君の声が、雑踏に落ちた 作:一色 遼
連絡先を聞いたのは、翌朝だった。
またあの路地で会えるとは限らなかったので、俺は少し早めに家を出てその辺をうろうろしていた。傍から見たら完全に不審者だったと思う。
水瀬さんは七時四十三分に現れた。
昨日より三分遅い。そういう細かいことを覚えてしまうのは、編集の仕事の癖だと思う。
「また待ってたんですか」
彼女は言った。
「たまたまです」
「三日続けてたまたまは無理があります」
正論だった。
「連絡先を交換させてください」
俺は言った。
「伝えたいことがあって」
「伝えたいこと」
「十三話の書き出し、考えたんです」
水瀬さんは三秒ほど俺を見ていた。
それから、スマホを取り出した。
その日の夜、俺はLINEにメモを貼り付けて送った。
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転校生の視点で、こういう入り方はどうかと思いました。
合わなければ無視してください。
「あの子は毎日、笑顔の準備をして学校に来る。俺はそれに気づいてしまったから、もう見ないふりができなくなった」
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送信してから、少し後悔した。
余計なことだったかもしれない。彼女は感想を求めていただけで、続きの手伝いを頼んだわけじゃない。俺が勝手に先走っている。
風呂から出てスマホを見たら、返信が来ていた。
「泣きました」
それだけだった。
俺はしばらくその五文字を見ていた。
「泣いたのは良い意味ですか?」
と送ったら、
「良い意味です。なんでわかったんですか、この入り方」
と返ってきた。
「読んでいて、転校生がそういう人間だと思ったので」
「彼はどこで気づいたと思いますか」
「最初から、だと思います。初日の教室で、遥さんを見た瞬間に」
返信が来るまで、少し間があった。
「それは私が書きたかったことです。でも書けなかった」
「なぜ書けなかったんですか」
「わかりません。怖かったのかもしれません」
俺は少し考えてから打った。
「最初から気づいていた、って書くことが?」
「そうなると、彼が遥のことをずっと見ていたことになるから」
「それは怖いですか」
「怖い、というより……嬉しすぎて、書けなかった。そんなこと、現実には起きなかったから」
俺は返信の文章を三回書き直した。
最終的に送ったのは、
「起きなかったから、書くんだと思います」
だった。
しばらくして、
「そうですね」
と返ってきた。
それからしばらく、既読がついたまま返信がなかった。
俺も何も送らなかった。
それでも、悪い沈黙じゃなかった。
それから二週間、俺たちはほぼ毎晩LINEでやり取りをした。
内容のほとんどは、小説の話だった。
水瀬さんが書いた草稿を送ってきて、俺が読んで感想を返す。気になった箇所を指摘すると、彼女は不思議と素直に受け取った。反論することもあったが、それも筋が通っていた。
「ここの『胸が痛かった』は、もう少し具体的にできると思います」
「どう具体的にですか」
「たとえば、痛みの場所とか。左胸なのか、右胸なのか。感情によって場所が変わる気がして」
「……確かに。これは左胸です」
「じゃあそう書いた方が伝わります」
「瀬川さんって編集者っぽいですね」
「一応そういう仕事です」
「そうだった。心強い」
そういうやり取りが続いた。
仕事から帰って、飯を食って、スマホを開く。水瀬さんから何か来ていないか確認するのが、いつの間にか習慣になっていた。
田村さんに「最近顔が柔らかくなったね」と言われた。
「どういう意味ですか」
「怖くなくなったってこと」
「元々怖くないです」
「自覚ないのか」
田村さんはお茶をすすった。
「彼女でもできたの?」
「違います」
「へえ」
それ以上は聞いてこなかったが、田村さんの「へえ」には大量の続きが含まれていた。
十三話が完成したのは、やり取りを始めて十八日後だった。
水瀬さんから送られてきたファイルを開いて、俺は冒頭を読んだ。
【『透明な午後に、君は来た』第十三話・冒頭】
俺は最初から気づいていた。
三ノ宮遥が、毎朝笑顔を準備してから教室に入ってくることに。
それに気づいたとき、俺は思った。——この子の、準備する前の顔が見たい、と。
俺はそこで一度スクロールを止めた。
それから最後まで読んだ。
読み終わって、スマホを置いて、天井を見た。
今までの十二話を最初に読んだとき以来の感覚だった。
「読みました」
と送った。
「どうでしたか」
「すごく、いい」
「本当ですか」
「本当です。冒頭が特に良かった」
「それ、瀬川さんが考えたやつじゃないですか」
「骨格だけです。肉をつけたのはあなたです」
少し間があって、
「今、外ですか」
と来た。
「家ですが」
「私は近くの公園にいます。書き終わって、落ち着かなくて」
俺は時計を見た。夜の十一時半。
「一人ですか」
「はい」
「寒くないですか、今日」
「少し寒いです。でも外に出たかった」
俺はしばらく考えた。
余計なことだと思いながら、打った。
「行ってもいいですか」
「はい」
返信は、すぐ来た。
公園は駅から徒歩三分のところにある小さな公園だった。
ベンチが三つと、古いブランコと、誰も使っていない砂場がある。夜は街灯が一本だけ灯っていて、それ以外は暗い。
水瀬さんはベンチに座って、膝の上にトートバッグを置いていた。
俺が近づくと、顔を上げた。
「早かったですね」
「近いので」
「そうですね」
俺は隣に座った。適切な距離を取って。
しばらく、二人とも黙っていた。
秋の夜で、風が少しあった。木の葉が揺れる音がした。
「書き終わった後って、こういう気持ちになるんですか」
俺は聞いた。
「いつもじゃないです」
水瀬さんは言った。
「今日だけ。十三話だけ、なんか……出てきてしまって」
「出てきた?」
「転校生が、遥に初めてちゃんと話しかける場面を書いたんです。今日」
「読みました」
「あの場面を書いていたら、急に泣けてきて。泣きながら書いて、書き終わったら外に出たくなった」
俺は彼女の横顔を見た。
街灯の光が、彼女の輪郭をぼんやり照らしていた。
「来てほしかった人間のことを、思い出しましたか」
水瀬さんは少しだけ目を細めた。
「……思い出すというより」
彼女はゆっくり言った。
「書いているうちに、だんだんわからなくなってきて」
「何が」
「遥が、昔の私なのか、今の私なのか」
風が吹いた。
俺は何も言わなかった。
「転校生がいてくれたら良かったと思っていたんです、ずっと。でも、書いていたら——」
彼女は膝の上のバッグをぎゅっと掴んだ。
「いなくても、書けたじゃないかって。話しかけてもらえなくても、私は今日ここにいるじゃないかって」
俺はそれを聞いて、何か言おうとした。
でも水瀬さんが先に続けた。
「おかしいですよね、こんな話」
「おかしくないです」
「慰めですか」
「違います」
俺は言った。
「あなたの書いたものが、そこまであなたに返ってきているってことだと思う。それは良いことだと思う」
水瀬さんが俺を見た。
俺も彼女を見た。
「瀬川さんは」
彼女が言った。
「どうして私の小説を、こんなに真剣に読んでくれるんですか」
俺は少し考えた。
正直に言うことにした。
「最初に読んだとき、一箇所だけ、ものすごく刺さった場面があって」
「どこですか」
「転校生が遥さんに最初にかけた言葉です。『なんで笑ってるの。全然笑ってないのに』って」
水瀬さんが静かに息を吸った。
「あれを読んだとき、俺も昔、誰かに言いたかったんだと気づいた。ちゃんと言えないまま、終わった人間がいて」
水瀬さんは何も言わなかった。
俺も、もうそれ以上は言わなかった。
二人でしばらく、暗い公園の夜を見ていた。
「続き、書けそうですか」
俺は少しして言った。
「書けます」
水瀬さんは答えた。
「瀬川さんが読んでくれるなら」
「読みます」
「約束ですか」
「約束です」
彼女が立ち上がった。俺も立ち上がった。
帰り道、ほとんど喋らなかった。
それでも、並んで歩いた。
分かれ道の前で別れるとき、水瀬さんが振り返って言った。
「瀬川さんの言えなかった人に、いつか言えるといいですね」
俺は少し考えてから、答えた。
「もう言えてる気がします」
彼女は首を傾げた。
俺は「おやすみなさい」と言って、歩き出した。
背中に、小さな「おやすみなさい」が聞こえた。