階段を上がりきり、屋上の扉に手をかける。
ここが開いていること自体、少しだけ現実から外れた感じがした。場所によっては立ち入り禁止の空間。踏み込めば、日常の枠から一歩外に出るような感覚。
そしてこれから自分がしようとしていることもまた、日常の延長線にはない。
昨日の出来事を問いただす。
それはつまり、あの“異形”に触れるということだった。
扉を開けた瞬間、風とともに声が流れ込んでくる。
「*1ら、ら、ら、ら ら、ら、ら♪
ら、ら、ら、ら ら、ら、ら♪」
柔らかく、どこか儚い旋律。だがその奥に、ほんのわずかな温もりが混じっている。
声の主はすぐに見つかった。
フェンスに背を預け、地面に座り込む少女。姫山真由はそこに居た。
志遠は立ち止まる。声をかけるべきか、一瞬迷った。彼女にとっては触れてほしくない話かもしれない。それでも――
「……しっかりしろ俺。何も知らないままなのが嫌だから、姫山さんに会いに来たんだろ」
小さく呟き、自分を奮い立たせる。そして声を張った。
彼女は丁度歌を終え、購買のフルーツサンドを口に含む最中だった。
「あのっ! 姫山さん!!」
「むぐっ!!?」
見事なタイミングで、彼女はサンドイッチを喉に詰まらせた。
ジタバタと手足を動かす様子は、先ほどの歌声とは別人のように慌ただしい。
「え!? ご、ごめん!」
「んーーっ!んーーっ!!」
必死に指差された先にはパックココア。志遠は慌ててそれを手渡す。彼女は奪い取るようにそれを受け取り、一気に吸い込んだ。
「けほっ!
……こんにちわ、何か私に御用ですか?」
何事もなかったかのように、落ち着いた笑顔を真由は向けた。清々しいまでの営業スマイルだ。
先程のアクシデント等何も無かったと言わんばかりの切り替えの速さに、志遠は思わず面食らう。
「えと……先日は、助けてくれてありがとう」
「──何の話でしょうか? 私、君とは初対面の筈ですが」
「生徒会長から庇ったじゃん。ってそうじゃなくて……蜘蛛の化け物から俺を助けてくれたでしょ? その、何か凄い姿に変わって」
志遠が具体的な単語に踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
真由はため息を一つつき、立ち上がる。鋭い視線が志遠を射抜いた。
「君は知らなくて良いことだよ。ありがとうと思うなら、これ以上関わらないで」
距離を詰めてくるその圧に、志遠は言葉を失う。
「あ、えーっと」
「もう一つ。私の事、誰にも言わないで」
吐息を感じる程に急接近し念を押す真由。
それだけ言い終えると、彼女はそのまま立ち去ろうとする。
だが志遠は、食い下がった。
「一つだけ教えてよ! あの蜘蛛みたいな奴は何なんだ!?」
「……あれは、《トルドボーグ》」
「トルド、ボーグ……?」
聞いたことのない単語だった。
「あいつらはある組織に勧誘されて、自ら志願して異形の力と姿を得たサイボーグ人間だよ」
「志願だって!? 何の為に」
「力が欲しいから。世界に虚しさを感じたり、自分の欲望を満たしたい人達がいるんだよ……人である事を捨ててまでして、望みを叶えるためにね」
志遠の中で、嫌悪が芽生える。
理解できない。いや、したくない。自らの欲望の為に力を得、その過程で罪の無い人間の命を奪う。そんな奴らは人間なんかじゃなくて──。
「──化け物、じゃないか」
「そう。トルドボーグは、与えられた力を自らの欲望のままに振るう、人の心を捨てた化け物。人知れず人間のフリをして、社会に紛れ込んでる」
淡々と告げる真由の声に、感情は薄い。
そして。
「……私も、そんな化け物の一体だよ。君が見た通り」
その一言だけを残して、彼女は去っていった。
志遠は動けなかった。その言葉の重さが、胸に沈む。
「なんだよ、それ」
理解できない。納得できない。
自分を助けた彼女が、自分にありがとうと言ってくれた彼女が《同じ》だなんて。
「人殺しの化け物と、一緒な訳無いだろ……!」
気付けば走り出していた。
*
階段を駆け下りる。
今ならまだ間に合うはずだった。
「姫山さ──」
だが、その先で目にしたのは望んだ光景ではなかった。
「捕まえたぞ姫山!」
生徒会長の足立に腕を掴まれ、拘束されている真由。
その表情には、明確な苛立ちが浮かんでいた。
──最悪。そんな言葉が聴こえてきそうだった。
「姫山お前、学園祭の準備に参加せず帰宅しているらしいな!」
「すいません。参加したいのは山々なんですが、私忙しくて?」
「忙しい? 学校を疎かにしてまでしてやる事があるのか、何だ。言ってみろ!」
最悪だ、と志遠は思った。あの
そして――その光景は、彼の過去の記憶を呼び起こした。
囲まれる誰か。見ているだけだった自分。
夕焼け。机。花。
「……あの、生徒会長!」
身体が勝手に動いていた。
声に驚き、足立の手がわずかに緩む。その瞬間を逃さず、真由は振りほどいて走り去った。
「おい姫山! ……何だお前は!!」
「あ、えっと、秋の学園祭出し物について禁止事項とか聴いてきてって言われたんですけど……もしかして、邪魔でした?」
「…………お前な!! 相手の状況を見て話しかけろ!!」
怒鳴りつけられながらも、志遠はどこか安堵していた。足立はそのまま真由を追って去っていく。
静寂が戻る。
「はあ……またやっちまった」
ため息が漏れる。
だが、それでも――見過ごすよりは、よかったと思ってしまう自分がいた。志遠はそのまま教室へと戻っていった。
*
「おかえり。で、どうだったよ」
「フラれた」
「oh...まあ元気出せよ阿武川」
そんな軽口を挟みながら、いつもの日常が何事もなかったかのように続いていった。
*
夕暮れの空気は、どこか湿り気を帯び始めていた。まだ本格的な夏には早いはずなのに、草むらの奥では気の早い虫たちが鳴き始めている。季節の境目に立っているような、曖昧で落ち着かない時間帯だった。
志遠はそんな道を、一人歩いていた。足取りは一定だが、思考は定まらない。頭の中で、同じ問いが何度も巡っていた。
トルドボーグの存在は知った。では、その先は?
関わるのか。それとも、知らないままの日常に戻るのか。
答えは、分かっている。後者の方がずっと安全で、ずっと平穏だ。何も知らなければ、危険に踏み込む必要もない。普通の学生として、普通の毎日を過ごしていける。
――それでも。
「……姫山さんは、どうするんだろう」
ぽつりと零れた疑問は、消えずに胸に残った。
彼女はなぜ戦っているのか。命を落としかねない危険に、自ら踏み込んでいる理由は何なのか。
理解できない。だが、理解しないままでいいとも思えなかった。
「あれ?」
視線の先に、見覚えのある姿を見つける。道路脇の茂みに身を屈め、何かをじっと見つめている少女――姫山真由だった。
その視線の先には、小さな個人病院がある。
志遠は少しだけ迷い、やがて声をかけた。
「あ、あの、姫山さん……」
反応は素早かった。真由は振り返るなり、慌てて手を下へと動かす。
『しゃ・が・ん・で!』。
言葉にせずとも伝わる指示に、志遠は頷くようにして身を低くし、茂みの中へと滑り込んだ。
「何しに来たの!?」
「いやその、たまたま見かけたから……昼間はゴメン」
「……生徒会長の件は、お礼とか言わないから。って言うか、君のせいでああなったんだからね?」
「分かってるよ。それで、何してるの?」
問いかけに、真由は顎で前方を示す。
その表情は、昼間とは打って変わって鋭い。獲物を狙う獣のように、神経が張り詰めている。
志遠もそちらを見る。病院の前で、男女が言い争っていた。
「先生、どうしてあの人は亡くなったんですか! 先生はもう大丈夫だって言ったじゃないですか!!」
「──御主人の事は、残念でした。では、私はオペがあるのでこれで」
取り乱す女性に対し、医者は淡々と応じる。その声音に、感情の揺らぎはほとんどない。
志遠の胸に、嫌悪が滲む。
「何だよアイツ、人が亡くなって悲しんでるのにどうでもいいのかよ……うん?」
その時、女性の足元から小さな影が飛び出した。
男の子だった。涙を零しながら、病院の外へと駆け出していく。止まる様子はない。まっすぐこちらへ向かってくる。
真由が立ち上がり、その子を受け止めた。
「どうしたの? 道路を走ると危ないよ」
「パパがお医者さんのせいで死んじゃったあああ!!」
幼い声が、空気を震わせる。あまりにも直接的な悲しみだった。端から見れば、理不尽な悲劇に元凶を見出したい幼子の癇癪。
だが真由は、その言葉を聞いた瞬間、目の色を変えた。
「──泣いちゃだめ」
「……ふえ?」
「君が泣いたままだと、きっとパパは安心出来ない。今すぐじゃ無くて良い、これからは君が、ママを護ってあげて」
両肩を掴み、真っ直ぐに言葉を伝える。
その表情は優しいはずなのに、どこか痛みを抱えているようにも見えた。
「君の悔しさは、私が持っていくから」
不思議と、子供は泣き止んだ。小さく頷き、駆け寄ってきた母親の元へと戻っていく。その背中を見送りながら、志遠は息を呑んだ。
「姫山さん、まさかあの子の父親は」
「……この病院で手術を受けた患者が、一週間後に不可解な死を遂げる事件が頻発してるって噂になってたの」
「じゃあやっぱり」
「さっきの医者を見てハッキリした。アイツが、トルドボーグだよ」
握りしめられた拳が、小さく震えている。怒りか、それとも――別の感情か。志遠には、まだ分からなかった。
ソ↓ラ↑ド↓♪の繰り返し。少しずつ音が変わる。