君の声が、雑踏に落ちた 作:一色 遼
三月に、水瀬さんは小説を公開した。
投稿サイトに登録して、一話から最終話まで、三日かけて順番にアップロードした。ペンネームは「水瀬」にした。本名のままだった。
「隠す必要がないと思って」
彼女は言った。
「勇気がありますね」
「怖いです。でも、隠したら負けな気がして」
公開初日、俺は一話から読み直した。
約束通り、初めて読む人間と同じ気持ちで読もうとした。
でも無理だった。
一話の冒頭、転校生が教室に入ってきた場面を読んだとたん、水瀬さんがこれを書いたときのことを思い出した。USBに入った十二話の草稿を時間をかけて読んだこと、十三話から一緒に考えたこと、最終話を一時過ぎに読んだこと。全部が一緒についてきた。
初めて読む人間にはなれなかった。
でも、それで良かった。
俺にはこの読み方しかできなかった。
「読み直しました」
と送った。
「どうでしたか。二回目は」
「初めて読む人間にはなれませんでした」
「なれなくて良かったです」
「なぜですか」
「瀬川さんには、全部知っていてほしいので」
公開から一週間、反応はほとんどなかった。
ブックマークが三つついた。PVのカウンターが少しずつ増えた。コメントはなかった。
「読まれていないかもしれません」
水瀬さんは言ったが、声は落ち込んでいなかった。
「三つブックマークがついています」
「三人、いるんですね」
「三人に届いたということです」
「そうですね」
彼女は頷いた。
「三人、いてくれた」
それで十分だ、と水瀬さんは思っているようだった。
俺もそう思った。
四月に入った頃、水瀬さんから昼間にLINEが来た。
仕事中だったが、なんとなく開いた。
「コメントが来ました」
「どんなコメントですか」
少し間があって、スクリーンショットが送られてきた。
コメント欄に、こう書いてあった。
──────────────────
はじめまして。高校二年生です。
昨日の夜、一話から最終話まで一気に読みました。
私、遥みたいだと思いました。毎朝、学校に行く前に笑顔の練習をしているから。
最後の一文を読んだとき、泣きました。
準備しない顔で笑える日が、私にも来るのかなと思いました。
来るといいです。来てほしいです。
素敵な話をありがとうございました。
──────────────────
俺はしばらく、スクリーンショットを見ていた。
デスクの前で、仕事中に、危うく泣きそうになった。
田村さんに見られる前にスマホをしまって、深呼吸した。
「届きましたね」
と送った。
返信が来るまで、少し間があった。
「届きました」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
その日の夜、公園のベンチに二人で座った。
四月の夜はまだ少し寒かったが、もう息は白くならなかった。桜が満開で、暗い中でもぼんやり白く浮かんでいた。
「あのコメント、何度読んでも泣けます」
水瀬さんは言った。
「何度読んだんですか」
「今日だけで、たぶん二十回くらい」
「それは泣き続けた一日ですね」
「泣き続けました」
彼女は笑った。
「会社でもこっそり泣きました」
「俺も職場で泣きそうになりました」
「本当ですか」
水瀬さんが俺を見た。
「田村さんに見られる前に抑えました」
彼女はしばらく俺を見て、それから笑った。声に出して笑った。久しぶりに聞く、大きな笑い声だった。
「瀬川さんが泣きそうになったということが、なんか、すごく嬉しいです」
「なぜですか」
「私が書いたものが、瀬川さんをそういう気持ちにさせたということだから」
俺は少し考えた。
「最初からそうでしたよ。一話を読んだ夜から」
水瀬さんが前を向いた。桜を見た。
「あの子に返事を書きました」
彼女は言った。
「どんな返事ですか」
「来ます、と書きました。準備しない顔で笑える日は、必ず来ます、と」
俺は頷いた。
「書けましたね、それが」
「書けました」
水瀬さんは言った。
「少し前の私には、書けなかったと思います。自分でも信じていなかったから」
「今は信じていますか」
「信じています」
彼女はまっすぐ前を向いていた。
「来ましたから、私には」
桜の花びらが一枚、風に乗って目の前を横切った。
水瀬さんが手を伸ばした。
花びらは指先をすり抜けて、地面に落ちた。
「惜しかったですね」
俺は言った。
「取れそうだったのに」
彼女は手を見た。
「また飛んできますかね」
「どうでしょう」
「次は取れる気がします」
俺は彼女の横顔を見た。
街灯の光の中で、桜の白が背景に滲んでいた。
準備していない顔だと思った。
笑っていた。
帰り道、マンションの前まで来た。
水瀬さんが立ち止まって、俺を見た。
「瀬川さん」
「はい」
「また小説を書こうと思っています」
「どんな話ですか」
「まだわかりません」
彼女は言った。
「ただ、次は最初から誰かに読んでもらうつもりで書こうと思って」
「誰かというのは」
「瀬川さんです」
水瀬さんはまっすぐ俺を見た。
「瀬川さんに読んでもらうつもりで書きます」
俺は少し考えてから言った。
「それは責任重大ですね」
「そうですよ」
彼女は笑った。
「覚悟してください」
「覚悟します」
「約束です」
「約束です」
ガラスのドアが開いた。
水瀬さんが中に入りながら、振り返った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアが閉まった。
俺は歩き出した。
春の夜道だった。
桜が満開で、風が吹くたびに花びらが舞った。
特別な夜じゃなかった。
でも、歩きながら思った。
渋谷で紙を拾ったのが去年の秋で、それからここまで来た。路地で会って、USBを受け取って、毎晩LINEをして、公園で話して、小説を読んで、何でもない朝に言葉を言って、手紙をもらって、電話して、今日ここにいる。
どれかひとつが欠けても、たぶん違う場所にいた。
風が飛ばした紙一枚が、ここまで連れてきた。
スマホを取り出した。
新しいメモを開いた。
一行だけ打った。
『なんとなくが、特別になることはある』
水瀬さんが言った言葉だった。
打ってから、少し考えて、もう一行足した。
『なんとなくを特別にするのは、結局、人だと思う』
メモを閉じた。
スマホをしまった。
夜道を歩いた。
花びらが一枚、目の前を横切った。
今度は手を伸ばさなかった。
伸ばさなくても、もうここにあるものがあると思ったから。
翌朝、路地で水瀬さんに会った。
「おはようございます」
「おはようございます」
並んで歩き出した。
それだけだった。
それだけで、十分だった。