花が、好きだった。
小さくて、懸命で……何でもない野花が。
野に咲く花だけを愛でて生きるには……シルヴェリオンの名は重すぎるけれど。
私の家族は立派な人達ばかりだ。
政治に明るく、先進的な政策を打ち出し続ける賢君の父さま。その父の才を受け継いだ上兄さま。武勇に優れ、勇敢で……帝国民にも、軍にも慕われる下兄さま。美しく聡明で、優しい母さま。
──そして。
“簒奪王”の二つ名を持ち、国を乗っ取り、発展させた……おじい様。
おじい様はすごい人だ。私が知る限り、誰よりも強くて、誰よりも正しくて、誰よりも厳しい。……そんな人。
兄さまや父さま、母様が話してくださる“簒奪王”の半生を寝物語に聞くのが、幼い私の密かな楽しみだった。単純にワクワクしたし……おじい様は、ご自分のことを決して語ってはくださらなかったから。
優しい方だった。それは間違いがない。
けれど、笑った顔を見たことは一度もなかった。
いつも眉間に巌のようなしわを寄せて、重くて低い声で話をなさる。
背筋が伸びる声だ。首をすくめたくなるような声だ。……そして、どうしようもなく涙を流してしまいたくなるくらい、孤独な声だ。
……。
それをどうにかして慰めて差し上げたくって、大好きな野花を摘んで持って行ったことがある。自分が好きなものを渡せば、きっと笑ってくださるだろうって。
でも、おじい様は笑ってはくださらなかった。
笑顔を見せてはくださらなかったけれど、それでも。眉間のしわがなくなって、いつもよりもずっと優しいお声で「ありがとう」と頭を撫でてくださった。かたくって、温かい手のひらだった。
……今でも覚えているとも。その「ありがとう」の後に続く言葉。
忘れようがない。
「いたずらに命を弄ぶようなことをしてはいけないよ、フィリシア。……この小さな野花とて、懸命に生きているのだからね」
当時の私にすれば、意味の分からない言葉だった。生死についてなど考えたこともなかった。……けれど。
何かおじい様が大切なお話をしていることはわかったんだ。だって……。
その瞳に映る色は。とても“簒奪王”などと呼ばれるような英雄が宿すものではなかったし……。
……何故だろうね。
言語化なんてまったく出来はしなかったけれど。
私には、それがおじい様の真実なのではないかと思えた気がする。切なくて、迷いに満ちていて、今にも泣いてしまいそうな。
……だからこそ、忘れようがない。
───
“簒奪王”の恐ろしさを知ったのはいつだったろうか。
政治などに興味を持ってしまって、書庫を漁っていた時だったかもしれない。……私にも何かやれることがあるんじゃないないかって。
……その時に、見つけてしまったんだ。ある記録を。
偶然とはいえ……私の運命をねじくれさせてしまう、後悔に満ちた新発見だよ。
薄っぺらい紙にはね、闇に葬られた事件がいくつも書いてあった。……そのうちの一つが、リィオ事件。
ある時にモンスターが逃げ出した。二つ名で呼ばれるほどの怪物というよ。……そして、そいつが村を焼いた。……一つの村が滅んだんだ。……いや、滅ぼされた。
おじい様の命令によって、機密保持の名目で滅ぼされたんだ。
……逃げ出した怪物というのはね。帝国軍がモンスターを軍事転用しようとして研究していた個体だったんだ。研究を命じたのはおじ上。父の兄だ。
……おじ上は処罰されたよ。謹慎で済んだ。
わかるかい?
身内の不祥事を、機密だなんて言って、片付けたんだ。
私に、生命を弄ぶなといったその口で、大勢の人の命を……奪ったんだ。
……私は、おじい様がわからなくなってしまった。
───
実を言うと、帝国の統治者はお父様だ。政治をしているのも、お父様。
……けれど、実質的な支配者はおじい様のまま。大御所として政治の一線を退いてなお、おじい様は帝国に強大な影響力を残している。……いや、帝国だけじゃない。世界にだ。
……実際、おじい様の政治家としての能力は高かったんだろう。
帝国となる前のこの地は、飢饉で滅びかけていた小国だったらしい。それを奪い取り、立て直し、周囲の国々を滅ぼし領土を切り取り……。まさに“簒奪王”だ。
何もかもを力と謀略で奪い取り、自分のものにしてしまう。
涙を流す人はいるのだろう。怒りに燃える人はいるのだろう。
けれど、私の位置からは見えない。……きっと、おじい様の位置からも。だから、あの人がやる簒奪を止められる人なんかいないんだ。
……帝国は侵略によって大きくなった国家だ。
私はその意味を深く考えたことなんか一度もなかったし、おじい様を疑ったことだってなかった。……でも。
噂の“暴君”を頼ろうと思ったのはね。言ってしまえばヤケクソだよ。なんの計画性もありゃしない。幼児が地面に転がって喚き散らすようなモノだった。
リィオのことを偶然知って、おじい様がわからなくなって、それで……。衝動的に家出したんだ。
ロイ・ローのことは知っていた。幼い頃にいくつか言葉を交わしたことがあった。……それだけの繋がり。
……ヤケクソに語る私の戯言を全て受け止めた上で──彼は言ったよ。「ガキの癇癪に付き合うつもりはねぇ」と。「帝国に拾ってもらった恩は忘れねえ。その帝国の命令で奪っちまったもんも忘れねえがな。……だから、俺はお前に協力しねえ。“暴君”のやつにワタリをつけてやるところまでだ」とね。
……義理堅い人なんだろう。きっと。
そんなあやふやな気持ちでいたからだろうね。
“暴君”に正しさを問われた時──何も答えられなかった。
……正しさはあった。これが絶対だって思う正しさが。……おじい様だ。常に正しくて、強いおじい様について行けば、きっと間違いがない──。
だなんて。……言えなかったよ。
当たり前だよね。そんな風に思えなくなってしまったから、家出してるんだもの。
奇妙だったのは、一方的に殺しにかかって、値踏みをして……。癇癪をおこして喚き散らした女が、受けた問いにさえ答えられないというのに──。
彼女が付いてくると言ったことだった。
───
一つ、文句を言っていいだろうか。
私に協力なんてしないと言い放ったロイ・ローが、道案内を付けてくれると言った。護衛もできる、世慣れた女だって。
どういう風の吹き回しだろうか? おこした癇癪があまりにみっともなかったから、同情を誘ったのだろうか?
実際にその案内人に会って、ロイ・ローの人の悪さを痛感したよ。クリム・スカードレッド。……リィオ事件の生存者。
……私は彼女と、どんな顔をして付き合えばいいんだ。
気まずい気分で旅は始まった。
でも、“暴君”があまりに無邪気に観光しているものだから、私の気も抜けたような気がする。……彼女、無表情なんだけどね。ずっと無気力な表情してるんだけど……。なんか無邪気。楽しそう。
それでいて、めちゃくちゃなんだ。自分がやろうと思ったことをためらわない。そして、その責任を誰にも渡さない。……眩しいと思った。
一市民の目から見る帝国は、悪くないように思えた。
迷宮都市を見てきたけれど、やはり帝国の方が発展しているし、治安もよい。
帝国人は禁欲を美徳とするから……あまり活気はないけれどね。……迷宮都市は歩いて回るだけで快楽が向こうからやってくるくらい活気立っていたし。
けれど逆に言えば、それはおじい様の統制や威光が隅々にまで行き届いているということ。その威光が、民の暮らしを保証している。
……ますますわからなくなった。
胸が悪くなるようなことがあった。
街を歩いていたんだ。新都という場所。そこでね、職務質問を受けたんだ。
まあ、当然だろうなって思う。見るからに怪しい三人組だもの。ダサい仮面のちびっ子(“暴君”殿だよ)に、フードの陰気女(私だ)。あとなんか気が強そうな女。……スカードレッド女史だけマトモな格好をしているのはずるくないかい? いっそのこと彼女も変な格好をしてくれたらバランスが良くなるかも……いや、そんなことないか。失礼。変なことを考えた。
“暴君”殿を「地元でも有名な狂人」だの(いくら何でも命知らずな悪口だ)私を「人見知り」だのと引き籠り扱いするわ。……思わず罪悪感が吹き飛んでしまいそうな口の悪さだったよ、スカードレッド女史は。
……偶然というには、残酷な邂逅だったように思う。
…………。シュカ・スカードレッド。
クリム・スカードレッドの実の妹が、帝国軍人となっていたんだ。彼女の仇の……大元たる帝国へ仕えて。
姉妹喧嘩が起こったよ。……見るに堪えない、あってはならないはずの喧嘩。
元から仲が悪い二人であってくれれば……なんて、都合がいい方へ思考が逸れてしまいそうになったけどね。スカードレッド女史の表情を見やれば、彼女達のもとの関係がどうであったかというのにも、おおよその察しがついた。
……そうなんだ。
これが、私やおじい様に見えていないものなんだ。
華々しく帝国が発展する陰で……こういう光景は、きっといくつも生まれているんだろう。……なら、おじい様は間違っているのだろうか? そのおじい様を否定するのが正しさなんだろうか? ……そうは思えなかった。
監獄街の治安の悪さは聞いていたよ。……実際に目で見て、軽く絶望してしまったけれどね。
この街に至るまでの道中、スカードレッド女史と二人で話す機会があった。“暴君”殿は寝つきがいいからね。
気まずく思っていると、彼女は苛立った様子で言ったよ。「うっとうしいわね」と。
ドキリとしてしまった。……やはり、彼女も知っているんだって。
……知らぬわけがない。ロイ・ローは帝国軍人だったのだから。その彼が非道を行うとすれば、それは帝国の意志ということだ。
恐れていた瞬間だ。……罵倒が来る。思わず、目を瞑った。
「最初に言っとくわよ。あたし、アンタを慰めたりしないわ。だからって、責めもしない」
「……何故だい? 君は、帝国のせいで故郷や家族を……っ。妹さんとの仲を引き裂かれて!」
「それをアンタが背負いますって? うぬ惚れてんじゃないのよ。あたしを恨むのは、シュカの選択よ。当然、あたしの選択はあたしのもの。
……ふんっ。悲劇のヒロイン気取りがしたいんなら、劇場にでも就職すんのね」
「なっ……!」
……頭を、ガツンと殴られた気分だった。
そんなつもりなんか、なかった。悲劇のヒロインを気取る気なんか。……ただ、おじい様がやったことだから……。
……やったこと、だから。……なんなのだろう。……言われて、気が付いた。……その先がない。
「そのウジウジすんの、やめなさいって言ってんの。うっとうしいったらないのよ。それ」
「だが……それなら! それなら私はどうしたらいいというんだい? “簒奪王”の孫娘たる私が、何の気兼ねもなく、あなたへ声掛けをするだなんて……できるわけがない!」
「だから、罵ってくれって? それで悪いことをしましたって気分になって、自分を慰めたいの? ……はっ! そりゃずいぶんと博愛精神に満ちたことだわね。こんな殊勝な皇女様がいてくださるなんて、帝国民がうらやましいったらないわね!」
……スカードレッド女史は。腹立たし気に鼻を鳴らした。
燃えるような赤い瞳は、鋭く私を射抜き、ほんのわずかな欺瞞すら許さぬと言っているようだった。
苛烈な言葉だ。
まるで、炎のような、槍のような。
そしてその言葉は、“暴君”殿のものと重なるかのようだった。
……答えを人に求めるな、と。
……。
じゃあ、どこに求めたらいいというんだ?
私にとっての正しさはおじい様だった。でも、今は信じられない。
破れかぶれに縋った“暴君”殿は問いを投げるばかりで、答えなんかくれない。
スカードレッド女史は、なけなしの罪悪感さえ許してくれはしない。
頭の中が、グチャグチャだった。
───
私がいくら絶望しようと、感情をかき乱されようと、現実は止まってはくれない。問題は常にやってくる。
寝床を確保する目的で、バトリングにスカードレッド女史が参加することになった。
そして控室に入った時……気が緩んでしまったからかもしれない。思わず弱音が漏れてしまった。……本当に無意識のことだったんだ。
でも、もしかしたら、という気持ちがあった。もしかしたら、“暴君”殿は私へ「どうしたの?」と聞いてくれるかもしれないと。「悩みがあるなら聞くよ」と言ってくれるかもしれないと期待したんだ。
……だって、ここまでの旅路で、彼女がそうまで冷酷な人物でないのはわかっていたし、意外と気遣う人なのも見ていた。
だから……と思ったんだ。……でもね、普通に彼女寝てしまったよ。……もしかして私、嫌われてるんだろうか?
スカードレッド女史の戦いぶりは見事なものだった。堅実で、手数が多く、対応力が高い。
私とて武の心得はあるが……到底及ぶものではないだろう。もしかすると、いずれ彼女は“二つ名持ち”にまでのぼるかもしれない。そう思わせるほどの腕。……それに彼女、我が強いしね。
ただ、一回戦の相手は奇妙だった。マスク・ドライガー選手だ。
がむしゃらに暴れまわったかと思えば、いきなり破裂して。……原因はわかっていた。外部から魔力を供給されていたからだ。……過剰に。
私レベルの腕では、そう詳しいところまではわからないけれど、これは明らかな異常だ。……というかこれ、ドーピングだろう。止めに入るものはいないのかい? ……いないみたいだ。
四回戦。
相手はジミック・マドロミーとかって、柄の悪い男性だよ。……いや、監獄街の住人は皆ガラが悪いが。彼は特に悪い。笑みがイヤらしいもの。……ああいう下品なタイプは苦手だ。……ただ、強い。マスク・ドライガー選手と同じく、外部から魔力を供与されている。……口惜しいが、私にはそれ以上のことはわからない。
“暴君”殿にはもっと多くのモノが見えているようだった。直接口にしたわけじゃない。……視線が、試合を追っていないんだ。
……戦いは、どんどんスカードレッド女史に不利になっていった。……もしかしたら、彼女はここで死んでしまうのではないだろうか?
嫌な気持になった。……けれど、これは試合だ。でも、相手は反則をしている。
……ならば。
たまらず助けに入らないのかと問うと、「ヒトは殴らない」とだけ返ってきた。……会場のルールを尊重しているのだろうか? そんなわけはない。“暴君”は、そんな殊勝な人間ではない。付き合いの短い私だとてそれくらいはわかる。
ならば何故? 君のその信条は、友人を見殺しにしてまで守らなくてはならないほどのモノなのかい? ……違うだろう? 君は、そんなに冷徹な人間ではないはずだ。
この時の私の心中はね、筆舌に尽くしがたいものがあったよ。……続く、「友人が危機に陥ってるのに?」という言葉には、縋る響きさえ滲んだかもしれない。
──だって。
重なってしまったんだ。……おじい様と、“暴君”殿が。
……否定したかった。なにが何でも、違うと叫びたかった。だってそれを認めてしまったなら……もう。答えなんか求めようがないじゃないか。
何かを慈しめる人なのに。正しさを語れる人なのに。
合理で、信条で、生命を踏み潰す。……そんなの、おかしいよ。
だから、“暴君”殿にはスカードレッド女史を助けに行ってほしかった。
迷宮都市で、ロイ・ローのバーを更地にしようとした時のように。
迷いなんか見せることなく、こんな戦いムチャクチャにしてほしかった。
……なのに。
なのに、なのにっ、なのに!
ハナイ・ムラクモは動かない! ……動いてくれない。
言葉を重ねた。
意地を張るなと言った。……帰ってきたのは沈黙だった。
……間違い、だったのだろうか。
私は、何も感じず、考えず。お父さまや兄さま達のように、おじい様がくださる正しさだけ受け取って生きていくべきだったのだろうか。
……わからない。
でもきっと、そういう生き方を選んでいたなら……今のような苦しさを感じることはなかったんだろう。
無性に、泣いてしまいたくなった。
幼い頃の私に戻って、おじい様に泣きついてしまいたくなった。あの大きくて、武骨な手のひらの感触が……恋しくてたまらなくなった。
ふと、“暴君”殿が口を開いた。
……私はもう、彼女に期待をしていなかった。……きっと彼女は、信条を選ぶのではないかと思っていた。
事実、続く言葉はそういうものだった。
ただ。
一つ言えることがあるとすれば──。
“暴君”ハナイ・ムラクモは、私が思うより遥かにムチャクチャで、二つ名通りの欲張りだったということだった。
───
……顛末を話すよ。
ジミック・マドロミー選手は魔人だった。そして監獄街に潜み、暗躍していたのがゼルヴィナ教。……宿の主人はあのくだらないカルト宗教の一員だったそうだ。
──しかし、いちカルト宗教ごときが、魔人を生み出すすべを持っているとはどういうことか? 彼らは勇者や魔王の時代に存在した伝説上の存在にひとしい。
下手人へ問い詰めてみたが、まるで話さない。むしろ、「暴と欲に満ちたこの街を愛で満たす」だの「“簒奪王”の暴政から幸福に満ちた世界へ変える」だの、わけのわからないことを言うんだ。……君、私達が宿を探していた時ぼったくろうとしたよね? どの口で欲だの愛だの言うんだ。
……まだ、カタチにはなっていない考えがある。
今回の“暴君”殿を見て思ったんだ。一見メチャクチャに見える考えでも、やってみたら意外とうまくいくこともあるのかもしれないって。……も、もちろん! 信条と友情の両方を抱え込んで問題を引き千切る……なんて。簡単にやれることじゃない。それはわかってるんだ。……でも。
考えを話すよ。
私もね、選ぶのをやめようと思った。
おじい様には戦争をやめてほしい。けれど、やめてもらうためにはおじい様を排除しなくてはならないかもしれない。
……おじい様が止まれないのなら、止められる誰かに止めてほしかった。……でも、それが正しいかどうかなんてわからない。
けれど、一つだけ答えが出たんだ。
おじい様には隠居してもらいたい。……もう、帝国の政治からは退いてもらいたい。
……不可能に近しい考えだ。……おじい様は。“簒奪王”は。生命を惜しんで信念を曲げる人じゃない。
そもそも、おじい様を退けた後の帝国のことや……他にも、考えなくてはいけないことはたくさんある。
でも、おじい様の野望を砕いて、生命をも救う。そんな答えを……出してみたいと思ったんだ。