君の声が、雑踏に落ちた   作:一色 遼

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並んで歩くだけの話

 

 恋人になってから、特に何かが劇的に変わったわけではなかった。

 朝の路地で会って、並んで歩いて、駅で別れる。夜にLINEで小説の話をする。週に一度くらい、公園か喫茶店で会う。それだけだった。それだけなのに、全部の手触りが少し変わっていた。

 うまく説明できないが、強いて言うなら——隣に人がいることを、当たり前だと思えるようになった、という感じだった。

 田村さんには、翌週に話した。

 

「付き合うことになりました」

 

 田村さんはお茶を吹き出しそうになった。

 

「え、あの小説の子?」

「そうです」

「いつ?」

「先週の木曜日です」

「どこで告白したの」

「駅の手前の路地です」

「渋い場所だね」

 

 田村さんはしみじみ言った。

 

「どんな感じだったの」

「普通に言いました」

「どんな言葉で?」

「好きですと言いました」

「そのままじゃん」

 

 田村さんは笑った。

 

「まあでも、それが一番いいか」

「そう思います」

 

 田村さんはしばらく俺を見ていた。

 

「良かったね、律」

 

 名前で呼ばれることは滅多にない。俺は少し面食らった。

 

「ありがとうございます」

「なんか、やっと言えた感じがするね。見ていて」

 

 俺は少し考えた。

 

「そうかもしれません」

「昔、言えなかった子のこと、まだ気にしてたでしょ」

 

 田村さんには、大学のときの話を少しだけしたことがある。酔った夜に、一度だけ。

 

「気にしていたというより」

 

 俺は言った。

 

「言えなかった自分のことを、引きずっていた気がします」

「それが終わった感じ?」

「終わったというより」

 

 俺は少し考えた。

 

「上書きされた、という感じです」

 

 田村さんは「へえ」と言った。今度の「へえ」には、続きが含まれていなかった。

 

 

 十六話の草稿が届いたのは、告白から二週間後の夜だった。

 タイトルは『放課後の帰り道』。

 予告通り、転校生と遥が並んで帰る話だった。

 事件は何も起きなかった。二人は教室を出て、階段を下りて、昇降口で靴を履き替えて、校門を出た。他愛ない話をしながら歩いた。遥の家の近くまで来て、バイバイと言って別れた。それだけだった。

 でも、ページをめくる手が止まらなかった。

 何も起きていないのに、二人の間に流れているものが、文章の行間から滲んでくるような感じがした。

 特に好きだったのは、帰り道の途中の場面だった。

 

【『透明な午後に、君は来た』第十六話・中盤】

 信号待ちをしているとき、遥はふと気づいた。

 自分が今、笑顔の準備をしていない。

 特別なことではないのかもしれなかった。信号待ちをしているだけで、誰かに見られているわけでもないから。

 でも、遥にとっては特別だった。

 準備しなくていい顔で、誰かの隣に立っている。それだけのことが、こんなに楽だと思わなかった。

「どうしたの」彼が言った。

「なんでもないです」遥は答えた。

 嘘ではなかった。なんでもないことが、今日は嬉しかった。

 

 俺は「なんでもないことが、今日は嬉しかった」という一文を、三回読んだ。

 

「読みました」

「どうでしたか」

「信号待ちの場面が好きです」

「あそこ、書くのが一番楽しかったです」

「どうして楽しかったんですか」

「遥が初めて、準備しない顔でいられた場面だから」

 

 俺は少し考えてから打った。

 

「水瀬さんは今、準備しない顔でいられていますか」

 

 少し間があった。

 

「瀬川さんの前では」

「それ以外では?」

「少しずつ、できてきた気がします。父と電話するとき、とか」

「新潟から帰ってから変わりましたか」

「変わったと思います。瀬川さんのせいです」

「俺のせいですか」

「隣にいてくれる人がいると、変わるものがあるって、瀬川さんが教えてくれたから」

 

 俺はその文を見て、何か言おうとした。

 でも水瀬さんが先に続けた。

 

「瀬川さんは変わりましたか。この三ヶ月で」

 

 俺は少し考えた。

 

「変わりました」

「どこが変わりましたか」

「言えないことが、言えないままでいいとは思わなくなりました」

「それは私のせいですか」

「水瀬さんの小説のせいです」

 

 少し間があって、

 

「それは私のせいです」

 

 と来た。

 俺は笑った。

 

 

 十二月に入った週の土曜日、水瀬さんと出かけた。

 付き合ってから初めて、ちゃんと二人で出かけた。行き先は特に決めていなかった。とりあえず電車に乗って、降りたいと思った駅で降りることにした。

 結果的に、吉祥寺で降りた。

 水瀬さんが「降りたい」と言ったわけではなかった。ただ窓の外を見ていた彼女が急に立ち上がったので、俺も立ち上がって、二人で降りた。

 

「なんで吉祥寺ですか」

「なんとなく、今日な気がして」

「吉祥寺が?」

「うん」

 

 俺にはよくわからなかったが、否定する理由もなかった。

 井の頭公園を歩いた。冬の午後で、葉がほとんど落ちた木々が水面に映っていた。人が多かったが、うるさい感じはしなかった。

 水瀬さんはよく喋った。

 小説の話、仕事の話、昨日食べたものの話。話題が飛び回った。俺はそれを聞いていた。時々答えた。

 

「瀬川さんって、あまり自分から話さないですよね」

 

 水瀬さんが言った。

 

「そうですか」

「聞く方が多い」

「聞く方が好きなので」

「私の話を聞くのが?」

「そうです」

 

 水瀬さんが少し俯いた。照れているのかと思ったら、

 

「ずるいですよ、そういうことを普通に言うの」

 

 と言った。

 

「ずるいですか」

「ずるいです。こっちが恥ずかしくなるじゃないですか」

「すみません」

「謝らなくていいです」

 

 彼女は顔を上げた。

 

「でも、瀬川さんの話も聞きたいです。私ばかり話している気がするから」

「俺はあまり面白い話がないので」

「面白くなくていいです」

 

 池のほとりのベンチに座った。

 俺は少し考えてから、口を開いた。

 

「小学生のとき、作文が苦手で」

「意外です」

「今でも苦手です。人の文章を読む方が好きで、自分では書けない」

「だから編集の仕事をしているんですか」

「そうかもしれません」

「瀬川さんが書けない分、私が書きます」

 

 水瀬さんは言った。

 

「瀬川さんが読んでくれる分、私が書きます」

 

 俺はその言葉を、ゆっくり受け取った。

 

「それは良い関係ですね」

「そうでしょう」

 

 彼女は少し胸を張った。

 池の水面を鴨が横切っていった。

 二人でそれを見ていた。

 

「小説、そろそろ終わりに近づいてきましたね」

 

 俺は言った。

 

「最終話を考えています」

 

 水瀬さんは静かに言った。

 

「どんな終わり方にしようか」

「どんな終わりにしたいですか」

「遥に、幸せになってほしい」

 

 彼女は迷わず言った。

 

「劇的じゃなくていい。ただ、なんでもない日に、準備しない顔で笑っているところで終わりたい」

 

 俺は頷いた。

 

「それが最後の場面ですか」

「最後の一文は決まっています」

 

 水瀬さんは言った。

 

「ずっと前から決まっていた」

「どんな一文ですか」

 

 彼女は少し微笑んで、

 

「書いてからのお楽しみです」

 

 と言った。

 

 

 帰り道、電車の中で水瀬さんは少し眠そうにしていた。

 歩き疲れたのか、暖かい車内のせいか、目がとろとろしていた。

 最寄り駅のひとつ前で、彼女の頭が俺の肩に触れた。

 触れて、そのまま止まった。

 眠ってしまったらしかった。

 俺は動かなかった。

 窓の外を流れる夜の景色を見ながら、今日一日を思い返した。

 吉祥寺で降りたこと。公園を歩いたこと。ベンチで話したこと。

 特別なことは何もなかった。

 でも、なんでもないことが、今日は嬉しかった。

 水瀬さんが遥に書いた一文が、そのまま自分のものになっていた。

 最寄り駅に着いて、水瀬さんが目を覚ました。

 

「すみません、寝てしまって」

「大丈夫です」

「肩、痛くなかったですか」

「全然」

 

 彼女は少し赤くなった。

 ドアが開いて、二人でホームに降りた。

 改札を抜けて、夜の空気の中に出た。

 

「今日、楽しかったです」

 

 水瀬さんが言った。

 

「俺もです」

「また出かけましょう」

「どこへでも」

 

 彼女がまた少し赤くなった。

 

「瀬川さんは本当に、ずるいですね」

「すみません」

「謝らなくていいと言っています」

 

 並んで歩いた。

 路地に入って、彼女のマンションの前まで来た。

 

「最終話、書いたら読んでください」

 

 水瀬さんが言った。

 

「必ず読みます」

「最後の一文、瀬川さんに一番に読んでほしいから」

 

 俺は頷いた。

 

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 

 ガラスのドアが閉まった。

 俺は歩き出した。

 冬の夜空に、星が一つ出ていた。

 曇りの予報だったのに、と思いながら、俺はそれを少しの間見上げた。

 それから、歩いた。

 家に帰るのが、久しぶりに楽しみだと思った。

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