君の声が、雑踏に落ちた   作:一色 遼

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帰ってきた夜

 

 水瀬さんが新潟へ行ったのは、木曜日だった。

 朝、路地で会った。

 

「今日、実家に行きます」

 

 と彼女は言った。

 

「何泊ですか」

「二泊。土曜日に帰ってきます」

「わかりました」

 

 それだけだった。

 俺は「気をつけて」と言おうとして、なぜか言えなかった。言い慣れていない言葉というのがある。日常的に誰かを送り出す習慣が、俺にはなかった。

 水瀬さんは「じゃあ」と言って歩き出した。

 三歩ほど行ったところで、振り返った。

 

「帰ってきたら、連絡します」

「はい」

 

 それだけで、彼女は行った。

 

 

 木曜の夜は、特に何もなかった。

 金曜の夜も、特に何もなかった。

 いつもと同じように仕事して、帰って、飯を食った。スマホを見る回数が、少し増えた気がした。気のせいにしておいた。

 土曜日の夜、二十時過ぎにLINEが来た。

 

「帰ってきました」

「おかえりなさい」

「ただいまです」

 

 俺はしばらく次の言葉を考えた。

 

「どうでしたか」

 

 送ってから、漠然としすぎたと思った。でも水瀬さんは少し考えてから答えてくれた。

 

「思ったよりは、大丈夫でした」

「思ったよりというのは」

「父と、少し話せました。大した話じゃないんですが」

「どんな話ですか」

「昔、父と行った海の話。新潟の、小さい漁港で。私が小学生のころの話です」

 

 俺は少し意外だった。

 

「お父さんから話しかけてきたんですか」

「はい。手術の前に、なんか思い出したみたいで」

「それは良かったです」

「うん」

 

「うん」という返信は初めてだった。

 いつもより少し力が抜けている気がして、俺は続けた。

 

「今、どこにいますか」

「家です。さっき着いて、荷物も片付けてない」

「食事はしましたか」

「新幹線の中でおにぎりを食べました」

「それは食事とは言いません」

「言いますよ」

「言いません。何か食べてください」

 

 少し間があって、

 

「瀬川さんって、たまにお母さんみたいなことを言いますね」

 

 と来た。

 

「お母さんとは少し違うと思いますが」

「どう違うんですか」

 

 俺は少し考えた。

 

「お母さんだったら、もっとうまく心配できると思います」

 

 しばらくして、

 

「笑いました」

 

 と来た。それから、

 

「外、出られますか」

 

 と続いた。

 

「今からですか」

「はい。なんか、外の空気が吸いたくて。一人だと心細い気がして」

 

 俺は立ち上がりながら打った。

 

「十分で行きます」

 

 

 公園は静かだった。

 十一月の夜だから当然だが、公園に人の姿はなく、街灯だけが白い光を落としていた。

 水瀬さんはベンチに座って、膝の上にコートをかけていた。セーターの上に着るほど寒くはないが、かけるくらいの寒さ、という絶妙な温度だった。

 

「お帰りなさい」

 

 俺は隣に座りながら言った。

 

「ただいまです」

 

 彼女は前を向いたまま言った。

 

「来てくれてありがとうございます」

「近いので」

「毎回それを言いますね」

「事実なので」

 

 水瀬さんが小さく笑った。

 しばらく二人で黙っていた。遠くで車の音がして、風が木の葉を揺らして、また静かになった。

 

「父とした海の話」

 

 水瀬さんが口を開いた。

 

「聞いてもらえますか」

「もちろん」

「小学校三年生のとき、夏休みに父と二人で漁港に行ったんです。母は体調が悪くて、弟はまだ小さくて、だから父と二人だけで」

 

 彼女は膝の上のコートをぎゅっと掴んだ。

 

「その日、父があんまり喋らなくて。もともと無口な人なんですが、特に何も話さないまま、二人で海を見てて」

「はい」

「帰り際に、父が急に『来てよかったな』と言ったんです。私に言ったのか、独り言なのか、わからない感じで」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

「私はそのとき何も答えられなくて。うん、とも言えなくて。そのまま車に乗って帰って」

 

 彼女は少し息を吸った。

 

「それからずっと、なんで何も言えなかったんだろうって思ってて」

「何年間も?」

「変ですよね」

「変じゃないです」

「でも今日、その話を父がしてくれて」

 

 水瀬さんは続けた。

 

「『あのとき楽しかったな』って。それで私、やっと言えたんです」

「何を言えたんですか」

「私も楽しかった、って」

 

 俺は彼女の横顔を見た。

 街灯の光の中で、彼女は少し目が赤かった。泣いたのか、疲れているのか、あるいは両方か。

 

「十何年かかったんですね」

 

 俺は言った。

 

「そうですね」

 

 彼女は苦笑した。

 

「遅いですよね」

「遅くないと思います」

「なんでですか」

「言えたんだから」

 

 水瀬さんが俺を見た。

 俺も彼女を見た。

 

「瀬川さんは」

 

 彼女が言った。

 

「言えなかったって話、してくれましたよね。昔、誰かに」

 

 あの時も夜の公園だった。公園で、俺が話したこと。

 

「はい」

「その人のことを、聞いてもいいですか」

 

 俺は少し考えた。

 断る理由はなかった。ただ、話し慣れていなかった。

 

「同い年の女の子でした」

 

 俺は言った。

 

「大学のとき」

「どんな人でしたか」

「よく笑う人だったんですが」

 

 俺は前を向いたまま言った。

 

「笑っていないときの顔の方が、本当の顔な気がしていた」

 

 水瀬さんが少し動いた気配がした。

 

「遥みたいな人ですね」

「読んでいて、思い出しました」

「それで刺さったんですね、転校生の台詞が」

「そうだと思います」

 

 しばらく沈黙があった。

 

「言えなかった言葉というのは」

 

 水瀬さんがゆっくり聞いた。

 

「どんな言葉だったんですか」

 

 俺はしばらく答えなかった。

 答えたくないわけではなかった。ただ、整理するのに少し時間がかかった。

 

「笑っていないときの君が好きだ、ということ」

 

 俺は言った。

 

「ちゃんと見ているということ」

 

 水瀬さんが静かに息を吐くのが聞こえた。

 

「言えなかった理由は」

「怖かったんだと思います。見ていることが、相手に重かったら嫌だと思って」

「重くないです」

 

 水瀬さんがきっぱり言った。

 俺は少し驚いて彼女を見た。

 

「ちゃんと見てくれている人がいるというのは、重くないです」

 

 彼女はまっすぐ前を向いていた。

 

「遥も、そう思っていると思う。転校生に見られていることを、怖いとは思っていないから」

「そうですか」

「そうです」

 

 俺は前に向き直った。

 しばらくまた、黙っていた。

 今夜の沈黙は、今まで一番温かい気がした。

 

「瀬川さん」

 

 水瀬さんが言った。

 

「はい」

「その人に、今からでも言えると思いますか」

 

 俺は少し考えた。

 それから、正直に答えた。

 

「もう会わない人なので」

「そうですか」

「ただ」

 

 俺は続けた。

 

「言えなかったことが、ちゃんと言えない理由だとは思わなくなりました。最近」

 

 水瀬さんが俺を見た。

 

「最近、というのは」

「ここ二ヶ月くらいです」

 

 彼女はしばらく俺を見ていた。

 俺は彼女を見なかった。

 見たら、たぶん、続きを言ってしまう気がした。

 今日はまだ、その日じゃない気がした。

 

「帰りましょうか」

 

 俺は立ち上がった。

 

「寒くなってきたので」

「そうですね」

 

 水瀬さんも立ち上がった。

 コートを羽織るのを、俺はなんとなく待った。

 彼女がコートのボタンを留め終わってから、二人で歩き出した。

 マンションの前まで来て、水瀬さんが立ち止まった。

 

「瀬川さん」

「はい」

「来てよかったです、今日。新潟じゃなくて、この公園に」

 

 俺は少し笑った。

 

「お父さんと同じこと言いますね」

「そうですね」

 

 彼女も笑った。

 

「遺伝かもしれません」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 

 彼女が分かれ道を進んでいく。

 俺は歩き出しながら、さっき言いかけたことを頭の中で反芻した。

 言えなかったことが、ちゃんと言えない理由だとは思わなくなりました。最近。

 最近、というのは本当のことだった。

 ここ二ヶ月、というのも本当のことだった。

 あとは、もう少しだけ、時間の問題だと思った。

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