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満月の微かな光だけが空間を照らす、薄暗い路地裏。その中を若い男が、足をもつれさせながら何かから逃げていた。大通りとは違い、人の気配は無い。そもそもここは本来、人が立ち入るべき場所では無い。ネズミや野良猫が住まう、日の当たらない世界だ。
そんな場所を、場違いな男が走る。礼儀正しいスーツは完全に着崩れ、ワックスで固められていたであろう髪はとうに乱れ、靴に至っては片方が失われている。息は荒く、足取りも覚束ない。それでも男は、背後から迫る何かへの恐怖に突き動かされるように、必死に足を動かし続けていた。
やがて男は、走るのを止めた──否、止めざるを得なかった。
彼の眼の前には、隣接するビルの背中。高い壁が行く手を塞ぎ、左右にも逃げ道は無い。
所謂、袋小路と言う奴だった。
「そんな……ヒッ!?」
男が眼の前の絶望とは異なる、恐怖の悲鳴をあげる。背後から響く、金属的な足音。
カツン、カツン、と。
それが一歩ずつ、確実に近付いてくる。
振り返ることすら恐ろしく、男の身体は硬直していた。それでも逃げ場を求める本能に逆らえず、ゆっくりと背後へ視線を向ける。
やがて、先程男が逃げて来た方角に異形の姿が現れた。月明かりを背負っているため、その姿そのものは判然としない。だが、ビルの壁に映る異様に大きなシルエット。そして闇の中で爛々と輝く黄色い目。何よりも、腹の底を震わせるような、この世のものと思えない唸り声。
それら全てが、その存在が人間ではないことを男へと突き付けていた。
──化け猫。
その怪人を形容するならば、その言葉が最もしっくり来る。黒い化け猫怪人は、獲物を逃がすつもりなど毛頭無いと言わんばかりに、ゆっくりと男へ迫って行く。
「ニャァアアアゴオオオ」
不気味な唸り声が路地裏に響く。
男は壁際へと追い詰められ、恐怖に顔を歪めながら後退る。しかし、背中には既に冷たいビルの壁が触れている。
「ぎやあああぁ……」
ビルの谷間に、哀れな犠牲者の断末魔が響き渡った。
*
「あれ、姫山さん?」
放課後、校門を出てしばらく歩いた先で、志遠は真由の姿を見つけた。屋上以外で彼女を見かけるのは久し振りだった……その屋上も、
『トルドボーグだってそんな毎日現れるわけじゃないし。と言うか、君に毎日来られると私も落ち着けないんだけど?』
……と言う彼女の言葉を受け、暫くは控えていたのだが。
そんな真由が現在、目の前で何をしているのかと言うと──。
「にゃあ、にゃあ」
志遠の、と言うより人間相手には決して見せないであろう良い笑顔で、猫真似をしていた。相手は野生の三毛猫だった。
猫は少し警戒しながらも、徐々に真由へと近付いていく。その様子を見ているうちに、志遠も思わず足を止めてしまった。このまま、真由の手に顎を乗せると思われたが──。
「フシャーッ!!」
「に"ゃっ!?」
一定の距離まで近付いた瞬間、猫は警戒心を露わにし、真由を引っ掻いてどこかへ逃げ出してしまった。志遠は思わず目を丸くする。
露骨に落ち込む真由。その肩は僅かに落ち、先程まで浮かべていた笑顔もすっかり消えている。
──動物は、人間には感じ取れない殺気や血の匂いが分かると言う。
もしかしたら、さっきの猫は真由の
真由自身が何をしたわけでもない。むしろ彼女は、ただ猫と仲良くなろうとしていただけだ。それなのに、たった一匹の猫から拒絶されたように見える。
それはまるで、彼女の人間性を否定された様な気がして、志遠は嫌だった。
「あの、姫山さん」
「にゃ!?」
猫に夢中で志遠の接近に気付かなかった真由は、驚きのあまりおかしな声をあげた。
「……いつから、見てたの?」
「だ、大丈夫。猫とか見てないから」
声に出してから、志遠はしまったと後悔する。今のはどう考えても、見ていた人間の反応だった。
そもそも彼は、嘘を付くのが恐ろしく下手だった。
「あー、その……大丈夫! 誰にも言わないから」
「……言ったら、本気で絶交するからね?」
「あっ、はい」
彼女の目は一切の冗談を言っていない。
真由の真剣な視線を受け、志遠は思わず背筋を伸ばした。今の言葉だけは、冗談半分で受け流していいものではない。志遠は強く肝に銘じるのだった。
「と、ところで、さ。この所は問題無い? 最近聞けてないから……」
「心配しなくても大丈夫だよ……と言いたい所なんだけどね」
真由が何かを考え込むように手を顎に当てる。その仕草を見て、志遠は何となく察した。
どうやら、平和な世の中とはいかないらしい。
「またトルドボーグなの!? 俺も一緒に──」
「あのね。君は何の力も持たない一般人なんだよ? トルドボーグに襲われたらひとたまりもないの。」
「それは分かってるけどさ」
「この間は仕方無しに連れていったけど、調子に乗って相棒面しないで」
ピシャリと言い切る真由。彼女の言い分は尤もだ。
トルドボーグに狙われれば、志遠は無すすべもなく餌食となるだろう。そうなれば、真由でも志遠を守り切れない。
頭では分かっている。真由が自分を突き放したいわけではないことも、それが彼女なりに志遠を案じての距離感であることも。
それでも、言葉として真正面から拒絶されると、胸の奥が僅かに痛んだ。志遠は、彼女の隣で戦いたいと思っていた。少なくとも、何も出来ないまま彼女が危険な場所へ向かうのを見送るだけなのは嫌だった。
だからこそ、彼女の「相棒面しないで」という言葉が、思っていた以上に重く響いた。
「あら志遠。今から帰り?」
そんな重い空気を吹き飛ばしたのは、実に明るく軽快な声だった。志遠が振り返ると、そこには彼がよく知っている人間が自転車にまたがっていた。
「明音さん。うん、丁度帰る所」
「この時間に鉢合わすのは珍しいね。折角だしどっか寄って……んん?」
明音が志遠の隣に居る真由に気付く。何かを品定めするかの様に真由を凝視する明音。その視線を受けて、真由もどう反応していいものか分からず、僅かに身を固くする。
「あ、あの、何ですか?」
「……志遠のガールフレンド?」
「ガッ!!?」
衝撃発言に、真由は思わず噴き出した。
*
「いやはや志遠〜あんたにもこんな可愛いガールフレンドが出来るなんてねぇ」
「いやあの、私そう言うのじゃ」
「どの位付き合ってるの? デートはもうしたの? 何か嫌な事言われてない??」
場所は移り、山戸市でも人気の喫茶店《ジョウナン》。
それなりの広さと昔ながらのレトロな店内とメニューで地元民が知る人ぞ知るその店へと、志遠は真由と共に来ていた……と言うより、彼の保護者兼叔母である明音に連れてこられていた。
店内に漂う珈琲の香りや、どこか懐かしさを覚える内装を楽しむ余裕など、真由には無かった。
抗議も空しく、明音は一方的に喋り続けている。
どうしてこうなったのか。
隣に居る志遠にも、いまひとつ理解出来ていなかった。
「その……ごめん。明音さん、ちょっと凄いキャラしてるでしょ。悪い人じゃ無いんだけど」
「君と居ると本当碌な目に遭わないね!?」
小声で喋り合う真由と志遠。
志遠としても、まさか明音に見られるとは想定外だったらしく、申し訳なさでいっぱいだった。
「あの、明音さん。姫山さんは本当、ちょっとした知り合いってだけなんだ。そう言う関係じゃ……」
「えっ? そうなの? それは残念ね。志遠にもそう言う子が出来たと思って喜んだのに」
志遠のフォローにより、明音はアッサリと納得した様だ。強引なのか物わかりが良いのか、よく分からない人だと真由は思った。
「まぁこうして会ったのも何かの縁。真由ちゃんも欲しいもの注文していきな」
「いえ、私は結構ですから……」
「いいのいいの! 物好きなオバサンに奢って貰えてラッキーくらいに考えなよ。あ、もしかしてアレルギーがある? それともダイエット中とか」
「いえ、そういうのは無いですけど……」
「なら大丈夫か。好きなの頼んで良いからね!」
何とか穏便に事を済ませようとするも、明音には全く通用しない。たまらず真由は、横目で志遠に助け船を出す。
だが、志遠は静かに首を振った。
「こうなった明音さんは止められない。大人しく奢られて」
助け船から出された絶望の宣告。真由は大きくため息をつくしか無かった。