***
「はは、聞いたか今の。さっきの女の子、環のことバカって言ってたぜ!
それよりなーきょーやー、犬みーしーてっ」
ギイ、と第三音楽室の重厚な扉を開けるや否や、全身びしょ濡れの女生徒がすれ違いざまに環の名を叫びながら走り去っていくのを目撃した。
面白いもの、という餌につられてまんまと数週間ぶりの部室に足を運んだ紫雲英は、ウワッという声をあげてぶつかりそうになったのを間一髪のところで避けると、女生徒はそれこそ目もくれず駆け出したのである。遂にやったか我らのキング、痴情の縺れを部内にまで持ち込むとは中々に上等なものだ。
そうして紫雲英は今度こそ音楽室に足を踏み入れた。入って左右を確認すると、ぽっと頬を赤く染める女生徒たちと部員の他に、お目当ての犬は見当たらなかった。それで冒頭に至る。皆して接客もしないで突っ立ってるだけなんて、らしくない。紫雲英は眉を吊り上げてもなお、立ち居振る舞いだけは毅然としている。
鏡夜がいつものように何を記録しているのか分からない帳簿を持って佇んでいるので、敢えて耳元で言ってやろうとすれば鏡夜はそれを予見したのかフイ、と体を反らせて目を瞑る。それから、どれほど動機が不純であれ、来たことに関しては褒めてやる、と妙に上から目線な感想をひとつ頂いた。無論、何目線だと愚痴を零せば硬いバインダーが紫雲英の頭を直撃する。
「大型犬だと思ってたけど、もしかしてすっごい小さい小型犬とか? 生憎ぼくには見当たんねーや」
「ほら、そこにいるだろう」
少し離れた位置を指さす鏡夜の視線の跡を辿るように、紫雲英も鏡夜の背に隠れつつそちらを覗き込んだ。が、そこにあるのは割れた陶器類、ひっくり返ったテーブル、くしゃくしゃに潰れた薔薇に、元はそれが入っていたであろう割れた花瓶。
床に出来た水溜まりのすぐ傍にへたりこんでいたのは今朝池で出会った例の一年生である。その隣では環が手を差し伸べてなにやら話し込んでいるようであった。だが一つ疑問点がある。鏡夜が指し示した方向のどこにも犬という存在は見当たらないのだ。紫雲英の眉に自然と皺が寄り始めた。
「鏡夜、眼鏡を買い換えたらどう? ぼくの知ってる限りじゃあれはヒトって言うんだ。犬じゃない」
「そんなことは分かっている。何も俺は食肉科イヌ科イヌ属の犬を指して言ったつもりじゃない」
「犬って基本それのことじゃないんだ」
紫雲英が首を傾げれば、ふと環の視線がこちらに向いているのが分かった。それに紫雲英が何か用か、と訊きだすよりも早く。
環は透き通った紫の瞳をぱちくりと二、三度瞬かせてから、人目も憚らずに紫雲英へ飛びついて声高らかにこう叫んだ。
「おお! ようやく来たのかサクスケ!!」
その男子生徒は、二度目は床でぺしゃんこになった薔薇の香に誘われるようにしてハルヒの前に現れた。
追加ノルマとしてプラス千人を課されたあたりから傷心気味だったところでの思わぬ訪問者に、ハルヒは自身でも思わず目を見張る。ハルヒにしてみればスラリとして高く見えた背丈も、環にすっぽりと覆い隠されるようにじゃれつかれているのを見れば差は顕著であった。
当の本人はというと、抱きつかれるのをものともせずに慣れた様子でそのまま環と会話を続けていた。それを周囲もさして気にとめないのだから、慣れというものはやはり恐ろしい。
そうして暫くは右へ左へと目線を彷徨わせながら環と会話していた紫雲英の視線は、やにわにハルヒと噛み合った。それはすぐに逸らされたが、双方に猜疑と困惑が混濁しているのが見て取れた。
「あーあ、シークレットプリンスが帰ってきちゃったよ。つまんねえの」
「シークレットプリンス?」
「あれ、ハルヒ知らないの? 先輩が裏でそう呼ばれてること。殿がこのホスト部の
「だからシークレットプリンスなんだ……」
「俺はガセだと思うけどね。ホスト部はあくまでついでって感じそうだし、シークレットなんて大義も要は幽霊部員ってことだろ?」
ハルヒと同クラスである双子のうちどちらかがそう呟けばどちらかがうんうん、と頷く。双方の瞳には先輩に向ける謙遜や憧憬なんてものはなく、手に入った玩具が期待はずれだった時のような。そんな子供じみた態度でもって彼を眺めていた。ハルヒは例外であるが、周囲の女生徒がこぞって惚けた眼差しを送るのも納得である。
そこでようやく物事の全体像が掴めてきた気がする、とハルヒは勝手に推測した。
鏡夜先輩が仰っていた例の部員こそが、他ならぬこの人に違いないのだろう。
「あの、先ほどはありがとうございました」
「ァ? ……なんの事だか」
ハルヒが意を決して部員たちの前に躍り出る。そのまま紫雲英に礼を述べると、男はとぼけたように肩を竦めてみせた。言外にもその話題をここで持ち出すな、とでも言われている気分であった。
「サクスケ、お前はハルヒと知り合いだったのか?」
「サクちゃん、何かあったの?」
それに真っ先に反応したのは、ひっつき虫の如く紫雲英に張り付いていた環。続けて、興味を示したようにハニー先輩も食いついた。
けれども紫雲英はさらさら事の顛末を話すつもりは無いらしい。
「いえ、特になーんも」
「え、だって池に入って教科書を拾っ」
「ぼくは何も関与してない」
「待てサクスケ! 今完っ全にハルヒが何が言いかけていたではないか!?」
「環の聞き間違いじゃね。……でさ」
再び「サクスケ」と呼ばれた先輩は、そのまま環を軽くあしらいつつもハルヒの方を不思議そうに___と言っても、ハルヒは綾小路との一件で水を被っているので、全身がびしょ濡れなのも加味した上で___見つめていた。
「あんたが犬ってどういうこと……?」
「えーと、それは……」
ハルヒが答えあぐねているところに、すかさず鏡夜が割って入った。
「別に嘘は言ってない。お前が部活に来ない合間に、我が部で校内オークションに賭けようと思っていた『ルネの花瓶』が何者かによって破損されるという未曾有の損失に遭ってね。彼はその負債を、身をもって返済している最中なんだ」
「つまりここの連中に目をつけられたんだな、可哀想に」
「ひとまずは着替えが最優先だろう。予備の制服はこれしかないが、まあ濡れたままよりはマシだろう」
「鏡夜先輩もありがとうございます。それと、……」
チラリと鏡夜から受け取った高級そうな紙袋の中を覗いて、紫雲英と鏡夜。改めて二人の方に向き直り、ハルヒは頭を深々と下げる。ついでに感謝の言葉を口にしておきながら、ハルヒは彼をなんと呼ぶべきか考えてしまう。
そういえば自分はこの人の名前すら知らない。本名よりも先に知っているのが例の珍妙な渾名とは、口が裂けても言えなかった。
「ああ、げん___」
「ッ
紫雲英は瞬時に鏡夜の口を塞いで矢継ぎ早に言葉を続ける。
どこか上擦った声色を含ませながらの様子には疑問を覚えるが、一方ではだからサクスケなのか、と環からの呼称に妙に納得してしまうものがあった。
豪奢な部屋の一角に設けられた、簡易的な更衣室。といっても、単にカーテンで仕切られただけのその場所のすぐ横で、気怠げな様相でポケットに手を突っ込んだ紫雲英の姿がある。それに対し朔、と己の名を呼ぶ友人の声が第一にあって、紫雲英はゆるりと視線をそちらに向けた。
「お前はどう思う。新しく部員となった藤岡ハルヒについて」
「はあ、まァ、……良いのではないでしょうか、?」
どうか、と聞かれればどちらでも、というのが紫雲英なりの回答である。出会ってたかだか半日。たった数時間だけの交流で他人がまるっきり理解出来るわけなどないので、内心鏡夜のやつ何言ってんだ、という意味でそのように返せば、そんなことを聞きたい訳じゃない、と。
「俺が聞きたいのは一体お前がどこまで知っているのか、だ。ちなみにこの部内では客と環以外全員気がついている」
「ああ、そっちのこと」
紫雲英は「お着替え中」と雑に書かれた張り紙がカーテンに貼られている方向___実際にはその中で着替えている人物___を指さしながら思案する。鏡夜の言わんとしていることが大体察しがつくが、だからこそ何故こちらに話を振ったのか、紫雲英にはその意図がいまいち分からない。
「 うん、まァ……初めて会った時には気づいてた。だって
「どうだろうな。単に俺は制服の支給をしてやっただけだが?」
鏡夜が手持ちのバインダーを開いて何かを書き連ねていたのを優雅に閉じ、これ以上ないほどに人当たりの良い笑みを浮かべてそう告げた。敢えて女生徒の制服を支給しておきながらよく言う、と紫雲英は内心毒づくと、目の前でアワアワと慌てふためき、動揺を隠しきれないでいる男に目をやった。
「ほら、言わんこっちゃない」
「かなり面白い展開になったな」
くつくつと喉を鳴らして口角を持ち上げる鏡夜の視線の先には、顔を真っ赤にして口を金魚のようにパクパクとさせる環の姿があった。
何を隠そう、特待生の藤岡ハルヒが生物学上は女性であることを環は知らなかったのだから当然と言えば当然である。それぞれに思うところはあっても、それがこういった形で露呈してしまった以上は致し方ない、と思う者が大半であった。
「へえ、中々に似合ってるじゃないか。いいね」
紫雲英が女子用制服に袖を通したハルヒを見て、柄にもなく賞賛の言葉を贈る。ハルヒは着慣れないスカートの裾を少しだけ気にしながら、居心地悪そうに「はあ、どうも」とだけ返した。
「君に似ていなくもないだろう。こいつは」
「え?」
唐突に投げかけられた鏡夜の言葉に、ハルヒは思わず声を漏らす。マイペースで飄々とした態度、女子生徒たちから『シークレットプリンス』などと呼ばれて持て囃されているこの先輩と自分が似ている?
どこからどう見ても共通点など見当たらない。ハルヒは訝しげに眉を顰めた。
「……どこがですか?」
「何も俺は、見かけや内面だけを指して言ったわけじゃないがな」
鏡夜の眼鏡の奥が、悪戯っぽく、しかし鋭く光る。その言葉の裏にある意図を探ろうと、ハルヒは改めて目の前に立つ紫雲英を上から下へまじまじと見つめた。
スラリとした高い背丈。けれど、よく見ればどことなく線の細い骨格。
点と点が線で繋がった瞬間、ハルヒはハッと息を呑んだ。
「……まさか」
ハルヒの大きな瞳がきゅう、とまん丸に小さくなる。その言葉の先を遮るように、はは、とすぐ傍で乾いた笑いがあって、ハルヒは肩をびくりと震わせて声の主を探した。紫雲英だ。
紫雲英はそれこそ、何か物言いたげな顔をするハルヒを前に、ハルヒ自らを試すようにも、はたまた遠ざけるようにもとれる泰然とした態度で、口許を隠すようにして目を三日月形に歪めてこう言った。
「さぁ、どうでしょう?」