君の声が、雑踏に落ちた 作:一色 遼
小説が完結した翌日、水瀬さんは会社を休んだ。
朝、路地で会わなかったので、LINEを送った。
「今日は?」
「有給を取りました。燃え尽きました」
「それは正当な理由ですね」
「でしょう。今日は一日寝ます」
「おやすみなさい」
「まだ朝です」
俺は笑いながら電車に乗った。
仕事中、田村さんに「顔がにやけてる」と言われた。
「にやけていません」
「にやけてる。何かあった?」
「彼女が小説を書き終えました」
田村さんは少し驚いた顔をした。
「あの、ずっと書いてた小説?」
「そうです」
「どんな話だったの」
俺は少し考えた。
「女の子が、自分に言葉を届けるまでの話です」
田村さんはしばらく俺を見ていた。
「それ、読んでみたいな」
「水瀬さんに聞いてみます」
「いや、いい」
田村さんは首を振った。
「瀬川が言うなら、良い話なんだろうと思うから、それで十分」
それ以上は何も言わなかった。
水瀬さんが燃え尽きから回復したのは、三日後だった。
「生き返りました」
「おかえりなさい」
「三日間、何もしませんでした」
「何もしないのも仕事のうちだと思います」
「いいことを言いますね」
「ところで」
「はい」
「小説を書き終えて、どんな気持ちですか」
少し間があった。
「不思議な気持ちです。ぽっかりしている、というか」
「遥がいなくなった感じですか」
「そうかもしれません。毎日あの子のことを考えていたから」
「寂しいですか」
「寂しいです。でも、すっきりもしています」
「それは良い終わり方をした証拠だと思います」
「そうですか」
「読んだ人間として、保証します」
少し間があって、
「瀬川さんに読んでもらえて、本当に良かったです」
と来た。
「俺もです」
「また何か書きます。いつか」
「読みます。いつでも」
「約束ですか」
「約束です」
それから少し間があって、
「瀬川さん」
と来た。
「はい」
「今週末、出かけませんか。いつもの公園ではなく」
「公園ではなく?」
「瀬川さんに、話したいことがあって」
俺は少し考えた。
「土曜日はどうですか」
「行きましょう」
土曜日、俺たちはまた吉祥寺に行った。
水瀬さんが「また行きたい」と言ったからだ。
「特別な場所になりましたか」
俺は聞いた。
「なりました。なんとなく降りた場所なのに」
「なんとなくが、特別になることはあります」
「私たちみたいに、ですね」
俺は少し面食らった。
「俺たちは、なんとなくでしたか」
「風で飛んだ紙がなければ会っていないので」
彼女は言った。
「なんとなく、じゃないですか」
「なんとなくを特別にしたのは、水瀬さんです」
彼女がまた俯いた。
「瀬川さんは本当に、ずるいですね」
「すみません」
「謝らなくていいと、何度言えばわかるんですか」
俺たちは笑いながら公園に入った。
先週より寒かった。十二月も後半で、池の周りに霜が降りていた。それでも人は多かった。子供連れの家族、老夫婦、若いカップル。それぞれが自分のペースで歩いていた。
俺たちも自分たちのペースで歩いた。
池のほとりをぐるりと回って、ベンチに座った。
水瀬さんがトートバッグから何か取り出した。
小さな、クラフト紙の封筒だった。
「これ、渡したくて」
俺は受け取った。
「開けていいですか」
「帰ってから開けてください」
「なぜですか」
「恥ずかしいから」
彼女は前を向いた。
「目の前で開けられると、逃げ出したくなるので」
俺は封筒をコートのポケットにしまった。
「話したいこととは、これですか」
「これもあります。でも、もう一つあって」
水瀬さんはトートバッグの肩紐を両手で持った。
「小説のことです」
「最終話のことですか」
「最終話を、公開しようと思って」
俺は少し驚いた。
水瀬さんがこれまで書いたものを人に見せたのは、俺だけだった。友達にも、家族にも見せていないと言っていた。
「公開、というのは」
「小説投稿サイトに載せようと思っています。一話から最終話まで、全部」
「いつから考えていましたか」
「最終話を書き終えた夜から」
彼女は言った。
「書き終えて、瀬川さんに読んでもらって、届いた気がしたんです。自分に。だったら、次は誰か別の人に届けてみたいと思って」
俺は彼女の横顔を見た。
「怖くないですか」
「怖いです」
水瀬さんはきっぱり言った。
「すごく怖い。読まれないかもしれないし、読まれても何も反応がないかもしれない。悪いことを言われるかもしれない」
「それでも公開したいですか」
「したいです」
彼女は俺を見た。
「遥みたいな子が、どこかにいると思うから。準備した顔で毎日過ごしている子が。そういう子に届いたらいいと思って」
俺はしばらく何も言わなかった。
言えなかった、というより、言葉を探していた。
「公開したら、教えてください」
「読んでくれますか。もう全部読んでいるのに」
「もう一度読みます」
「なぜですか」
「一読者として読んでみたいので」
俺は言った。
「初めて読む人と同じ気持ちで、一話から読んでみたい」
水瀬さんが俺を見た。
何か言いたそうな顔をして、でも言わなかった。
少し赤くなっていた。
帰り道、電車の中で水瀬さんはまた眠った。
今日は最初から俺の肩に寄りかかってきた。この前よりも遠慮がなかった。
それが嬉しかったのか、くすぐったかったのか、俺にはまだうまく区別がつかなかった。
たぶん、両方だと思った。
最寄り駅に着いて、水瀬さんが目を覚ました。
「また寝てしまいました」
「良かったですよ」
「瀬川さんの肩が良い枕なんです」
「それは光栄ですね」
「褒めています」
改札を出て、夜道を歩いた。
マンションの前まで来た。
「封筒、帰ってから開けてください」
水瀬さんは念を押した。
「目の前で開けたら、本当に逃げます」
「逃げてもここから出られないですよ、マンションなので」
「そういう問題じゃないです」
俺は笑った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ガラスのドアが閉まった。
アパートに帰って、コートを脱いだ。
ポケットから封筒を取り出した。
クラフト紙の封筒は、丁寧に糊付けされていた。開けるのが少し惜しかった。でも開けた。
中に、二つ折りにした紙が入っていた。
広げた。
手書きの文字だった。
水瀬さんの字は、少し丸みがあって、でも芯のある字だった。読みやすかった。
書いてあったのは、短い文章だった。
──────────────────
瀬川さんへ
最終話を書き終えた夜、一時過ぎに連絡したとき、すぐ起きて読んでくれましたね。
あのとき、良かったと思いました。この人に読んでもらえて良かった、ではなくて、この人の隣にいられて良かった、と思いました。
私は長い間、誰かの隣にいることが怖かったです。頼っていいのかわからなくて、弱いところを見せたら嫌われると思っていて、だからずっと一人で抱えて、一人で書いていました。
でも瀬川さんの隣は、怖くなかったです。
最初から、不思議とそうでした。
遥が転校生の隣で呼吸が深くなったみたいに、私も瀬川さんの隣で、少し深く息ができる気がしました。
だから、ありがとうございます。
紙を拾ってくれて、読んでくれて、一緒に考えてくれて、待っていてくれて、何でもない朝に言ってくれて。
全部のことに、ありがとうございます。
水瀬柚月
P.S. 瀬川さんが言えなかったことを言えた人になれたのなら、私も言えなかったことを言えた人になりたいので、書きました。
──────────────────
俺はしばらく、紙を持ったまま動かなかった。
テーブルに紙を置いて、天井を見た。
それから、スマホを取り出した。
「読みました」
と送った。
少し間があって、
「どうでしたか」
と来た。
「水瀬さん」
「はい」
「電話してもいいですか」
しばらく沈黙があった。
既読がついて、十秒が経った。
着信音が鳴った。
水瀬さんからだった。
俺は電話に出た。
「もしもし」
水瀬さんの声がした。
「もしもし」
少し間があった。
「読みましたか」
彼女は言った。声が、少し緊張していた。
「読みました」
「どうでしたか」
「手紙を書いてくれる人だとは思っていなかったです」
「私もそういう人間じゃなかったんですが」
少し間があった。
「瀬川さんには、書けました」
「なぜですか」
「瀬川さんが、読んでくれる人だとわかっているから」
俺は少し考えてから言った。
「水瀬さん」
「はい」
「P.S.のこと、聞いてもいいですか」
電話の向こうで、小さく息を吸う音がした。
「どうぞ」
「言えなかったことを言えた人になりたい、と書いてくれましたね」
「書きました」
「もう、なっていると思います」
沈黙があった。
「なぜですか」
「あの手紙を書けた人が、言えなかった人のままなわけがないので」
電話の向こうで、水瀬さんが小さく笑った。
「ずるい」
と彼女は言った。
「すみません」
「謝らなくていいです」
少し間があった。
「瀬川さん」
「はい」
「私の隣にいてください、これからも」
俺は少し笑った。
「いますよ、隣に」
「約束ですか」
「約束です」
また少し間があった。
電話口に、お互いの静かな息の音だけがした。
「おやすみなさい」
水瀬さんが言った。
「おやすみなさい」
電話が切れた。
俺はスマホを置いて、テーブルの上の手紙をもう一度見た。
水瀬さんの、少し丸みのある字。
折り目を丁寧に戻して、封筒にしまった。
どこにしまおうか少し考えて、本棚の一番取り出しやすいところに立てかけた。
明日も、普通の朝が来る。
路地で会って、並んで歩いて、駅で別れる。
それだけのことが、今は一番大切なことだった。
電気を消した。
部屋が暗くなった。
眠りに落ちる前に、水瀬さんの手紙の一文が頭の中を流れた。
『この人の隣にいられて、良かった』
俺も、そう思っていた。
まったく同じように、そう思っていた。