君の声が、雑踏に落ちた 作:一色 遼
「返してください」
声をかけられたのは、財布でも傘でもなく、俺が拾い上げた一枚の紙だった。
折り畳まれた、A4サイズの白い紙。風に飛ばされて俺の足元に貼りついてきたやつだ。
振り返ると、女が立っていた。
二十五歳前後。黒髪を耳の後ろにかけて、少し息が上がっている。走ってきたらしい。コンビニのビニール袋を右手に持ったまま、左手を俺に向けて伸ばしている。
「あ、はい」
俺は紙を渡した。
それだけで終わるはずだった。
だが女は受け取りながら、ちらりと俺の顔を見て——なぜか固まった。
「……え」
「え?」
沈黙が三秒続いた。渋谷の交差点前、昼時の人波の中で、俺たちだけ時間が止まったみたいだった。
「す、すみません」
女は我に返ったように頭を下げ、足早に去っていった。
ビニール袋がカサカサと音を立てながら、人混みに消えていく。
俺は三秒ほどその場に立ち尽くした後、歩き出した。
変な女だ、と思った。
それだけで、終わるはずだった。
瀬川律、二十五歳。
都内の小さな編集プロダクションに勤めて一年半になる。仕事の内容はライターの原稿チェックと取材アシスト、あとは雑用全般だ。手取り十九万。残業代は出ない。やりがいについては、現在模索中である。
社員は五人。社長の三上を含めると六人だが、三上社長はほぼ不在なので実質五人だ。先輩の田村さんはいい人だが口が悪く、後輩の小島は気が利くが空気が読めない。バランスがとれているのかいないのか、よくわからない職場だった。
その日も残業で終電近くなり、俺は疲れた体を引きずって帰路についていた。渋谷から井の頭線に乗り、明大前で乗り換えて、最寄り駅から十五分。毎日同じルートを歩いているうちに、足が勝手に動くようになっていた。考え事をしていても家に着く。人間の習慣とはすごいものだ。
——などと思っていたら、見覚えのある影が視界に入った。
駅前のコンビニ。ガラス越しに見える店内。
弁当コーナーの前で、さっきの女が立っていた。
昼間、紙を渡した女だ。
時刻は二十三時過ぎ。昼に渋谷にいた人間が、夜に俺の最寄り駅のコンビニにいる確率はどのくらいだろう。低い、とは言い切れないが、高くもない。
俺は特に何も考えず、コンビニに入った。
今日の夕飯を買い忘れていたからだ。
女は弁当をひとつ手に取り、裏面のカロリー表示をじっと見ていた。深刻そうな顔で。五百キロカロリー以下かどうか確認しているのか、あるいは添加物が気になっているのか。
俺は素通りして麺類コーナーへ向かった。
どうせ赤の他人だ。昼間、紙を一枚渡しただけの。
冷やし中華が半額になっていた。二つあったので一つ取った。
レジへ向かう途中、女と正面からかちあった。
「……あ」
女が俺を見た。
俺も女を見た。
また三秒の沈黙。
「昼間の、方ですよね」
女が先に口を開いた。
「紙を拾ってくださった」
「そうです」
「こんな時間に、こちらのコンビニに?」
「近所なので」
「あ」
女の表情が微妙に動いた。
「私も、近所、なんですが」
「そうですか」
「その……昼間は、失礼しました。なんか、びっくりしてしまって」
「いえ」
俺は特に気にしていなかったし、そう言おうとした。
でも女は続けた。
「あなたの顔が、書いてる小説の転校生にそっくりで」
俺は冷やし中華を持ったまま、一瞬固まった。
「……はい?」
「変なこと言ってすみません」
女は少し赤くなっていた。
「その、昼間飛ばされた紙がその小説の原稿で、それを拾ってくれた人が転校生の顔で……ちょっと混乱してしまって」
沈黙。
俺はゆっくりと状況を整理した。
つまりこの女は——小説を書いていて、その原稿が風に飛ばされて、拾ってくれた俺の顔が自分の書いたキャラクターに似ていた、と言っている。
「……それ、どんな小説ですか」
なぜそう聞いたのか、自分でもわからなかった。
「ガールミーツボーイ、です」
女はまっすぐ俺を見た。
「女の子が男の子に出会って、人生が変わる話」
俺はまた固まった。
今度は五秒くらい。
「俺の顔に似た転校生と、女の子のお話ですか」
「……言葉にすると、かなりおかしいですね」
「はい」
「すみません」
「いえ」
また沈黙が来た。今日何度目かわからない。
俺はレジへ向かった。
女もレジへ向かった。
並んだ。
俺が冷やし中華を持っていて、女が弁当を持っていた。
どちらが先に会計するか一瞬あったが、女が「お先にどうぞ」と言ったので俺が先に済ませた。
店を出たら女も出てきた。同じ方向だった。
三十秒ほど、二人で歩いた。
どちらも何も言わなかった。
「あの」
女が言った。
「よければ、読んでもらえませんか」
俺は前を向いたまま答えた。
「読んでみます」
なぜそう言ったのかは、やっぱりわからなかった。
女は「ありがとうございます」と言って、分かれ道の前で立ち止まった。
俺のアパートはもう少し先だ。
「あ、名前を聞いていなかった」
女が言った。
「
「私は
「水瀬さん」
「瀬川さん」
互いに一度だけ頷いて、別れた。
アパートに帰って、冷やし中華を食べながら、俺はさっきの会話を反芻した。
小説の転校生に似ていると言われた。
読んでほしいと言われた。
連絡先も聞かなかったし、向こうも聞かなかった。
どうやって渡すつもりだったんだろう、と思いながら、気がついた。
同じ駅の近所に住んでいる。
また会う可能性は、それなりにある。
俺はなぜか、それを悪い気分で受け取っていなかった。
冷やし中華は、半額の割においしかった。