君の声が、雑踏に落ちた 作:一色 遼
十五話の草稿が届いたのは、水瀬さんが新潟から帰った翌週の水曜日だった。
タイトルは『言えなかった言葉』。
開く前から、なんとなく察した。
冒頭を読んで、確信した。
【『透明な午後に、君は来た』第十五話・冒頭】
彼が遥に話しかけてきたのは、放課後の誰もいない廊下だった。
特別なことは何もなかった。夕暮れでも、雨でも、劇的な出来事の後でもなかった。ただの、何でもない水曜日の夕方だった。
彼は遥の隣に並んで、少しだけ迷うような間があってから、言った。
「ちゃんと見てるよ、俺」
それだけだった。
それだけなのに、遥の胸のどこかが、静かに音を立てた。
俺は一度スクロールを止めた。
それから最後まで読んだ。
十五話は、転校生が遥に気持ちを伝える回だった。派手な告白ではなかった。大きな事件も起きなかった。ただ二人が廊下に並んで、転校生がいくつかの言葉を伝えて、遥がそれを受け取った。それだけの話だった。
それだけなのに、最後まで読んで、俺はしばらくスマホを置けなかった。
「読みました」
と送った。
「どうでしたか」
「良かったです」
「本当ですか」
「本当です。冒頭の『ただの何でもない水曜日』という入り方が特に」
「あそこは悩みました。特別な日にしようか、どうしようか」
「特別じゃない方が良かったと思います。特別な日を待っていたら、言えないままになるから」
少し間があった。
「瀬川さんが言えなかったのも、特別な日を待っていたからですか」
俺は少し考えた。
「そうかもしれません。ちゃんと言える日が来るはずだと思っていた」
「来なかったんですね」
「来ませんでした。来ないまま、終わりました」
「遥は」と水瀬さんは打った。
「来てほしい日を待っていたわけじゃなかった。ただ、誰かに見ていてほしかっただけで」
「そうですね。そう読みました」
「だから転校生の『ちゃんと見てるよ』で良かったんです。それ以上の言葉は要らなかった」
俺はしばらくその文を見ていた。
「水瀬さん」
「はい」
「この話、一番良いと思います。今まで読んだ中で」
長い沈黙があった。
既読がついて、一分が過ぎ、二分が過ぎた。
やがて、
「泣いています」
と来た。
「良い意味ですか」
「良い意味です。でも、良い意味だけじゃないかもしれない」
「どういう意味ですか」
「書きながら、ずっと泣いていたんです。今日」
「なぜですか」
「わかりません。でも、書けて良かったと思っています。絶対に書きたかった場面だったから」
俺は少し考えてから打った。
「遥に、言わせてあげられましたね」
「言わせてあげた?」
「『ちゃんと見てるよ』を、遥に言わせてあげた。昔の自分に」
また沈黙があった。
今度はもっと長かった。
「……そうか」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
翌日の朝、路地で会った。
水瀬さんの目が少し腫れていた。昨日泣いたせいだろうと思ったが、言わなかった。
「おはようございます」
「おはようございます」
並んで歩き出した。
「昨日のLINE、ありがとうございました」
水瀬さんが言った。
「何もしていないですが」
「してます」
彼女はトートバッグの肩紐を直しながら言った。
「書いた後、一人でいるのがしんどくて。瀬川さんが読んでくれて、話を聞いてくれて、それで楽になれました」
「そうですか」
「瀬川さんは、しんどいとき一人でいますか」
俺は少し考えた。
「だいたいそうです」
「話せる人がいないんですか」
「いないことはないですが、話し慣れていなくて」
「田村さんとか?」
「田村さんには少し話しました」
「私には話してくれますね」
水瀬さんが言った。
「この二ヶ月で、結構いろんなこと」
「そうですね」
「なんでだと思いますか」
俺は前を向いたまま答えた。
「水瀬さんが、先に話してくれたからだと思います」
「私が?」
「小説を渡してくれたのが最初です。あれは、かなり踏み込んだことだと思うので」
水瀬さんが少し黙った。
「踏み込んでいましたね、確かに」
彼女は苦笑した。
「なんで渡したんだろう、あのとき」
「なんでだったんですか」
「顔が主人公に似ていたから、というのは本当なんですが」
彼女は少し首を傾げた。
「それだけじゃなかったと思います。なんか、この人なら読んでくれる気がした」
「どうしてそう思ったんですか」
「わかりません。でも、外れていなかったと思うので、良かったです」
駅の近くまで来たとき、水瀬さんが口を開いた。
「瀬川さん、十五話の続きを一緒に考えてもらえますか」
「どこで詰まっていますか」
「遥が、転校生に返事をする場面です。彼の言葉を受け取った後、遥が何を言うのか、どうしても書けなくて」
「何を書こうとしましたか」
「『私もです』とか、『ありがとう』とか、いくつか書いたんですが、どれもしっくりこなくて」
俺は歩きながら考えた。
「遥は、どんな表情をしていますか、そのとき」
「泣いていると思います。泣きそうになっているか、もう泣いているか」
「だったら、言葉はいらないかもしれません」
「言葉なしで、どう返すんですか」
「頷く、とか」
俺は言った。
「あるいは、泣いているのを見られたくなくて、下を向く。それを転校生が黙って待っている」
水瀬さんが立ち止まった。
俺も止まった。
「それです」
彼女が言った。
「合いますか」
「合います。下を向いた遥を、転校生が待っている。その時間を書けば良かったんだ」
彼女は小さくメモを取るような仕草をした。スマホを取り出して、何か打ち込んだ。
「ありがとうございます」
「書けそうですか」
「書けます」
水瀬さんは顔を上げた。目が少し輝いていた。書くことが決まったときの顔だと、最近わかってきた。
「今夜書きます」
「楽しみにしています」
「プレッシャーをかけないでください」
「すみません」
彼女は笑って、歩き出した。
その夜、十五話の完成版が届いた。
遥が下を向く場面を、水瀬さんはこう書いた。
【『透明な午後に、君は来た』第十五話・終盤】
遥は下を向いた。
泣いているのをでも、泣いていた。見られたくなかった。こんなことで泣いているのが、みっともなかった。ちゃんと見てるよ、という言葉ひとつで泣いてしまう自分が、情けなかった。
でも、泣いていた。
彼は何も言わなかった。急かさなかった。ただ、いた。
廊下に夕暮れが差し込んで、二人の影が床に伸びていた。長くて、細くて、並んでいた。
遥はしばらくして、やっと顔を上げた。
彼はまだそこにいた。
「ありがとう」遥は言った。声が少し濡れていた。「ちゃんと見ててくれて」
彼は頷いた。
それで、十分だった。
俺は最後の一行を、三回読んだ。
それで、十分だった。
水瀬さんが、昔の自分に届けた言葉だと思った。
十何年分の、答えだと思った。
「読みました」
と送った。
「どうでしたか」
俺は少し考えてから、正直に書いた。
「今まで読んだ中で、一番好きです。なんか少し前にも同じ事を言った気がします」
返信が来るまで、少し間があった。
「瀬川さん」
「はい」
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「瀬川さんは今、誰かに言いたい言葉がありますか」
俺はスマホを持ったまま、しばらく動かなかった。
窓の外で、風が吹いた音がした。
俺は打った。
「あります」
「言えそうですか」
俺はもう一度だけ考えた。
それから、
「もうすぐ言えると思います」
と送った。
水瀬さんからの返信は、しばらくなかった。
既読がついて、一分が過ぎた。
やがて、
「待っています」
と来た。
俺は画面を見たまま、少し息を吐いた。
待っている、という言葉の意味を、確かめたかった。
でも今夜はまだ、確かめなかった。
もうすぐ、でいいと思っていた。