あべこべ逆転異世界で孤児院の頼れるお兄ちゃんになるため奮闘する 作:あに
お風呂上がり。
一つしかないタオルでエリスちゃんの髪を拭く。
あんまり時間をかけると身体が冷えちゃうけど、長い髪は水気に覆われていて、落とすには時間がかかりそうだ。
ということで雑談でも交えながら、わしゃわしゃしていると、不意に彼女の身体のある部分が目に入る。
「あれ、エリスちゃん。
その腕どうしたの?」
お風呂の中では湯船に浸かってたから気づかなかったが、よくよく見ると、彼女の右腕には何か痕のようなものがついていた。
……んーと、たぶん擦り傷? かな。
あんまり深い傷ではなさそうだけど、白い肌は赤く腫れあがって痛そうだ。
「……あぁ、これですか。
べつになんでもないです。ちょっとドジしただけなので」
僕の言葉を聞いたエリスちゃんは、傷口に軽く手を当てながら語る。
「いや、なんでもないってことはないでしょ。
……えと、どこかに引っ掻いちゃった?」
エリスちゃんはしっかりしている子だ。
他のお転婆な子たちならまだ分かるが、彼女が怪我をするとなったら相応の理由があるんじゃないだろうか。
そう思って、僕は彼女に問いかける。
「ちょっと階段で転んじゃっただけです。
恥ずかしかったんで、内緒にしたかったんですが」
彼女は少しはにかむ態度を見せながら、僕に言う。
顔は見えないけど、声色でなんとなく聞かれたくないことだったんだろうと分かった。
「もしかして、二階のとこ?」
「えぇ、まぁ」
……そうか、やっぱあそこか。
二階に続く階段は老朽化が酷い。
足元は滑りやすいし、そもそもの構造の問題もあったりしてつまずいてしまうことも多いのだ。
「腕、借りるよ。
エリスちゃん」
「え、はい」
彼女の手を取る。
傷はまだできて新しい。
……これなら、僕の魔法でなんとかなるだろう。
「ヒーリング」
傷口へと、ゆっくりと口を近づけ、詠唱する。
唇が肌に触れて、一瞬彼女が身体を揺れるのを感じた。
放ったのは治癒魔法の呪文。
だけど、実際に使う魔法はそうじゃない。
――肩代わりの魔法。
他者の傷を自らに移すための魔法だ。
身体の中、ずきりとした感触が胸を刺す。
この魔法の良いところは外見上は治癒魔法と変わらないことだ。
だから、詠唱さえ工夫すれば誰も気づきようがない。
……それに、治癒魔法が使えない僕でも使える。
この魔法は僕の試行錯誤の結果、なんとか生み出した粗悪な魔法だ。
人を傷つける魔法は簡単に使えたのに、本当に使いたい魔法はいくら練習しても使えなかった。
まったく、損な身体だ。
「はい、これで大丈夫。
ふふふ、お兄ちゃんは治癒魔法の達人なんだよ。
また何かあったら言ってね」
「……別に大丈夫ですよ。このくらい」
「そんなことないよ。
女の子なんだから、身体には気をつけないと」
傷がなくなったことを確認してから、僕はもう一度タオルを手に持つ。
「んっ、私はもういいです」
「あ、そう?」
エリスちゃんはそう言うと、今度は交代と言わんばかりにタオルを掴んだ。
そのまま彼女に身を任せると、向かい合った僕を抱擁するように、エリスちゃんの手が僕の髪に溶ける。
軽く火照った彼女の肌が鼻先にくっついて、柔らかい感触が頬に触れだす。
……できれば背を向けてやってほしいんだけどな。
あんまり前を直視するのは良くない。
というか、少しは恥じらいを持って欲しいと、兄として切実に思う。
そんなことを考えながら、目を瞑る。
彼女の好意をふいにする気はないし、僕の髪の長さなら水気が落ちるのも早いだろう。
「――ねぇ、エリスちゃん」
「なんですか、兄さん」
……だから、彼女の顔が見れない今のうちに。
伝えないといけないことがある、
「あのね。もしこれから先ね。
僕がちょっとだけ、いなくなっちゃうことがあるかもしれないんだ」
アリスちゃんの家に働きに行くこと。
さっきのエリスちゃんの怪我を見て、決意は固まった。
お金が必要だ。
少なくとも、子どもたちが危険な目に遭わないようになるまで。
「……」
エリスちゃんは僕の言葉を聞いて黙っている。
当然の反応なのかもしれない。
だけど、ここで引いては駄目だ。
「だから、そのときはみんなのことを頼んでいいかな」
「……嫌です」
まるで喉奥から絞り出すような声が、頭の上から聞こえる。
先ほどまで、髪を揺らしていた彼女の手は動いていない。
それに気づいた僕はゆっくりと顔を上に向けていく。
「エリスちゃんにしか頼めないんだ。
できれば、引き受けて欲しい」
そう言って、エリスちゃんの肩に手を置く。
……やっぱり、大きくなったものだ。
初めて会ったときは、僕の腰ほどの身長しかなかったというのに。
彼女の言葉を待つ。
顔を見るのは、怖くてできない。
……それはきっと、僕が弱いからなんだろう。
「――ちょっとだけ、なんですよね?」
でも、エリスちゃんは僕よりもずっと強い子だ。
「約束してください。
ちゃんと、戻ってくるって」
「もちろん。絶対帰ってくるよ。
僕が嘘をついたことなんてないでしょ」
そう言い放った後、彼女の身体を手繰り寄せて、ゆっくりと背中に手を回す。
こうやって、くっつくのも、しばらくはできないだろう。
だから、せめてお兄ちゃんとして、その責務を今のうちに果たさないといけない。
お兄ちゃん、か。
「よし、僕が帰ってくるまで、お兄ちゃんの称号はエリスちゃんに譲ってあげよう」
僕は抱きしめた彼女の耳の側でそっと、語りかける。
「いいです、そんなの。
あんまりかっこよくないし」
「……えーっ? そうかなぁ。
ま、エリスちゃんは女の子だからお姉ちゃんだね」
僕としては真剣なことなんだけど、エリスちゃんは冗談として受け取ったようだ。むー。
でも、エリスちゃんの声は先ほどよりも、少し明るくなっている気がする。
……やっぱり、強い子なのだ。この子は。
そう思ったとき、僕の背中にぎゅっと力強い感触が襲った。
「……ぜったい、浮気とかしちゃ駄目ですよ。
兄さんは、私だけの兄さんなんですから」
「ん、分かってるよ」
たとえ、しばらく会えないとしても僕が彼女たちとお兄ちゃんであることは変わらない。
……きっと、何年も会えてないあの子も僕のことをお兄ちゃんだって思ってくれてるだろうから。
僕はゆっくりとエリスちゃんの頬に顔を近づける。
お祈りのときでもない限り、こういうことはしない。でも、今はいいだろう。
彼女の柔らかい頬に唇をつける。
一瞬だけだけど、でも感情の昂りを呼び起こすその行為は嫌いじゃない。
「……お兄ちゃん」
そのとき、僕の耳元に声がした。
甘い声だ。
普段の彼女からはまるで想像できない、幼くて溶けた声。
「――どこにもいかないでよ、お兄ちゃん」
きっと、これが彼女の本心なんだろう。
僕はそんな彼女の頭を撫でながら、もう一度、今度は額へと口付けを落とした。
「失礼します」
「――あらっ、レイトさんっ。
どうしたんですか、こんな夜中に」
お風呂を出た僕は、子どもたちを寝かしつけてから執務室に入る。
すると、そこにはアリアさんがいた。
ニコニコとした笑みを浮かべながら、こちらに歩み寄ってくるアリアさん。
彼女の手元には昼間、僕が見ていた帳簿が置いてある。
しまったはずのそれが机の上にあるということは彼女が取り出したんだろう。
きっと、僕と同じようなことを考えて。
……やっぱ、お金が足りないんだな。
「アリアさん。
一つ、ご相談があるんですが」
「なんですか?
ふふっ、レイトさんのお願いなら何でも聞いちゃいますよ」
そうして、僕は彼女に言葉を告げる。
「――しばらくの間、貴族さんのとこで働いてきてもいいですか?」
「……え?」