✱✱✱✱✱ 白 ✱✱✱✱✱
「何かあれば、我を呼べ」
璃月の中であればお前がどこに居ようが駆けつける。
望舒旅館の最上階、緑の黒髪をはためかせ、真剣な瞳で魈さんが言った。
「……望舒旅館じゃなくても来てくれるんですか?」
旅人さんが呼べば来るのは知っていた。けれど、私が望舒旅館で呼んだときに来てくれるのはそこが彼の領域だからだと思っていた。
「ああ」
彼の肯定が落ちた。嬉しいことのはずなのに、心のどこかが冷めていた。
「どうして?」
彼の目が丸くなる。そこに映る自分の顔はみっともなく歪んでいた。
「だって、私、花天じゃない」
唇から溢れた言葉に自分で驚いていた。仕方のないことだと受け入れていたはずなのに。彼は私を見ようとしてくれていると知っているはずなのに
「みんなから今でも愛されるような、強くて眩しい女の子じゃない」
皆が愛する過去を大切にしたい気持ちに嘘はない。けれど、私が、記憶を持たないと知った瞬間の視線は、いつだって少しだけ痛かった。
「私が、花天と違って弱いから?」
無理矢理に口角を上げた。私は、今ちゃんと笑えているだろうか。魈さんの顔が見られなくて俯いた。こんなこと、言うべきではなかったのに。
「それも、ある」
身体が強張った。続きを聞くのが怖くて仕方がない。
「だが、それも含めて、お前だ。強いかと思えば、弱くて、脆い」
恐る恐る視線を上げると、金色が真っ直ぐにこちらを見ていた。その目に揺らぎはない。
「そのくせに、お前は逃げない。我の手からも、この国からも」
逃げてはくれないと彼の瞳が苦しそうに細められた。握りしめた手が痛そうで、そっと触れるとピクリと跳ねる。手を取っては、くれない。
「いつか、壊れるかもしれない」
その言葉にすとんと腑に落ちた。このひとは、私を壊すことに怯えているのだ。彼が私を花天と呼んだ日、彼の様子がおかしかったのは業障と呼ばれるもののせいだという。きっとそのために私を傷つけやしないかと恐れている。
「私が壊れたら、嫌ですか」
彼の瞳が痛みを湛えたように見えた。
「……ああ」
「私がいなくなったら、花天が帰ってくるとしても?」
私と花天は同時に存在できない。意地悪なことを言っている自覚はあったし、聞くのは怖かった。それでも知りたかった。
「言っただろう。欲しいと思うのはお前だけだと」
その言葉ひとつで満たされてしまった。思わず彼に駆け寄り、その胸に飛び込んでいた。
魈さんがピシリと音がなりそうな勢いで固まった。
「……ごめんなさい、意地悪なことを言いました」
鼓動が心地よくてすり寄ってしまう。少し早いように思えるのは気のせいだろうか。
「……お前にそうまで言わせたのは我らだ」
絞り出すような声だった。思わず小さく笑みが浮かんだ。
「離れろ。業障がお前をも蝕む」
「ねえ、魈さん」
彼の腕は両方とも宙に浮いたままだ。
「背中が寂しいです」
彼の肩が跳ねたあと、そっと背中に腕がまわった。まるで硝子細工にでもなったような気分だ。
「もっと強くしていいんですよ。私、あなたが思うほど脆くないです」
けれど、腕の力は変わらない。彼は奥歯を噛み締めた。
「お前は、自分が何を言っているのかわかっていない」
低く、押し殺した声だった。
「我は夜叉だ。この手は業障に塗れている。いつか、お前を壊す」
「それでも」
彼の胸元に寄せていた手を背中に回す。彼の身体が強張った。
「貴方を置いて行きたくない」
業障で苦しんでいるときに、寂しいときに、過去に囚われているときに、一人で置いて行きたくないと思った。
「この国で呼んだら来てくれるんですよね」
「……ああ」
ようやく素直に喜べるようになったためか、思わず口が滑ったのだ。
「何もないときに呼んだらいけませんか」
熱くなった顔を伏せた。
「いえ、お忙しいですよね、忘れてくださ」
「好きにしろ」
食い気味に発された言葉に、呆然と彼を見つめた。本当にいいのかと見つめるも、その瞳に嘘はない。
「どうした」
「いえ、うれしくて」
顔が緩むのを止められない、顔を見られたくなくて彼にぎゅうぎゅうと抱きついてしまう。
「璃月に残る理由が一つ増えてしまいました」
なぜだか彼の心臓がとても大きな音を立てたけれど、大丈夫だろうか。
✱✱✱✱✱ 魈 ✱✱✱✱✱
焼け付くような痛みと狂いそうな辛苦の中、雨が降った。
頬に落ちた雫は温く、燃えるような苦痛を僅かに鎮めた。
目を開けると映りこんだのは、見慣れた旅館の天井。後頭部に感じる柔さと、髪を梳く細い指の感触に、太腿を枕に寝転がり、頭を撫でられているのだと気がついた。
「……っ」
目を開けると、撫でていた手を止めて、白がこちらを覗きこんだ。一点の曇りもない白髪が帳のように降り、安堵したように細められた青空の瞳が見下ろした。
「目が覚めたんですね……よかった……」
柔い肢体に負荷をかけないように、痛む身体を押して起き上がると、彼女の細い手が背に添えられた。
「逃げろと言ったはずだ」
小さく頭が振られる。その姿を素早く観察した。血の匂いはしないし、衣は乱れていない。見える範囲に傷や跡もない。業障に侵された自分は彼女を弄ばなかった。胸を撫で下ろしかけて、血の気が引いた。
「……白」
「どうしましたか。まだどこか辛いですか?」
座り込んだまま心配そうに眉を下げた白の前に片膝をつき、顔に手を伸ばした。その瞳に怯えがないのを確認する。震えを殺して、薄青の目の下を親指で、触れるかどうかの力でなぞった。
「……泣いたのか」
なぜ気がつかなかった。部屋の中に、雨は降らない。
「我の、せいか」
俯いた彼女の顔が髪で隠され、見えなくなる。唇を噛み締めて、彼女の頬から手を下ろす。
「……花天を呼んだか」
きっと、過ちを繰り返した。白を欲しておきながら、過去に縋り、傷つけた。逃げないのをいいことに、腕の中の灯に縋りながら、遠い太陽に焦がれてしまった。生涯忘れることはできずとも、白を花天の代替にはしないと決めたはずだったのに。
「……はい」
少し前の自分を殺してやりたかった。誰よりも名の重要性を知っているくせに呼び間違えた。握りこんだ指先が異様に冷たい。震えた声に、泣きそうな顔で自分は花天ではないのだと言った迷い子のような彼女を思い出した。
「……でも、」
彼女は顔を挙げた。薄青の瞳から、はらはらと涙が散る。まるで天気雨だ。彼女は眉を下げて泣きながら、それでも笑った。
「私のことも、呼んでくれました」
それだけのことに、心底幸せそうに笑んでいた。まるで心臓を握られているように胸が痛む。彼女を傷つけ続けた罪を眼前に突きつけられていた。
「……触れてもいいか」
そんな資格はないと自覚しながら尋ねると、首肯された。細心の注意を払いながら、溢れる涙を拭うために目元に指を滑らせる。けれど追いつかない。躊躇いを覚えたが、止まらぬ雫を唇を寄せて吸うと、白は目を丸くしたあと、面映ゆそうに頬を染めて目を伏せた。
かつて花天が見せた晴天の笑みを忘れられる日はきっと来ない。そうだというのに、この天気雨を、薄曇りの笑みを手放してはやれない。
「……白」
今度こそ彼女の名前だけを呼んだ。その瞳にみるみる新たな涙が盛り上がる。思わず離した手を、遠慮がちに掴まれた。
「知ってますか、魈さん」
嬉しくても、涙って出るんですよ。
その声を聞いて、はにかむような笑みを見た途端、彼女を抱き込んでいた。脆くて真白い彼女に触れてはならないのに、全ては思考の外だった。
「しろ、白」
刻むように名前を呼ぶと、腕の中の彼女が震えた。
「……あのね、私、怖かったんです」
その一言で我に返る。けれど、腕を離しても彼女は離れない。
「貴方がとても苦しそうで、考えたくはないけれど、死んじゃうんじゃないかって」
鼓動を確かめるようにすり寄る彼女に対して湧くこの感情は何なのだろうか。好意では、あると思う。かつて花天に抱いたものにも似ている。けれど、花天のときにはなかった渇望がある。触れて、自分だけのものにしたいと思う、醜い欲。
ああ、そうか。
⸺⸺これが恋か
激しく脈打つ心臓と反対に、頭がどんどん冷えていった。
「我はいつか、怨嗟の中で事切れる。きっとお前をまた泣かせる」
白の小さな身体が強張った。
「……最優先事項は帝君と璃月だ。お前を一番に置いてはやれない」
我ながら酷い男だと白に見えないように自嘲した。これでは選ばれるわけもない。それなのに、手放してやれない。だから、
⸺⸺どうか、逃げてくれ
その手が離されれば、もう追わない。仮に追ったならば、旅人が止めるだろう。旅人の手に負えないときは、鍾離様の手を煩わせてしまうかもしれない。それでも、白の安全は守られる。
「……魈さんは」
肩に額を寄せて縋りつきながら白が声を震わせた。この温度に縋っているのはこちらのほうだというのに。
「他の人にもこういうことをするの……?」
問いの意味に追いつけず、固まった。
「涙を拭ったり、抱きしめたり、です」
そんなのは、
「……お前だけだ」
顔を挙げた白の、涙に濡れた薄青の瞳と目があった。
「じゃあ、いいです」
儚げな面に泣き顔に似た笑みが浮かんだ。
「私、貴方の一番じゃなくていい。でも、花天の残滓としてじゃない私を、白を見てください」
その眼差しは、愚かな男に向けるにはあまりに優しい。
「貴方の唯一になりたい」
気がつけば薄い身体を抱きすくめていた。甘やかな匂いに喉がなり、咄嗟に奥歯を噛み締めた。
「お前が我を選んだら」
もしも、そんなことがあるのなら
「もう、逃してはやれない」
耳元に唇を寄せて、囁いた。澄んだ薄青に映りこむのは、獣のように目を光らせた己の姿だった。白の細い喉が動き、瞬きのあと、ゆっくりと頷く。止まれと理性が言う。しかし衝動が身体を突き動かした。
片腕で折れそうな腰を抱き込み、もう片手で後頭部を引き寄せた。このようなこと、許されるはずがない。けれど、腕の中の体温に誘われて、噛みつくように柔らかな薄紅の唇を塞ぎ、吐息を奪う。繰り返すたびに白の肩が跳ねた。彼女の細い指が装束の胸元を掴むのがわかった。
力が抜け、頽れるようにもたれかかってきた身体に、我に返った。彼女を見れば、瞳は潤み、常ならば仄かに色づく頬は赤く染まっている。
「すまぬ、大丈夫か」
白のぼんやりとした様子に己が元凶であるというのに不安が募っていく。
彼女は夢現ような目つきのまま、自身の唇を指でなぞった。
「魈、さん。今のは……なんですか?」
掠れた声で零されたあまりに幼気な問いに目を見開いた。
「くちづけを、知らないのか」
「し、知ってます!でも、こんな、食べられてしまうようなの知らないです」
思えば花天がくちづけを贈るのは、頬や額ばかりだった。彼女が誰のものにもならずに散ったために、白は祝福のくちづけしか知らないのだと、その言葉で悟った。
仄暗い喜びが背筋を這い上がった。けれどそれを自覚した瞬間、嫌悪に絡め取られる。彼女を汚す己に吐き気がした。好意を口にすらしていないくせに、何ということを。
「…‥これは、誰にでも行うものではない」
「それって」
白の瞳が輝いた。
「私が魈さんの特別ってことですか」
認めてしまえば後戻りはできない。けれど、唇を緊張したように結び、期待を込めた目で見てくる彼女に、嘘はつけなかった。
「……そうだ」
白は破顔した。ようやく見られた、涙に濡れていない笑み。
「嬉しいです。私も、魈さんが特別です」
旅人さんも、パイモンさんも、鍾離さんも、甘雨さんも好きだけれど、魈さんの好きはなんだか違うんです。
その言葉に言いようのない歓喜と、どうしようもない不快感がこみ上げた。
「……今は、他の名を出すな」
彼女を縛りたくはないのに、口から漏れた言葉はあまりに狭量で、白はきょとんとしている。
「いや、忘れろ……先程はすまなかった」
「確かに、少し強引で、怖かったけれど……」
やはり、怯えさせてしまった。歯噛みしていると、くちづけの余韻の残る顔で、白が微笑む。
「私を、欲しがってくれたってことでしょう?」
赤く色づいた唇は白い容姿の中で目を惹いた。熟れた唇で掠れた声を紡いでおきながら、彼女はただ幼子のように嬉しげに笑う。その倒錯に眩暈がして、もっと深くまで奪ってしまいたい衝動に駆られるが、砕けそうなほどに奥歯を噛んで堪える。
彼女のように無垢に好意を言葉にすることはできなかった。受け入れられても、そうでなくても、口にした時点で何かが終わる予感がしていた。特別と認めることさえ簡単ではない。まして、唯一にしてしまえば、失ったときにきっともう立てない。
脳裏には最期に振り返った花天の微笑みが過ぎった。