赤い彗星の原点 ―赤いコスモス― ~ 何も知らずに、いられたなら 作:交差の魔導士
『何も知らずに、いられたなら』
地中海の陽光が、波間に砕けて宝石のようにきらめいている。 南欧アンダルシアの端、切り立った断崖の上に建つリゾート地。
レビルが手配したその別荘からは、どこまでも続くサファイアブルーの海が一望できた。
キャスバルは、テラスの白い長椅子に身を横たえ、潮風に吹かれていた。
その傍らでは、レイリアが冷たいレモネードをグラスに注ぎ、アルテイシアが楽しげに貝殻のコレクションを並べている。
「兄さん、見て。こんなに綺麗な色の貝を見つけたわ」
アルテイシアの弾んだ声に、キャスバルは穏やかな微笑みを返した。
「ああ、とても綺麗だね、アルテイシア」
キャスバルは、このリゾート地の社交の場でも人気を集める存在になっていた。
物腰は柔らかく、甘いマスクと優しい微笑みで、リゾートを訪れる貴婦人たちの視線を独り占めにするような、優雅で華奢な青年へと成長していた。
亡命直後の、あの情緒不安定で怯えていた少年の面影は、今はもう無かった。
時折、まだ "知らない少女" が夢に現れることはあった。
だが、ジンバ・ラルから「幼い頃に負った頭の怪我の後遺症だろう」と聞かされており、キャスバル自身も気にかけることはなくなっていった。
ジオン・ダイクンが実の父であることは理解していた。だが、共に亡命し、自分たちを育ててくれたジンバ・ラルを義父として慕い、この美しい地球で平和に暮らす日々。
ジオンの息子という重い十字架は、この寄せては返す波の音の中に、埋もれてしまったかのように見えた。
「……ダイクン閣下の死は、間違いなくザビ家の陰謀だ。ザビ家はあろうことかジオン公国を名乗って国を簒奪している。」
夜の食卓。ジンバ・ラルが赤ワインのグラスを握りしめ、実父ジオンの死にまつわる陰謀や、高邁な宇宙の思想について熱っぽく語り始める。
だが、キャスバルは困ったようにレイリアと視線を交わし、ただ静かに微笑むだけだった。
(義父さんは、まだ過去の私怨に囚われている……)
内心では、義父をそんな醒めた目で見ていた。
だが、自分たちを守ってくれた義父の顔に泥を塗るようなことはせず、キャスバルはいつも熱心に聞いているふりをしていた。
今の彼にとって、サイド3の血生臭い政治劇など、はるか遠い世界の出来事に過ぎなかったのだ。
食後、中庭のテラスで星空を見上げるキャスバルに、アルテイシアがそっと寄り添った。
「兄さん。……サイド3は、もう恋しくないの?」
妹の問いかけに、キャスバルは夜空から視線を外し、少し寂しそうに目を伏せた。
「……実を言うと、サイド3のことは、あまりよく思い出せていないんだ。本当の父さんのこともね」
キャスバルは優しく、労わるように妹の金色の髪を撫でた。
「済まない、アルテイシア。過去の記憶を、お前にだけ背負わせてしまっているね」
「そんなこと……」
「でもね」
キャスバルは、眼下に広がる夜の海を見下ろして言った。
「地球の人たちはみんな良くしてくれるし、僕は今の生活が本当に幸せなんだ。アルテイシアも、レイリアもいる。ただ、それだけで……」
キャスバルは再び妹に向き直り、透き通るような笑顔を見せた。
「僕たちはもう、過去に囚われず、この星で新しい人生を歩んでもいい頃じゃないかな」
その甘く、どこまでも優しい兄の言葉に、アルテイシアは小さく頷いた。
過去の辛い出来事や、暗い影を引きずっていた妹もまた、この兄の穏やかな光に導かれるように、少しずつ前を向いて生きていこうと決意し始めていた。
二人には、平和で幸せな未来が待っているように思われた。
『コスモスの宿命』
だが、世界情勢は不穏な空気が広がり始めていた。特に、ザビ家が実権を握るサイド3では軍国化が進みつつある。
しかし、地球の美しさに囲まれ平和に慣らされた周囲の大人たちも、そしてキャスバル自身も、それを遥か遠い宇宙(そら)の絵空事のように感じていた。
ある日の午後。社交の場となっているリゾートのラウンジでの、平和なティータイム。
談笑する人々の頭上、壁に設置された大型の映像スクリーンに、サイド3からの国際中継が映し出されていた。
そこには、ジオン公国の正当性や先進性を先進施設の前で雄弁に語り続ける、ギレン・ザビの姿であった。
キャスバルは、ティーカップを手にしたまま、その映像に釘付けになった。
ギレンの演説内容ではない。その後ろに映り込んでいる、重厚な施設群――。
「……あの場所は……」
キャスバルの唇から、無意識に声が漏れた。
ギレンの冷酷な声と、その施設の風景が頭の中で何かとリンクした。
フラッシュバックする記憶の断片。暗い雪の夜、無数の銃弾を浴びながら、自分を抱きかかえて必死に立ち上がり、よろめきながら逃げ続ける父ジオンの血まみれの姿。
そして、さらに奥底から、次なる記憶が引きずり出される。
その施設の地下深く。冷たく無機質な実験室で、過酷な負荷に耐えきれず、悲鳴を上げる少女の姿と、その声。
「……っ!」
唐突な激しい吐き気と悪寒に襲われ、キャスバルは口元を押さえた。
「キャスパル? どうしたの、顔色が真っ青よ」
レイリアの心配そうな声を背に、キャスバルは「少し気分が……」とだけ言い残し、逃げるように洗面室へと駆け込んだ。
冷たい水を何度も顔に叩きつけ、荒い息を整えようとする。
「私は……一体」
滴る水滴を拭おうと顔を上げた時、胸元から滑り出た赤いコスモスのペンダントが目に入った。
それを見た瞬間だった。
脳髄を直接揺さぶるような感応波が鳴り響き、謎の少女との、暗い牢越しでの会話が鮮明に蘇った。
「―― "赤いコスモス"。とても素敵なものですね……。私も、一度でいいから、そういうものがほしかった……」
憧れの眼差しでコスモスのペンダントを見つめる少女に、幼い自分が答えている。
「何を言うんだ。……必ず、僕が君を助け出す。約束する。」
仄かに灯ったニュータイプ能力は、父ジオンによって強制的に分断されていたはずの能力を修復し始め、さらにそれは記憶の回路をも修復し始める。
キャスバル眠るニュータイプの素養は、父の想像を超えていた。成長とともに増大した本能が、ついに父の掛けた封印を解こうとしていた。
研究所での忌まわしい記憶。それ以前の、父やアルテイシア、レイリアと笑い合った平和な日々。
記憶の断片が徐々に繋がり始める。
研究所の暗い牢の中。苦渋の思いで自らの命を削り、息子の能力を封じ込めた父の涙。
「……済まない、キャスバル。……済まない……」
その父の涙に答えるかつての自分。
「いいんだよ、父さん……。父さんは、悪くない……」
激しい痛みが引き、波のように静寂が訪れる。
洗面室の鏡の前で、キャスバルは顔を上げ、自分自身を凝視した。
「これが・・・忘れていた、本当の私なのか。」
その夜、いつものようにザビ家の不穏な動きやそれに対する連邦の対応の遅さ、ジオン・ダイクンの宇宙思想を語るジンバ・ラル。
レイリアは、また始まったとばかりにキャスバルに視線を送っている。
だが、この日のキャスパルはレイリアに微笑みを返さなかった。
「義父さんの言っていることは正しい。でも、宇宙(そら)に出なければ意味がない。どうすればサイド3の宇宙(そら)に行けるだろうか?」
「そ、それは……、ま、まだ、……多くの準備が必要なんだ。連邦の高官たちは自己の利益しか考えていない者が多い……。辛抱強い働きかけが必要なんだ……。」
「それでは、いつになるか分からない!」
食卓の場の空気が固まる。
突然の変貌ぶりに戸惑うアルテイシアとレイリア。
「……ごめん、義父さん。」
「……いいんだ、キャスパル。義父さんの不徳だ……。それより、どうした?何かあったのか?」
「別に、何でもないよ……。心配しないで……」
そう言ってキャスパルは席を立った。
キャスパルは芯が強く、強い意志を持った男に急変していた。
キャスバルは決心していた。
サイド3、ジオン公国へ行くことを。本当の自分と真実を確かめ、過去を清算し、自らの宿命と向き合うために。
数日後。別れの朝は、深い霧に包まれていた。
まだ誰も起きていない静かな自室で、キャスバルは荷物をまとめ、赤いコスモスのヘンダントを見つめていた。
―― 何も知らずに、いられたなら ――
(……レイリア、許してくれ)
ヘンダントを強く握りしめ、キャスバルは心の中で別れを告げた。
(私には、成さねばならないことがある。この先、私と関われば、きっと君は不幸になる。
君が求める優しいキャスバルには、もう戻れないんだ。
……だから、せめて君だけは、幸せであってほしい)
彼は、己の未練を断ち切るように、ペンダントを机の上にそっと残し、部屋を出た。
「兄さん……!」
別荘の外。背後から、羽織りものを掴んだだけのアルテイシアが駆け寄ってくる。兄のただならぬ決意と異変を察知したのだ。
キャスバルは振り返らず、濃い霧の中で立ち止まった。
(アルテイシア。私たちの忌まわしい過去は、すべて私が背負う。だから、お前は過去も、そして私も捨てて、どうか生き続けていてくれ)
そして彼は、未練を断ち切るように一歩、霧の中へ足を踏み出した。
「兄さん、どうして……待って、兄さんッ!」
アルテイシアの悲痛な声が白濁した空気に吸い込まれていく。キャスバルは一度も振り返ることなく、濃霧の彼方へとその姿を消した。
そうしてキャスバルは名を捨て、シャア・アズナブルとなった。