夜の路地は狭く、街灯が一本だけ、頼りなく揺れている。
「はぁっ、はッ……!」
彼女は、自分を追う「何か」から逃げていた。
ヒールのある靴は三ブロック前に脱ぎ捨てた。ストッキング越しにアスファルトを踏む足の裏が熱い。
スマートフォンの画面には「110番通報中」の文字が光っているが、繋がらない。防衛隊への緊急回線も同じだった。電波が、ない。
角を曲がる。路地が行き止まりだった。
「っ……!」
振り返った先に「何か」がいた。
怪獣。
行手を塞いだ生き物は、姿形こそ限りなく人型に近い。怪人と言ってもいいかもしれない。だが今、この国の基準では、目の前にいる異形は確実に――怪獣の一種だ。
路地の入り口に立って、彼女を見ている。
「や……やめて」
声が出た。自分でも驚くくらい、冷静な声だった。
「近付かないで!!」
それが一歩、踏み出した。
彼女は咄嗟にスマートフォンを投げつけた。外殻に当たって、コンクリートに落ちて、画面が割れた。通報中の文字が砕けた。
そして怪獣は口を大きく開き、彼女に近づき――
「だっ、誰か! 助け……」
叫び声は、言葉の途中で消えた。
「大学生。二十二歳。防衛隊志望。受験歴なし、前歴なし」
抑揚のない声が、路地に落ちた。
この場にいるのは、女性が一人だけ。誰が見ても、怪獣などいない。
「都合が良イな」
*
モンスタースイーパー株式会社の休憩室は、昼間でも薄暗かった。「節電にご協力ください」と書かれた張り紙が、窓からの風を受けてかすかに揺れている。
眉間に皺を寄せたカフカは、室内のパイプ椅子に黙って腰掛けた。腕を組みながら、何もないテーブルの上を睨みつける。
まだ、現状に納得できていなかった。
「どうぞ」
「え」
「顔色、悪いんで」
市川が、テーブルの上にそっと缶コーヒーを置いた。彼はテーブル越しにカフカの正面に座り、自分用の缶ジュースを口に含んだ。
「悪いな」
後輩に気を遣わせてしまった。
実のところ、市川を巻き込むことへの迷いについては、ほぼ消えていた。迷いより先に「こいつしかいない」という確信が、静かに根を張っていたからだ。
「市川」
「はい」
「さっきも言ったけど。俺、二周目なんだよ」
市川は缶ジュースを一口分だけ流し込んでから、口元を拭い、困ったような顔でカフカを見た。
「また……何なんですか、それ」
「三十三歳だった俺が、三十二歳をやり直してる」
「何を根拠に?」
直球だった。感情より先に論理が来る。それが市川だ、とカフカは思った。
「ん。たとえば、お前が前回、一次試験の前に立ち寄ったコンビニ。カゴに入れてたのはエナドリとのど飴」
「……? はい」
「レジでお前の後ろに並んでたのが俺。お前が、スマホがないって慌てて、財布も忘れたことに気づいて焦ってたから、俺が二千円貸した」
「はぁ」
「返ってきたのは翌日の昼。千五百円と、プロテインバーが一本だった」
市川が口を開けた。
「……そんな未来のことを言われても」
「だよなー! もぉー!」
「当日は財布忘れないようにします」
カフカは缶コーヒーを握ったまま、天を仰いだ。
「こんなんどうやって証明すりゃいいんだよォ! 頭おかしいって思われるだけ! そして俺は病院送り!!」
「信じます」
「は?」
「信じますよ、とりあえずは」
カフカが聞き間違えたのかと思うほど、市川はあまりにも淡々とこの事態を受け入れた。
「で、俺にどうして欲しいんですか」
「待て待て待て、話が早すぎて逆に心配になるわ。信用しすぎじゃない? もしかして不審者として通報してる?」
「しませんって……」
市川は再び缶ジュースを一口飲んで、カフカを見た。「続けてください」という顔をしている。
カフカは話した。
前回あったはずの病院での出来事が、発生していないこと。その結果、以前は手にしたはずの怪獣の力が、今の自分に存在しないこと。どういうわけか「前回」の記憶があること。怪獣9号と呼ばれた存在に対して、先んじて対策を始めれば、前回起きた被害を未然に防げる可能性があるということ。そして、怪獣の力を持たない「今回」のカフカは、確実に防衛隊試験で不合格になるだろうということ。
「防衛隊に入れないんじゃ、知識があってもどうにもならない。だから確実に合格するであろうお前に、俺の知ってる全てを伝える」
「……」
「俺はさ。俺だけの力じゃ、防衛隊員になれないんだよ」
市川は最後まで黙って聞いた。部屋の外にある自販機の低い唸りが、二人の間を埋めていた。
「前回は怪獣の力で防衛隊員になれたって、そう言いますけど」
市川は椅子の背もたれから背中を離して、少し間を置いた。
「先輩は、咄嗟の判断と機転で俺のことを助けた。怪獣の力があったって、普通あんなふうに即座には飛び出せない」
一拍置いて、市川は続けた。
「今回も受けるべきっすよ、防衛隊試験。不合格かどうかなんて、まだ誰にもわからない」
カフカは再び黙り込んだ。
前回と、今回。なぜ時間が巻き戻るようなことが起きているのか。なぜ自分だけがそれを認知しているのか。何も分からない。ひょっとしたら今後も、原因など分かることはないのかもしれない。
それでも、前回の9号災害。明暦の大怪獣。それら全てが、前回知識という名の力で未然に防げるというのなら。
きっとそれが「今回」の自分が果たすべき務めなのだろう。しかしそれには、やはり防衛隊の力を借りなければ、どうにもならない。
「……そうだよな」
声に出たのは独り言のつもりだったが、市川にはしっかりと聞こえていた。
「前回も、今回も。この試験が夢を叶えるためのラストチャンスだったわけだし。もう一度だけ手を伸ばしてみたって……いいよな」
言い終えてから少し気恥ずかしくなったが、それでも市川は笑わなかった。
「そうですね」
返ってきた言葉は短かったが、受容があった。
カフカは缶コーヒーを一口飲んで、ふと思い出した。一次試験の筆記問題を。二次試験の戦いを。あの日の問題を、今でも細部まで覚えている。
「試験なんだけどな、二次試験はお前の予想と違うことやるぞ。あと一次の筆記で最初に出題されるのが」
「ちょっ、ネタバレやめてくださいよ!」
即座だった。
「カンニングになるじゃないですか」
「でも前回の俺が経験したことだぞ」
「今回の俺はまだなんです! ちゃんと自分の力で合格しますから、絶対に何も言わないでくださいよ」
市川はきっぱりと言い切った。それから少しだけ間を置いて、声のトーンを落とした。
「先輩は……まぁ、前回通ってるんなら、仕方ないですけど」
仕方ないですけど、という言葉のニュアンスは複雑だったが、カフカは聞き流すことにした。
*
第3部隊の会議室は、報告書の山が机の半分を占領していた。その部屋にいるのは、隊長の亜白ミナと、副隊長の保科の二人だけ。
「起案は却下された。即座に」
「でしょうね」
ミナは椅子に深く座って、天井を見ていた。
「苦手な事務作業、頑張ったのに……」
保科は向かいの席で腕を組んで、何も言わなかった。言わないのは否定のためではなく、続きを聞くためだとミナは知っている。
「予測体制の構築、情報収集の一元化、民間との連携強化。どれも『現状の体制で成果が出ている』の一言で終わった」
「……隊長」
「なにが防衛隊だ」
保科が少し目を見開いた。
「現れた怪獣に対処することしかできない部隊の、どこが防衛だ。なにが最強だ、なにが隊長だ」
声が低くなっていた。怒りというよりは、疲労の色が濃い。
「一個人の潜在能力に依存した戦いを続けるだけの部隊なんて、無力でしかない」
保科は腕を組んだまま、少し黙った。
「気持ちは分かります」
「わかってるなら」
「けど今、それをやる体力も人材も、この組織にはありません」
この国が怪獣の脅威に晒されてきた歴史は長い。しかし進んできたのは対処法と防災の手順だけで、怪獣の発生源や目的の研究については、戦闘部隊の充実と比べて恐ろしく立ち遅れている。
ミナもそれは知っていた。知った上で、それでも動こうとして、また壁に当たった。
また、という言葉が頭の中で反響した。
おかしいな、とミナは思った。今日初めて却下されたのに、なぜ「また」という感覚があるんだろう。
「こんな調子じゃ、今度も……」
声に出すつもりはなかったが、思わず口から出た。しかしその言葉が持つ微かな違和感に、保科が眉をひそめた。
「隊長。何かご存知なんですか」
ミナは少し間を置いてから、首を振った。
「……いや。ただの愚痴だ」
保科はそれ以上聞かなかったし、ミナも、それ以上何も言わなかった。
*
午前九時。立川基地の駐車場は、今回もやはり広い。
カフカはハンドルを握りながら、車を停める場所をしっかりと見定めていた。
「この辺、空いてますよ」
「55番は避ける」
「なんで」
「前回知識の大人の使い方ってやつね」
市川が「意味わかんないですよ」と言いながら車を進めた。37番に空きがあった。エンジンを切る。
ドアを開けて、外に出た。
朝の空気が首元に入ってきた。今日から防衛隊の二次試験が始まる。受付の場所、試験官の顔、全部が頭の中にある。前回と違う自分が、前回と同じ場所にいる。
「先輩」
少し硬い声の市川が、とある場所を指差した。
カフカが視線を向けた先――55番の区画の前に、見覚えのある人間が立っていた。
グレーのワンピース、金髪のツインテール。
四ノ宮キコルだ。小柄な身体の割に声が大きくて、駐車場に高く響いている。
「そこ、どけてくれる? 私のラッキーナンバーなの」
絡まれているのは、カフカの見知らぬ女性だった。今回、カフカが55番を避けた結果がこれだ。
ボタンを外したキコルの身体から、怪獣素材特有の淡い発光があった。着込んでいるのは、前回も見た、彼女のプライベートスーツ。
「あいつ、また同じこと……!」
その力が車体に触れた瞬間、55番に停められた車がぐらりと傾き、思わずカフカも駆け寄った。
「おい! 人の車に何してんだ、キコル!」
「はぁ? 誰」
キコルが振り返り、目が合った。
まったく見覚えのない顔として、キコルはカフカを見ていた。当然だ。
「呼び捨てにされる筋合いないんだけど。おじさん、私のファン?」
「あっ……」
やってしまった。前回の癖が、体より先に口から出た。隊員の名前を呼び捨てにしていた頃の癖が、よりによってこの場面で。
「なわけねーだろ、有名人だからつい口に出ただけだ! あと俺はおじさんじゃなくて日比野カフカね!」
「そう。で、何」
キコルは眉をひそめたまま、不満そうにカフカを見ていた。
カフカは一呼吸置いて、言った。
「人の車を勝手に倒したら駄目だろ。元に戻せ」
「だからこの番号は……」
「もどせ」
二回目は、静かに言った。
キコルが口をつぐんだ。何かを読もうとするように、カフカの目を見ていた。
そして数秒の後、小さく舌打ちをして、もう一度スーツの力を使った。車が元の位置に戻る。
「できるじゃねぇか。ほら次。ちゃんと謝れ」
「はぁ!?」
「当たり前だろ! ほら、頭下げる!」
「触んないでよ!」
カフカがキコルの頭を掴み、困惑する車の持ち主の女性の前で無理やり頭を下げさせた。
「……っ、わ、悪かったわね」
キコルが力ずくで手を振り払い、後ろを向いた。
「もういいわよ、ラッキーナンバーなんか! どうせ信じてないし」
肩を怒らせたまま、大股で歩いていく。十メートルほど歩いたところで、一度だけ振り返った。カフカと目が合った。
キコルは何も言わず、また前を向いた。靴音が少し速くなった。
「顔覚えたからね! 後で絶対に吠え面かかせてやるから!」
振り返らずに叫んだ声が、駐車場に反響した。
カフカがため息をつくと、いつの間にか市川が横に立っていた。
「なんか普通に父親みたいでしたね。今の」
「父親って……」
ついキコルの本当の父親の顔を思い浮かべる。と、そこに別の声が入り込んだ。
「ありがとうございました」
カフカが振り返ると、手が差し出されていた。
白金色のストレートヘアが、肩甲骨の少し下まで流れている。朝の光の中で、その色は金属のような冷たさと、絹のような柔らかさを同時に帯びていた。二十代前半の女性。整った顔立ちに、穏やかな笑顔が浮かんでいる。
差し出された手と、目の前の女性を見比べる。
前回の記憶に、こんな人物はいなかった。
「あ、いえ。災難でしたね。あなたも二次試験ですか?」
「あー……えぇ。お二人もですか?」
「はい」
女性は笑顔のまま、もう一度口を開いた。
「
カフカは、その名前を知らなかった。
ただのおっさんとして、前回に出会うことのなかった、初めて会う女性の手を……そっと握り返した。