仮面ライダーシルク   作:霜降朽葉

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「お待たせ致しました。こちらチョコレートケーキでございます」

 

 メイド風味のウェイトレスが、品の良い洗練された動きで真由の元へとケーキを運ぶ。ココアパウダーを混ぜて焼かれた生地に、地層のように何重にもチョコクリームが塗られた、上品でゴシックな色合いのものだ。ビターな見た目に反してしっかり甘い、人気商品の一つである。

 

 最初は警戒していた真由も、普段こういうものを見慣れていないのか、フォークも持たずに目を輝かせていた。その視線は、まるで宝物を前にした子供のようだった。

 

「どう? ここのケーキ。味は元より、見た目にも力入れてるって評判なのよ」

「凄い……こんな綺麗なケーキ、食べても良いんですか……!?」

「良いの良いの! 意外とこれで値段は他とあまり変わらないから、どんどん食べて!」

 

 明音の言葉を合図に、真由はフォークを手に取る。どこから手を付ければいいのか少し迷うようにケーキを眺めた後、不器用に一口分を切り分け、口へと運ぶ。

 

 その瞬間だった。

 

 彼女の口の中に、甘味の楽園がフワリと広がった。

 

「〜〜〜っ!!?」

「だ、大丈夫? 姫山さん」

「なんか、すごくぜいたくをしているきぶん……」

 

 頭がフワフワしながら、真由は精一杯の感想を伝える。どうやら、味覚はしっかり残ってくれていたらしい。

 改造人間にされてしまった自分にも、こうして普通の人間と同じように美味しいものを美味しいと感じられる。その事実が、思いのほか嬉しかった。

 

 そんな真由の反応を見て、明音は満足気に笑うのだった。

 

「でも姫山さん、チョコ系好きだよね。いつも飲んでるのもパックココアだし」

「んぐ……チョコレートケーキはには、色々と思い出があるから」

「思い出?」

「昔、お父さんが一度だけ買ってきてくれた時にね……」

 

 

 

 

 真由と奈央の父は、二人を産んだと同時にこの世を去った妻の分まで、男手一人で彼女達を育てていた。余裕の無い暮らしから、中々二人に構ってあげられなかったが、それでも、我が子に対する愛情だけは本物だった。

 

 それは、過労で命を落とす瞬間まで変わらなかった。

 

 亡くなる数年前、父は一度だけ、なけなしのワンコインで二人に一切れのチョコレートケーキを買ってきた。中学生の真由と奈央は、一つの皿に乗ったケーキを目線を合わせながら見つめていた。

 

 二人の前にあるのは、たった一切れ。

 

 どちらか一人が全部食べてしまえば、それで無くなってしまう。それが分かっているからこそ、二人ともすぐには手を伸ばさなかった。

 

「ケーキ、一つしか無いね」

「うん……」

 

 暫く沈黙を続ける二人。互いにどう言おうか、気を使っている様子だ。真由も奈央も、お互いが食べたいと思っていることくらい分かっていた。だからこそ、自分だけが欲しがることには抵抗があった。

 

 やがて、先に口を開いたのは奈央の方だった。

 

「真由、私は良いから食べて」

「え!? そんなの駄目だよ!」

「大丈夫、私今お腹空いて無──」

 

 言葉の途中で響く音。

 

 ぐぅ、と。

 

 静かな部屋の中では、あまりにもよく響いた。奈央の嘘は、無常にも白日の下へと晒された。真由は姉の顔を見つめる。

 奈央もまた、気まずそうに視線を逸らした。

 少しの思案の末、真由は突然フォークを持ち、ケーキを横一閃に両断した。

 

「ほら、これで半分こ!」

 

 満面の笑みで答える真由。

 ……実際には、切り口が雑で大分比率が偏ってしまっていたのだが。奈央にとって、それは問題では無かった。

 

「真由……ふふ、ありがとう」

 

 さり気なく大きい方を真由へと食べさせる奈央。真由はそれに気付かず、嬉しそうにケーキを頬張る。

 

 決して裕福とは言えない。それでも、この時間だけは二人にとって確かな幸せだった。

 

「真由」

「うん? どうしたの、お姉ちゃん」

「私、時々怖い事を考えてしまいそうになる事があるの」

「怖い事?」

「うん……真由は、変わらず優しい子で居てね」

 

 

 

 

「……そんな事があったから、チョコレートケーキは私とお姉ちゃんにとっての……って、えぇ!?」

 

 過去への回想から戻り、前を向いた真由が目にしたのは、滝のような涙をコミカルに流す明音の姿だった。思わず真由の目が点になる。

 横を見れば、何と志遠まで同じ様に号泣している。何故そこまで泣いているのか。真由にはさっぱり分からなかった。

 

 真由としては、決して悲しい思い出として話したつもりではない。確かに父との思い出には寂しさもある。けれど、あの時に姉とケーキを分け合ったことは、今でも大切な思い出だった。

 

 どうやら、それとはまったく異なる印象を二人には与えたらしい。

 

「真由ちゃん……苦労してきたんだねぇ」

「え!? いや、確かに裕福じゃ無かったかもしれないけど、苦労とかはとくにしてません!」

「無理しなくて良いのよ? 何か美味しいもの食べたい時は、何時でもおばさんの所に来なさい?」

「姫山さん、お昼とか言ってくれたら俺も奢るよ。ううっ……」

「ふ、二人ともそんなの要らないからね!?」

 

 予想外の展開に、たじたじになる真由であった。

 

 

 それから暫く。

 

 店内の落ち着いた空気も相まってか、三人は和気藹々と会話を楽しんだ。先程までどこか居心地の悪そうにしていた真由も、いつの間にかすっかりこの輪の中に溶け込んでいる。

 明音の遠慮の無い話し方にも、最初こそ戸惑っていたものの、悪意が無いことは分かっていた。むしろ、こちらを気遣ってくれているのだと感じるようになっていた。

 

 そんな中、ふと志遠が急に席を立つ。

 

「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるよ」

「ん。いってらっしゃい」

 

 退席する志遠。その場には、真由と明音の二人きりとなった。

 

「志遠はどう? さっきも聴いたけど、嫌な事とかされてない?」

 

 小さく息を吐いた後、明音が真由へと問いかける。その声は、先程までの陽気で傍若無人なものではなく、どこか落ち着いた、真剣な声だった。

 突然の明音の変化に、一瞬戸惑う真由。だが、その目が冗談やからかいの類ではないことに気付き、真由も姿勢を正した。

 どうやら、本当に心配しているらしい。ならば、誤魔化すのも失礼だろう。真由は正直に答えることにした。

 

「え? うーん……嫌な訳じゃ無いんですけど」

「ふむ?」

「……私、ちょっと危険な……アルバイト(・・・・・)をしてるんですけど、阿武川くんが手伝うって言って聴かなくて。いつか、大怪我をされちゃうんじゃ無いかって思って心配なんです」

「そんな危ない事?」

「はい」

 

 トルドボーグの事を言うわけにもいかず、大まかに伝わる内容だけを伝える真由。それでも、嘘をついていることへの後ろめたさはあった。

 ただ、今の自分の立場を明かすわけにはいかない。明音を巻き込まないためにも、それは必要なことだった。

 明音はそれを聴き、何かを思案した。

 

「あの子がそんな真剣にね……分かった。私からも注意しておくわ」

「お願いします」

「それにしても、真由ちゃんはよっぽど志遠に気に入られたみたいね。女の子だとかそう言うのじゃなくて、一人の人間として」

「そう、なんですか?」

「志遠がそこまで他人に一生懸命になるなんて珍しいの。あの子、ちょっと訳ありでね」

「えっ? とてもそうは見えないですけど……」

 

 そう言って、真由は志遠の事を何も知らない事に気付く。普段一緒にいる時間が増えていたとはいえ、彼について知っていることは決して多くない。

 少しお節介で、嘘を付くのが恐ろしく下手で。そして、自分が危険な場所へ行くと知れば、何の力も無いくせに手伝おうとしてくる。そんな少年だと思っていた。

 

 だが、その反応を見て明音は「そっか」とだけ答えた。彼女は少しの沈黙の後、口を開く。

 

「志遠、真由ちゃんに自分の事話してないのね。まぁ積極的に言う内容でもないか」

「阿武川くん、何かあったんですか?」

「……あの子ね、中学の時に酷いイジメを目撃した事があるのよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、真由の表情から僅かに笑みが消えた。

 少しの躊躇いの後、明音は真由に、かつて志遠の身に起きたことを話す事にした。

 

 

 かつての志遠は、雰囲気や性格こそ今と大差ないが、もう少し前向きで友人もそれなりに多く、何処にでも居る少年だった。

 

 その日、志遠は男子トイレの前に差し掛かった。

 

 そこで、複数の柄の悪そうな男子生徒達が占拠していた。

 

 ──その中心には、臆病な目をした小柄な男子が居た。

 

 面識の無い生徒だった。

 

 頭からずぶ濡れになり、その手は強く握られている。

 

 何が起きているのかなど、考えるまでもなかった。

 

 

「助けてあげなきゃって気持ちはあったみたい。でも」

 

 明音の声を聞きながら、真由はその時の志遠を想像する。もし自分が、その場に居合わせていたら。そんな想像をしながら、真由は明音の話に耳を傾ける。

 

 

 ──志遠は、その場から動く事が出来なかった。

 

 あの生徒を助ける。

 

 それはつまり、周りのいじめっ子達全員を相手にすると言う事だ。

 

 そんな事が、出来るものか。

 

 ふと、イジメられている生徒の視線が志遠を捉えた。

 

 怯えた目。

 

 縋るような目。

 

 そして──。

 

──助けて。

 

 志遠には、そう言っている様に見えた。

 

 それに釣られるように、周囲のいじめっ子達も次々と志遠を捕捉する。

 

 リーダー格と思しき生徒が、志遠に牙を剥いた。

 

『なんだよ』

『あっ、いえ……何でもないです』

 

 結局、志遠はその場を逃げるように去ることしか出来なかった。

 

 

 その話を聞いて、真由は胸の奥が重くなるのを感じた。普段、相手の事情に踏み込まない様にしている真由も、流石に志遠に同情する。

 

「……それは、悔しかったと思います」

 

 もし自分が同じ立場ならどうしていただろう。

 

 自分がその場に居たら?

 

 今の様な力が無ければ?

 

 考えれば考えるほど、答えは出てこない。むしろ、自分だって動けなかったかもしれない。

 そんな真由の脳裏に、いつかの志遠の言葉が蘇る。

 

『俺は、そんな奴等に恐れず向かっていく姫山さんが眩しいって思った。だからそんな自分を否定するって言うなら……俺が許さない』

 

 あの時は、ただ自分を認めてくれた言葉として受け取っていた。けれど今なら、少し違う意味も見えてくる。

 あれはきっと、志遠が自分自身へと向けた言葉だったんじゃないだろうか。そう真由は感じた。

 

 自分が出来なかったこと。

 

 恐ろしくて、逃げてしまったこと。

 

 そんな過去の自分を、志遠は今でもどこかで許せずにいるのかもしれない。

 

 だが──話は、もう少し深刻なものだった。

 

「あぁいや、この話にはまだ続きがあってね」

「え?」

 

 明音が一呼吸置き、再びその口が開かれる。

 

「……そのイジメられてた子ね、一週間後に自殺したの」

「っ!?」

 

 場の空気が凍る。

 

 先程まで穏やかだった店内の空気が、まるで一瞬にして別物へと変わったように感じられた。流れている店内BGMすら、不意に途切れた様な錯覚さえ覚える。

 

「自宅で首を吊っていたらしくてね、遺書もあったらしいの」

 

 明音の口から告げられた言葉は、あまりにも重かった。

 

『誰も助けてくれなかった。世界が憎い』

 

 遺書にはそう書かれていたと言う。

 

「志遠、その事で凄く心を病んでしまってね。『俺があの時、助けてあげれなかったからだ』って言って一日中泣いてたのよ。泣きやんだと思ったら魘されるように独り言を言い出して暫くしたらまた大泣きして……やっと収まった時には、何か全部抜け落ちたみたいな、空っぽな子になってた」

 

 淡々と明音は告げる。

 

 その声音がかえって、真由には事の重さを際立たせているように思えた。真由は、それを黙って聴くことしか出来なかった。何か言葉を返そうとしても、何を言えばいいのか分からない。

 

「あの子はその日の事を、ずっと後悔してる。だから自分に自信とか価値を持てなくなってしまってね。修くん……あ、中学の頃からの友達ね? その子以外の友達はみんな離れていって、誰も寄り付かなくなっちゃった」

 

 真由はこれまでの志遠の行動を振り返る。飽きもせずに自分の下へと通う彼を見て、他にやる事は無いのかと思った事もあった。

 けれど、その理由を知ってしまった今では、当時の自分の考えが少しだけ申し訳なく思えてくる。志遠にとって、自分の下へ来ることは、単なる暇潰しなどではなかったのかもしれない。

 

 事実を知った彼女は、ほんの少し胸が痛むのだった。

 

「そんな訳だからね? 真由ちゃんには感謝してるのよ。最近あの子、妙に活き活きする様になっていたから、きっと真由ちゃんと出会ったお陰だと思う」

「いや、私はそんな……誰かに誇られる様な事は、してないです」

 

 全力で明音の言葉を否定する真由。自分がしている事は、私利私欲の為の同族狩りだ。誰かを救うためでもなければ、正義のためでもない。

 

 ましてや、誰かの希望になる様な行いではない。そう思っていた。

 

 だから、そんなふうに感謝されることには、どうにも居心地の悪さを覚えてしまう。だが明音は、それでも言葉を続ける。

 

「私は真由ちゃんが何をしているのかは知らない。けど、真由ちゃんの何かが、あの子を生き返らせてくれたと思う」

「…………」

「重荷にならない程度で良い。志遠と、仲良くしてあげてね」

 

 ここまでの彼女とは違う、優しく微笑みながら明音が言う。その表情からは、先程までの豪快さとは別のものが感じられた。志遠の身を案じる、育ての親としての明音の姿。それを目の前にした真由は、一応の肯定として首を縦に振った。

 

 どこまで責任を持てるかは分からない。そもそも、自分が志遠の人生にどこまで関われるのかも分からない。

 だが、せめて話しかけてきた時くらいは。もう少しだけ、彼のことを知ってみてもいいのかもしれない。ちょっとだけ距離を縮めてみようと、真由は思った。

 

 彼女の中で、志遠への認識がほんの少し変わるのだった。

 

「ただいま。遅くなってごめん! 前の人が新聞読んでたみたいで中々出てくれなくってさ……」

「志遠、あんた真由ちゃんを困らせてるそうじゃない。心配させる様な事すると、私が許さんぞ〜?」

「えっ!?」

 

 突然の明音の言葉に、志遠が真由を見る。真由は視線を合わせようとせず、わざとらしい咳払いをした。

 余計なことを話してしまった、とでも言いたげな仕草だった。

 

「あんたが女の子を泣かせる様な男になったら、私が天国の姉さんとあの人に顔向け出来ん」

「うっ……明音さんには迷惑かけないからさ!」

「真由ちゃんには?」

「勿論かけてな──」

 

 そう言いかけた志遠の視界に、真由の顔が映る。見るからに不服な顔をしていた。その無言の圧力を受け、志遠の言葉が止まる。

 

「き、気をつけます……」

 

 項垂れる志遠。その姿を見て、真由は思わず口元を緩めた。これまでなら、こんな場面で笑うことなどなかったかもしれない。

 

 けれど今は、何となく可笑しかった。

 

 本当に久し振りに──愉快そうに笑うのだった。

 

 

「ご馳走様でした」

 

 ジョウナンから出た所で、真由は礼儀正しく明音にお辞儀した。初めは巻き込まれたと不満のあった彼女だったが、最終的には良い経験と出会いとなった様だ。

 

「姫山さん、今日はごめんね。何か振り回す感じになって」

「うぅん。明音さんいい人だし、美味しいケーキまで奢って貰えて楽しかった」

 

 ありがとうございましたと明音に告げる真由を見て、志遠は内心ほっとしていた。ここの所、ただでさえ彼女に対しマイナスな事しかして来なかった手前、今度こそ本気で嫌われたかと思っていたのだ。それがこうして、笑顔で明音に礼を言っている。そのことが、志遠には素直に嬉しかった。

 実際には、真由の中で志遠への理解が少し深まっているのだが、当の本人はそれを知る由も無かった。

 

 そんなこんなで、慌ただしい放課後のお茶会は終わりを告げ、一日が過ぎていく──。

 

「おいゴラ何ぬかしてんだテメェ!!」

 

 ──筈だった。

 

「何だ?」

 

 志遠の声に一同が騒ぎのあった方を向く。見れば、派手なシャツに色付きのサングラスを付けた、いかにも柄の悪そうなパンチパーマの男が、スーツ姿のサラリーマンに絡んでいた。

 

「だから、打つかってきたのはそっちじゃないですか!」

「テメェが避けねえのが悪いんだろうが! あーいたた。こりゃ腕が折れちまったなぁ。どう責任とるんじゃワレ」

 

 わざとらしく腕を押さえ、サラリーマンを脅す男。誰がどう見ても言いがかりだった。周囲の人間も、どうしたものかと遠巻きに様子を窺っている。

 

 ──志遠の脳裏に、あの日の光景が蘇る。あの時も、自分は何も出来なかった。

 

「あいつ……!」

 

 もうあの時とは違う。自分は真由から勇気を貰ったんだ。そう自身を奮い立たせ、志遠は男に立ち向かおうとした。

 

 が……。

 

「よしな、志遠」

「明音さん!? でも!」

「勇気と蛮勇は違う。あんたアレに勝てるの? 負けたら私はともかく、真由ちゃんにも危害が及ぶかもしれないよ」

「そ、それは……」

 

 志遠の足が止まった。

 

 明音の言っていることは、あまりにも正論過ぎて、何も言い返せなかったのだ。

 実際に真由が危険な目に遭う事などあり得ない。だが、それを言う訳にはいかないし──何より、そんな状況になることを真由が望んでいない事くらいは理解出来た。

 

「で、でもだからって、あの人を見捨てるのは……」

「安心しな、見捨てるつもりは無いよ」

 

 その言葉に疑問を抱く志遠。だが、答えが出る前に明音はスタスタと男の方へと歩いて行った。危ない、と志遠と真由が思う暇すら無い程に、その動きには迷いが無かった。

 

「こうなった以上は、慰謝料としていくらか払って貰わんと──」

「そこまでにしときな、大の大人が当たり屋とかみっともない」

「あ? 何だババァ。文句あんのか」

「誰がババァさ。あたしゃまだ華の三十代だ」

「訳分かんねえ事いってんじゃねえぞテメェ!!」

 

 四の五言わずに、一気に明音に殴りかかる男。志遠と真由は勿論、周囲にいた誰もが惨劇を予感した。

 

 だが──。

 

「痛だだだだ!!?」

 

 悲鳴を上げたのは、男の方だった。明音は男のパンチを躱し、その腕を掴む。そして、曲げてはいけない方向へと捻った。

 

「そんな威勢の良いパンチが出来るなら全然大丈夫そうね」

 

 勢いよく腕を放された男は、その場に尻餅をつく。一瞬、何が起きたのか分からなかった。だが、次の瞬間。もはや周囲を支配していたのは、恐怖では無く明音への拍手喝采だった。

 突然の出来事に呆気に取られていた志遠も、思わず口を開けたまま明音を見つめる。バツが悪くなった男は、明音を殺気を込めて睨み付けた後に逃げていった。

 

「あの、ありがとうございます!」

「良いって事よ。ああいうの多いから、気をつけなよ」

 

 一礼してその場を去って行くサラリーマン。その後ろ姿を、明音は満足げに見送る。志遠が慌てて明音の方へと駆け寄った。

 

「凄いよ明音さん! よくアイツを追い払えたね」

「伊達に歳はくってないからね、護身術の一つくらい身につけてるよ。もっとも、半分くらいはハッタリも混ぜたけどね」

 

 志遠は思わず苦笑する。確かに明音なら、あれくらいの相手を相手にしても不思議ではない気がした。

 さてと言って明音は振り返り、そのまま歩き出す。

 

「私は夕飯の買い出しがあるから、先に帰るね。志遠は真由ちゃんをしっかりエスコートしてあげな」

 

 ヒラヒラと手を振って自転車にまたがり、その場を去って行く明音。それと同時に野次馬達も散り散りとなり、その場は再び平穏を取り戻した。

 

「一時はどうなるかと思ったけど、良かった。姫山さん、折角だから家まで送るよ」

 

 そう言って歩き出そうとする志遠だったが、真由の様子がおかしい。その場から動こうとせず、先程男が去って行った方角を睨み付けている。

 

 その瞳には、確かな警戒心と殺気が宿っている。先程までの柔らかな表情とは明らかに違う。それを見た志遠の背筋にも、ぞくりとしたものが走った。

 

「姫山さん?」

「阿武川くん、明音さんを追いかけよう」

「えっ?」

「さっきの男、トルドボーグだよ。明音さんが危ない」

「何だって!?」

 

 真由は明音が帰宅した方向へと向き直り、走り出す。その背中を見た志遠は、一瞬遅れてから慌てて駆け出した。

 

 今度こそ、何かを見過ごすわけにはいかない。そう思いながら、志遠は置いて行かれないように真由へと追従するのだった。

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