「…え?」
雲ひとつ無い満点の星空に、月が空高く現れる。獣や魔物が跋扈する土着の人間ですら立ち入らぬ深緑の森。
そんな森に、一人の少年が立ち尽くした。
髪は黒、瞳も黒、顔立ちは目付きがやや鋭いものの、まだ幼い。年相応と言ったところだ。服装は支給された学ランを身につけ、背中には大きめのリュックサックがある。
「は、はぁ…?」
かなり困惑している様子だ。しかしそれは当然の事だろう。
彼はつい先程まで自宅への帰路についていた。彼が住んでいる所は都心に比べれば比較的田舎ではあるが、こんなに鬱蒼とした森は流石に無い。
考えられるのは誘拐だが、彼はこの森に現れる前に不可思議な現象をその身で体験した。
目の前に不定形、かつ極彩色の渦が現れ飲み込まれたのだ。彼は少ない人生経験と今まで培った知識から必死にそれと類似した現象を思い起こすも、そのどれもが当てはまらない。
「どこだよ、ここ…」
一周回って逆に冷静になったのか、少年は辺りを見渡す。
木、木、木…頼りの光は空に敷かれた月と星々のみ。そして音に至っては聞いたことも無いような獣や鳥らしき声が鳴り響く。
「あ、そうだスマホ…!」
少年はポケットからスマートフォンを取り出す。しかし電源は付くものの、画面には圏外とだけ書かれている。これでは警察などに連絡を取ることは不可能だ。
「とりあえず、歩く、か…?」
スマートフォンでライトを付けて森を進んでいく。茂みや木々は避けつつ、通れそうな場所を拾ったそこそこ長い棒で掻き分けつつ進む。
「はぁ…はぁ…っ、はぁ…」
どれくらい歩いたろうか、三十分にも一時間にも三時間にも感じる。リュックサックに入っていた水筒のスポーツドリンクは尽き、タオルなども汗で使いものにならなくなった。
スマートフォンのバッテリーも無くなった。光を失い、鉛の様な鈍重な不安感が少年を襲う。
このまま遭難し、死ぬ。もしくは獣に襲われ、喰われて死ぬ。誰にも気付かれる事なく、誰にも知られる事もなく、孤独に、ひとりで、死ぬ。
少年の頭の中はどんどんネガティブな思考になり続ける。それでも足を止めないのは、生きたいという強い意志なのだろうか。
そしてそこから更に数時間歩いたところで、月明かりに照らされた少し大きめの湖の畔に出た。
少年は既に脱水症状に近いものになっていた。目の前が霞み良く見えないが、さすがに湖は見逃さなかった。
「み、水…!」
勢いよく顔面から行こうとしたところで理性が戻る。生水は大変危険である。一見綺麗に見えても雑菌や生き物の糞など混じっている可能性は高い。
もちろん生水を飲料水にする手段はあるし、それは彼の身の回りにあるものを使えば出来る。しかし現代人でありサバイバルに疎い少年にそんな知識は無かった。
脱水で死ぬか、病気で死ぬか。ならば今のこの渇きを癒すため、少年は湖に顔面を突っ込み勢い良く飲み始める。
身体中に水が行き渡るのを感じる。生き延びたのだ。
こうして彼がこの異世界に来てから初めて口にした異世界のものは残念ながら淡水となってしまった訳だが、水を飲んだことと顔面を水に浸けた事で冷えた頭で辺りを見渡し、回復した視界には何かが映った。
少し離れたところで少年を見ながら呆然としている一人の女性がいた。月明かりに照らされた薄い金色の髪。贔屓目に見ても整った容姿。少し開いた薄目。赤く染まった頬。
少年は思った。なんなら口にも出した。
「て、天使…?」
そう言って少年は倒れた。ストレスや疲労が限界だったのだ。
遠くなっていく視界に先程の女性が映り、暖かい光に包まれたかと思えば徐々に視界が鮮明になる。
「へぇっあっ!?」
少年はそのまま勢い良く起き上がる。いくらなんでも早すぎる回復に身体が驚いたのだ。
「えと、大丈夫?」
「あ、大丈夫、です?」
女性は少年の隣に腰を降ろし、少年の腹部に手を当てる。
「難民の子?ダメだよ、水を生のまま飲んじゃ…。じっとしててね」
女性が何かの単語を囁くと、手のひらから暖かい光が流れだす。少年は腹部がじんわりと暖かくなるのを感じた。
「て、手品…?」
「え?ううん、お腹を壊さないようにする魔法だよ」
【魔法】。女性の口からさも当然のように出た単語。そこで少年は頭の隅に追いやっていたひとつの結論に辿り着いた。
極彩色の渦。突然の転移。そして魔法。あまりにもファンタジーな出来事の連続。
「い、異世界転生…?」
「?」
正確には異世界転移なのだが、今の少年にはどうでもいいことだった。
「あ、あの。日本ってご存知ですか?」
「にっぽん…?ううん、聞いたことないや」
女性の反応で、少年は確信を得た。
異世界転移。昨今では珍しくもない、ありふれた創作物ジャンルのひとつ。
少年も例に漏れずそういうのが好きなお年頃だった。しかし、見るのと体験するのでは雲泥の差がある。
深い絶望感と不安感に飲み込まれる。しかし、それでもどこか期待している自分がいることに驚いた。
夢にまで見たファンタジーの世界に、まさか自分が入り込む事になろうとは。
頭を抱えてしまった少年に、女性は優しい声色で問いかける。
「頭、痛いの?」
「あ、あぁ…いえ、そういうわけじゃ…」
女性は少年の頭を優しく撫でる。先程の魔法では無いのに、とても暖かいと少年は思った。
「随分と騒がしかったから様子を見に来たけど、来て正解だったね」
「騒がしい…?」
女性は誰もいないところへ目配せする。この人は自分には見えない
「あの、おれ【
「私?ファリン。【ファリン・トーデン】」
ファリンと名乗った女性は優しく微笑んだ。
「あ、あの。ファリンさん。今から話すことってファリンさんからしたらとんでもなく変な話だし、突拍子も無いかも知れないし、その……嘘に聞こえると思うんですけど…」
少年、イツキは精一杯説明した。自分がこの世界の人間では無いこと。突然この森に現れたこと。先程まで森を彷徨っていたこと。
ファリンはそれをぽけーっとした表情で聞いていたが、だんだん興味が湧いてきたのか逆に質問を投げかけていく。
イツキはそれに答えていく。生まれた場所。そこに住む人々。文化。イツキとファリンの価値観の相違。
試しにスマートフォンを手渡し、人の手で作られた遥か遠い場所同士話すことが出来る物と説明する。ファリンはスマートフォンを興味津々に観察する。
話していくうちにイツキはファリンの事が段々と分かっていく。穏やかな外見からは意外な好奇心旺盛な性格。余裕が無くて見れなかったファリンの身体。思春期の少年には刺激が強かったのか、慌てて目を逸らしたのを不思議がったファリン。そこで興奮気味になっていたファリンが一息つく。
「そっか…この世界とは違う世界…」
「し、信じてくれるんですか?」
ファリンは、その弱い視力のため細めていた目を少し開いてイツキの顔を正面から見据える。不安で、心細くて、縋る様な表情。
「うん。私は信じるよ。作り話にしては出来すぎだし、なにより貴方は嘘をついてる感じがしないから…って、周りの子達が」
ファリンの言葉に、イツキは頬に汗が垂れるのを感じながら恐る恐る質問する。
「…考えないようにしてたんですけど、その…幽霊とかが見えるんですか?てかいるんですか?周りに?」
「うん。今もイツキの頭を撫でてるおばちゃんとかいるよ。心配みたい」
「そ、そうですか……」
イツキは考えるのをやめた。それは恐怖からくるものではなく、納得せざるを得ないと思った故の思考放棄である。
「じゃあ今度は私の番ね」
ファリンは今いるこの世界について説明していく。今いる島。大陸。魔物。魔法。そして【
イツキも興奮気味にどんどんファリンに質問していく。イツキ少年十四歳。そういうのが大好きなお年頃であった。
「おれでも魔法とか、使える様になりますかね!」
「出来ると思うよ、魔力はあるし」
お互い気付けば空が白み始めていた。実はまぁまぁ危険な森なのだが、ファリンは片手間に獣避けの魔法陣を作っていたため襲われることは無かった。
「朝だね」
「はい」
「イツキ、行くとこないもんね?」
「…はい」
「私、兄さんに相談してみるよ。一緒に住めないかって」
ファリンの言葉はイツキが内心期待していたが諦めていたものだったので、つい浮ついてしまう。
「…えっ?い、いいんですか!?」
「うん。私まだまだイツキの話聞きたいし。それに…ううん、なんでもない。行こ?イツキ」
「あ、ありがとうございます!」
敬語はいいよ。いえそういう訳には…という会話をしつつ歩き出す。
これからの異世界生活に、勇み足で森を歩くイツキ。しかし一瞬にして現実的に考えてしまう。
「(おれがファリンさんのお兄さんだったら…)」
・朝帰り
・見ず知らずの他人(なんなら異性)
・しかも一緒に住むことを提案してくる
「(絶対に断る…!少なくとも俺は断る…!なんなら朝帰りの件について蹴り飛ばしてでも聞き出す!!)」
ヒヤヒヤしながら島唯一の町メリニに辿り着き、ついに件の兄と出会う。
「一緒に住む?いいよ」
「いやかるっっっっ!!??」
真島樹とトーデン兄妹の邂逅。本来ならば決して交わることの無い三人の運命線。
この運命を知るのは、もはや神か、悪魔か。
少なくとも今のこの三人には、思いも寄らない。
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