✱✱✱✱✱ 白 ✱✱✱✱✱
夜空の下、璃月港の端で波の音を聞きながら、風が吹くのを待っていた。肩甲骨の奥が微かに疼く。程なくして、空気が揺れた。
「待たせたか」
音もなく現れた魈さんに、小さく微笑む。
「いいえ、今来たところです」
今日は視線を感じなかったこともあり、きっと忙しかったのだろうと当たりをつけた。
「お忙しいところ、付き合っていただいてありがとうございます」
「気にするな……承諾したのは我だ」
その言葉にいつかの酒場での自分の醜態を思い出して顔が熱くなる。記憶喪失だというのに、こういう記憶は消えてくれない。火照った頬を撫でる夜風に、僅かに身体が前に傾いた。
「それで、なぜ夜なんだ」
夜風にあたりすぎるなと、眉がひそめられる。不器用な優しさに笑みが浮かんだ。
「人が少ないほうがよいのかと思いまして」
そう言うと魈さんは目を見開いた。
「我のことなど気にするな」
「貴方にも楽しんでほしいのは私の我儘です」
「……」
「それに、私は夜も好きです。貴方にとっては夜は妖魔の時間かもしれないけれど、それだけではないのですよ」
「……」
「……なんて、貴方のほうがこの国のことは知ってますよね」
生意気なことを言ってしまったと俯いた直後、小さな声が降ってきた。
「……それで、どこへ行くんだ」
反射的に顔を挙げた。きっと今の自分の目は子供のように輝いている。
「えっと、行きたいところはたくさん考えてきた、はずなんですけど」
眉が下がり、声が尻すぼみになる。
「一緒にいられるだけで、満足してしまって」
魈さんの手が浮きかけて、強く握られた。彼は私の手に視線を向けたあと。苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……お前はこの程度で満足なのか」
「え?」
金色の目が何かを堪えているように見えた。
「……何もせずともお前が満足ならば、我はお前に何をしてやれる」
「何度も助けてくれたでしょう?それに、見守ってくれています」
けれど、彼は不満げなままだ。私は思わず苦笑した。
「貴方は私にとって一番の我儘を、もう叶えてくれているのですよ」
「なに?」
風が私の長い髪を攫った。夜の中でも鮮やかな彼の金色の瞳を見つめて、笑う。
「今ここにいる私を見てくれているでしょう?」
彼が呆気に取られているのがわかった。丸くなった金色は月みたいで、綺麗だ。彼の声が低くなる。
「……白」
「はい」
「それは、当然のことだ」
「いいえ」
だって、私を見た瞬間の、あの目。みんな期待したはずだ。花天が帰ってきたんじゃないかって。胸の奥が針で刺すように痛んで目を伏せた。
「重ねてしまうのは当然です……だから、どうか責めないで」
「……すまぬ」
以前、私を花天と呼んだことを言っているのだとわかって首を横に振る。
「だからこそ、貴方が私を白として見てくれることがこの上なく嬉しいのです」
握りこまれていた魈さんの手が解け、今度こそ伸びてくる。けれど、触れる直前で止まった。
「……触れてもいいか」
その声は、躊躇いを含んだように固く、けれど優しい。小さく頷くと、手甲に包まれた指が目の下をなぞり、目尻にくちづけが落とされた。今夜は泣いていないのに。
「……お前を花天と重ねたのは、我らの弱さで、過ちだ」
彼女が終わりを選んだことを知っていながら、彼女の終わりを認められなかった。
呻くように言う彼に、静かに返す。声は揺れていないだろうか。
「……それだけ大切だったってことでしょう?」
「……ああ」
花天を忘れられないのは仕方ないと、割り切ったはずなのに、返ってきた肯定に震えた指に気づかれないように笑う。
「だが、仮に今も彼女が生きていたとしても」
震えた手を取られて絡められた。そのまま指にくちづけられる。
「このような真似はしなかった」
真っ直ぐにこちらを見る金色に、唇が戦慄いて勝手に言葉を形づくる。
「まるで私は透明になってしまったみたいで、本当は少しだけ、痛くて、寂しかったの」
彼の呼吸が乱れ、ゆっくりと手が離された。視界が滲んで、その表情はよく見えない。呆れられてはいないだろうか。怖くて俯くと、身体が温もりに包まれた。
「……しろ」
私を抱きしめた魈さんが、耳元で低くささめいた。以前のような強引さはないのに、振りほどけそうにない。そんなことするつもりもないけれど。
「お前はここにいる。花天の残光ではない」
その言葉で、自分の中の何かが決壊した。呼吸が浅くなり、目からは次々に涙が溢れて、彼の肩を濡らしていく。
「……ひっ……うぅ……」
彼の手がぎこちなく私の背を擦る。その温度に肩甲骨の寂しさが慰められているみたいだった。
「白、もう一度きく」
ひどく優しい声だった。促されるみたいに、また涙が頬を伝う。
「我は、お前に何をしてやれる?」
今でも十分すぎるのに、これ以上なんて少し怖い。けれど、蓋をしていたものが嗚咽と一緒に溢れてくる。
「もっと、名前、呼んで」
「……白」
「もっと、強く抱きしめて」
一瞬、彼の体がピクリと跳ねた。けれど、ゆっくりとほんの少しだけ力が強くなる。小さく息を吸った。
「……私と、これからも一緒にいてください」
私は、いつの間にこんなに欲張りになってしまったのだろう。
魈さんの腕が震えた。少しの沈黙のあと、抑えた声が降ってきた。
「確約は、できない」
わかっていた。彼の役目も、意志も、わかっていたのに、漏れた息が揺れていた。
「だが、我が生きている限り、お前と共に歩むことはできる」
喉がしまって、息が詰まった。彼の胸元を縋るように掴んだ。
「……い、いんですか」
「ああ」
ぼろぼろと新たな涙が湧き上がった。耳元で彼の慌てたような声が聞こえる。それでも止まらなかった。
「どうした、何か嫌だったか」
彼の肩口に頭を預けて、押し付けるように首を振った。そして水気を含んで揺れた声で告げる。
「言ったでしょう?嬉しくても、涙って出るんですよ」
自分の顔が情けなく緩んでいると自覚していた。
「ねえ、魈さん」
きっと、目は腫れているし、酷い顔をしているだろう。少し恥ずかしいけれど、顔を挙げた。
「なんだ」
表情はあまり変わらないけれど、その目が案じているのがわかった。
「私、今とっても幸せです」
心の底からの言葉とともに、顔に自然と笑みが浮かんだ。
「……そうか」
魈さんの目元が少し緩んだ。それが嬉しくてまた笑んでしまう。
「はい、思ったんです。貴方が一緒にいて、こうして抱きしめてくれるなら」
肩甲骨の疼きは、彼が擦ってくれてから落ち着いていた。もしもこれが一時的だとしても、空に憧れなくなる日は来ないとしても。
「私、"飛べなくてもいい"⸺⸺」
その瞬間、ドクリと心臓が大きく脈打った。
✱✱✱✱✱ 魈 ✱✱✱✱✱
腕の中の白が息を詰めた。その体が強張ったのがわかった。
「白、どうした」
返事はない。顔を覗きこむともともと白い肌はもはや青く、薄青の瞳は見開かれたまま固まっている。明らかに異常だった。
「……っ白!何があった!」
「…たぃ……いたい!」
背中が裂けると叫びながら腕の中の体が跳ねる。頽れそうになった彼女を慌てて抱き留めた。
光、台座、羽根。
痛みに悶える声の狭間に、彼女がうわ言のように零した単語に血の気が引いていくのがわかった。
『私がいなくなったら、花天が帰ってくるとしても?』
かつての彼女の問いが鼓膜の奥で反響した。
「白!」
髪を振り乱して泣きながら自身が壊れてしまいそうなほどに暴れる彼女を掻き抱いた。そうしているうちに、嵐が過ぎ去ったように、白の身体から力が抜けた。
「……白?」
呼吸は浅く、瞳は瞼の裏に隠された。小さな身体の体温は夜風のためでなくどんどん冷えていく。まるで風に吹かれた灯のようだった。
「……っ死ぬな!」
返事はない。死ぬのは戦の中で生きる自分が先のはずだ。そうでなくてはならない。花天のときとは違って守れると思っていた傲慢さを突きつけられている気分だった。
抱き上げた白はあまりに軽く、それがまた不安を煽る。そのまま夜であることも忘れて鍾離様のもとへ跳んだ。