二周目のおっさん   作:雄魔雌

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第1話 時間逆行(しなさい)

 ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた――フランツ・カフカ「変身」原田義人訳 青空文庫より

 

 

 

 

 

 

 年季の入ったプレハブ小屋だったが、これでも国立科学博物館の研究所の付属施設である。

 

 日本防衛隊の正式隊員であり、分析支援部隊小隊長。怪獣9号との死闘を経て、憧れの肩書きを手にした三十三歳――日比野カフカは、ゆっくりと作業服の袖を捲った。

 ビニール合羽にゴム手袋、そして長靴は、決して組織から支給された防衛隊スーツなどではない。ホームセンターで買えば千円もしなさそうな安物で、そのうえ借り物だった。

 

「懐かしいですね、この感じ」

 

 カフカの隣で、市川が少し高揚したように呟いた。

 

「お前なんで来たの?」

「来年からは俺も小隊長ですから。自由が効く今のうちに、色んなこと経験しておきたくて。伊春くんも来たがってましたよ」

「来なくてよかった。騒がしくなるのが目に見えてる」

 

 二人は今、茨城県つくば市にある怪獣研究施設に来ている。

 都内から数時間も車を走らせ、はるばる辿り着いた茨城の地にて、とある任務がカフカ(と、同行者の市川)に課せられていた。

 

「この死体を標本にするんですか?」

 

 市川がカフカに問いかけたが、カフカとて答えを持っていない。

 目の前の台にドカンと置かれた小型怪獣の死体を眺めながら、カフカは自分にこの任務を命じたミナの言葉を思い出していた。

 

『博物館の人は、防衛隊員よりずっと博識だから。色々教えてもらった方が、今後のカフカ君のためにもなると思うよ』

 

 ミナはそう言ったが、標本という単語からカフカが連想できるものなんて、ガラスケースに保管された恐竜の骨格や、熊や狐の剥製くらいしかない。

 

「どっかにマニアやコレクターでもいるんじゃねぇか。鳴海隊長も集めてたし」

「四ノ宮が全部捨てたって言ってましたよ。あと、あの人が収集してたのはフィギュアです」

 

 防衛隊最強戦力の男を思い出した二人が同時にため息をつくと、プレハブ小屋の扉がキィと音を立てて開いた。

 

「それは研究用の骨格標本にします。思い浮かべておられる展示物とは、違うと思いますよ」

 

 入ってきたのは、二人と同じ格好をした研究員だった。

 

「研究員の森です、今日はよろしくお願いします」

「こちらこそお世話になります。第3部隊の日比野と、こっちは市川です」

 

 森の顔にはフェイスガードが被せられていて、おそらく女性と思われるが、重装備のためカフカには詳細がわからない。

 

「普段は主にストランディングの連絡を受けた怪獣で作るんですが」

「ストランディング?」

「漂着、座礁って意味です。海岸に打ち上げられたイルカやクジラなどの海獣を指す言葉でしたけど……今じゃ、その辺で発見された怪獣の死体を指す方が多いですね」

「カイジュウ違いか」

 

 カフカの呟きに、森はくすりと微笑んだ。

 

 最初の作業は、解体だった。

 懐かしい仕事だが、清掃員時代とは目的が違う。肉を削ぎ落とすというより、いかに骨を傷つけずに残すかが、ここでは重要になる。怪獣の筋膜に刃を入れ、関節を外し、一本一本の骨を露出させていく。どの塊も途方もなく重い。

 だが、これは二人には得意分野だった。どこに刃を入れれば骨を傷めず、かつ効率的に肉を外せるか。清掃員としての経験が、思わぬところで役に立つ。

 カフカと市川の器用な手つきを見ていた森は、何度か小さく頷いた。

 

「お二人とも、見事な手さばきです」

「解体作業には慣れてるんで」

 

 あらかた筋肉を取り除いた怪獣の骨を前に、森が次の工程を説明した。

 

「この後は骨を煮込んで、タンパク質を溶かして、油脂成分を抜く作業に入ります」

「具体的には?」

「ひたすら煮ます」

 

 巨大な専用鍋に骨を沈め、火を入れた。蒸気と腐敗臭が混ざった独特の匂いがプレハブ小屋を満たし、顔をしかめた市川が鼻の頭を擦りそうになった。

 

「か、怪獣の出汁……」

「市川よ、豚骨スープだと思え」

「しばらく食えなくなりそうなんで止めてください」

 

 解体の時の生臭さも大概だったが、煮汁から生ぬるく漂う臭いは、腐敗臭なんて表現だけではとても足りない。

 

「煮る作業だけで、数週間はかかりますよ」

「そんなにかかるの!?」

「あの。専用の薬剤を使えば、もっと早く済むんじゃないですか?」

「我々は使わないんですよ」

 

 森の声には、静かだが明確な意志が宿っていた。

 

「薬剤で溶かすと骨の微細構造が壊れることがあります。彼らは細胞の一つ一つから、私たちにその歴史を語りかけている。その貴重な言葉を、失いたくない」

 

 そこにあるのは、プロのこだわりと矜恃だった。カフカは黙って頷いた。

 

「煮込んだ後は、高圧洗浄機で残った肉片を飛ばします」

「高圧洗浄機なら、前の職場でよく使ってました」

「それは心強い。ただ、今日のところは……」

「出番はなさそうですね」

 

 カフカは鍋の中でゆっくりと揺れる骨を見つめた。地獄の釜のような光景だ。

 

「日比野さん、市川さん」

 

 森がフェイスガードを外した。汗で額に貼り付いた前髪の下に、思いのほか穏やかな目があった。

 

「防衛隊が着ているスーツ。あれ、何でできてるかご存知ですか?」

「怪獣繊維、ですよね」

「さすが、その通りです。スーツ内部に組み込まれた怪獣由来の繊維が、装着者の脳波や身体能力に反応して伸縮する。要は人工筋肉です」

 

 森はそう言って、鍋の縁をコンコンと菜箸で叩いた。

 

「攻撃的ユニ器官は、炸裂弾や凍結弾や発雷弾に。修復系は防御に。棄てるだけのゴミに見えたとしても、磨けばそうやって我々の味方になる。防衛隊の小隊長ともあろう方にこんなことを言うなんて、失礼かもしれませんが……」

 

「討伐は防衛の華ですが、討伐だけが防衛じゃない」

「……」

「どんな仕事にだって、それぞれに大切なものの護り方がある」

 

 カフカはしばらく、その言葉の余韻の中に立ち尽くしていた。

 

「……偉そうなこと言って、すみません。お二人とも、今日は遠路はるばる本当にありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。色々勉強になりました」

 

 

 

 血に濡れた手袋を外し、ビニール袋に押し込んで密封しながら、カフカは数日前のことを思い出していた。

 市街地に怪獣が現れたときのこと。出現場所に偶然居合わせたカフカは住民の避難誘導を行っていたのだが、逃げ遅れていた子ども達を見つけ、彼らを守るため、致し方なく――怪獣8号に変身した。

 通学路を塞ぐように膨れ上がったその巨体が崩れ落ちたとき、子供たちからは歓声が上がった……が、その後の保科副隊長からの説教は凄まじいものだった。

 

「アホな真似すんな言ったやろ」

「言われました」

「今や怪獣8号を世界中の研究機関が狙っとる。それも伝えたな」

「……聞きました」

 

 射すくめるような保科の眼光に、そのときのカフカは黙るしかなかった。

 

「正義感は大いに結構やけど。無防備な変身は、日本防衛隊の保護があることに対する甘えや」

 

 さらに怪獣の退治後、カフカが良かれと思って前職の清掃業者――モンスタースイーパー株式会社に処理の連絡を入れたことも、火に油を注いでいた。

 怪獣の残骸は放置すれば腐敗が進む。一刻も早く処理した方がいいと思ったのだが、保科の反応は冷たかった。

 

「そりゃそうっすよ。入札で年度ごとに業者の担当区域が決まってるんだから」

 

 記憶を辿るカフカの隣で、市川が長靴を脱ぎながら、その落ち込みっぷりを受け流していた。

 

「だよなー……んなことぐらい、知ってたはずなのに。何やってんだ俺は……」

「小隊長就任で疲れてるんじゃないですか? 帰りは運転代わります」

「サンキュ」

 

 カフカは再び記憶を巡らせる。

 ――おっさん、前職で何しとったん?

 保科は決してそんなことを口にしなかったが、カフカの目に映る副隊長のため息には、明らかにそれに類する言葉が隠れていた。そしてぐうの音も出なかった。

 

 防衛隊の車で帰路につく。助手席に腰かけたカフカは窓を開けたが、身体に染み付いた怪獣の匂いは消えそうにない。

 

「あの頃と同じだ」

 

 高圧洗浄機で全身まるごと洗いたい。そんな馬鹿なことを考えながら、カフカは流れていく街灯をぼんやりと眺めた。

 

 分析支援部隊の小隊長。こんなに立派な肩書きを貰っておきながら、あの頃と何も変わっていない。

 清掃員時代は、解体したものを捨てることしか考えておらず、廃棄物の行き先に想像を巡らせたことなどなかった。どの部位を、どの業者が処理するか。考えていたのは、ただそれだけ。

 そして防衛隊に入ってからは、目の前の怪物を討伐する、その一点だけだった。それこそが防衛隊だとすら思っていた。

 

「討伐だけが防衛じゃない……か」

 

 ふと、幼い頃のミナとの約束を思い出した。

 

「二人で怪獣を全滅させよう」

「いつだって俺が隣にいる」

 

 だがその後、命運は別れた。自分は「持たざる者」で、ミナは「持つ者」。それは今でも変わらない。

 同じ防衛隊員だが、怪獣8号の力ありきで正式な隊員となった自分は、本当の意味で彼女の隣に立っていると言えるのだろうか。これで約束を守ったと本当に言っていいのか……

 

 助手席でカフカの瞼が落ちていく。

 

「わり、ちょっとだけ仮眠取っていいか」

「構いませんよ。着いたら起こします」

 

 深い自己嫌悪の中で、カフカは眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 白い。

 こちらを見下ろす大人が着ている服も、手袋も、マスクも、天井の板も、照明の色も、刃物から反射する光も。

 すべてが、白かった。

 

「口を開けなさい」

 

 抑揚のない、男の声だった。

 

「被検体に幼体を注入します」

 

 ヒケンタイ。たしか自分にはもっと、別の名前があったような気がする。

 

「飲み込みなさい。核を破壊しないように。噛んではいけないよ」

 

 虫のような生き物を差し出された。湿った甲殻の隙間から、細い脚が何本もうごめいている。絶対に食べたくないと思った。けれど、反抗できる根拠がない。従わなければ終わらないのだということくらい、もう理解していたから。

 だから軽く頷いて、結局は素直に従った。

 喉を大きく鳴らして飲み込むと、しばらくして、胸の奥で心臓ではない何かが脈打ち始めた。視界がぼやけていく。

 

 あ……貧血、かも。

 

 そう思って額に右手を伸ばすと、頭の輪郭が違っていた。額をまさぐっても、生え際がない。そもそも髪の毛と呼べるものが一本も生えていないということに、ようやく気がついた。

 鼻はどこだろう。目は。唇は。歯は。

 

 突然、周囲がざわつき始めた。

 

「実験、失敗です! 被験体の身体も自我も怪獣に飲まれています!」

「クソ、やはりか……」

「やむを得ん、処分だ。防衛隊を呼べ!」

 

 処分。聞き慣れない言葉だったけれど、意味は理解できた。

 逃げなきゃ。

 天井の高さを確認した。次に、扉の位置を確認した。それから白衣の人間の数を数えた。四人。

 

「脚の拘束が解かれました!」

「麻酔は!?」

「既に打っています、こんなはずでは……!」

 

 みんなの叫び声を聞きながら、自分の手を見下ろした。正確には、手だったものを。

 不思議と驚きはなかった。胸の奥で脈打っている何かが、「最初からずっとこの形をしていただろう」と教えてくれているような気がしたから。

 

「く、来るな! 来るな来るな!」

「落ち着け、思い出すんだ。君の名前を……!」

「名前?」

 

 名前。なんだったっけ。

 ほんの一瞬だけ、誰かの顔が浮かんだ。もしかしたらそれは自分自身の顔だったのかもしれないけれど、誰なのかはもう分からなかった。

 

「ひッ……!」

 

 気がついたときには、すべてが終わっていた。

 

 白い部屋いっぱいに、濃淡のついた赤色が散りばめられている。

 誰がやったんだろう?

 

 天井板を壊してみたら、破片が散らばって、青い空が広がった。

 

 逃げなきゃ。

 こんなところにいたら、自分みたいな弱い存在は……人間という強い生物に、殺されちゃう。

 

 

 

 

 

 

「……っ!」

 

 目が覚めた瞬間、体が跳ね起きた。

 正確には、跳ね起きようとした。実際には枕から頭が数センチ浮いたところで、重力に引き戻されて布団に沈んだ。

 

 ……布団? 枕?

 

 カフカの脳は、寝起きの霧を必死に掻き分けながら、現状の把握に努めた。

 

 灯の消えた、夜の部屋。消毒液の匂い。病院だ。カーテンでベッドが仕切られている。見覚えのある部屋だが、馴染みのある部屋ではない。

 

 さっきまで奇妙な夢を見ていた。白い部屋の夢で……えぇっと、どうして夢なんか見ていたんだ? あぁ、車の助手席で寝こけていたからだ。市川が起こしてくれるというから、その言葉に甘えて、すやすやと。

 

 そのはずが、ここはどこだ。

 

「どうなってんだ?」

 

 カフカが額に手を当てて呟くと、聞き馴染みのある声がした。

 

「先輩、どうかしましたか?」

「市川!?」

 

 カーテンが慌ただしく捲られると、そこから市川が顔を出した。

 心配そうな表情の彼は、確かに市川レノそのものだ。しかしカフカはその姿に、微細だが確かな違和感を察知した。

 

「なんか、若返ってない?」

「はぁ?」

 

 つい、口を滑らせてしまった。

 しかし確かに違和感があったのだ。市川への失礼を承知で敢えて表現するならば、なんとなく、どこか雰囲気が幼い、というか。

 

 市川の怪訝な目線に晒されながらも、カフカは恐る恐る自分の全身をまさぐった。

 顔は、人間だ。

 手のひらも、足も。変わりなし。

 そして腹。ポヨン。

 

「ビール腹……」

 

 鍛え方の足りない脂肪が、重力に従って前に垂れている。指で掴むと、確かな感触があった。

 相当な量だ。かつての自分の体――かつてというのがいつのことなのかが問題なのだが――あの感触とは、似ても似つかない。

 

 腹の肉を掴んだまま、カフカはしばらく隣の市川を見つめた。市川も困惑しきった顔で見つめ返してくる。この、怪獣解体業者に勤める清掃員の、何の取り柄もない男を。

 

 清掃員。

 その言葉が、口の中で形になった瞬間、何かが繋がった。

 

「怪獣は?」

「はい?」

「怪獣、ここに来てないのか!?」

 

 カフカは半身を起こした。心臓が早鳴りしている。あの怪獣。「ミツケタ」と言って自分の口に飛び込んできた、あの小型の怪獣。あれが入り込んできたから、自分は怪獣8号になったのだ。

 

「先輩、落ち着いてください。俺たちを襲った余獣は既に第3部隊が討伐してくれてます」

「第3部隊が……」

「本当に大丈夫ですか? どこかで頭を強く打ったとか」

 

 病室は静かだった。窓の向こうの街明かりが、カーテン越しに差し込んでいて、ここにあるのは、ただそれだけ。

 市川が眉間の皺を深くした。

 

「先輩、俺のことは分かりますよね」

「市川レノ」

「指は何本見えますか」

「ニ本……って何のテストだよ!」

 

 右手と左手の人差し指だけを立てた市川が、本当に心配そうにカフカを見ている。これ以上彼を不安にさせたら、ナースコールのボタンまで押しかねない。

 

「別に平気だ。お前も寝ろ」

 

 カフカは再び横になった。従うように市川もカーテンを閉じ、再び室内に沈黙が落ちる。

 

 手のひらを眺める。そこに刻まれたものは、何の変哲もない、三十二歳の男の皺だった。

 

 来ない。

 一時間待っても、二時間待っても。

 あのときカフカに「ミツケタ」と告げた怪獣は、現れない。

 あいつが来なければ、カフカは怪獣になれない。怪獣になれなければ、防衛隊に入ることすら……

 

 何度も体の奥に意識を向け、胸の中で脈打つ「何か」を探したが、そこには自分自身の心臓の鼓動しかなかった。

 当たり前の、少し不整脈気味の、ただの心音。

 

 結局カフカは一睡もできないまま、市川と二人で翌朝に退院した。

 

 

 

「カフカぁ! 無事で良かったよ!」

「ご心配おかけしました。見ての通り問題なしッス」

 

 翌日、最初に迎えてくれたのは同僚の徳田だった。

 努めて明るく返事をしながら、カフカはロッカーの前で着替えた。作業服に袖を通す。汗と薬品と、かすかに怪獣の体液の匂いが染みついた、見慣れた服。見慣れた匂い。

 かつての、見慣れた日常。

 

「おはようございます」

「お、おう……」

 

 部屋を出ると、市川が自販機の前に立っていた。

 昨日と同じ。アルバイトの、市川が。

 

「あの、労災の申請ってどうしたらいいんですかね。徳さんから言われたんですけど、先輩と一緒にやれって」

「市川、あのさ」

「はい?」

 

 カフカは言いかけて、止めた。しかし市川はカフカの言葉の続きを待っている。

 

「なんですか?」

「俺さ」

 

 止めようとしたのだが……カフカの口は、いつの間にか、勝手に動いていた。

 

「怪獣に、なれなくなっちゃった」

 

 数秒の沈黙があった。

 自販機が低い唸りを上げている。

 

「先輩。もっかい、病院行きましょうか」

 

 市川は真顔でそう言って、缶コーヒーのボタンを押した。

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