「はぁっ、はぁっ」
真由を肩に抱え、バシャバシャと激しい水音を立てながら、志遠は何とか浅瀬へと移動した。足元を流れる水が行く手を阻み、濡れた衣服が身体にまとわりつく。それでも、今は立ち止まっている場合ではない。息を切らしながらも、どうにか川辺へと辿り着く。
咄嗟に思いついた、あまりにも無茶無謀な判断だった。だが、ひとまずギガアーケロンの脅威から逃れるという目的は果たせたようだ。
「な、何考えてるの! 死ぬ気なの志遠くん!?」
「ご、ごめん。アレしか方法が思いつかなくて……」
真由の叱責に、志遠は申し訳なさそうに肩をすくめた。
無茶をした自覚はある。あの状況で川へ飛び込むなど、普通なら真っ先に避けるべき行動だろう。水中で身動きが取れなくなれば、それこそ逃げ場を失う危険だってあった。
それでも、志遠には真由を置いて逃げるなんて選択肢は無かった。
そもそも、仮に生物としての生存本能が彼を動かしていたとしても、結果は変わらなかっただろう。ギガアーケロンに搭載された武装は決して志遠を逃さず、彼の肉体は強い後悔とともに血煙と化していたに違いない。
結局の所、志遠にとっても飛び降りる事が最善策だったのだ。
「むぅ……」
真由もまた、その事実を理解できてしまったのだろう。不満そうな顔をしているものの、それ以上強く責めることは出来なかった。
志遠が無茶をしたのは間違いない。けれど、あの場で他にどんな方法があったのかと問われれば、彼女にも即答することは出来ないのだから。
結局、真由は一先ずお咎め無しに納める事にするしか無かった。
「今回はもう何も言わないけど、無茶な事は止めてね……志遠くんにもしもの事があったら私……」
「え?」
「……何でもない。それより、早く先へ進もう。多分アイツ、すぐに追ってくる」
言いかけた言葉を飲み込むようにして、真由は話題を切り替えた。その表情に一瞬だけ浮かんだものを、志遠は確かめることが出来なかった。何か大切なことを伝えようとしていたようにも思えたが、問い返すには、真由の声があまりにも普段どおりだった。
それに、彼女の言うとおり、いつまでもここに留まっているわけにはいかない。
こうして、重い水を吸った服を纏いながらの二人の逃避行が始まった。
*
木々に覆われ、日光の遮られた川辺は、夏とはいえ肌寒さを感じるほどだった。避暑地としてなら申し分のない環境だろう。木漏れ日が水面に揺れ、せせらぎが耳に心地よく響く。平穏な休日であれば、さぞかし気持ちのいい場所だったに違いない。
しかし、今の二人にとっては有難迷惑もいいところだった。濡れた服から体温が奪われ、歩くたびに水気を含んだ布地が肌に張り付く。少しでも早くこの不快感から解放されたいところだが、敵に追われている以上、そんな贅沢も言っていられない。
それでも、真冬じゃなくて本当に良かった。志遠は心の底からそう安堵した。
「ところで、どこへ向かうの? じっとしている訳にもいかないけど」
暫く歩いた先で、志遠はふと疑問を口にした。
目の前には、木々に囲まれた川辺がどこまでも続いている。背後からタートルドが追ってくる可能性を考えれば、立ち止まっているわけにはいかない。とはいえ、闇雲に逃げ続けるだけでは、いずれ行き詰まってしまう。
逃げること自体は出来ている。だが、その先に何があるのか、どうすればこの状況を打開できるのか。肝心のプランが、志遠にはまるで見えていなかった。
「川沿いなら木が目眩ましになってくれてるから、上から見つかる心配は無いと思う。このまま開けた場所まで行けば、きゃあっ!?」
真由が説明を続けていた、その時だった。
突然、彼女の口から甲高い叫び声が上がった。
何事かと志遠が反応するよりも早く、彼の胸板に強い衝撃が走った。続いて、柔らかくて暖かい感触が全身に広がる。
何が起きたのか、志遠にはすぐに理解できなかった。目の前に真由の顔がある。身体には彼女の腕が回され、衣服越しに体温が伝わってくる。あまりにも突然の出来事に、頭の中が一瞬真っ白になった。
それが真由が自分に抱きついてきたのだと理解するまでに、志遠は数秒を要した。
「え……えぇっ!? 真由、急にどうし──」
「あれ! あれ!!」
志遠の胸板に顔を密着させながら、真由は必死に一点を指さした。普段なら、何かあればすぐに状況を確認しようとする彼女が、ここまで取り乱している。よほどのものを見つけたらしい。
志遠は真由の指さす先を見上げた。そこには……。
「うわ」
思わず、引き攣った声が漏れた。
大木の幹にしがみつくようにして、巨大な蛾が羽を開いたまま制止していた。
蒼白い羽は木漏れ日を受け、薄く透き通るような色合いを浮かび上がらせている。その大きさは、成人男性の掌ほどはあるだろうか。
見る人が見れば、その鮮やかな色彩や繊細な模様に、美しいと感嘆の声を上げるのかもしれない。自然の造形として眺めるなら、確かに見事なものではあるのだろう。
だが、一般的な──少なくとも、この場にいる二人にとっては、そんな感想を抱く余裕などなかった。木の幹に張り付いた巨大な蛾。その不気味な姿は、ただただ気味の悪いものとして映っていた。*1
真由でなくとも、大抵の女の子ならこう言う反応をするだろう。
もっとも、志遠自身も人のことは言えなかった。思わず声が引き攣ってしまったあたり、彼だって目の前の光景を平然と受け止められているわけではないのだ。
そして、それ以上に問題だったのは、今の志遠が置かれている状況だった。
志遠は、真由の事を異性としてはそこまで意識していない。全くと言うと嘘になる。彼女は紛れもなく女の子だし、こうして身近にいれば、否応なしに異性としての存在を意識させられる瞬間だってある。
だが、それ以上に彼にとっての真由は、闇の中を彷徨っていた自分に道を照らしてくれたヒーローだった。自分を救ってくれた存在。前を向くきっかけを与えてくれた、誰よりも大切な恩人。そんな彼女に対する尊敬や感謝が、志遠の中では何よりも大きかった。
……はずだった。
しかし、この瞬間、そんな志遠の理性に少女の柔肌が襲い掛かる。
そもそも、真由は自分を守ろうとして抱きついてきたわけではない。目の前の蛾に驚き、恐怖のあまり反射的にしがみついてきただけなのだ。そんなことは分かっている。
分かっているのだが、だからといって、身体に伝わる感触まで無かったことに出来るわけではなかった。
「あ、あの、真由? そろそろ離れてくれると助か……うわこっち飛んできた!」
「ヒッ──!?」
志遠が言い終えるよりも早く、蛾が大木から飛び立った。
羽ばたきとともに、蒼白い羽が木漏れ日の中を横切る。その姿がこちらへ向かってくるのを見た瞬間、真由の身体がびくりと震えた。そして、恐怖に突き動かされるように、彼女は志遠へ一層強く密着した。
志遠の胸板には、女の子の質感だけでなく、控えめながらも確かな形状を伴う二つの弾力が押し付けられていた。志遠の心臓が、今まで生きてきた中で最大級の跳ね上がりを見せる。
戦闘中に敵の攻撃を受けた時とは、まるで違う種類の緊張だった。逃げなければならないという焦りとも、命の危機に対する恐怖とも違う。身体は硬直し、頭の中では何かを考えようとするたびに思考が空回りする。
どうすればいい。いや、まずは真由を落ち着かせなければ。
そう考える一方で、胸元から伝わる感触がどうしても意識に入り込んでくる。
「〜〜ッ!?」
志遠は思わず視線を下に向けた。
川に落ちた際に水を吸い上げ、艶を増した茶色の髪。涙目で助けを求める少女の顔。そして、双丘を護りし純白の布地、その透けた輪郭……。それらの情報を、志遠の視覚は本能任せに一気に吸い上げた。見てはいけない。そう思うほど、何が目に入っているのかを意識してしまう。
そもそも、真由は今まさに恐怖に怯えているのだ。そんな彼女を前に、妙なことを考えている場合ではない。
分かっている。分かっているのだが、どうにも意識が言うことを聞いてくれなかった。
「ま、まゆ……」
しどろもどろになる志遠。そうこうしている内に、件の蛾は二人の事情など知ったことではないとでも言わんばかりに、明後日の方向へと飛び去っていった。
……助かった。
志遠は、心の中でようやく息をついた。
「っ……真由。アイツもう飛んでったから大丈夫だよ」
「……本当に?」
「う、うん」
恐る恐る顔を上げ、志遠から離れる真由。
彼女はまだ不安が拭い切れないのか、周囲をキョロキョロと見渡していた。木の幹や枝の陰に、あの巨大な蛾が潜んでいないか確かめているのだろう。その様子を見ながら、志遠はようやく緊張を解き始めた。
先ほどまでの密着状態を思い返すと、今度は別の意味で落ち着かなくなってしまう。とはいえ、いつまでも意識しているわけにもいかない。何より、真由にとっては災難以外の何物でもなかったのだから。
やがて、安全を確保した真由はハッとして志遠に向き直った。
「って、ごめん! 結構強めに飛びついちゃったけど、痛くなかった……?」
「うん、痛かったと言うか、柔らかかったと言うか」
「え、柔らか……?」
志遠の言葉を、真由はすぐに理解できなかった。痛かったかどうかを尋ねたつもりだったのに、返ってきたのは妙に引っ掛かる言葉だった。真由は首を傾げ、志遠の顔を見つめる。
だが、柔らかいという単語。顔を赤らめ、視線を反らした志遠。そして、さっきまでの自分の動き。それらが頭の中で結びつくにつれ、真由の表情が徐々に変わっていった。
「っ! スケベ!!」
全てを理解した真由が、両手で胸を庇いながら後ずさる。今度は彼女の顔が紅潮する番だった。
「え、えぇ!? 流石にそれは理不尽だよ!」
「それは……でも、変な気分になったんでしょ?」
「いやまぁ、その」
「やっぱりスケベ!!」
「えぇ……」
理不尽な真由に、志遠はたじたじになるしかなかった。もちろん、彼女の言い分に納得しているわけではない。そもそも、最初に抱きついてきたのは真由の方なのだし、志遠だって好きでこんな状況になったわけではない。
しかし、実際にドキドキしたのだから、反論もし難い。
真由の恐怖に付け込んで何かをしたわけではない。それだけは確かだ。けれど、彼女の身体の感触を意識してしまったことまで否定するのは難しかった。結局、志遠は何とも言えない顔をするしかなく、半ば屈するような形でこの場を収めることになった。
「っ痛!」
その時、突然、真由が右腕を押さえて顔を歪ませた。先ほどまでのやり取りが嘘のように、彼女の表情から笑い気が消える。
何事かと志遠が目を向けると、すぐにその原因が分かった。
「って真由、その腕!」
志遠の目に飛び込んできたのは、傷口の開いた真由の右手首だった。先の戦いで、ギガアーケロンを無理に拘束しようとした結果、強烈な負荷がかかったのだ。血管や神経が破裂し、手首には痛々しい傷が残っていた。
幸い、出血は止まっている。だが、傷が塞がっていない以上、無事とは言い難かった。白い肌に刻まれた傷痕は、先ほどまでの騒ぎの中では気づきにくかったものの、改めて目にすると痛々しさが際立っていた。
真由は普段から、傷を負っても平然としているところがある。再生能力があるからこそ、多少の負傷なら気にしないのかもしれない。しかし、目の前で顔を歪めている彼女を見て、志遠は胸の奥がざわつくのを感じた。
「こんなの平気。すぐに再生するから……っ!」
真由は気丈に振る舞おうと、手に力を込める。
だが、次の瞬間、手首を激痛が襲った。
その痛みは、彼女の表情を隠しきれないほどに歪ませる。どうやら見た目以上に、ダメージは深刻らしい。
それでも大丈夫だと言い張ろうとする真由の姿を、志遠は見ていられなかった。
彼女はいつも、自分のことを後回しにしてしまう。自分を助けてくれた時もそうだった。どれほど無茶をしていても、どれほど傷ついていても、真由は平気だと言って前に進もうとする。
だからこそ、せめて今くらいは、何かしてやりたかった。
「真由、これ!」
志遠は真由の手首に、先程彼女が返した銀色のハンカチを再び巻き付けた。傷口を覆うように、慎重に布を当てる。再生能力のある彼女にとって、こんな応急処置にどれほどの意味があるのかは分からない。それでも、何もしないまま痛みに耐えさせるよりは、ずっとましに思えた。
「ちょ、ちょっと、また汚れちゃう……ああもう」
傷口を覆い隠した志遠のハンカチは、肌に付着していた水分を吸い取り、再び汚れてしまう。血では無いだけマシかもしれないが、また洗って返さなければならない。
真由としては、せっかく返したものをまた汚してしまうのは申し訳なかった。だが、志遠がこうして手当てをしてくれている以上、今さら無理に引き剥がすわけにもいかない。
少しばかり困ったような顔をしながらも、真由は彼の手元を見つめていた。
「こんな事しても意味無いかもしれないけど……オマジナイくらいにはならないかな」
志遠は真顔で、そんな事を言った。
自分でも、気休めに過ぎないことは分かっているのだろう。傷そのものを治せるわけでも、痛みを消せるわけでもない。それでも、何か少しでも真由の助けになればという思いが、その言葉には込められていた。
真由は困惑した。
けれど、事実として、ハンカチを意識することで、手に込める力を抑えるセーフティの様な役割が出来上がっていた。先ほどは、傷などすぐに再生すると考え、いつもどおりに力を込めようとしてしまった。だが、今は手首に巻かれた布が気になり、無意識のうちに動作を慎重にしている。
そのおかげか、痛みもさっきよりはマシになった様に感じる。
そう言う意味では、志遠の言葉も言い得て妙なのかもしれない。
「……やっぱり変わってるね、志遠くん」
真由はそう答えることしか出来なかった。
*
暫く、志遠は真由の後を着いていった。
先ほどのやり取りから、妙に気不味い空気が漂っていた。志遠としては、真由を助けたかっただけなのだ。怪我をしていたから手当てをした。それだけのことで、特別な意味を込めたつもりはない。
それなのに、真由からは変わっていると言われた。
もちろん、彼女が本気で怒っているわけではないことくらい、志遠にも分かっている。だが、それでも、自分の行動が何か彼女の気に障ってしまったのではないかという不安が、胸の片隅に残っていた。
また何かを間違えたのだろうか。そんな思いが頭をよぎり、志遠は前を歩く真由に声をかけた。
「あの、真由。さっきは出しゃばった事しちゃったかな、ごめん」
「…………」
「真由?」
「……えっ!? あ、ごめん。考え事してた」
「そ、そうなんだ。てっきり、怒ったのかと」
「もしかして、さっき変わってるって言った事? 怒ったつもりで言ったんじゃないよ」
「そっか、良かった。それで、考え事って?」
「うん。さっきのタートルの事」
「タートルって、さっきの軍人みたいなトルドボーグ?」
「うん」
真由の返答を聞いて、志遠は先ほどの戦いを思い返した。
あの時、真由──シルクがギガアーケロンを倒す事は容易ではない。それは、実際に戦いを目の当たりにした志遠自身が、誰よりもよく理解していた。シルクは何度も攻撃を仕掛けたが、そのことごとくが通用しなかったのだ。
敵の装甲はあまりにも硬く、真正面からぶつかっても有効打を与えられない。力押しでどうにかなる相手ではないことは明らかだった。
勝ち目があるとすれば、奴がギガアーケロンから降りている時を狙うしか無い。だが、それも簡単な話ではないだろう。敵がいつ降りるのか、そもそも降りる機会があるのかさえ分からないのだから。
先ほどの戦いを踏まえれば、これから先の行動を慎重に考える必要がある。
「万が一仕留め損なってあの兵器に乗り込まれたら、正直、勝つのは難しくなると思う」
「そんな……シルクには他に力は無いの? 硬い敵とも戦えるパワーのある力とかさ」
志遠のその言葉に、真由は沈黙した。
問いかけを受けた彼女の表情には、何かしらの葛藤が浮かんでいた。
志遠は、その変化を見逃さなかった。先ほどまで、真由は敵を倒す方法について考えていたはずだ。ならば、別の力があるかと尋ねられた時、即座に否定することも、肯定することも出来ないのは妙だった。
何か、言いにくい事情があるのだろうか。
「真由?」
「アイツに勝つ力なら、あるよ。でも……」
真由はポケットからトルドストーンを取り出した。それはゴーストフォームのものでもロードフォームのものでもない。黄緑色をした、不気味な輝きを纏うストーンだった。
見慣れない色合いに、志遠は思わず目を留めた。
真由がこれまでに使ってきた力とは、何かが違う。そう直感させるような、奇妙な存在感があった。
真由はそのストーンに触れた。指先で表面を確かめるようにしながら、しばらく見つめていたが、やがてすぐに首を横に振った。
「ゴメン、出来ることならこれは使いたくない」
「え!? それがあれば勝てそうなのに?」
「
「?」
妙な事を言い出す真由に、志遠は首を傾げた。敵を倒すための力がある。それなのに、使いたくない理由があるという。真由が何を恐れているのか、どんな危険を知っているのか。今の志遠には、想像することすら出来なかった。
ただ一つ分かるのは、彼女が手にした黄緑色のトルドストーンを、ひどく警戒しているということだけだった。
その理由が何を意味するのか、この時の志遠には分からなかった。
「……いつまでこの戦いが続くのかな」
ふと、真由がそんな言葉を零した。
それは、彼女にしては珍しい、弱々しい声だった。
いつもなら、どれほど追い詰められた状況でも前を向き、気丈に振る舞おうとする真由。その口から漏れた本音に、志遠は思わず耳を疑った。彼女もまた、先の見えない戦いに疲れを感じているのだろうか。
「え?」
「トルドボーグと戦い続けて、お姉ちゃんを知っている奴を探してきたけど、一向に辿り着けない。タートルの奴は、プロフェッサーの事を知っていたみたいだけど」
真由は自分の胸の内を整理するように、ぽつぽつと言葉を続けた。
トルドボーグと戦い、その中から姉の手掛かりを探す。これまで、真由はずっとその繰り返しを続けてきたのだろう。戦いに勝ったところで、必ずしも求めている情報が手に入るわけではない。何度も危険を冒しながら、それでも肝心の姉には辿り着けない。
それがどれほど苦しいことなのか、志遠には想像することしか出来なかった。ただ、今の真由の言葉から察するに、先ほどの敵はこれまでの相手とは違うらしい。
「何者なの、そいつ?」
「メメントルドの、トルドボーグ達の親玉……私やお姉ちゃんを拐った張本人だよ」
真由は忌々しげに言った。
その声には、普段の彼女からはあまり感じられない、剥き出しの憎悪が滲んでいた。
真由と奈央は、ある日突然、メメントルドのスカウトマン達によって誘拐された。彼女達の人生を狂わせた、その事件。二人を攫うよう命令を下したのが、プロフェッサーなる人物らしい。
つまり、真由にとってプロフェッサーは、単なる敵組織の首魁などではない。自分と姉を引き裂き、平穏な日常を奪い去った張本人なのだ。
その名を口にするだけでも、胸の奥に押し込めていた記憶が疼くのだろう。
*
『な、何ですか貴方達!』
『お姉ちゃん!』
『真由! いや、やめて……!』
あの日の記憶が、真由の脳裏に蘇る。
突然現れたメメントルドのスカウトマン達。抵抗する間もなく連れ去られた二人は、そのまま組織の本拠地へと運ばれていった。
何が起きているのかも分からない。どうして自分達が狙われたのかも、これから何をされるのかも分からない。ただ、目の前で姉が自分を庇おうとする姿だけが、真由の目には焼き付いていた。
二人はメメントルドの本拠地へと連れ去られ、プロフェッサーによる改造手術を受けた。手術台の上から見上げた先にいたのは、顔の判然としない人物だった。顔に当たる部分はライトを反射し、その表情を窺い知ることすら出来ない。
しかし、その声からして、初老の女性の様だった。
淡々とした、感情の消えた声。
まるであらゆる絶望が通り過ぎた後に訪れる虚無の様な声で、彼女は二人へと言葉を告げた。
『お前達は、これより■■■として生まれ変わる』
手術は、十代の少女達が受けるにはあまりにも過酷なものだった。
身体にナノマシンを注入され、拒絶反応に耐えながら、内側から肉体を変えられていく。自分の身体であるはずなのに、もはや自分の意思ではどうにもならない。身体の奥深くで何かが蠢き、少しずつ人間ではなくなっていくような感覚。
その恐怖は、言葉では言い表せないものだった。
さらに、数日に渡って身体を慣れさせた後、内臓の一部を機械化されていく。逃げ出すことも、抵抗することも出来ない。いつ終わるのかさえ分からない時間の中で、二人はただ苦痛に耐えるしかなかった。
それはまさに、恐怖の時間だった。
『ぐすっ、お姉ちゃん、私達、どうなっちゃうの……?』
『大丈夫、大丈夫だから、真由……!』
耐え切れずに涙を零す真由へ、奈央は何度も語りかけた。
自分だって怖いはずなのに。それでも奈央は、妹を安心させようと声をかけ続けた。
大丈夫。
そう言い聞かせるように繰り返す姉の声が、真由にとってどれほど心強かったことだろう。
何が大丈夫なのか、奈央自身にも分かっていなかったのかもしれない。それでも、妹を少しでも勇気付けようとする。その姿だけが、先の見えない恐怖の中で真由を支えていた。
手術が終盤に差し掛かった頃、二人には不思議な力が備わっていた。
超能力とでも言うべき力だ。
自分達の身体に何が起きたのか、二人はまだ十分に理解できていなかった。それでも、これまでの自分達には無かった何かが宿ったことだけは確かだった。
そんな折、プロフェッサーが最後の仕上げに入ろうとしていた。
『ここまでよくぞ耐え抜いた。もう苦しむ事は無い。恐怖の記憶も、明日への不安も、全て忘れるといい』
労うような言葉とは裏腹に、その声には一切の温もりが感じられなかった。苦痛から解放するというのなら、なぜそんなにも平然としていられるのか。
恐怖の記憶も、明日への不安も、全て忘れろ。
それは二人にとって、救いの言葉などではなかった。これまでの苦しみだけでなく、自分達が自分達であるための何かまで奪い去ろうとしている。真由には、そんな風に感じられたのかもしれない。
プロフェッサーが手に持つ杖を奈央の額に当てようとした、その時──。
『真由!!』
一瞬の隙をつき、奈央が真由へと手をかざした。
その瞬間、真由の輪郭が薄れていく。
超能力の一つ、テレポーテーション。奈央は、真由だけでも逃がそうとしたのだ。
姉が何をしようとしているのか、真由はすぐには理解できなかった。けれど、目の前で奈央の手が伸ばされた瞬間、自分の身体がどこか遠くへ引き離されていくのを感じた。
これまで、どんな苦痛の中でも自分を励まし続けてくれた姉。その姉が今、自分を逃がそうとしている。それが意味することを、真由は理解してしまった。
『お姉ちゃん!』
『真由……貴方は、生きて──』
『お姉ちゃあああん!!!!』
最後に見た姉の姿。
伸ばされた手。自分を案じる声。そして、言葉の途中で遠ざかっていく、その姿。
それが、真由の記憶に残された奈央との別れだった。
*
「お姉ちゃんは、自分を犠牲にして私を逃がしてくれた。最後の瞬間の、安堵と悲しみが混ざった様なお姉ちゃんの顔が、今も頭に焼き付いてる」
真由は静かに語った。
その声は、先ほどまでの弱々しさとは少し違っていた。言葉を口にするたび、胸の奥にしまい込んでいた記憶を一つずつ確かめているようだった。
忘れられるはずがない。
自分を逃がすために、姉はその場に残った。恐怖に怯える自分を励まし続け、最後の最後まで守ろうとしてくれた。
あの時、奈央がどんな気持ちだったのか。真由には、今でも完全には分からない。ただ、最後に見た姉の顔だけは、何年経とうと脳裏から消えてくれなかった。
妹を逃がせたことへの安堵。そして、自分は一緒に行けないという悲しみ。あの瞬間、奈央は一体どれほどの思いを抱えていたのだろう。
「真由……ゴメン。嫌なこと思い出させてしまって」
志遠は申し訳なさそうに謝った。
自分が尋ねたことで、真由に辛い記憶を思い出させてしまった。彼女が今までどんな思いで戦い続けてきたのか、その一端を知ったからこそ、軽々しく問いかけてしまったことが悔やまれた。
だが、真由は首を横に振った。
「気にしなくても良いよ。そもそも、忘れた事なんて一日たりとも無かったから」
その瞳には、決意が籠もっていた。
過去を振り返ることが辛くないはずはない。それでも真由は、決して目を逸らそうとはしなかった。
姉のことを忘れた日は、一日たりともない。
だからこそ、ここまで戦い続けてきたのだろう。どれほど危険な目に遭おうとも、どれほど傷つこうとも、奈央を取り戻すという目的だけは手放さなかった。
志遠は改めて、彼女が背負っているものの大きさを思い知るのだった。
「私は、絶対にお姉ちゃんを助ける。絶対に」
真由は、迷いなくそう言い切った。その言葉に、志遠は何も返せなかった。
姉を助けたい。その思いだけを支えに、真由はこれまで戦い続けてきたのだ。彼女の決意がどれほど強いものなのか、今の志遠には痛いほど伝わってくる。
だからこそ、思い悩んでしまう。自分は一体、真由の為に何が出来るのか。
先ほどの戦いでは、彼女を助けるどころか、足手まといになってしまった。自分に出来たことといえば、無謀な賭けに出て、何とか二人で逃げ延びたことくらいだ。
それでも、真由の隣にいる以上、何か力になりたいと思う。だが、そもそも自分は真由の隣に立っても良い人間なのか?
彼女は自分を救ってくれたヒーローだ。暗闇の中にいた自分へ光を差し伸べてくれた、かけがえのない存在。
そんな彼女に対して、自分は何を返せるのだろう。答えを与えてくれる者は、どこにもいない。
「ら、ら、ら、ら ら、ら、ら♪
ら、ら、ら、ら ら、ら、ら♪」
いつもより少し寂し気な声色で、真由が想い出の唄を口ずさむ。志遠は胸の内に渦巻く思いを抱えたまま、真由の背中を見つめることしか出来なかった。
*
「さてと、大分歩いたけどどうしようかな」
そう言って、真由は立ち止まった。ここまで、二人は逃避行を続けてきた。木々に身を隠しながら川沿いを進み、どうにか敵の追跡を振り切ろうとしていたのだ。
今回の敵は今までとは違う。明確に真由、そして目撃者である志遠を狙っている。こちらから仕掛けてきたこれまでとは、訳が違うのだ。人里に戻ったところで、安全が確保できる保証はない。むしろ、タートルドが追ってくる以上、一般人を巻き込む危険すらある。どこまで逃げても、追跡を振り切れなければ意味がない。
それならば、どうするべきか。
真由は周囲の様子を窺いながら、思考を巡らせた。結局の所、ここで決着をつけるしかない。そう結論づけた、その時だった。
「漸く見つけましたヨ、シルクモス」
聞き覚えのある声が、二人の前に響いた。前方の木陰から現れる巨影……追跡を続けていたタートルドが、ついに二人の前に現れたのだ。
真由は即座に身構えた。志遠もまた、息を呑む。
逃げ続ける時間は終わった。ここから先は、再び戦うしかない。
こう言う戦闘の無い、ただ移動するだけの回がある意味一番書くの難しいですね。いかにテンポを落とさないか、難しい。