君の声が、雑踏に落ちた   作:一色 遼

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彼女の書いたもの

 

 次に水瀬柚月と会ったのは、三日後だった。

 朝の七時四十分。駅へ向かう途中の細い路地で、向こうから歩いてきた。

 黒髪を後ろで一つに結んで、トートバッグを肩にかけている。目が合った瞬間、彼女の方が先に気づいた顔をした。

 

「瀬川さん」

「水瀬さん」

「おはようございます」

「おはようございます」

 

 朝だからか、夜より声が低かった。少し眠そうにも見えた。

 そのまま自然に並んで歩き始めた。どちらが誘ったわけでもない。ただ同じ方向だったから、そうなった。

 

「仕事ですか」

 

 俺は聞いた。

 

「はい。瀬川さんは?」

「同じく」

「何のお仕事を?」

「編集プロダクションです。雑誌とかwebの記事を作ってます」

 

 水瀬さんは少し目を開いた。

 

「じゃあ文章に詳しいんですね」

「詳しくはないですが、毎日触れてはいます」

「そうか」

 

 彼女は少し俯いた。

 

「それは……緊張しますね」

 

 俺は何を言っているんだろうと思ったが、すぐに気づいた。

 

「原稿の話ですか」

「はい」

「渡すつもりはまだありますか」

「あります」

 

 彼女はすぐ答えた。迷いがなかった。

 

「持ってきてます、今日」

 

 俺は思わず彼女のトートバッグを見た。

 

「今日会えると思ってたんですか」

「思ってませんでした」

 

 水瀬さんは真顔で言った。

 

「でも、もし会えたら渡せるように、三日間持ち歩いていました」

 

 返す言葉が、すぐには見つからなかった。

 三日間。

 毎朝このルートを通るかもしれない見知らぬ男に渡すために、原稿を鞄に入れて出かけていたということだ。

 

「……印刷したやつですか」

「USBです」

 

 一話から十二話まで入ってます、と彼女は言った。

 

「紙で渡すと重いので」

「そうですね」

「あと、紙は風で飛ぶので」

「確かに」

 

 駅の改札前で、彼女はトートバッグからUSBメモリを取り出した。白くて小さい、ごく普通のやつだ。

 

「読めなかったら読めなかったで、全然いいです」

 

 彼女は俺に差し出しながら言った。

 

「感想も、別に無理に言わなくていいです。ただ、一度でいいから、知らない人に読んでほしくて」

「知らない人に?」

「友達や家族には見せられないので」

 

 なぜ、とは聞かなかった。なんとなく、聞いてはいけない気がした。

 俺はUSBを受け取った。小さくて、軽かった。

 

「ありがとうございます」

 

 彼女が言った。

 

「読み終わったら、また会えますか」

「このルートを通っていれば、たぶん」

「じゃあ通ります」

 

 彼女は少しだけ笑った。

 それが彼女の笑顔を見た、初めての瞬間だった。

 

 

 その夜、俺はパソコンにUSBを差し込んだ。

 ファイルはひとつだけ入っていた。

 タイトルは『透明な午後に、君は来た』。

 作者名のところには何も書いていなかった。

 

 読み始めたのは夜の十一時。

 途中でお茶を飲んだ記憶はある。あとトイレに一回行った。それ以外は画面を見ていた。

 正直に言う。

 うまい文章ではなかった。

 リズムが崩れる箇所がいくつもあって、説明過多になる段落があって、主人公の心理描写が突然長くなりすぎる癖があった。編集者の目で見れば、赤を入れたいところが山ほどあった。

 それでも、止まれなかった。

 何かが引っかかっていた。文章の下に、何か埋まっているものがあった。

 物語の中心にいる女の子——三ノ宮遥(さんのみやはるか)は、高校二年生だ。どこにでもいる、目立たない女の子として描かれていた。友達はいる。成績は普通。家族とも普通に話す。笑いたい場面では笑う。

 でも、誰にも本当のことを話せなかった。

 何が『本当のこと』なのか、物語の序盤では明かされない。ただ彼女は毎日、何かを『片付けた顔』で生きていた。

 そこへ転校生の男の子が来る。

 彼は遥の顔を見て、最初にこう言う。

「なんで笑ってるの。全然笑ってないのに」

 俺はそこで一度画面から目を離した。

 天井を見た。

 それから、また画面に戻った。

 十二話まで、一気に読んだ。

 気がついたら朝の三時になっていた。

 

 

 翌朝、俺はいつもより二十分早く家を出た。

 路地で待っていたら、水瀬さんが来た。

 昨日と同じトートバッグ、同じルート。ただ今日は髪を下ろしていた。

 俺を見て、少し驚いた顔をした。

 

「読みました」

 

 俺は言った。

 

「……全部ですか」

「全部です」

 

 彼女は立ち止まった。俺も立ち止まった。

 

「どうでしたか」

 

 俺は正直に言おうと思っていた。技術的な話、気になった箇所、修正点。仕事柄、そういう言葉の方が出やすい。

 でも最初に口から出たのは、そういうことではなかった。

 

「三ノ宮遥は、あなたですか」

 

 水瀬さんの表情が、かすかに動いた。

 

「……なぜそう思ったんですか」

「わからないですけど」

 

 俺は言った。

 

「書き方が変わるんです、彼女の場面だけ。他のキャラクターを書くときと、温度が違う」

 

 沈黙。

 朝の路地に、遠くで車の音がした。

 

「当たりです」

 

 水瀬さんは静かに言った。

 

「でも、昔の私です。今の私じゃない」

「昔、って」

「高校二年生のころ」

 

 俺は少し計算した。水瀬さんが今年二十三か二十四くらいだとすると、六、七年前の話だ。

 

「転校生は」

「いません」

 

 彼女はまっすぐ俺を見た。

 

「あの子は、私が来てほしかった人間です。来なかった」

 

 俺は何も言えなかった。

 言えなかったけど、目を逸らすこともできなかった。

 

「だから小説にしました」

 

 水瀬さんは続けた。

 

「来なかったから、書いた。来てくれたら、どんな言葉をかけてくれたかな、って」

 

『なんで笑ってるの。全然笑ってないのに』

 さっき読んだ台詞が頭の中で再生された。

 彼女が、自分のために書いた言葉だった。

 

「続きを書きますか」

 

 俺は言った。

 

「書きたいとは思っています。でも、十二話から先が書けなくて」

「なんで」

「転校生が来て、遥と仲良くなって、ここまでは書けた。でも、その先に何が起きるのか、私にはわからなくて」

 

 俺は彼女の顔を見た。

 彼女も俺を見ていた。

 

「……続きを、一緒に考えてもいいですか」

 

 自分でも驚くことを言っていた。

 水瀬さんが目を丸くした。

 

「どうしてですか」

「面白かったからです」

 

 それは本当のことだった。技術的なことを全部除いても、あの話には何かがあった。読んだ人間を、少しだけ変えてしまうような何かが。

 

「瀬川さんは」

 

 水瀬さんがゆっくり言った。

 

「優しいんですか、それとも変な人なんですか」

「たぶん後者です」

 

 彼女はまた笑った。

 今度は昨日より、少し長く。

 

 

 駅で別れた後、俺は電車の中でスマホにメモを打ち込んだ。

 感想の断片と、気になった箇所と、それから——思いついたことをひとつ。

 十三話の書き出し。

 転校生の視点で、こういう台詞がいいんじゃないかと思った。

『あの子は毎日、笑顔の準備をして学校に来る。俺はそれに気づいてしまったから、もう見ないふりができなくなった』

 送っていいものかどうか迷った。

 連絡先を聞いていないことに、改めて気づいた。

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