君の声が、雑踏に落ちた   作:一色 遼

11 / 12
小説が終わって、二人の話が始まった。

 

 小説が完結した翌日、水瀬さんは会社を休んだ。

 朝、路地で会わなかったので、LINEを送った。

 

「今日は?」

「有給を取りました。燃え尽きました」

「それは正当な理由ですね」

「でしょう。今日は一日寝ます」

「おやすみなさい」

「まだ朝です」

 

 俺は笑いながら電車に乗った。

 仕事中、田村さんに「顔がにやけてる」と言われた。

 

「にやけていません」

「にやけてる。何かあった?」

「彼女が小説を書き終えました」

 

 田村さんは少し驚いた顔をした。

 

「あの、ずっと書いてた小説?」

「そうです」

「どんな話だったの」

 

 俺は少し考えた。

 

「女の子が、自分に言葉を届けるまでの話です」

 

 田村さんはしばらく俺を見ていた。

 

「それ、読んでみたいな」

「水瀬さんに聞いてみます」

「いや、いい」

 

 田村さんは首を振った。

 

「瀬川が言うなら、良い話なんだろうと思うから、それで十分」

 

 それ以上は何も言わなかった。

 

 

 水瀬さんが燃え尽きから回復したのは、三日後だった。

 

「生き返りました」

「おかえりなさい」

「三日間、何もしませんでした」

「何もしないのも仕事のうちだと思います」

「いいことを言いますね」

「ところで」

「はい」

「小説を書き終えて、どんな気持ちですか」

 

 少し間があった。

 

「不思議な気持ちです。ぽっかりしている、というか」

「遥がいなくなった感じですか」

「そうかもしれません。毎日あの子のことを考えていたから」

「寂しいですか」

「寂しいです。でも、すっきりもしています」

「それは良い終わり方をした証拠だと思います」

「そうですか」

「読んだ人間として、保証します」

 

 少し間があって、

 

「瀬川さんに読んでもらえて、本当に良かったです」

 

 と来た。

 

「俺もです」

「また何か書きます。いつか」

「読みます。いつでも」

「約束ですか」

「約束です」

 

 それから少し間があって、

 

「瀬川さん」

 

 と来た。

 

「はい」

「今週末、出かけませんか。いつもの公園ではなく」

「公園ではなく?」

「瀬川さんに、話したいことがあって」

 

 俺は少し考えた。

 

「土曜日はどうですか」

「行きましょう」

 

 

 土曜日、俺たちはまた吉祥寺に行った。

 水瀬さんが「また行きたい」と言ったからだ。

 

「特別な場所になりましたか」

 

 俺は聞いた。

 

「なりました。なんとなく降りた場所なのに」

「なんとなくが、特別になることはあります」

「私たちみたいに、ですね」

 

 俺は少し面食らった。

 

「俺たちは、なんとなくでしたか」

「風で飛んだ紙がなければ会っていないので」

 

 彼女は言った。

 

「なんとなく、じゃないですか」

「なんとなくを特別にしたのは、水瀬さんです」

 

 彼女がまた俯いた。

 

「瀬川さんは本当に、ずるいですね」

「すみません」

「謝らなくていいと、何度言えばわかるんですか」

 

 俺たちは笑いながら公園に入った。

 先週より寒かった。十二月も後半で、池の周りに霜が降りていた。それでも人は多かった。子供連れの家族、老夫婦、若いカップル。それぞれが自分のペースで歩いていた。

 俺たちも自分たちのペースで歩いた。

 池のほとりをぐるりと回って、ベンチに座った。

 水瀬さんがトートバッグから何か取り出した。

 小さな、クラフト紙の封筒だった。

 

「これ、渡したくて」

 

 俺は受け取った。

 

「開けていいですか」

「帰ってから開けてください」

「なぜですか」

「恥ずかしいから」

 

 彼女は前を向いた。

 

「目の前で開けられると、逃げ出したくなるので」

 

 俺は封筒をコートのポケットにしまった。

 

「話したいこととは、これですか」

「これもあります。でも、もう一つあって」

 

 水瀬さんはトートバッグの肩紐を両手で持った。

 

「小説のことです」

「最終話のことですか」

「最終話を、公開しようと思って」

 

 俺は少し驚いた。

 水瀬さんがこれまで書いたものを人に見せたのは、俺だけだった。友達にも、家族にも見せていないと言っていた。

 

「公開、というのは」

「小説投稿サイトに載せようと思っています。一話から最終話まで、全部」

「いつから考えていましたか」

「最終話を書き終えた夜から」

 

 彼女は言った。

 

「書き終えて、瀬川さんに読んでもらって、届いた気がしたんです。自分に。だったら、次は誰か別の人に届けてみたいと思って」

 

 俺は彼女の横顔を見た。

 

「怖くないですか」

「怖いです」

 

 水瀬さんはきっぱり言った。

 

「すごく怖い。読まれないかもしれないし、読まれても何も反応がないかもしれない。悪いことを言われるかもしれない」

「それでも公開したいですか」

「したいです」

 

 彼女は俺を見た。

 

「遥みたいな子が、どこかにいると思うから。準備した顔で毎日過ごしている子が。そういう子に届いたらいいと思って」

 

 俺はしばらく何も言わなかった。

 言えなかった、というより、言葉を探していた。

 

「公開したら、教えてください」

「読んでくれますか。もう全部読んでいるのに」

「もう一度読みます」

「なぜですか」

「一読者として読んでみたいので」

 

 俺は言った。

 

「初めて読む人と同じ気持ちで、一話から読んでみたい」

 

 水瀬さんが俺を見た。

 何か言いたそうな顔をして、でも言わなかった。

 少し赤くなっていた。

 

 

 帰り道、電車の中で水瀬さんはまた眠った。

 今日は最初から俺の肩に寄りかかってきた。この前よりも遠慮がなかった。

 それが嬉しかったのか、くすぐったかったのか、俺にはまだうまく区別がつかなかった。

 たぶん、両方だと思った。

 最寄り駅に着いて、水瀬さんが目を覚ました。

 

「また寝てしまいました」

「良かったですよ」

「瀬川さんの肩が良い枕なんです」

「それは光栄ですね」

「褒めています」

 

 改札を出て、夜道を歩いた。

 マンションの前まで来た。

 

「封筒、帰ってから開けてください」

 

 水瀬さんは念を押した。

 

「目の前で開けたら、本当に逃げます」

「逃げてもここから出られないですよ、マンションなので」

「そういう問題じゃないです」

 

 俺は笑った。

 

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 

 ガラスのドアが閉まった。

 

 

 アパートに帰って、コートを脱いだ。

 ポケットから封筒を取り出した。

 クラフト紙の封筒は、丁寧に糊付けされていた。開けるのが少し惜しかった。でも開けた。

 中に、二つ折りにした紙が入っていた。

 広げた。

 手書きの文字だった。

 水瀬さんの字は、少し丸みがあって、でも芯のある字だった。読みやすかった。

 書いてあったのは、短い文章だった。

 

 ──────────────────

 瀬川さんへ

 最終話を書き終えた夜、一時過ぎに連絡したとき、すぐ起きて読んでくれましたね。

 あのとき、良かったと思いました。この人に読んでもらえて良かった、ではなくて、この人の隣にいられて良かった、と思いました。

 私は長い間、誰かの隣にいることが怖かったです。頼っていいのかわからなくて、弱いところを見せたら嫌われると思っていて、だからずっと一人で抱えて、一人で書いていました。

 でも瀬川さんの隣は、怖くなかったです。

 最初から、不思議とそうでした。

 遥が転校生の隣で呼吸が深くなったみたいに、私も瀬川さんの隣で、少し深く息ができる気がしました。

 だから、ありがとうございます。

 紙を拾ってくれて、読んでくれて、一緒に考えてくれて、待っていてくれて、何でもない朝に言ってくれて。

 全部のことに、ありがとうございます。

 水瀬柚月

 P.S. 瀬川さんが言えなかったことを言えた人になれたのなら、私も言えなかったことを言えた人になりたいので、書きました。

 ──────────────────

 

 俺はしばらく、紙を持ったまま動かなかった。

 テーブルに紙を置いて、天井を見た。

 それから、スマホを取り出した。

 

「読みました」

 

 と送った。

 少し間があって、

 

「どうでしたか」

 

 と来た。

 

「水瀬さん」

「はい」

「電話してもいいですか」

 

 しばらく沈黙があった。

 既読がついて、十秒が経った。

 着信音が鳴った。

 水瀬さんからだった。

 俺は電話に出た。

 

「もしもし」

 

 水瀬さんの声がした。

 

「もしもし」

 

 少し間があった。

 

「読みましたか」

 

 彼女は言った。声が、少し緊張していた。

 

「読みました」

「どうでしたか」

「手紙を書いてくれる人だとは思っていなかったです」

「私もそういう人間じゃなかったんですが」

 

 少し間があった。

 

「瀬川さんには、書けました」

「なぜですか」

「瀬川さんが、読んでくれる人だとわかっているから」

 

 俺は少し考えてから言った。

 

「水瀬さん」

「はい」

「P.S.のこと、聞いてもいいですか」

 

 電話の向こうで、小さく息を吸う音がした。

 

「どうぞ」

「言えなかったことを言えた人になりたい、と書いてくれましたね」

「書きました」

「もう、なっていると思います」

 

 沈黙があった。

 

「なぜですか」

「あの手紙を書けた人が、言えなかった人のままなわけがないので」

 

 電話の向こうで、水瀬さんが小さく笑った。

 

「ずるい」

 

 と彼女は言った。

 

「すみません」

「謝らなくていいです」

 

 少し間があった。

 

「瀬川さん」

「はい」

「私の隣にいてください、これからも」

 

 俺は少し笑った。

 

「いますよ、隣に」

「約束ですか」

「約束です」

 

 また少し間があった。

 電話口に、お互いの静かな息の音だけがした。

 

「おやすみなさい」

 

 水瀬さんが言った。

 

「おやすみなさい」

 

 電話が切れた。

 俺はスマホを置いて、テーブルの上の手紙をもう一度見た。

 水瀬さんの、少し丸みのある字。

 折り目を丁寧に戻して、封筒にしまった。

 どこにしまおうか少し考えて、本棚の一番取り出しやすいところに立てかけた。

 明日も、普通の朝が来る。

 路地で会って、並んで歩いて、駅で別れる。

 それだけのことが、今は一番大切なことだった。

 電気を消した。

 部屋が暗くなった。

 眠りに落ちる前に、水瀬さんの手紙の一文が頭の中を流れた。

『この人の隣にいられて、良かった』

 俺も、そう思っていた。

 まったく同じように、そう思っていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。