君の声が、雑踏に落ちた 作:一色 遼
十四話の完成版が届いたのは、その日の夜だった。
仕事から帰って、シャワーを浴びて、冷蔵庫から缶ビールを取り出したタイミングでスマホが鳴った。
「送りました。今夜じゃなくて大丈夫です」
今夜読む、と朝に言ったので開いた。
冒頭から読み直した。
転校生が遥に「最近、ちゃんと眠れてるか」と聞く。遥が「眠れてます」と答える。転校生が「嘘だ」と言う。遥が黙る。
そこから先が、新しく書かれた部分だった。
【『透明な午後に、君は来た』第十四話・中盤】
遥は黙ったまま、窓の外を見た。
返す言葉が見つからなかったわけじゃない。「本当に眠れてます」でも「なんでわかるんですか」でも、どちらでも言えた。
でも、言わなかった。
彼が隣に座ったからだ。
何も言わないまま、ただ隣の椅子を引いて、座った。それだけだった。それだけなのに、遥は今日、自分の呼吸が少し深いことに気がついた。
いつもより、空気が肺の奥まで届いている。
それが怖かった。怖いのに、悪くなかった。
俺はそこで一度、缶ビールを置いた。
続きを読んだ。
最後まで読んで、スマホを持ったまましばらく動かなかった。
「読みました」
「どうでしたか」
「後半、良かったです。特に呼吸の場面」
「あそこは、書いてみたら自然に出てきました」
「書けるようになったんですね」
「瀬川さんのおかげです」
俺は少し考えてから、
「水瀬さんが書いたんです」
と送った。
「……それはそうですが。でも、ありがとうございます」
「どういたしまして」
と打ちかけて、止めた。
なんとなく、もう少し話したかった。
「今日、書きながらどんな気持ちでしたか」
少し間があった。
「ダメでしたか」
「ダメじゃないですが……珍しいなと思って。瀬川さんが、そういうことを聞くの」
「気になったので」
また間があった。今夜の水瀬さんは、返信の前に必ず少し考える。
「書いているとき、遥と自分の境界線がなくなる感じがしました」
「それは怖いですか」
「最初は怖かった。でも今日は、そうでもなかった」
「なぜですか」
「なんでだろう」
しばらくして、
「瀬川さんが読んでくれるから、かもしれない」
と来た。
俺はその文を見て、返信を打つのに少し時間がかかった。
「責任重大ですね」
「そうですよ」
それから、
「冗談です。でも、半分本当です」
と続いた。
その週の金曜日、田村さんに飲みに連れて行かれた。
行きつけの居酒屋で、田村さんはビールを一杯飲み終わらないうちに本題に入った。この人はいつもそうだ。
「例の子、どうなってんの」
「例の子とは」
「柔らかくなった原因」
俺は枝豆を食べた。
「友人です」
「何歳?」
「たぶん二十三か二十四」
「たぶん、ってことは聞いてないのか」
田村さんは呆れた顔をした。
「何してんの」
「小説の話ばかりしているので」
「小説?」
「彼女が書いている小説を、俺が読んでいます」
田村さんはしばらく俺を見ていた。
「それって、かなり近くない?」
「そうですか」
「人が書いたもの読むって、相当踏み込んだことだよ」
田村さんはビールをあおった。
「特に小説とか詩とか、ああいうのはさ、書いた人間の内側を見せてもらってるわけじゃん」
俺は少し考えた。
「確かに」
「で、瀬川はその子のこと、どう思ってんの」
「どう、というのは」
「好きかどうかって聞いてんの」
俺は枝豆を一つ取った。
取ってから、食べなかった。
「わからないです」
「わからない、ねえ」
田村さんは面白そうに笑った。
「まあ、わからないうちはわからないよね」
「田村さんは、どうやってわかるんですか」
「その人のいない場所で、その人のことを考えてたらだいたいそうだよ」
俺は黙った。
「考えてるじゃん」
田村さんが言った。
「……今聞かれたから考えてるだけです」
「今だけじゃないでしょ」
俺はビールを飲んだ。
田村さんはそれ以上追及しなかった。この人は口が悪いが、引き際は心得ている。
帰り道、夜風の中を歩きながら、俺は田村さんの言葉を反芻した。
その人のいない場所で、その人のことを考えてたらだいたいそうだよ。
電車の中で水瀬さんのことを考えた。
仕事中に、彼女が昨日送ってきた文章の一節を思い出した。
朝、路地を歩きながら、今日は会えるかどうかを気にしていた。
俺はアパートのドアを開けながら、小さく息を吐いた。
田村さんには、報告しないでおこうと思った。
土曜日の昼過ぎ、スマホが鳴った。
「今日、時間はありますか」
洗濯物を干していた手を止めた。
「あります」
「もし良ければ、少し会えませんか。小説の話ではなくて」
小説の話ではなく、という部分を二回読んだ。
「どこにいますか」
「家です」
「近くの喫茶店でいいですか。十五時に」
「はい」
喫茶店は駅前の古い店で、木製のカウンターと窓際の席が四つある小さなところだった。俺はコーヒーを頼んで窓際に座った。
水瀬さんは五分後に来た。グレーのコートを着ていた。休日の彼女を見るのは初めてだったが、なんとなく想像通りの格好だった。
「すみません、急に」
「大丈夫です。何かありましたか」
水瀬さんはコートを脱いで、紅茶を注文してから、テーブルの上で両手を重ねた。
「昨日、実家から電話がきて」
彼女は言った。
「はい」
「父が、来月少し体調を崩す予定があって」
「予定、というのは」
「手術です。大きくはないんですが、全身麻酔をかける手術で」
俺は黙って聞いた。
「それで、できれば帰ってきてほしいと母から言われて」
彼女はカップを両手で包んだ。
「帰る気持ちはあるんですが、なんか……落ち着かなくて」
「実家はどちらですか」
「新潟です」
「遠くはないですね」
「はい。日帰りもできる距離で」
彼女は少し俯いた。
「だから余計に、帰らない理由もないんですが」
俺は少し考えた。
「帰りたくない気持ちがありますか」
水瀬さんが顔を上げた。
「……なんでわかるんですか」
「帰る気持ちはある、と最初に言ったので」
彼女はしばらく俺を見ていた。
「帰りたくない、というより」
彼女はゆっくり言葉を選んだ。
「帰っても、うまく話せない気がして。父とも、母とも」
「普段から、そうですか」
「小さいころからずっと、あまり話せなくて」
彼女はカップを見た。
「怒られるとか、そういうことじゃなくて。ただ、なんか……本当のことを言える雰囲気じゃなかった」
「本当のことというのは」
「弱いところとか、しんどいところとか」
彼女は少し眉を寄せた。
「うちは、みんなちゃんとしているので。ちゃんとしていない私が浮く感じがして」
俺には何も言えなかった。
でも、黙って聞いていた。
「だから小説を書いていたんだと思います」
水瀬さんは続けた。
「言えないことが、文字なら書けたから」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「それを俺に話してくれているのは、なぜですか」
彼女は少し考えた。
「瀬川さんには、言える気がするから」
「なぜ言えるんですか」
「わかりません」
彼女は首を振った。
「でも、たぶん……瀬川さんが、私の書いたものを読んでくれたからだと思います。あれを読んで、それでも普通に接してくれたから」
俺はその言葉を、ゆっくり受け取った。
「実家、帰った方がいいと思います」
俺は言った。
「そうですよね」
「帰って、うまく話せなくても、帰ったこと自体が伝わるものがあると思うので」
水瀬さんは小さく頷いた。
「瀬川さんのお父さんの話みたいに」
「そうです」
彼女はしばらく窓の外を見た。
午後の光が、テーブルの上に細く差し込んでいた。
「帰ってきたら、報告してもいいですか」
彼女が言った。
「してください」
「小説の話じゃなくても?」
「小説の話じゃなくてもいいです」
水瀬さんが俺を見た。
「瀬川さん」
「はい」
「来てくれてよかった、今日」
俺は一瞬、何かが胸のどこかに触れるような感覚があった。
それを確かめるより先に、答えた。
「俺もです」
彼女が笑った。
今日のそれは、今まで見た中で一番、時間が長かった。