君の声が、雑踏に落ちた   作:一色 遼

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何でもない朝に

 

 言おうと決めたのは、特に何もない木曜日の朝だった。

 目が覚めて、顔を洗って、コーヒーを淹れて、それだけのことをしているうちに、決まっていた。

 理由はわからない。昨夜、何か特別なことがあったわけでもない。夢を見たわけでも、急に気持ちが高まったわけでもない。ただ、朝起きたら、今日だと思った。

 十五話を読んでから三日が経っていた。

『待っています』

 という言葉の意味を、三日間考えた。

 いくつかの解釈ができた。単純に、次に言える機会を待っている、という意味かもしれなかった。あるいは、俺が誰かに言葉を伝えることへの応援かもしれなかった。

 でも、どちらでもある気がした。

 どちらでもあるなら、確かめるしかなかった。

 俺はいつもより十五分早く家を出た。

 

 

 路地に着いて、角の電柱の前で立った。

 七時三十分。水瀬さんがここを通るまで、あと十分ほどある。

 寒かった。十一月の末で、吐く息が白くなっていた。手をポケットに突っ込んで、空を見た。曇っていた。雨になるかもしれない。特別な日ではなかった。何でもない木曜日だった。

 それで良かった。

 十五話を読んで、そう思った。特別な日を待っていたら言えないままになる、と水瀬さんの小説が教えていた。

 七時四十一分に、彼女が現れた。

 いつものトートバッグ、いつものコート。少し急いでいる足取りで、俯き加減に歩いてくる。まだ俺に気づいていない。

 三メートルほどの距離まで来て、顔を上げた。

 

「あ」

 

 水瀬さんが言った。

 

「おはようございます」

「おはようございます」

 

 並んで歩き出した。

 いつも通りだった。

 駅まで歩いて、そこで別れる。俺は東口、彼女は西口。それがここ三ヶ月のパターンだった。

 言うなら、その前だと思っていた。

 でも歩き始めて一分が経ち、二分が経ち、俺は何も言えなかった。

 決めてきたはずなのに、いざとなると言葉が出てこなかった。頭の中で何度か練習したが、練習した言葉はどれも嘘くさかった。だから練習しないことにした。でもそうすると、何も出てこなかった。

 

「今日、寒いですね」

 

 水瀬さんが言った。

 

「そうですね」

「雨になりそうで」

「なりそうですね」

 

 駅が見えてきた。

 このままでは終わる。

 俺は前を向いたまま、口を開いた。

 

「水瀬さん」

「はい」

「少し、立ち止まっていいですか」

 

 彼女が足を止めた。俺も止まった。

 駅の手前、二十メートルほどのところだった。朝の通勤客が横を通り過ぎていく。誰も俺たちを気にしなかった。

 水瀬さんが俺を見ていた。

 

「三日前のLINEで、もうすぐ言えると思います、と送りました」

「はい」

「今日、言おうと思って」

 

 水瀬さんが少し息を吸うのが聞こえた。

 俺は彼女を見た。

 

「水瀬さんのことが、好きです」

 

 言ってしまったら、意外なほど静かだった。

 周りの音が、少し遠くなった気がした。

 

「三ヶ月前、風で飛んだ紙を拾ったときから、ということではないですが」

 

 俺は続けた。

 

「小説を読んで、毎晩LINEをして、公園で話して、喫茶店で話して、そういう時間の中で、気づいたら、そうなっていました」

 

 水瀬さんは俺を見たまま、何も言わなかった。

 怖くなかった。不思議と。三日前までは怖かったのに、今は彼女の顔をまっすぐ見ていられた。

 

「返事は、今じゃなくていいです」

 

 俺は言った。

 

「ただ、言えないまま終わりたくなかったので」

 

 水瀬さんが、ゆっくり口を開いた。

 

「瀬川さん」

「はい」

「一つだけ、確認していいですか」

「どうぞ」

「『待っています』と送ったとき、瀬川さんはどういう意味だと思いましたか」

 

 俺は正直に答えた。

 

「二つの意味があると思いました。誰かに言葉を伝えることへの応援か、あるいは——」

「あるいは?」

「俺が言うのを、待っているか」

 

 水瀬さんが、少し目を細めた。

 

「後者です」

 

 俺はその言葉を、一度そのまま受け取った。

 

「最初から、そういう意味でしたか」

「送ってから気づきました」

 

 彼女は言った。

 

「打ち終わって、送信して、これは告白を待っていると言っているのと同じだと気づいて、少し焦りました」

「そうですか」

「瀬川さんがどう受け取ったか、三日間気になっていました」

「俺も三日間考えていました」

「何でもない朝に言ってくれましたね」

 

 水瀬さんが言った。

 

「特別な日を待ったら言えないと、あなたの小説が教えてくれたので」

 

 水瀬さんの目が、少し揺れた。

 彼女はしばらく俺を見ていた。それから、少し俯いた。

 

「瀬川さん」

「はい」

「私も、好きです」

 

 声が少し濡れていた。

 俺は何も言わなかった。

 言う必要がなかった。

 ただ、隣にいた。

 水瀬さんが顔を上げるまで、特に急がなかった。

 十五話で転校生がやったように、ただ待った。

 しばらくして、彼女が顔を上げた。目が赤かった。

 

「みっともないですね、朝から」

「みっともなくないです」

「こんなことで泣くと思わなくて」

「こんなことじゃないと思います」

 

 水瀬さんが小さく笑った。泣きながら笑うのを、俺は初めて見た。

 

「遥みたいになってしまいました」

 

 彼女は言った。

 

「それで十分だと思います」

「十五話の最後みたいなことを言わないでください」

「すみません」

 

 彼女がまた笑った。今度はちゃんと笑っていた。

 

 

 その日の帰り道、俺はいつもの路地を歩きながら、ふと空を見た。

 朝は曇っていたのに、いつの間にか晴れていた。

 特に何も思わなかった。

 ただ、悪くなかった。

 家に帰って、コートを脱いで、スマホを見た。

 水瀬さんからLINEが来ていた。

 

「小説の続き、書けそうです」

 

 俺は少し笑ってから、打った。

 

「どんな続きですか」

「転校生と遥が、放課後に並んで帰る話です。特別なことは何もない。ただ並んで歩くだけの話」

「それは良い話になると思います」

「読んでくれますか」

「もちろんです」

 

 少し間があって、

 

「瀬川さん」

 

 と来た。

 

「はい」

「今日、言ってくれてありがとうございました」

「こちらこそ」

「『こちらこそ』って何がですか」

 

 俺は少し考えてから打った。

 

「風で飛んだ紙を、拾えてよかったです」

 

 返信が来るまで、少し間があった。

 

「笑いました」

 

 それから、

 

「私もです」

 

 と来た。

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