外道に手を染めている自覚はある。
さりとてそれを……その犠牲を。致し方ないこととして言い訳するつもりもない。
正義ではない。
この行いに、“異世界”における我が闘争の日々に……正しさなど、ひと欠片としてありはせぬ。
しかれど、今さらになって投げ出すことは出来ぬ。投げ出さぬ。
……。
今にして思えば。
簒奪を決めたあの日から……あの瞬間から。
藤宮ナガヒサの……いや。ナガヒサ・ドゥ・シルヴェリオンが堕ちゆく場所は決定づけられていたのやもしれぬ。
天国などと。到底行けるものではない。
かつて、ヒーローをやっていた頃……。
地球にいた頃はもっと簡単であった。侵略者と戦い、悪の組織と戦い……平和を脅かすモノ、と明確にラベリングされたものがいた。
今にして思えば若気の至りにしても愚昧に過ぎたが……たとえ、政治的利害から生じた正しさであったとして、確かに救うモノはあったし、自らを正義と定義することもできた。
……そこに責任が伴っていなかったからだ。
他人に責任を預けている内は、自らをどう定義するかというのに悩むことがない。だから無邪気に正義を名乗ることも出来る。
……。
地球にはいわゆる悪の組織というものがあった。名を『聖女の献身』。
無辜の人々を誘拐し、改造を施して怪人にしてしまうような外道の連中だ。人類救済を掲げ、しかしてやることは無軌道な犯罪。……奴らに焼かれた街は一つや二つではきかぬ。
決して許せるものではない。許していいものではない。……当時の余はそう考えたし、実際それは多くの者にとっての正義と言ってよいものだったろう。
されど……。
地球は侵略者に、あの宇宙からやってくる最悪の蟲共によって滅びに瀕していたことを忘れてはならぬ。
そう思えば、彼らがやった非道にとて、いくらかの理屈があったのかもしれぬ。……赦されるべきことではないが、な。
実際に、『聖女の献身』の総帥──アンナ・シルバーバーグと対峙した時。長々と理屈を聞かされもしたよ。……理解しがたい物言いだったが。
理解できぬゆえ、思考停止のまま悪と断じ、切り捨て。……そして戦いになった。
戦いになって……殺し合いをし。その果てに時の扉が開いた。
あの華亥ムラクモには遠く及ばぬまでも、余とてヒーローとしてそれなり以上の力は持っていた。悪の組織首領を追い詰める程度には。
死にかけのシルバーバーグが苦し紛れに頼った手段が、次元転移。別次元に逃げ場を求めたのだ。無論、すぐさま追い縋ったとも。
……その結果が、異世界への転移だ。
───
帝国は……。
今でこそ豊かに、強く。そういう発展をさせられたと自負してはいるが、元は辺境の一地方に過ぎぬ弱小国であった。
灰が年中降り積もり、草木も生えぬ荒野にあるは遺跡と結晶ばかり。……そんな土地に生きる人々が豊かに暮らせていたかといえば、そんなわけはない。
……地獄だった。
強者が弱者を搾取することがショックだったのではない。飢えて死ぬ人々が意外だったのではない。ありふれた光景だ。むしろ地球ならばもっとひどいモノとて見たことがあった。
……しかし。
ここもまた、地獄。
次元を隔てたとて、その先にあるモノは──滅びかけの故郷と何ら変わりはしなかった。
……どうにかせねばならぬと思ってしまった。
だが、やり方がわからない。……いや、思い付く方法はあった。だが、それを本当に実行していいものか迷った。何せ、この世界には……指図をしてくれるものがいない。それは、自分自身で決めて背負わねばならぬということだ。
……この時になって、余は悟った。自らが正義と呼んでいたモノの正体を。
されど、それでもだ。
それでも、見過ごそうという気にはならなかった。
自らで考え、自らで決め、自らで何もかもを背負わねばならないとしても。……シルバーバーグを追うのが使命だとしても。
今ここにある悲劇をなんとしても退けたかった。……たとえここが縁もゆかりもない異界であったとして……。余は、ヒーローであるのだから。それは揺らがない考えだった。
わからないなりに何か行動しなくてはと考え……。そして、取った方法が最も手に馴染んだものだった。
……搾取をしている強者を片端から倒して回ったのだ。
そして、彼らがため込んでいた物資を弱者へとばら撒いて回り、さらに強者を倒す。
その繰り返しの果てに、気が付けば国の頂点を倒していた。
……かの王が死に際に余へ向けた瞳──今も忘れぬ。いや、王だけではない。打ち倒される者が断末魔に向けるまなざしだ。理不尽を嘆くような、未練に取りつかれたような。……今はもう、くだらぬとは言えそうにない。
……今まで通りに彼が持つ資産や物資を配って回り……これで余がやることもなくなったろうと思った。
今後はこの世界に潜伏しているはずのシルバーバーグを探し出し、倒さねばなどと思っていたのだ。……あまりに、無邪気が過ぎる考えだった。
……搾取は、なくならなかった。
……貧困は、なくならなかった。
…………。
余が打ち倒した強者は……。そう思い込んでいただけだった。
立場を変えたらば、いくらでも代わりが利くものでしかなかったのだ。
重かった。
……だが。これは余が背負わねばならぬ、決して投げ出してはならぬ責任であった。我が生涯は、道程は。ここに定まった。
ゆえに、奪った。
国を、民を、悲劇を、未来を。権利を、資格を、選択を。
──そして、名前を。
……ドゥ・シルヴェリオン。まさか余が銀を名乗ることになろうとはな。
──因果というには、辛辣に過ぎると思ったものだ。
───
帝国には資源がない。
ならばどうするか? となれば、手繰る手段は一つしかない。……奪うことだ。
……やりたいことではない。だが、もはや余は背負ってしまったのだから……帝国のことを、そこに生きる人々を一番に考えなくてはならぬ。
つまり──生命の選別だ。富の再分配だ。
……もはやヒーローを名乗れるものではない。
簡単な道のりではなかった。
この世界にとて、余と互角に戦う強者はいるし、何より政治などわからぬ。
だが、時間と共に帝国の領土は順調に増え、技術は発展し、余は政治や謀略についてもわかるようになった。……慣れ、というものなのだろうな。
……ロイ・ローには悪いことをしたと思っている。
身内の不始末を彼に処理させてしまった。……されど、政治的にはやらねばならなかった。
……俺には、この帝国を護るという責任があるからだ。
出奔までされてしまうとは思わなかったが。……いや。当然やもしれぬ。彼には村を一つ粛清させたのだ。……最低の外道であった。
……気を抜くと、つい視座が高くなる。視座が高くなるから、踏み潰した生命を数でしか見られなくなる。……痛みを忘れてはならぬ。
……。
一つだけ、甘えたことを言う。
侵略国家の“簒奪王”が、自分勝手を抜かそうと思う。
叶うことならば、フィリシアには野花を愛でる少女でいてほしかった。
痛みも責任も知らず……誰か、好きな男でも作って。皇族ではない。“簒奪王”の孫でもない。
ただのフィリシアとして、一生涯を終えてほしい。
……戯言だ。
帝国のためだと言って、散々にそういうものを踏み潰してきた男の、くだらぬ妄想だ。
フィリシアが国外に出たのは把握していた。
……おそらくは、表に出してはいない余の罪深さを知ったのだろう。そして、心が砕けたに違いない。
結果、“暴君”華亥ムラクモと共に行動している。……止めるべき場面なのやもしれぬ。……しかし。
そも、華亥ムラクモが何故この世界にいるのか? 何ゆえこの異世界たる地に降り立ったか……。確りとは言えぬ。言えぬが……察することはある。
……強すぎたのだろう。彼女は。
……幾度か戦場を共にしたことがあるが、苛烈に過ぎるほどに力があった。
その一方で、改造人間すら命を奪わぬ。
哀れと思う。
あれほどの力だ。怪物の如き力を持った器に入るは、人の心。いっそ、心まで怪物であったなら、アレも幾分は生きやすくなろうに。……しかれど、その生きにくさが、彼女を信頼足りうるモノと思わせる。……みだりに人類へ仇なす者でない、と。
さりとて、放置をしていいものではない。
彼女ほどの武力が動けば、無意識の行動でも思いがけない災害になり得る。……実際、それで王都調略の謀は砕かれているのだ。
……しかし、何故だろうな。
華亥ムラクモを止める気にはならぬ。あの埒外な暴を恐れてのものではない。
……余は。もしかすると、逃げ出したいと思っているのかもしれぬ。……責任から、帝国から。果てない侵略の連鎖から。
だから、華亥ムラクモを野放しにすることによって、被るかもしれぬ被害を……見て見ぬふりしているのではないか?
……もっと言えば、この期に及んでなお、フィリシアに善き祖父としての自分を……想ったままでいてほしいと思っているのではないか?
……許されぬ。
今さら投げ出してよいものではない。……何もかも。
───
玉座にて。
回顧に浸っていると、とんでもない振動が起きた。恐ろしい轟音も轟いている。
何事かと衛兵に問うと、襲撃だと返ってきた。……いったい。
心中にて誰何を問うていると、一つ思い出すことがあった。
少し前……フィリシアが帝都に来ている、という報告を受けたことだ。無論、華亥ムラクモも。
……止めようというのだろう。フィリシアは。……しかし。
盤面はすでに動いている。法国に対し、宣戦布告はすでに済ませたし、息子がすでに軍を出している。
逃げ場はない。逃げ道はない。
余の影響力は未だ強いが……皇帝は息子だ。……そして、その座を此度の戦で盤石のものとする。余とて永遠には生きられぬからな。
これがどういうことかといえば……つまり。
フィリシアや華亥ムラクモが何をしようと、たとえ余を弑そうと……。揺らがぬということだ、帝国は。
「──こんにちは。お久しぶりですね、藤宮さん」
「……。何者か?」
……油断をしていたつもりはない。むしろ警戒をしていたつもりだ。だが、まるで気が付けなかった。
帝都の、中枢たる王城の最奥で。だというのに、急に背後から声がした。……明らかにフィリシアのものではない。華亥ムラクモでも。
振り返ってみれば、そこに佇んでいるのは……女だ。見やるに、特徴という特徴がない女。しかし、単なる町娘というには肝の据わった物腰だ。
……刺客か。混乱に乗じて余を弑そうというのやもしれん。
しかし、不意を打たずにワザワザ話しかけてくるとは。よほど腕に自信があるのか、あるいは何がしかの考えがあり、時間稼ぎをしているのか……。
女を観察してみると、この顔立ちに見覚えがあることに気が付いた。……いわく、ゼルヴィナ教。頂点たる大司教アンナが、このような顔立ちをしていたような気がするが……少しばかり自信がない。何せ本当に特徴がない顔立ちなのだ。
女からはまるで敵意を感じぬ。きわめて自然体で……?
……いや、待て。
藤宮? 何故俺の旧姓がここで出る? それを知っているのは、地球時代の余を知る者だけのハズだ。
そして……この世界においてそれを知るのは、華亥ムラクモ……は、覚えてはいないだろう。言葉を交わしたことさえない。
大司教アンナ。……よくある名だが……。
「アンナ・シルバーバーグ……か? いや……しかし……」
「今はただのアンナって名乗ってます! 見た目もね、変えたんだ。昔のままだと、みんなに怖がられちゃうからね!」
「……何用か? まさか旧交を温めようというのではあるまい」
「うん。……ね、最終決戦覚えてますか? 地球にいた時、私とあなたで戦ったでしょ。あの時に私が言ったこと、覚えてる?」
……人生の岐路となった戦いだ。
たとえ何十年経とうが、忘れるものではない。……さすがに、あの戦いで交わした言葉を一字一句間違えずに思い出せ、となるといささか難しいが……。
いくらか、掘り起こしてみると、自らがなり立てた下らぬ言葉しか出てこない。「悪の秘密結社め!」だとか、「正義の鉄槌をくらえ!」だとか。……思い出すも恥ずかしい。若気の至りだ。
「……覚えてないんだぁ。ショックだなあ。……じゃあ、もう一度……今度は忘れたりされないように、短く千切ってお話しするね。
啓蒙に出会ったんだよ、私。理不尽も悪意も、滅亡も……何もかも、踏み潰してしまう神の意志に。
あなたに追い詰められた時、この世界に降り立った時……ちょっと絶望しちゃったよ。だってもう、彼女には会えないんじゃないかって思ったから。
……だからね、すぅっと隠居してたんだ。この世界って平和でしょ? やることなくなっちゃって」
「……要点を」
「あ、ごめんね。……つまりね、私が言いたいのは──これから帝都を燃やすよってこと。
理由聞きたい? 話すね。……神の意志、だからだよ。……彼女、地球じゃこっぴどく人間に裏切られたんだよ。知ってましたか?」
「……! ……させると思うか?」
「やりますよ。
……あの子。あんな追い出され方したっていうのに、この世界じゃあ、相変わらず人間の味方してるんですよ。懲りない子ですよね。
……だから、ご褒美あげようって思ったんです。あの子がやった救世に世界が報いないなら、私が報いをあげる。……手始めは、この帝都です。あの子今、戦争を止めるお手伝いしてるみたいなので」
……もはや聞くことはない。
魔力外装を展開する。普段着ている鎧やマントとは根本からデザインが違う、強化スーツがこの身を包んだ。
そして、勢いのままに女の顔面へ拳を振るうと──素知らぬ顔で受け止められた。少女の柔らかい手のひらだ。だのに……動かぬ。
「ごめんね。
藤宮さんの方が強い時期があったのは認めるけれど、今は私の方が強いよ。……だってあなた、当たり前に年齢を重ねてしまう人間なんだもの」
「……余を殺したとて、帝国を焼いたとて。変わるものではないぞ」
「変えようなんて思ってないよ。ただ、あの子が頼られてる。頼られて、困ってるから助けてあげるだけなの。
帝国を焼き払って、帝国民を殺して。……そうすれば、戦争なんかやってる場合じゃないでしょう? 息子さんもすぐに戻ってきてくれるよ」
……相も変わらず度し難い。
言って聞くものではない。勝てる戦いではない。
……だが。
「……まだやるつもりなの? 力の差は、教えてあげたでしょう? 無駄に命をなくすことないよ」
消費を度外視して魔力を練り上げる。
そしてやつへと幾重にも打ち込む。打ち込んで、打ち込んで、全てせき止められた。
……無為とわかろうと、退けぬ。退いてはならぬ。
過去から追い縋ってきた亡霊を砕かねば。過去に置き去りにしてきた使命を果たさねば。……今さらの決意が俺を突き動かしていた。
「……変わらぬな、貴様は。あの頃から何一つとして変わってはいない」
「……。これでも私、ずぅっと優しくなったつもりだよ。ゼルヴィナ教だなんてカルト宗教に付き合ってあげて、悩める子羊だって救ってあげてる。あの子に関してだって。うっとうしいコバエが周りを飛んでても、ちゃぁんと駆除しないであげてるよ。……前に王都で会った時だって、無理に手に入れようとなんてしなかったんだから」
「だが、貴様はどこまで行っても他者を顧みぬ。……今はっきりとわかったが、お前が張り付けているその薄っぺらい聖女気取りの仮面……余は心底、虫唾が走るようだ。ゆえに、地球にいた頃も貴様の話など聞く気が起きなかった」
「……ふぅーん。……ね、知ってる? ゼルヴィナ教って愛を語るんですよ。愛は、全てを許してくれるそうですよ。欲望も、悪徳も。
素晴らしいなって思うよね? あのカルト、私そんなに好きじゃないけど、この教義だけは大好きなんです。……だって。
──自分を正当化するのに、都合がいいから」
渾身の乱打がすべて受け止められ、投げ飛ばされる。無様に這いつくばる余の両腕をヤツの指先から放たれた熱線が貫き、次いで両足を貫いた。
悲鳴を噛み殺していると、ゆっくりと近づいてきたシルバーバーグが、心配げな顔を浮かべて見せた。
気味が悪いほどに真摯で、愛に満ちた──聖女のような顔。
「怪我、させちゃったね。……でも、大丈夫だよ。殺したりしない。……ここであなたを殺す必要なんてないもんね」
「……待て。行かせぬぞ。やらせぬ! 帝都を焼かせてなど、なるものか!」
「あなたに何ができるの? その老いさらばえた身体で、私を止められる? ……無理だよ。今のあなたには、必要である以上に価値がない。それを理解して
──ああ、そうだ。あとね」
伸ばした手のひらの先。
聖女めいた魔女は、特徴のない顔立ちを艶めかしく歪めて──。
「もう遅いよ」と言った。
「とっくに始まってるよ。……藤宮さんなら知ってるよね。私、計画を始めてもないのに挨拶に来るような女でしたか?」
「……ッッ!!?」
女は、うっそり笑って踵を返した。その際、カーテシーまで披露して。
手を伸ばす。
しかれど、届かぬ。……たかが、四肢を貫かれた程度の傷だというのに。この身体は動いてくれぬ。
シルバーバーグは立ち去ろうとした。……いや、跳び去るというべきか。
転移しようというのだろう。背より異形の翼を生やし、幾何的魔法陣を足元に張り……。──その足元が、爆散した。
勝ちを確信して、優雅にふるまっていたシルバーバーグは巨大トラックに撥ね飛ばされたように転がって、顔面から無様に床へ叩きつけられた。
破壊された床から煙が舞っている。
その奥から、一度目にしたならば忘れがたい。金と緑のオッドアイが光を放った。
──そして。
「……あなた、人外だったの? それとも人間が人外のフリしてる?」
“暴君”が、現れた。愛すべき孫を担ぎ上げて。
……今はこんなことを言っている時でないのはわかるのだが、言わせてほしい。
フィリシア、白目向いておるのだが……。いや、察しはつく。どのような速度でここへ来たのかなど。
……もっとこう、手加減とかしてはやれなかったのだろうか?
思考が逸れた。
「……えへへ。また会っちゃったね。久しぶり」
「人外なの? 人間? どっち?」
「……もちろん、人間ですよ! この羽はね……」
「改造されて付けられたの? むしってあげようか?」
「あ、あはは……。なんだかあなたらしくないね。ヒトは殴らないんでしょ?」
「……ん。殴ってないよ。ヒトじゃない部分千切るだけだもの」
……ヤツは恍惚とした表情を浮かべている。……まるで、恋焦がれた相手にようやく出会えたとでもいうように。
一方の華亥ムラクモはシンプルにどうでもよさそうだ。……いや、無表情なだけで内心はもっと別のことを思っているかもしれないが。
シルバーバーグへ気のない返事をやりながら、こちらへ来て……思いのほか気遣わしげにフィリシアを降ろした。「ケガしてるね。……痛いよ」と。……そして次の瞬間、彼女が言った通りの激痛が我が身を襲った。
……しかし、魔力の流れから治癒を施しているのはわかる。わかるが……痛いものは痛い。長く続くものではなく、痛苦がおさまると、四肢は再び動くようになっていた。……ならば。
やらねばならぬことがある。……立ち上がろうとする身体を、「治っただけだよ。回復はしてない」と、華亥ムラクモが押し留めてきた。……こやつも相変わらず、空気を読まぬ。
無視をされる形になったシルバーバーグだが……。
気味の悪い笑みを浮かべている。……悪感情ではない。むしろ好意だ。好意が煮詰まりすぎて腐臭が漂うような。
やつは改めて足元へ陣を張った。
「──ごめんね。もっとお話ししていたかったけど……この後、用事あるんです」
「……ん」
「見ててね。きっとこの帝国にも──きれいな愛の花が咲くよ」
再びカーテシー。埃と砂で汚れているせいで一度目ほど格好は付いていなかったが。……放置していいものではない。
しかし……華亥ムラクモは、追わない。……そうか。
「すまぬが。孫を頼んでよいだろうか。余はアレを追わねばならぬゆえ」
「……回復してないって言ったよ。魔力もすっからかん。……それで何するの?」
「何とでもする。……せねばならぬ。今この時とて帝都民は窮地にいるのだから」
「……。おきて」
華亥ムラクモは答えなかった。
答えないまま、何を思ったかフィリシアを揺すり起こし始めた。これも気遣わしげな手付きだ。……了承を取ったと解釈してよいものか? “暴君”の気まぐれに付き合っていてはいたずらに被害ばかりが増える。
……そう。どうあろうと立ち止まっている場合ではない。
はたして。
玉座の間を後にしようとした時。
少女のかすれ声がした。……フィリシアだ。孫娘が目を覚ましたのだ。
彼女は寝ぼけたように周囲を見回すと……余へと焦点を合わせて、顔を青白くさせた。「血! おじいさま!? え!? どうしてお怪我を? 何で!?」などと。
……そしてそこに、タイミング悪く伝令が来た。
聞けば、状況は相当に悪い。もはや、一刻の猶予もならぬ。
フィリシアに傷は治っている、大事ない……そう伝えるだけ伝えて城下へ向かおうと思ったが、強く縋りつかれている。どうにも話を聞いてくれぬ。
……だが。今は国家が一大事。情などにかまけているところではない。そも、資格などとうの昔に失くしている。……だというに。
葛藤を遮るように、マイペースな華亥ムラクモの声がした。
「……お仕事、これで終わりでいいよね?」
「──え? あ、ああ。おじい様のところへは来れたからね。……ってそうじゃない! おじい様! いったい何があったというんです!? どうしてそんなお怪我をされてるんです!?」
「……それは」
「ん。大事な用事思い出したから帰るよ。……あと、止める気ないケド。……無理するお年頃って感じでもないし、しっかり休んだ方がいいんじゃない?」
……余計な世話だ。
華亥ムラクモを睨みつけてやると、彼女はほんの一瞬迷うような気配を出した。言うべきか、そうでないか。……照れも混じっているような。
「……約束はしないよ。……しないケド。あの女はどうにかしてみるから、あなた。ひりしあと頑張ってお話ししてみてね」
「──は?」
「え?」
その言葉には、余のみならず、フィリシアも固まった。“暴君”華亥ムラクモの口から出たとは思えぬモノだったからだ。
「じゃ、ばいばい」と。小さな呟きをかき消すような轟音と共に部屋が……いや、城が揺れた。
華亥ムラクモが去った跡だ。彼女がいた場所には強すぎる踏み込みで大穴が開いた床だけが残されていた。