みを声に乗せた。
「花天を愛してくれてありがとう」
じわりと視界が滲んだ。引きつるような声が喉から漏れる。
「でもいつか、貴女が泣きやめる日が来たら、私にも貴方を大切にさせてくれたら嬉しいです」
眩しかった。帝君の平伏したくなる威光とは違う、温かく目を逸らせない光だった。
憧れていた。最期まで自分を貫いた、私にはできない在り方だった。
慕っていた。仙にも人にも完全には属せない私を、立場や種族を超えた愛の証明だと笑ってくれたひとだった。
彼女を呼べた降魔大聖が羨ましかった。私にはできなかったから。
「ごめっ……なさっ……」
でも、いくら過去が大切だからといって、今を蔑ろにしていいわけではなかったのだ。白さんは、きっと傷つけてしまったひとは、私の嗚咽が止まるまで、黙って私を抱きしめ続けてくれた。
✱✱✱✱✱ 白 ✱✱✱✱✱
「大丈夫?白」
甘雨さんを月海亭に送り、その背が見えなくなったあと、旅人さんが気遣わしげに顔を覗きこんだ。パイモンさんもどこか心配そうな顔をしている。
「過去が白を苦しめるなら、この国を出たっていいんだよ」
その言葉に、一瞬心が揺れた。けれど同時に頭の中に次々と璃月に来てからの景色が浮かび上がった。子どもたちの笑顔。湯気を立てる料理。夜に揺れる街の明かり。甘雨さんの涙。鍾離さんの微笑み。そして、苦しそうに揺れる魈さんの瞳。
握った片手を胸元に当てて、顔を伏せる。
「全く苦しくないと言ったら、嘘になります」
花天を期待する眼差しは、花天でないとわかった瞬間に揺らぐ視線は、痛い。けれど、なんとか顔を挙げて旅人さんを見つめ返した。その表情は穏やかなのに、目だけは真剣だ。
「それでも、過去の私が好きだった人たちを置き去りにしたくないんです。大切にしたいと思ったことを嘘にしたくないんです」
かすかに緊張を感じながら、琥珀色を見つめる。
「……そっか」
旅人さんは優しい顔つきで微笑んだ。それを見てホッと肩の力が抜けた。
「じゃあ急ぎの任務もないし、しばらくは璃月に居ようかな」
「……いいんですか?」
目の前の人が璃月のみならず各国で数々の功績を打ち立てたことも、片割れを探していることも既に知っていた。まして"旅人"を私に縛ってもいいのだろうか。
「もともと白を連れてきたのはこっちだしね」
そう言って旅人さんは、よく頑張りましたと私の白い髪を丁寧な手つきで撫でた。それがなんだかとてもくすぐったくて、唇が笑むと共に視界がぼやけた。
✱✱✱✱✱ 魈 ✱✱✱✱✱
「過去が白を苦しめるなら、この国を出たっていいんだよ」
風が屋根の上に運んだ言葉に、喉がヒュッとおかしな音を立てた。泣きじゃくる甘雨にさえ燃えていた醜い胸の内が急激に冷えていった。旅人の言葉を受けた白は瞳を揺らしている。そこで初めて、彼女が空に飛び去ることを考えたことはあっても、他国の地を踏む想像をしたことがなかったことに気がつく。
酒場で彼女と交わした契約は彼女を地に引き止める理由になりはしても、他国に行く彼女を止める理由にはならない。今更思い至った。
⸺⸺彼女がこの国を離れる。
彼女の自由だと、壊さずに済むと、理性が言う。しかし、また失うのかと本能が吠えた。抑え込もうとするが、耳は穏やかな声を、目は柔らかな笑みを、手は温かな体温を、心は身勝手な欲を、既に覚えてしまっていた。冷えていく指先が震える。
「全く苦しくないと言ったら、嘘になります」
白の言葉に、唇を噛んだ。当たり前だ。他でもない自身が、彼女を覚えてもいない過去と、花天と重ねて傷つけたのだから。腕の中で震えていた彼女が思い浮かんだ。
「それでも、過去の私が好きだった人たちを置き去りにしたくないんです。大切にしたいと思ったことを嘘にしたくないんです」
目が見開かれ、息を呑んだ。旅人が彼女を撫でているというのに足は動かなかった。腸が煮えくり返るような怒りを凌駕するほどの驚嘆だった。花天は揺らがなかった。死を覚悟してなお涙を見せず、誰の肯定も必要としなかった。けれど、白は逃避行の提案に心を揺らし、他者の肯定に涙する。比べてしまえばあまりに脆い。それなのに、
⸺⸺自身を傷つけた者さえ愛そうとしている。
彼女に茨の道を歩く義務はないはずなのに、覚えてもいない過去を抱えながら、今を愛する意思の輝きに目が眩み、彼女がこの国を出ないことに安堵してしまった自分の弱さに胃がきしんだ。彼女が選んだのが自分だけでないことに痛む胸から目を逸らし、降魔を理由に風に溶けた。