君の声が、雑踏に落ちた   作:一色 遼

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最終話が、完成した夜

 

 十二月の半ばの、木曜日の深夜。

 時刻は一時過ぎ。俺はもう寝ていた。

 スマホが光って、目が覚めた。眠い目でスクリーンを見た。

 

「起きていますか」

 

 水瀬さんからだった。

 こんな時間に連絡が来たのは初めてだった。俺は体を起こしながら打った。

 

「今起きました。どうしましたか」

 

 すぐ返信が来た。

 

「すみません、起こしてしまって」

「大丈夫です。何かありましたか」

「最終話、書き終わりました」

 

 俺は完全に目が覚めた。

 

「今ですか」

「今です。さっき書き終わって、なんか落ち着かなくて」

「送ってもらえますか。今読みます」

「こんな時間に読まなくていいです」

「読みたいです」

 

 少し間があって、

 

「送ります」

 

 と来た。

 

 

 ファイルが届いた。

 タイトルは『透明な午後に、君は来た』——小説全体と同じタイトルだった。最終話だけ、話数のタイトルをつけなかったらしかった。

 俺は布団の中で体を起こして、スマホを両手で持った。

 最終話は、これまでより短かった。原稿用紙換算で十枚ほど。でも短さは気にならなかった。最初の一行を読んだ瞬間に、もうそれしか見えなくなった。

 

【『透明な午後に、君は来た』最終話・冒頭】

 三月の終わりに、転校生はまた転校することになった。

 父親の仕事の都合で、また別の街へ行く。それが彼の人生のパターンだった。来て、去る。来て、去る。だから深く関わることが、いつも怖かった。

 でも今回は、怖かった。

 去ることが、怖かった。

 

 俺はそこで一度止まった。

 転校生が去る話だとは、思っていなかった。

 読み続けた。

 転校生が遥に別れを告げる場面は、あっさりしていた。放課後の教室で、「三月末に引っ越す」とだけ言った。遥は「そうですか」と答えた。それだけだった。

 

 でもその夜、遥は自分の部屋で、ノートに言葉を書き続けた。声に出せないことを、文字にした。ずっとそうやって生きてきたように。

 遥が書いたのは、転校生への言葉ではなかった。

 自分への言葉だった。

 

【最終話・中盤】

 私は来年も、笑顔を準備して学校に行くだろうか。

 たぶん、行く日もある。

 でも全部の日ではない、と思う。

 彼が来る前と、来た後では、何かが変わった。変わったものは、彼が去っても消えない気がした。

 一度でいいから、ちゃんと見てくれる人がいたということ。

 それは、もう、遥の中にあった。

 

 俺は読みながら、何かが胸の奥に触れるような感覚があった。

 続きを読んだ。

 

【最終話・終盤】

 転校前の最後の日、二人は放課後に並んで帰った。いつもと同じ道を、いつもと同じ速さで歩いた。特別なことは何もなかった。

 遥の家の近くまで来て、二人は立ち止まった。

 転校生が「元気で」と言った。

 遥が「うん」と答えた。

 それだけだった。

 転校生が歩き出した。

 遥はその背中を見ていた。振り返らないかもしれないと思いながら、見ていた。

 三十歩ほど行ったところで、転校生が振り返った。

 何も言わなかった。

 ただ、見た。

 遥も、見た。

 

 それで終わりだった。

 最後の場面は、その翌日だった。

 

 転校生のいない教室。遥がいつも通り登校して、いつも通り席に着く。窓の外は春の光。桜がもう少しで咲きそうだった。

 隣の席が空いていた。

 遥はその席を一度だけ見た。

 それから前を向いた。

 

 準備しない顔で、遥は笑った。

 

 

 俺はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。

 布団の中で、暗い部屋で、ひとりでいた。

 一時半を過ぎていた。

 最後の一文を、もう一度読んだ。

『準備しない顔で、遥は笑った』

 ずっと前から決まっていた、と水瀬さんは言っていた。

 そうだと思った。この一文のために、十六話分を書いてきたんだと思った。転校生が来て、去って、それでも遥の中に何かが残って、春の教室で準備しない顔で笑う。それが、水瀬柚月がずっと書きたかったことだったんだと思った。

 

「読みました」

 

 と送った。

 返信がすぐ来た。起きて待っていたらしかった。

 

「どうでしたか」

 

 俺はしばらく考えた。

 言葉をいくつか思い浮かべて、どれも足りない気がした。

 でも正直に書くことにした。

 

「泣きました」

 

 少し間があった。

 

「本当ですか」

「本当です」

「瀬川さんが泣くと思っていなかったから、少し驚きました」

「俺も思っていなかったです」

「どこで泣きましたか」

「『準備しない顔で、遥は笑った』で」

 

 また間があった。

 

「その一文、高校二年生のときに書いたんです」

 

 俺は少し驚いた。

 

「この小説より前に?」

「全部書く前に、最後の一文だけ書いていました。どんな話になるかわからなかったけど、この一文で終わる話を書こうと決めていた」

「なぜその一文だったんですか」

「当時の私に、一番必要な言葉だったから」

 

 俺はその文を読んで、もう一度最後の場面を思い返した。

 準備しない顔で笑う遥。

 水瀬さんが高校二年生のときに、自分に向けて書いた言葉。

 

「届きましたか」

 

 と俺は打った。

 

「何がですか」

「当時の自分に。書いていくうちに」

 

 長い沈黙があった。

 二分ほど経って、

 

「届いた気がします」

 

 と来た。

 それから、

 

「時間がかかりましたが」

 

 と続いた。

 

「遅くないです」

「瀬川さんがそれを言うと、説得力があります」

「なぜですか」

「言えなかったことが、言えた人だから」

 

 俺は少し笑った。

 

「水瀬さんも、言えた人です」

「私も?」

「準備しない顔で笑えた人です」

 

 長い沈黙があった。

 今度は三分ほど。

 

「泣きました」

「良い意味ですか」

「良い意味です。でも今夜は、良い意味だけです」

 

 しばらくして、

 

「瀬川さん」

 

 と来た。

 

「はい」

「この小説を書き始めたとき、誰かに読んでもらえるとは思っていなかったんです」

「そうですか」

「ただ書きたくて書いていた。誰にも見せられないと思っていた。でも渋谷で紙が飛んで、瀬川さんが拾ってくれて、読んでもらえた」

「拾えて良かったです」

「私も」

 

 少し間があって、

 

「瀬川さんが読んでくれたから、最後まで書けました」

 

 と来た。

 

「それは水瀬さんが書いたんです、と言うべきですか」

「今日は言わなくていいです」

「じゃあ言いません」

「ありがとうございます」

 

 しばらくして、

 

「眠れそうです、やっと」

 

 と来た。

 

「おやすみなさい」

「おやすみなさい。起こしてすみませんでした」

「起こしてくれて良かったです」

「なぜですか」

 

 俺は少し考えてから打った。

 

「一番に読めたので」

 

 返信が来るまで、少し間があった。

 

「瀬川さんに一番に読んでほしかったから、良かったです」

 

 それが最後のメッセージだった。

 

 

 スマホを置いて、俺は布団に横になった。

 部屋が暗かった。外は静かだった。

 天井を見ながら、最後の一文をもう一度頭の中で繰り返した。

『準備しない顔で、遥は笑った』

 水瀬さんが高校二年生のときに書いた言葉。

 自分に届けるために、何年もかけて書いた話。

 転校生は去ったが、遥の中に残ったものがあった。

 俺は目を閉じた。

 眠くなってきた。

 眠りに落ちる前に、ひとつだけ思った。

 来年の春、水瀬さんはどんな顔をしているだろう。

 準備しない顔で、笑っているといいと思った。

 たぶん、笑っている。

 そんな気がした。

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