君の声が、雑踏に落ちた 作:一色 遼
十四話の草稿が届いたのは、十三話の完成から五日後だった。
いつもより短い。水瀬さんは普段、一話書き上げるのに十日から二週間かかる。それが五日というのは、俺の中で少し引っかかった。
ファイルを開いて、すぐわかった。
短かった。
原稿用紙換算でおそらく八枚ほど。彼女の一話の平均は十五枚前後なので、ほぼ半分だ。しかも途中で唐突に終わっていた。文章が尻切れになっているわけではなく、場面がひとつ終わったところでぷつりと止まっている。続きを書けなかったのではなく、書かなかった——いや、書けなかったのか。判断がつかなかった。
内容は、転校生の視点で書かれた遥との会話場面だった。放課後の教室、二人きり。転校生が遥に「最近、ちゃんと眠れてるか」と聞く。遥が「眠れてます」と答える。転校生が「嘘だ」と言う。遥が黙る。
そこで終わっていた。
「読みました」
と送った。
「どうでしたか」
「途中までは良かったです。続きはどこですか」
既読がついて、しばらく間があった。
「書けなくなりました」
「どこで止まりましたか」
「遥が黙った後、転校生が何を言うか、わからなくて」
俺は少し考えた。
「転校生は何も言わなくていいと思います」
「何も言わない?」
「黙ったまま、隣に座るだけでいい場面な気がして」
また間があった。
「それだと、地の文で何か書かないと場面が動かないですよね」
「遥の内側を書けばいいと思います。隣に誰かがいるというだけで、変わるものがあるはずなので」
今度は長い沈黙だった。五分ほど既読のまま返信がなかった。
俺はお茶を飲みながら待った。
やがて、
「瀬川さん、少し聞いていいですか」
と来た。
「どうぞ」
「小説と関係ない話です」
「構いません」
「瀬川さんは、誰かの隣にいるだけで、その人が変わったと感じたことはありますか」
俺は少し、手が止まった。
打ちかけた文字を消して、もう一度考えた。
「あります」
「どんなときですか」
「父親が入院したとき。見舞いに行って、病室でずっと黙って座っていた。何も喋らなかった。でも帰り際に父親が『来てくれてよかった』と言った」
「それは、瀬川さんがいたから変わったんですね」
「そうだと思います」
「そういうことを、書けるかどうかが、私にはわからなくて」
俺は首を傾げながら打った。
「書けないと思う理由はなんですか」
また間があった。
今度の沈黙は、少し種類が違う気がした。
「隣にいるだけで変わる、というのがどういう感覚なのか、私にはまだよくわからないから、だと思います」
俺はその一文を、三回読んだ。
三回読んで、慎重に打った。
「それは、経験したことがないということですか」
「そうかもしれません」
「人が隣にいても、何も変わらなかった?」
「変わらなかった、というより——変わっていいのかどうか、わからなかった。誰かに頼っていいのかどうか」
俺はしばらくスマホを持ったまま、動かなかった。
遥の話をしているのか、水瀬さん自身の話をしているのか、もうはっきり区別がつかなかった。
でも、どちらでも同じことだと思った。
「続きを書くのを、少し待ちませんか」
と俺は送った。
「待つ?」
「急いで書かなくていいと思って。十四話の続きは、書けるようになってから書けばいい」
「でも、止まるのが怖くて」
「なぜですか」
「止まったら、もう書けなくなりそうで」
俺は少し考えてから打った。
「書けなくなることと、書かないことは違います。今は書かない、でいいと思う」
長い沈黙。
「瀬川さんは、なんでそんなに落ち着いてるんですか」
「落ち着いてないですよ」
「そうは見えないです」
「文字だと伝わらないだけです」
少し間があって、
「笑いました」
と来た。
次に水瀬さんに会ったのは、その三日後の朝だった。
路地で会うのは久しぶりだった。ここ最近は出勤時間がずれていて、なかなかタイミングが合わなかった。
「おはようございます」
「おはようございます」
並んで歩き出した。朝の空気が少し冷たかった。十一月に入ったせいだ。
「小説の話なんですが」
水瀬さんが言った。
「はい」
「十四話の続き、書けました」
「いつですか」
「昨日の夜」
彼女は前を向いたまま言った。
「瀬川さんに言われた通り、遥の内側を書いたら、するっと出てきました」
「どう書きましたか」
水瀬さんは少し考える顔をした。
「遥が、転校生の隣で息をする場面にしました。ただ息をするだけ。それだけなのに、なんか今日は呼吸が深いな、と遥が気づく場面」
俺は頷いた。
「それは良いと思います」
「送るので、読んでもらえますか」
「今夜読みます」
しばらく黙って歩いた。
駅が近づいてきたところで、水瀬さんが口を開いた。
「瀬川さん」
「はい」
「お父さん、今は元気ですか」
俺は少し驚いた。LINEで話したことを、ちゃんと覚えていた。
「元気です。もう退院して、実家にいます」
「良かった」
彼女は小さく言った。
「あの話、なんか……ずっと頭に残っていて」
「そうですか」
「何も喋らなくても、来てくれてよかった、って言えるお父さんがいるんだなって」
俺は彼女の横顔を見た。
彼女は前を向いていた。
「水瀬さんのお父さんは」
「います」
彼女はすぐ答えた。
「ただ、あまり、そういう話ができる感じじゃなくて」
「そういう話、というのは」
「来てくれてよかった、みたいな話」
俺は何も言わなかった。
駅の前で立ち止まった。ここで俺たちはいつも別れる。俺は東口、彼女は西口だ。
「瀬川さん」
水瀬さんがまた言った。
「はい」
彼女は俺を見て、一瞬だけ何か迷う顔をして、それから言った。
「私の隣にいてくれて、よかったです。最近」
俺はその言葉を、一度そのまま受け取った。
受け取ってから、答えた。
「俺もです」
水瀬さんが頷いた。
それだけで、彼女は西口に向かって歩き出した。
俺はしばらくその背中を見ていた。
それから東口に向かって、歩いた。
電車の中で、スマホを取り出した。
新しいメモを開いて、一行打った。
『隣にいるだけで変わるというのが、少しわかった気がする』
書いてから、消した。
でも、消しても、なくなるわけじゃなかった。