FPSのUIが現実に見える俺が、いつの間にか殺し屋になるまで   作:鳥獣跋扈

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第30話 悪だくみ

「計画はどうなってる」

 

 低く押し殺した声が、薄汚れた一室の空気を揺らした。

 

 言葉を発したのは、スーツを寸分の隙もなく着こなした男だった。

 ダークグレーの上質な生地。皺ひとつないシャツ。磨き抜かれた革靴は、場違いなほど艶を放っている。洒落たバーの片隅で、琥珀色の酒でも傾けている姿が似合う男だ。

 

 だが、彼が今立っているのは、そんな洗練とは対極の場所だった。

 

 薄汚れたアパートメントの一室。

 壁紙はところどころ剥がれ、天井には茶色い染みが広がっている。碌に掃除もされていないのだろう。床には乾いた泥だけではなく、飲料と油の零れた跡がべたついており、靴底へぬるりと貼りついてくる。壁は煙草のヤニで黄ばんでいて、窓辺にかかった安っぽいカーテンも、元の色が分からないくらいくすんでいた。

 

 室内に満ちているのは、安酒と安煙草と、人の汗のこもった匂いだ。

 そこへ、長く換気されていない部屋特有の湿っぽい臭気が混じる。鼻の奥へまとわりつくような、不快で、しかしこの辺りでは日常なのだろうと分かる空気だった。

 

 その空気の中心に、男がいた。

 

 スプリングの壊れた合皮のソファへ、だらしなく体を沈めている。

 虚ろな目を向けながら、質問してきたスーツの男へ、ぐるりと視線だけを寄こした。

 

「……ああ、心配すんなよ」

 

 掠れた声。

 片手に持ったビール瓶を口へ運ぶと、そのまま勢いよく呷る。中に残っていた液体が喉を鳴らしながら消えていく。口の端からこぼれた分は、無精ひげの交じる顎を伝い、首筋へ流れた。

 

「ちゃあんと、準備してるさ」

 

 空になった瓶を持ち上げ、最後の一滴でも舐めるように口へ傾ける。だが当然、もう何も出てこない。男は舌打ちするように鼻を鳴らし、諦めて床へ瓶を置いた。

 

 げふう、と。

 実に下品な音を口から吐き出す。

 そのまま袖で無造作に口元を拭った。

 

 着ているシャツは、汗と何かよく分からない液体で黄ばんでいた。何日着続けているのかも分からない。酸味を帯びた嫌な臭いが、そこからむわりと立ち上る。男はちっ、と舌を鳴らし、床へ唾を吐いた。べちゃり、と濁った液体がさらに床を汚す。

 

「おい! こっちは金を払って――!」

 

 スーツの男が、あまりの態度に声を荒げかける。

 だが、その言葉は途中でぴたりと止まった。

 ソファの男が、ぎろり、と見上げてきたからだ。

 

 だらしない体勢。

 汚い服。

 アルコールと汗と脂にまみれた見た目。

 

 そのくせ、目だけが異様に鋭かった。

 場数を踏んだ獣みたいな、肌を裂くような視線。

 

 スーツの男は思わず半歩、ほんのわずかだが確かに後ずさった。

 

「契約じゃあ、やり方はコッチの自由のはずだぜ」

 

 見上げるように。

 だが、睨みつけるように。

 口の端だけを歪めた半笑いで、ソファの男は言った。

 

 その声は、酔い潰れた風体に似つかわしくないほど低く、響いた。

 

「……なら、良いがな」

 

 スーツの男は、喉の奥でごくりと唾を飲み込んだ。

 冷や汗と脂汗で、背中のシャツが貼り付く感覚を嫌でも自覚している。辛うじて虚勢を張るように言葉を返したが、その声がわずかに震えていたことに、果たして本人は気づいていただろうか。

 

「ともかく、金は払ってるんだ。頼んだぞ」

 

 吐き捨てるようにそう言うと、彼は踵を返した。

 

 乱暴にドアを開け、そのまま振り返ることなく部屋を出ていく。

 建付けの悪い廊下は、薄い敷物が敷かれているにもかかわらず、ぎしぎしと床板を鳴らした。足音は徐々に遠ざかり、やがて何も聞こえなくなる。

 

 後に残ったのは、隣室かどこかでクスリでも決めているのか、頭のいかれた住人のうめき声。

 それと、外の通りから聞こえてくる酔っ払いの嬌声くらいのものだった。

 

 部屋に残った男は、しばらくぼうっとしたまま天井の染みでも見ていた。

 だが、やがてのそりと立ち上がる。

 

 足元がおぼつかないのか、よろけてローテーブルへ手をつく。

 その拍子に、テーブルへ散乱していた灰皿や空き瓶、食べかけの皿ががしゃりと揺れ、耳障りな音を立てた。

 

 男は一顧だにしない。

 

 そのままキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。

 中に入っているのは、先ほどまで飲んでいたのと同じ安ビールが数本だけ。ひどく寂しい中身だった。

 

 一本を取り出す。

 一瞬だけ栓抜きを探すように辺りへ視線を巡らせたが、すぐに諦めた。

 

 そのまま瓶の王冠を歯へ当て、ぐい、と力を込める。

 ぺき、と嫌な音。

 王冠が浮き、男はぺっとそれを吐き捨てる。

 

 そして一口、喉へ流し込んだ。

 

「……っへ。ったく」

 

 男は口の端を吊り上げるように悪態をつく。

 

「口ばっかり出してきやがって」

 

 ビールをぶら下げたままソファへ戻り、どかりと勢いをつけて座り込む。

 スプリングがぎしりと悲鳴を上げた。

 

 しばし、外の喧騒と、男が酒を飲み下す喉の音だけが部屋を満たした。

 

 

 

 ギシ、ギシ。

 

 廊下から別の足音が聞こえてきた。

 

 先ほどのスーツの男とは違う。

 もっと重く、もっと床へ沈み込むような足音だった。

 

 足音は部屋の前で止まり、断りもなくドアが開く。

 

「おう、兄貴。背広野郎は帰ったのかい」

 

 そこへ立っていたのは、巨漢の男だった。

 

 短く刈り込んだ金髪。顔には無数の傷。

 その顔がやけに小さく見えるほど、体躯が大きい。

 

 背が高いだけじゃない。横幅もある。

 ジャケットの下からでも分かる分厚い胸板は、贅肉ではなく筋肉でできているらしい。ドアをくぐる姿は、まるで人間というより大型の獣が狭い檻へ押し込まれてくるみたいだった。

 

「ああ。さっきな」

 

 兄貴と呼ばれた男は、視線だけ寄こして気だるげに答える。

 

 巨漢の男はそれへ頷くと、どすどすとキッチンへ向かっていく。

 戻ってきた時、その手にはビール瓶が二本握られていた。その大きな手の中では、普通サイズの瓶がまるでミニボトルみたいに見える。

 

 男は部屋の隅に追いやられていた一人掛け用のソファを引きずってきて、兄貴と呼ばれた男の向かいへ置いた。

 どかり、とそこへ腰を下ろす。

 

 向かい合う形になった二人は、どちらからともなく瓶を掲げ、間に挟まれたテーブルの上でちん、と鳴らした。

 

 巨漢の男は一本をテーブルへ置き、もう一本の瓶の首へ手をかける。

 ぐい、と捻ると、ビキ、と乾いた嫌な音がした。

 瓶の首が、王冠ごとねじ切れたのだ。

 

 吹き出した泡と中身が男の手首から腕へ伝い落ちる。巨漢はそれを舌でぺろりと舐め取り、適当なところで口をつけた。ごく、ごく、と喉を鳴らし一息で飲み干すと、空いた瓶を、叩きつけるようにテーブルへ置く。

 

 すぐさまもう一本へ手を伸ばす。

 こちらも同じように首をねじ切り、今度は一息では飲み切らず、半分ほどで止めた。

 

「で、数は揃ったのか」

 

 巨漢がひと息ついたところを見計らって、男が聞いた。

 

「……げふう。ああ」

 

 巨漢は下品に空気を吐きながら頷いた。

 

「得物はマチマチだけどな。数だけはそれなりだ」

 

 口元を歪める。

 

「くすぶってる連中がそれなりにいたからな。ちょいと金をちらつかせりゃ、ころりよ」

 

 指先を擦り合わせながら、巨漢は下品そうに笑った。

 金に困ったゴロツキ、落ちぶれた半端者、前科者、日銭に飢えた連中。そんな顔が何人も思い浮かんでいるのだろう。

 

「兄貴の方はどうだい?」

 

 今度は逆に尋ね返す。

 

「目星の方は」

 

「ああ。一通りな」

 

 男はソファの脇へ置いていた小汚い書類鞄を引き寄せた。

 散乱していた皿や空き瓶を乱暴に端へ寄せ、辛うじてテーブルの真ん中へ空間を作る。

 

 そこへ中身を広げた。

 

 ばさり、と広がる写真。

 何枚かの紙の資料。

 

「コイツが、今回の対象だ」

 

 男は、写真の一枚へ指を置いた。

 そして、口元をねじ曲げるように笑う。

 

「だが、それだけじゃ旨味が少ない」

 

 指先で、こつ、こつ、と写真を叩く。

 

「最大限、利用させてもらうぜ」

 

 その笑みは、金の匂いを嗅ぎつけた獣のものだった。

 品も理性もない、ただただ下卑た欲だけが滲んだ嗤い。

 

 テーブルへ広がった写真の中。

 その指先の先で、眼鏡をかけたおさげの少女がこちらを見返していた。

 

 オクタヴィア・ペンブルック。

 

 柔らかく、人の良さそうな顔立ち。

 その写真を前に、薄汚れた部屋の中で、二人の男は獲物を値踏みするように目を細めていた。

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