FPSのUIが現実に見える俺が、いつの間にか殺し屋になるまで   作:鳥獣跋扈

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第34話 古アパートで踊る影

 黒塗りのSUVが二台、道端へ連なって止まっている。

 街灯の光を鈍く返すその車体は、周囲の古びた煉瓦壁や石畳の道とまるで馴染んでいなかった。

 

 エンジン音はしない。

 排気の揺れもない。

 車体の沈み込みや動きの無さから、恐らく中は空だろう。

 

 垣根と闇に遮られ、裏手へ回った連中の姿は直接にはもう見えないが、視界の端に浮かぶミニマップの中で、赤い点がゆっくりと動いている。

 アパートの側面に沿うように、慎重に。探るように。

 それが三人分。

 

 正面に向かった三人は、一人を残して慎重にドアを開けて中へと入って行った。

 幸いと言っていいのか、住人とかち合った様子はない。

 古いアパートだ。誰かが酔って帰ってきたり、夜勤明けの人間がふらついて出てきたりしてもおかしくはないが、今のところは静かなものだった。

 

 残った一人は、車の番をするつもりなのだろう。

 後ろ側のSUVの脇に立ち、運転席のドアへ背を預けている。警戒しているようで、その実、まだどこか余裕を感じる。自分たちが狩る側だと信じて疑っていない慢心だ。

 

 マチルダの居場所が正確に割れているかはまだ分からないが、急ぐに越したことはない。

 

 確か、このアパートの裏手には非常階段があったはずだ。

 裏に回った連中は、そこを使って上へ抜ける可能性が高いな。

 

 順にやっていけばいい。

 なに、難しい話じゃない。

 

 肺の底に残っていた空気を、ふう、と細く吐き出す。

 同時に、頭の中でいくつか重なっていた雑音がすっと引いた。

 

 意識が切り替わる。

 

 視界の中に浮かぶUIが、先ほどより輪郭を強める。

 ミニマップ。マーキングされた敵。味方の位置。薄く広がる視界範囲。

 頭の中の思考が冷えるわけじゃない。むしろ逆だ。熱を持ったまま、必要なところだけが鋭く研ぎ澄まされていく。

 

 まるでゲームの中で、自分の手でキャラクターを動かしているような感覚。

 いや、違うな。

 ゲームの向こう側にいるんじゃない。今は、俺自身が盤面の上に立っている。

 

 夜気が頬を撫でる。

 遠くで、どこかの家の窓が閉まる音。

 木々の葉が、乾いた風に擦れ合ってさわさわと鳴る。

 誰もが、今日という一日を終えようとしている時間だ。

 

 そんな中で、俺はこれから始める。

 するりと、街灯の作る影から影へと滑るように足を運んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドアの冷たさを背中で感じながら、男は小さく舌打ちした。

 

 夜風は、思っていたより冷たかった。

 昼間は穏やかで、田舎の静かな街だったが、陽が落ちると空気は一気に冷え込んできた。石造りの建物と煉瓦壁に冷やされた風が、通りの隙間を抜けて首筋を撫でていく。シャツの内側にまで忍び込むような冷たさだった。

 

 男は上着の前を指でつまみ、少しだけ胸元を閉じる。

 それから、ジャケットの内ポケットへ手を差し入れた。

 

 取り出したのは、擦り切れた煙草の箱と、安物のライター。

 箱の中には、最近値上がりして本数を減らさざるを得なくなった愛飲の銘柄が、あと数本だけ残っている。一本を口へ咥え、男は肩を丸めた。

 

 左手で風よけの囲いを作る。

 右手の親指で、ライターを鳴らした。

 

 ちっ。

 ちっ。

 

 乾いた金属音と、頼りない火花だけが虚しく散った。

 炎は立たない。

 

「クソが……」

 

 吐き捨てるようにそう呟き、男はライターを振る。

 オイル切れか、石が死んでいるのか。どちらでもいい。だが、こういう時に限って使えなくなるのが腹立たしかった。苛立ち交じりにもう一度親指を滑らせようとした、その時だった。

 

「火は要りますか?」

 

 すぐ横から、落ち着いた声がした。

 

 するり、と。

 あまりにも自然体で耳に入ってきたその一言に、男の思考は一瞬だけ空白になる。

 だが次の瞬間、今の自分が置かれている状況を思い出し、反射的に顔をそちらへ向けた。

 

 暗がりの中に、一人の男が立っている。

 

 見知らぬ顔――のはずだった。

 だが、どこかで見た気もする。記憶の端に引っかかる程度の、曖昧な既視感。威圧感はない。そこらにいる平凡な人間、そういう風体だった。

 

 右手には、鈍く光るオイルライター。

 

 何を――と、問いただすより先だった。

 

 差し出された手が、あまりにも自然な動きで近づく。

 かちり、と、ライターの底が開く。

 

 キラリ、と何かが闇の中で光った。

 次の瞬間、細い鋼線が一閃する。

 

 男は何が起きたのか理解するより先に、喉へ食い込む硬質な感触に目を見開いた。

 息を吸おうとしても吸えない。声を出そうとしても空気が引っかかり、喉の奥で詰まるだけだった。口に咥えていた煙草が、ぽとりと足元に落ちる。

 

 ぎり、ぎりぎり、と。

 音というより、痛覚そのものが頭蓋の内側へ響くようだった。

 

 爪を立てて鋼線を引きはがそうとする。

 だが、爪先一つ差し込めない。細いはずの線が、まるで鉄の輪みたいに首へ食い込んでいる。

 

 視界が滲む。

 涙がにじみ、濁った目で正面の男を睨みつけた。

 

 そこには、何の色もない。

 ただただ感情の起伏が薄い顔があるだけだった。

 

 男は首から線を外すことを諦め、相手へ手を伸ばした。

 せめて一撃。服の襟元でも掴んで引き寄せてやろうとしたが、その腕が届くより先に、相手はするりと後ろへ回り込む。

 そして、そのまま背負うような形で後方へ引いた。

 

 自分の体重が、そのまま首へとのしかかる。

 口元から泡が漏れた。つま先がアスファルトを擦り、革靴の先が空しく地面を掻く。

 

 呻くような音と、服の擦れる音だけが少しの間続いた。

 だが、それもすぐに止む。

 

 古いアパートの前には、また静けさだけが戻っていた。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 アパートの裏手には灯りらしい灯りがなかった。

 

 あるのは、住人の部屋から漏れる淡い光だけ。

 カーテンの隙間を通ったそれが、建物沿いのアスファルトへうっすらと筋を作っている。地面には砂と埃が積もり、普段から細かく掃除されている様子はない。

 

 非常階段の脇には、小さな物置のようなものがぽつんと建っていた。

 扉についた南京錠が、頼りなく揺れている。

 

 二階廊下の窓は、換気のためか少しだけ開いていた。

 古い建物特有の、湿った木と埃の匂いがそこから漏れ出している。

 

 男は非常階段を上がっていく二人を見上げた。

 錆びた鉄製の階段は、いくら慎重に足を置いても、小さくぎしぎしと音を鳴らす。時折、上から細かな錆の破片が落ちてきて、アスファルトへ乾いた音を立てた。

 

 自分の役目は、ここでの待機だ。

 

 対象が万が一、逃げてきた時の挟み込み。

 表から住人が出てきた時の誤魔化し役。

 表立って銃を構えはしないが、いつでも抜けるよう心構えだけはしておく。

 

 その時だった。

 

 アスファルトの向こうで、ちりん、と小さな金属音がした。

 男の眉が寄る。

 

 こんな時間に一体何だ。小動物か何かか。

 いや、にしては音が妙だった。軽すぎる。そして、確かに人工物の響きがある。

 

 男は腰を落とし、すでに銃を抜いていた。

 慎重に、半歩ずつ音のした方へ近づく。銃口を向けたまま、目を細める。

 

 窓から漏れる光の中、きらりと小さく光るものが見えた。

 コインか何かのようだった。

 

 さらに半歩。

 男が踏み出そうとした、その瞬間。

 

 背後に、ごく軽い衝撃。

 ぞくり、と背筋が粟立つ。

 

 次の瞬間には、蛇が巻き付くみたいにするりと首へ腕が回っていた。

 気道が塞がれる。

 

 視界の端が、急速に白くなっていく。

 反射的に肘を後ろへ振る。だが、相手の体はぴたりと背に貼り付くようで、とらえどころがない。力が強いというより、位置が悪い。どこへ打てば抜けるのか、判断する前に締め上げる圧がさらに増した。

 

 喉が鳴らない。

 息が通らない。

 足に力が入らない。

 

 がくり、と膝から落ちる。

 

 男が最後に見たのは、黒い影が物置の上へ軽く手をかけ、そのまま音もなく二階の開いた窓からするりと中へ滑り込んでいくところだった。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 正面から侵入した二人は、慎重に、だが日常の範囲を逸脱しない程度には自然を装って、階段を上がっていた。

 

 折り返し型の古い階段は、廊下灯だけが頼りで、薄暗い室内はどこか不気味さを帯びる。

 共用廊下には住民のものらしき私物が雑多に置かれていた。観葉植物、使い古しの傘、今にも壊れそうな小棚、ラベルの剥がれた段ボール箱。整頓されているとは言い難いが、長く住んだ人間たちの生活感を感じる。

 

 対象の部屋は三階の奥。

 事前の調べでは、他にも住人はいる。だが数は少ない。しかもこの時間帯なら、買い物や仕事で外に出ている者も多い。鉢合わせの可能性は低いと踏んでいた。

 最近、妙な人間の出入りがあるという報告も上がっていたが、頻度は高くないとして捨て置いた。

 

 腰の得物を意識しながらも、あくまで、知人を訪ねてきた風を装える範囲に留める。

 

 階段は狭い。

 古い絨毯が敷かれてはいるものの、くたびれて薄くなり、色も褪せたそれは、申し訳程度に靴裏の衝撃を和らげているだけだった。

 

 一人目が二階の踊り場を過ぎる。

 二人目が、そのすぐ後ろへ続いた。

 

 そして、後ろの男が折り返して三階への階段へ足をかけた瞬間だった。

 

 暗がりから、何かが伸びてきた。

 

 視界がぶれる。

 首が、後ろへ強引に引かれる。

 

 細く、しかし頑丈なものが喉へ引っかかった。

 それが廊下に立てかけられていた傘の握りだと気づいた時には、もう遅い。

 

 喉が潰れたような音が漏れる。

 そのまま傘を喉に押し当てるようにして締め上げられ、ぐきり、と骨の嫌な音が鳴った。傘の柄と骨がねじれる音が、そのすぐ後に重なる。

 

 前を歩いていた男が、不審な物音に振り返る。

 その瞬間、ぱちん、と軽い音がして、廊下の灯りが落ちた。

 

 暗闇。

 

 完全な闇ではない。

 外から差し込む月明かりと街灯の弱い光が、輪郭だけをかろうじて浮かび上がらせる。だが、目の前の“何か”を見失うには十分だった。

 

「っ!? 何が――」

 

 男が銃を抜こうと手をやる。

 だが、それを抜き切るより早く、細く鋭いものが首の後ろへずぶりと深く入った。

 

 折れた傘の骨だった。

 細く、硬く、尖ったそれが、肉を裂いて突き刺さる。

 

 男の口がぱくぱくと何かを訴えるように開く。だが、音にはならない。膝から崩れ、廊下の壁へ前のめりにぶつかりながら、そのままずるずると滑るように倒れた。

 

 ちかちか、と廊下灯が戻る。

 

 そこには、二つの死体が転がっているだけだった。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 三階の非常階段の外。

 あまり使われた形跡のない扉の脇に、男が一人しゃがみ込んでいた。鍵穴へ工具を差し込み、その横ではもう一人が通りを見張るように立っている。

 足元に敷かれた古ぼけたマットは、雨と埃を吸って黒ずんでいた。しゃがんだ男は、膝が汚れるのが気に入らないのか、露骨に眉を寄せて作業を続ける。

 

「まだ開かねぇのか」

「うるせぇ、黙ってろ」

 

 銃を構えた背後の男が急かす。

 だが、返ってきたのは短く苛立った声だけだった。

 

 安普請の非常口だと聞いていた。

 だが、思ったより手間取る。内側で補助錠でも掛けているのか、あるいは単に古くて噛み合わせが悪いのか。

 

 予定より数分押して、ようやく、かちり、と手応えがあった。

 

「……よし。開いたぞ」

 

 男が立ち上がり、ドアノブへ手をかける。

 

 本来なら、ゆっくりと開けて様子を見るべきだった。

 だが、時間が押していた。焦りがあった。

 それが、判断を鈍らせた。

 

 扉を開ける。

 

 その先には廊下があるはずだった。

 だが目の前に立っていたのは、一人の男だった。

 

 ニコリ、と笑っている。

 

 それを認識するかしないかのうちに、腹へ強い衝撃が入った。

 男の体はそのまま開いたドアを越えて後ろへ押し戻され、非常階段の欄干へ強かに腰を打ちつける。

 

「がはっ!?」

 

 腹と背へ走る苦痛に、声とも空気ともつかないものが漏れる。

 何とか体を起こそうとするが、その目の前には革靴の裏が迫っていた。

 

 衝撃。

 

 首がもげるかと思うほど仰け反り、そのまま男の体は三階の非常階段から落下した。

 

 どすん。

 

 まるで重い袋でも落ちたみたいな、鈍い音が下から返ってくる。

 

 相方が落ちる一部始終を見てしまった男は、思考が一瞬止まった。

 だが、やっと脳と体が繋がる。

 

「やろう……!」

 

 男は銃を向けようと体を捻る。

 そのタイミングで、足元のマットがずるりとずらされた。

 

 重心が流される。

 

 しまった、と理解した時には、視界はもう上を向いていた。

 

 首の後ろへ強い圧がかかる。

 細い鉄の手すりへ頸椎を押し付けられる冷たい感触。

 

 だが、その感触を意識したのもほんの一瞬だった。

 

 嫌な音が鳴る。

 男の指から、銃が離れた。

 

 がらん、と鈍い金属音を立てて、足元へ転がる。

 その音だけが、やけに響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アパートは、静かだった。

 

 ここ数分で、この建物の内と外ではいくつかの“事態”が起きた。

 だが、それに気づいて顔を出す住人も、窓を開ける人影もない。

 夜というのはありがたい。人は大抵、面倒そうな事には何かと理由を付けて無いものとする。重いものが落ちた音も、階段に響いた衝撃も、今のところはただの夜の雑音として処理されているらしい。

 

 もっとも、この静けさがいつまでも続くわけじゃない。

 

 やがて血の匂いは建物の中に回るだろうし、死体が見つかれば当然騒ぎになる。

 そうなれば、この場所はもう使えない。

 マチルダには、拠点を別に移してもらう他ないだろう。

 

 俺は、がちゃり、と極力音を殺して非常口の扉を閉めた。

 錆びた蝶番が小さく軋む。冷たい金属の感触が掌に残る。

 

 廊下の先へ視線を向ける。

 マチルダの部屋は、一番奥だ。

 

 俺はそのまま足音を抑えて歩き、扉の前まで行くと、控えめにノックした。

 

 数秒ほどの間。

 中で音がする。床板の上を踏む足音。こちらへ向かって来る気配。

 視界の端には、マチルダのマーカーもゆっくりとドアへ近づいてくるのが見えている。

 

「……誰だ?」

 

 ドア越しに届いたマチルダの声は、硬かった。

 不審げで、緊張感を含んだ声色。普段の落ち着いた調子ではあるが、明らかに警戒している。

 

「俺です。二階堂です」

 

 短くそう答える。

 すると、中の気配がわずかに揺れた。

 

 ……?

 妙だな。

 

 襲撃に気づいて身構えていた、という風でもない。

 だが、こちらの声を聞いた瞬間の揺れ方が少し不自然だった。驚きというより、予定外の訪問を嫌がった時の反応に近い。

 

「何か用事か? わざわざこちらまで来るなんて、明日ではダメだったのか?」

 

 声の調子は平静を保っている。

 だが、どことなく“今は来てほしくなかった”という響きが混じっていた。

 

「こちらへ襲撃がありました。敵は処理しましたが、死体がいくつか。厄介ごとになる前に、場所を移していただいた方がいいと思いまして」

 

 気配がさらに揺れる。

 

 数秒。

 その後、がちゃり、と内側の鍵が回る音がして、ドアが少しだけ開いた。

 

 数センチ。

 ドアチェーンをかけたままの、用心深い開け方だった。

 

「……どういうことだ? オクタヴィア様が狙われるならともかく、ここをだと?」

 

 隙間から顔を覗かせたマチルダが、廊下の様子を窺うように視線を走らせる。

 部屋着には着替えていないらしい。昼間見たパンツスーツからジャケットだけを脱いだ格好で、シャツの襟元もまだ整っている。

 

 ふわり、と、部屋の中から匂いが漏れてきた。

 

 煙草。

 それと、酒。

 

 ……おや。

 

 少し意外だった。

 彼女からそういう印象は、今のところあまり受けていない。堅物とまではいかないが、職務中も私生活もかなりきっちり切り分けるタイプだと思っていたからだ。

 

「ええ。どういったわけかは、まだ何とも。護衛対象ではなく、先に護衛役を潰してから動くつもりだった可能性もありますが、現段階では推測の域を出ません」

 

 俺は、俺たち自身も襲われたこと、そしてマチルダ自身がターゲットに含まれていることについてはまだ伏せた。

 今ここで伝えても混乱させるだけだ。……いや、それ以上に、彼女自身にも少しばかり気になる点が見えてきた。

 

 視線を、何気ない風を装って下へ落とす。

 

 玄関先。

 扉の向こう、床に寄せられた靴の並びが見えた。

 

 マチルダのものと思われる実用的な靴の他に、男物のブーツがいくつか。

 しかも、ただ脱ぎ散らかされたというより、“いつもの位置”に置かれたみたいな置かれ方。

 

 少なくとも、靴を履き替えて置いておく程度には、この部屋に馴染んだ男が居る。

 そう考えるのが自然だった。

 

 もちろん、彼女が仕事先で男を買っている、あるいは親しい付き合いの男がいる、というだけの可能性もある。

 それ自体は、別に不思議でも何でもない。

 

 だが、今この状況で、それが妙に引っかかった。

 

「……そうか。分かった。今すぐとはいかんが、朝までには荷をまとめて出よう」

 

 マチルダは少しだけ考えるような間を置いたあと、そう答えた。

 声の奥に、わずかな葛藤が混じっているのを感じる。だが、最終的には納得したらしい。

 

「お願いします。移った先の住所は、分かり次第共有してもらえると助かります」

「……ああ」

 

 短く返して、ドアが閉じられる。

 チェーンの揺れる音。鍵の回る音。

 

 俺はすぐにはその場を離れず、扉の前に少しだけ残った。

 マーカーの動きを追う。

 

 室内を行ったり来たりする気配。

 落ち着かない動き。

 誰かと会話しているような、あるいは相手の反応を窺いながら歩いているような、細かな往復。

 やがてそれが収まり、ソファか何かに腰を落ち着けたらしいところで、俺はようやく踵を返した。

 

 階段を下り、アパートを出る。

 外には、変わらず黒いSUVが二台、道端に止まっている。

 

 俺は後ろの車両へ向かい、後部座席のドアを開けた。

 中には、首にワイヤーを食い込ませたままの男が転がっている。

 薄暗い車内にこもった、血と汗と、消えかけた煙草の匂い。死体の体温もまだ完全には抜けきっていないらしく、生ぬるい空気がむわりと流れ出てきた。

 

 ひとしきり車内を漁る。

 

 グローブボックス。

 シート下。

 ドアポケット。

 センターコンソール。

 だが、めぼしいものはない。予備の携帯や、紙のメモも、これといった識別情報も置いていなかった。最低限の慎重さはあるらしい。

 

 俺はそのまま車から降り、静かにドアを閉めた。

 夜風が頬を撫でる。

 

 アパートに背を向け、ジャケットの内ポケットから通信端末を取り出して、コール。

 ツーコール目で繋がった。

 

『お疲れ様。どうだったかしら』

 

 単刀直入。

 いかにもシャルロッテらしい。

 

「ありがとうございます。無事に処理しました。ですが、人数が多かったので、多少の隠蔽はしましたが現場はそのままです」

 

 人通りは相変わらず少ない。

 アパートの方も、今のところ騒ぎにはなっていない。しばらくはこのまま持つだろう。 

 

「マチルダさんには、場所を移すよう伝えました。明日には新しい場所を知らせてくるはずです。ただ……」

 

『ただ?』

 

 シャルロッテがそのままオウム返しで問う。

 

「彼女、男を部屋に連れ込んでいるようですね。それだけなら別に構わないんですが、どうにもきな臭くて……」

 

 杞憂で済めばいい。

 だが、胸の奥に残るこの妙な違和感は、無視しない方がいい類のものだと告げていた。

 

『ふうむ? 男、ねぇ。そういった風には見えなかったけど』

 

 少し間を置いて返ってきた声には、こちらと同じような引っかかりがあった。

 やはり彼女から見ても、マチルダはそういう印象ではなかったらしい。

 

『分かった。アルフに頼んで、詳しいパーソナルデータとか、その辺の洗い直しをしてもらうわ』

「ありがとうございます」

 

 じゃあ詳しい話は戻ってから。

 そう言って通信が切れる。

 

 俺は端末をしまい、ふう、と一息ついた。

 それから、もう一度だけ、背後のアパートを振り返る。

 

 外から見れば、何も変わらない。

 古い三階建ての建物。薄く灯る窓。どこにでもあるアパートだ。

 

 マチルダの部屋にも、変わらずマーカーが見えていた。

 

 ただし。

 そのマーカーの色だけが、変わっていた。

 

 青ではない。

 いつの間にか、緑に。

 

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