無能呼ばわりされているクラスの地味な男子がこの町を守っていることを僕だけが知っている 作:匿名希望
その日、僕は夕飯の豚汁を作りすぎていた。
「しまった……。安売りの大根、全部使うんじゃなかった……」
一人暮らしの狭いキッチンで、蓋が閉まらないほど具だくさんになっている味噌ベースの鍋を前にして、もう何度目かもわからない反省会をする。
無性に豚汁が食べたくなって、学校帰りに買い物をして、ついでに冷蔵庫の中で傷みかけている野菜を消費してしまおうと、煮込み散らかしたらこれだ。
自分が小食なことをすっかり忘れていたのが何よりの敗因だった。――空腹時には無限に食べられる気がしたのにと、後悔してももう遅い。
ひとまず現実的な一人前をよそって食べ終わったところで、改めて考える。
「うん、どう考えても一人で食べきれる量じゃない」
冷蔵庫に入れればいくらか保つかもしれないけど、単身学生向けの安アパートの冷蔵庫に、鍋を入れられるような余裕はない。小分けに移せる器もない。コンロに置きっぱなしにしておくなら、安全に食べられるのは頑張っても明日の夜までだ。
「とりあえず、レイコさんにお裾分けしよう」
まず思い浮かぶのは、近所に一人で住んでいる女性の顔だ。今ならちょうど、彼女も夕食を作っている最中のはず。さっそく小鍋に半分ほど移し、ラップをかけて持ち出した。
外に出た途端、遠くでドン、という重い物がぶつかったような、何かが爆発したような、空気が震える鈍い音がした。
「おお、またやってる」
この浮草市で聞こえるこの手の音は、大体異能者の仕業だ。
引っ越してきたばかりの頃は妙な音がする度に怖がっていたものの、あまりにも多いので引っ越して一ヶ月もする頃には慣れた。
「今日は一段と派手だな」
独り言を呟きながら薄藍の空を一瞥し、僕が住んでいるアパートから三軒隣に佇む小さな古民家を訪ねる。インターホンも鳴らさず庭に踏み入り、玄関――ではなく、裏手にある勝手口に回ってノックした。
「こんばんは、レイコさん」
「あら、シノくん? ちょっと待っててねえ、すぐに開けるから」
歌うような艶のある声がして、すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい。どうしたの?」
夫を亡くして以来ここに独りで住んでいるという園宮レイコさんは、にこやかに出迎えてくれた。
「レイコさん、豚汁食べない? 作りすぎちゃって」
彼女は、僕がアパートに引っ越してきて以来のおかず分け合い友だちだった。
「食べる食べる。いつもありがとう」
声と同じくおっとりとした印象を与える垂れ目がかまぼこ型に細められ、頷く動作で緩いウェーブのかかった黒髪が肩から滑り落ちる。
本人は『ただのアラフォーのおばさんよ』と謙遜するけど、その美しさは近所でも評判だ。気の良いお姉さんくらいにしか思っていない僕ですら、時々色っぽいなと思うことがあるほどだった。
「ちょっと待ってて。私もね、炊き込みご飯いっぱい作ったの。持ってって」
「え? 豚汁と炊き込みご飯って、最高のディナーじゃん」
「でしょー? ちょうど汁物に豚汁でも作ろっかなって思ってたところだったから、以心伝心ってやつね」
小鍋を受け取ったレイコさんは、勝手口から見えるキッチンのコンロにそれを置くと、対面のカウンターに置かれた炊飯器を開けて、速やかに炊き込みご飯のおにぎりを作り始めた。
「いくつ持っていく?」
「んー、明日のお昼の分まで欲しいから、三つかな」
「一食一個ってこと? 相変わらず小食ねえ。ウチの旦那なんか、シノくんくらいの頃は毎回一合は食べてたのに」
レイコさんは笑いながら、おにぎりをラップで包んでいる。
「小鍋、持って帰っていい?」
「もちろん。適当なのに移しておいて」
「はぁい」
靴を脱いで上がり込んだ僕は、勝手にシンク下を開けて園宮家の小鍋を探し、豚汁を移した。
「はい。四つ持っていきなさい。冷凍しておけばいいんだから」
本当の母親のような調子で、レイコさんはおにぎりが詰まった小さな紙袋を差し出す。
「ありがと……」
僕には馴染みがない、少々お高い洋菓子店の袋だった。
庭先まで見送りに来てくれたレイコさんに、もう一度礼を言って踵を返した途端、また爆音が聞こえた。思わず、振り向いてレイコさんと顔を見合わせる。
「なんだか、さっきより近づいてきてない?」
「レイコさんもそう思う?」
言っている間に、スマートフォンの通知が二人同時に鳴った。
「ああ、やっぱり。異能者警戒情報出たね」
近年になって整備された新しい災害情報の通知は、かなり正確にその位置を伝えてくる。どうやら覚醒したての異能者が、ほんの数ブロック向こうで暴れているようだった。
「うわ、レベル三。早く帰ろう」
「破壊系の異能ですって。気をつけてね」
「うん、レイコさんも」
心配そうなレイコさんにわざと明るく手を振り、小走りでアパートに戻る。
「強い異能を持ってると、やっぱり見せびらかしたくなるものなのかな……」
次々に舞い込むスマートフォンの通知に辟易しながら、僕は小さくぼやいた。
異能者というのは、現代科学では解明できない超常の力を操ることができる人間のことを言う。古くから歴史上のあちこちにその痕跡が残っているにもかかわらず、政府が彼らの存在を認めたのは、僕が生まれた頃の話らしい。
原因は未だ不明なものの、急激に異能者が増加し、彼らによる犯罪が現行法で裁けなくなってきたからだという。
特に僕が住んでいる浮草市はとある事情で異能者の数が多く、毎日のように異能犯罪がニュースに取り上げられていた。
しかし、僕はごく普通の善良な小市民だ。法を犯すつもりなど毛頭ない。
「いやあ、大した異能を持ってなくて良かった」
いつもどおり他人事のようにそう呟き、警報のプッシュ通知を中身も見ずにスワイプして消しつつ、アパートの駐車場脇に設置されたゴミ置き場の前を通り過ぎた時だった。
ズドン、という尋常ではない音が真横から聞こえた。
「ひっ」
遠くで鳴っている音は気にしなくなっても、さすがに間近で異変が起きれば警戒する。
慌てて最寄りの屏の陰に身を隠し、そっと様子を窺った。何度指導を受けても前日に出す輩が絶えないゴミ袋の山が崩れ、砂埃が舞っていた。
「何? 例の異能者?」
しかし、警戒対象がいよいよ近くまで来ていれば、スマートフォンが消しても消えない大音量で警報音を鳴らすはずだった。
「瓦礫か何かが吹っ飛ばされてきただけかな……?」
薄暗い中でよくよく目を凝らすと、ゴミ袋の中に人の足のようなものが見えた。
「……人間?」
一瞬マネキンかと思った。でも今日は粗大ゴミの日ではない。
「いや、まさかねえ」
自分に言い聞かせるように呟きながら恐る恐る近寄ると――若い男が一人、ゴミ山に埋もれるようにして倒れていた。
人が倒れている。ようやくそう理解した時、まず考えたのは救急車と警察への連絡だった。
すぐにスマートフォンの電話アプリを立ち上げたが、そこで手が止まる。
この男、どこから現れたのだろう。
そう考えたら急に頭が冷えてきて、僕は改めて男を観察した。
顔立ちは僕と同じくらい若いのに、髪は真っ白だった。服装はラフなパーカーとスウェットパンツにサンダルという、『ちょっと近所のコンビニまで』スタイル。胸がゆっくりと上下しているのがわからなかったら、本当に人形だと思うところだった。それくらい、やたら綺麗な顔をしていた。
規則正しい寝息を立てているところを見ると、大きな怪我はしていないようだ。
そして髪に艶があり、衣服が真新しいところを見ると、今し方ここを根城に決めた路上生活者というわけでもない。
僕はもう一つ思い出す。
レイコさんの言えに行く時には、ゴミ置き場に異常はなかった。いくら豚汁をこぼさないよう気をつけていたとて、人が横たわっていればさすがに気付く。
となるとやはり彼は、先ほどのズドンという音とともに現れたと見るべきだ。
でも、普通にゴミ袋にダイブしたくらいであんな大きな音は鳴らない。ということは。
「上から、降ってきた……?」
星が瞬き始めた空を見上げ、僕は思わず眉をひそめた。
まず上から降ってくる時点でおかしいというのは大前提として、もし上から降ってきたとしたら、目立った怪我が見当たらないのは更におかしい。ゴミ袋がクッションになったって、あんな大きな音が鳴る高さから落ちたら骨の一つくらい折れるものではないだろうか。
常識では考えられないことが起きたということは、即ち異能者の仕業だ。それがこの浮草市の常識だった。
警報が鳴っていないことを鑑みると、騒ぎの中心人物ではないのだろう。しかしこのタイミングで現れた時点で、無関係とも思えない。
もし彼自身が異能者だった場合、警察や一般の病院では手に負えない可能性が高かった。
正直なところ、どこかに通報して僕が発見者として認識されてしまったら巻き添えを食うのは隔日なので、関わりたくなかった。
さりとて見捨てて部屋に戻るのは寝覚めが悪い。どうしたものかと逡巡したところで、
「そうだ、レイコさんに相談しに――」
思い出したのは、『困ったことがあったらいつでも頼ってね』と言ってくれた優しい微笑みだった。
ところがさっそく来た道を引き返そうとしたのも束の間、ゴミ袋ベッドで寝ていた男が身じろぎした。
「うう……」
これで無事に自分の住み処へ帰ってくれれば誰の手も煩わせずに済む。慌てて声をかけた。
「起きた? ねえアンタ、どっか具合悪いの? 大丈夫?」
しかし男は寝返りを打ち、安らかな顔でまた寝息を立て始めた。
「寝るな起きろ! アンタ誰! てか、なんでこんなとこで寝れんの!?」
どれだけ図太い神経をしてるんだ。怒りすら覚えながら、僕は男を激しめに揺さぶった。
「あ……?」
耳元で大声を出したことで、男は眉をひそめながらようやく目を開けた。その目を見た途端、僕の背中に冷たいものが走った。
ゆっくりと瞬きをしながらうろうろと彷徨う瞳は、ぼんやりとした外灯の明かりしかない夜のゴミ置き場でもはっきりとわかるくらい赤かった。
――異能者の中には、力が発現すると外見にも変化が現れる者がいる。そんな話を思い出した。
その変化は、強力な異能を持つ者ほど大きいという噂もある。
やっぱり先ほどの警報はこの男に対するものだったのではと、声をかけてしまったことを今更後悔した。
しかし、目の前の男の腹から聞こえたぐるる、きゅーという情けない音で、恐怖心も警戒心も霧散した。
「お腹空いたあ……」
「ちょっ」
男は掠れた声で呟きながらどうにか起き上がろうとするも、ふらついてゴミ袋ベッドから地面に滑り落ちそうになる。
思わず支えた途端、今度は収まっていた騒音がそこそこ近くで聞こえ、警報の通知も再開した。
「ああもう、とにかく、一旦ウチ来て!」
このまま外にいると、巻き込まれる可能性が高い。僕にできるのは、自分より背の高い男に肩を貸して、半ば引きずりながらアパートの外階段を上ることだけだった。