その刹那に愛を──   作:星乃 望夢

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第一話

 

ひどく重い、熱に浮かされた夜だった。

 

節々の痛みと、焼けるような喉の渇き。現実逃避するように手に取ったスマートフォンで、数年ぶりとなる『魔法少女まどか☆マギカ』を再生した。画面の中で繰り返される悲劇と希望を眺めているうちに、いつの間にか意識は微睡の境界を越えていた。

 

夢を見た。

 

すべてを終わらせるために、最愛の友のために、祈りを捧げて「円環」へと昇華していく少女の姿を。ワルプルギスの夜が、眩い光に包まれて消えていく光景を。

 

「……あ……」

 

熱に浮かされたまま、ぼんやりと瞼を開く。

 

そこは自分の部屋のはずだった。だが、鼻を突くのは生活臭ではなく、ひりつくような硝煙の匂いと、どこか冷ややかな空気。

 

視界が歪む。

 

焦点が定まらない瞳に映ったのは、闇に溶け込むような長い黒髪と、冷徹な紫の瞳。

 

そして、自分に向けられた、鈍色に光る無機質な銃口。

 

「……目覚めたようね」

 

鈴を転がすような、けれど凍てつくほどに低い声。

 

暁美ほむら。

 

画面の向こう側にいたはずの「彼女」が、今、目の前に立っている。

 

「なんだ……まだ、夢の続きか……」

 

熱のせいだろうか。恐怖よりも先に、どこか自嘲気味な言葉が漏れた。

 

見上げる彼女の背後には、月明かりが逆光となって差し込み、その輪郭を神々しく、同時に禍々しく縁取っている。

 

けれど、あまりにも低い位置から見上げたせいだろうか。

 

重い頭で、口をついて出たのは、緊迫感とは程遠い一言だった。

 

「……あのさ、ほむほむさんや。そのアングル……スカートの中、見えてるよ」

 

一瞬。

 

夜の静寂が、さらに深く凍りついた。

 

向けられた銃口が、わずかに震える。

 

彼女の端正な眉がピクリと跳ね、白皙の頬が、夜の闇の中でもわかるほど微かに、朱に染まった。

 

「……死にたいのかしら?」

 

安全装置を外す、カチリという硬質な音が響く。

 

冷徹な仮面の下で、彼女の瞳に明らかな「殺意」と「困惑」が混ざり合った。

 

「熱に浮かされて、頭まで作り替えられたようね。……それとも、今ここでそのふざけた想像力を、物理的に消し飛ばしてあげましょうか?」

 

低く、けれど確かな怒りを孕んだ声。

 

夢にしてはあまりにもリアルな、冷たい銃口の感触が眉間に押し当てられる。

 

どうやら、この熱帯夜の悪夢は、まだ始まったばかりのようだった。

 

銃口の冷たさが眉間に押し当てられているというのに、恐怖よりも先に重たい睡魔が襲ってきた。

 

視界はチカチカと火花が散り、思考はドロドロに溶け出している。

 

どう考えても、この現実は整合性が取れていない。

 

暁美ほむらが目の前に現れる確率よりも、この異常な高熱が脳内に精巧なホログラムを作り出している確率の方が、遥かに高いはずだ。

 

「……夢でなければ……君が、ここにいるはずがないんだ」

 

渇いた喉から、掠れた声が漏れる。

 

銃口の主を真っ向から見据える気力もなく、重力に抗うのをやめ、枕に沈み込んだ。

 

「夢か、幻か……。どっちにしろ、俺の頭はもう煮えちゃってるんだ。悪いけど……もう少し、寝かせてくれ……」

 

投げやりな言葉と共に、ゆっくりと瞼を閉じる。

 

暗闇の向こうで、彼女が小さく息を呑む気配がした。

 

「……信じられないわ」

 

その声は、先ほどまでの殺意を帯びた鋭さは消え、呆れと困惑に満ちていた。

 

カチャリ、と金属が触れ合う音がして、眉間の圧迫感が消える。

 

「命を狙われている状況で、眠りにつこうだなんて。……あなたはよほどの愚か者か、それとも救いようのない狂人ね」

 

冷たい指先が、額に触れた。

 

驚くほどひんやりとしたその感触は、燃え盛るような熱を孕んだ俺の体には、あまりにも心地よかった。

 

「……酷い熱。脳が焼けているという言葉も、あながち誇張ではないようね」

 

彼女の呟きが、遠ざかっていく意識の中で反響する。

 

幻影にしては、あまりにも鮮明な温度。

 

夢にしては、あまりにも重い実在感。

 

「……いいわ。今のあなたを殺したところで、何の解決にもならない。……精々、その安らかな夢が永遠に続くことを祈りなさい。次に目覚めた時、そこが地獄でないとも限らないのだから」

 

足音が遠ざかり、部屋の空気がわずかに動いた気がした。

 

再び訪れた静寂の中で、俺は深い闇へと沈んでいく。

 

その際、最後に耳に残ったのは──。

 

「……まったく。何を、見ていたのかしら……」

 

という、どこか決まり悪そうな、少女らしい呟きだった。

 

 

◇◇◇

 

 

次に目を覚ました時も、世界はひどく歪んでいた。

 

熱は一向に下がる気配を見せず、脳味噌が沸騰したまま頭蓋骨の中に詰め込まれているような不快感が続いている。視界の端がチカチカと明滅し、まともに思考をまとめることすら億劫だった。

 

不意に鼻の奥がツンと突き上げられ、こらえきれずにくしゃみが漏れた。

 

「……は、くしゅん!」

 

その音に呼応するように、すぐ傍でガタリと何かがぶつかるような硬い音が響いた。

 

重い瞼を無理やり押し上げ、ぼんやりとした意識のまま音のした方へ視線を向ける。

 

そこには、昨日と同じ、いや、あるいは昨日からずっとそこに居たのか、あの黒髪の少女が、冷徹な紫の瞳で俺を見下ろしていた。

 

「……また、か」

 

暁美ほむら。

 

俺の夢が作り出した幻影にしては、その存在感はあまりにも鋭く、あまりにも鮮明だ。

 

だが、俺は熱に浮かされた頭で、昨日と同じ「致命的な問題」に再び直面していた。

 

「なあ、ほむほむさんや……」

 

掠れた声で呼びかけると、彼女は表情一つ変えずに応じた。

 

「なにかしら。……まだ意識が混濁しているようね」

 

「いや、混濁、して、る、のは、確かだけど、さ……」

 

俺は、床の敷布団に横たわったまま、恨めしそうに彼女を見上げた。

 

「だからさ、言っただろ。床の布団に寝てる俺の視点からだと、その立ち位置とアングル……。相変わらず、スカートの中が丸見えなんだよ。せめて少し、下がってくれないか」

 

一瞬の沈黙。

 

彼女の端正な顔立ちが、凍りついたままわずかに強張るのが分かった。

 

「…………」

 

静かに、しかし確実に、部屋の中の空気が「殺気」という名の絶対零度へと急降下していく。

 

「……あなた、本当に死にたいのね」

 

彼女の左腕に装着された円盤状の盾。その内部で砂時計の砂がサラサラと流れる音が、なぜか俺への死の宣告のように聞こえた。

 

夢なら、そろそろこの辺でハッピーエンドにしてほしいのだが。俺の脳が見せている幻覚は、どうやらとんでもなく手厳しいらしい。

 

 

◇◇◇

 

 

実のところ、暁美ほむらにとって、目の前の光景は「解せない」の一言に尽きたはずだ。

 

彼女は幾度となく時間を巻き戻し、無数の並行世界を渡り歩いてきた。その過程で、彼女は孤独であることを選んだ。誰にも理解されず、誰にも頼らず、ただ一人で「鹿目まどか」を救うという契約のために戦い続けてきたのだ。

 

どの世界においても、彼女は謎の転校生として振る舞い、周囲との壁を築いていた。

 

それなのに――。

 

「……あなた、何故私の名前を知っているの?」

 

彼を見下ろす彼女の瞳に、鋭い警戒の色が走る。

 

ただ名前を知っているだけではない。この、高熱でうなされ、今にも意識が飛びそうなほどグロッキーな状態の男は、あろうことか彼女を「ほむほむさん」などという、およそ彼女のキャラクターには似つかわしくない妙な愛称で、旧知の仲であるかのように呼んでいる。

 

彼女の記憶によれば、彼と彼女に接点など微塵もないはずだった。

 

にもかかわらず、彼は彼女が「時間を操る魔法少女」であることも、その過酷な運命も、まるですべてを俯瞰して見てきたかのような、図々しいほどの親近感を漂わせている。

 

「それに……その破廉恥な発言。……脳が焼けて理性を失っているのか、それとも最初からそういう性質(タチ)なのか……」

 

彼女は軽蔑を隠そうともせず、彼の視線を遮るようにわずかに身を引いた。

 

だが、その表情の奥には、自分の「観測」の範疇にないイレギュラーな存在への戸惑いが見え隠れしている。

 

数えきれないほどの絶望を繰り返し、もはや何事にも動じないはずの彼女の心が、目の前の「熱に浮かされた男の戯言」によって、ほんのわずかに、けれど確実に掻き乱されていた。

 

「答える気はないようね。……まあいいわ。その高熱が、あなたの罪悪感を焼き尽くしてくれることを願うことね」

 

彼女は冷たく言い放つ、彼が夢を見ているのか、それとも彼女が迷い込んだのか。

 

煮えきった彼の頭では、その答えを導き出すことすら不可能だったけれど、彼女の困惑した顔だけは、妙にリアルに彼の網膜に焼き付いていた。

 

 

◇◇◇

 

 

朦朧とする意識の中で、俺は力なく笑った。

 

「……なんだかんだ、優しいんだな、ほむほむは」

 

毒づきながらも、彼女は俺のそばを離れようとはしない。

 

その冷ややかな視線さえ、今の俺には看病の温もりのように感じられた。

 

夢の中でも、誰かにこうして見守られるなんて、一体いつ以来のことだろうか。

 

「夢の中でさえ、人に看病されるのは久しぶりだよ。……ああ、そうだ。俺が君のことを知っている理由、だったな」

 

俺は重い頭を動かし、じっと彼女の横顔を見つめた。

 

彼女の瞳が、わずかに揺れる。

 

「ほむらちゃん……。君は元々、確か文学少女だったはずだ。違ったかい?」

 

その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が物理的な重さを伴って凍りついた。

 

『暁美ほむら』が、かつて三つ編みに眼鏡姿で、内気な自分を隠すように本を読んでいた頃。そんな「過去」を知る者は、この世界には一人もいないはずだ。鹿目まどか、彼女自身でさえも。

 

「……あなた、何者なの? なぜ、そのことを……」

 

彼女の声から温度が消え、代わりに剥き出しの困惑が漏れ出す。

 

俺は熱に浮かされた唇を震わせ、静かに問いかけた。

 

「なら、こういう概念は知っているかな。……『世界というものは、何者かに観測されているからこそ、存在を許されている』っていう、あの考え方」

 

彼女の持つ盾の、砂時計の砂が落ちる音が、やけに大きく耳に響く。

 

「俺たちが今こうしているこの瞬間も……。君が繰り返してきた、あの果てしない絶望の旅路も。どこかの誰かが『物語』としてそれを見つめているのだとしたら、その存在を『知っている』者がここに居ても、不思議じゃないと思わないか?」

 

俺の言葉は、高熱が生んだ妄言に過ぎないのかもしれない。

 

けれど、彼女は反論しなかった。ただ、今まで見たこともないような複雑な表情で、俺という「不確かな観測者」を凝視している。

 

「……文学少女、か」

 

自嘲気味に彼女が呟いたその声は、驚くほどか細かった。

 

「あまりにも昔の話で……自分でも、忘れかけていたわ。そんな、弱くて愚かだった頃の私のことなんて」

 

彼女は視線を逸らし、窓の外の夜の街を見つめる。

 

その背中は、見守るべき誰かを失ったあとのように、ひどく孤独で、そして脆そうに見えた。

 

天井の木目が、ぐにゃりと歪んで見える。

 

熱のせいか、それともこの「現実」そのものが歪んでいるのか。

 

俺は、荒い呼吸を整えながら、目の前に立つ黒髪の少女を見据えた。彼女の存在感は、この部屋のどの家具よりも、俺の体温よりも、ずっと「重い」。

 

「時間渡航……。何度も過去をやり直せる魔法を持つほむらちゃんなら、理屈としては理解できるかもしれないな」

 

俺は枕に頭を沈めたまま、独り言のように続けた。

 

「今の君は、二次元と三次元の壁……その絶対的な境界線を越えて、こっち側に『漂着』してしまった状態なんだ。観測される側だった世界から、君たちを観測し、物語として享受していた……いわば、一段階上の階層へ」

 

彼女の表情から、明らかな「拒絶」と「混乱」が読み取れた。

 

彼女が守ってきたのは、見滝原という街であり、鹿目まどかという一人の少女だ。その戦いのすべてが、この世界の人間にとっては「創作された物語」に過ぎないのだと。それを突きつけられることが、彼女にとってどれほどの冒涜になるか。

 

「……何を、言っているの? 創作? 観測者? 私は……私は、ただ……」

 

「『現代入り』っていうジャンルがあるんだ」

 

俺は彼女の困惑を遮るように、言葉を重ねた。

 

「虚構の世界の住人が、俺たちが住むこの平凡で退屈な現実世界に現れる。ほむらちゃん、君は今、その真っ只中にいるんだよ。俺が君を知っているのは、超能力者だからでも、君のループに干渉したからでもない。君の歩んだ軌跡が、この世界では一編の物語として記録されているからだ」

 

彼女の手が、かすかに震えた。

 

盾の中の砂時計は、今は止まっている。だが、彼女の心臓の鼓動が早まっているのが、静まり返った部屋の中で手に取るように分かった。

 

「……馬鹿げているわ」

 

絞り出すような、けれど冷たい声。

 

「私の……私の、あの血を吐くような絶望も。まどかが自分を犠牲にして救ったあの結末も。……すべてが、誰かに見せるための、ただの『お話』だと言うの?」

 

「そうじゃない」

 

俺は断言した。

 

「たとえ物語だったとしても、そこにある感情は本物だ。だからこそ、俺はこの高熱でうなされている最悪の夜に、君を見間違えたりしなかった」

 

俺は重い腕を動かし、空を仰ぐように手を伸ばした。

 

「……ま、信じろって言う方が無理だよな。でも、これが俺の知っている唯一の『真実』なんだ。ほむらちゃん、君は今、物語の外側に立っているんだよ」

 

彼女は黙秘した。

 

ただ、夜の闇に溶けそうなほど深い紫の瞳で、俺という「不遜な観測者」を、射抜くように見つめ続けていた。

 

その視線があまりにも鋭くて、俺は再び、意識の底へと沈んでいきそうになった。

 

咳き込むたびに、肺の奥が焼けるように熱い。

 

視界の端で、彼女の黒髪が揺れる。その無機質な美しさは、やはりこの現実という名の退屈な日常にはそぐわないものだった。

 

「……確かにここは、君たちのいた世界を物語として描いた場所だ」

 

俺は枕に沈んだまま、絞り出すような声で続けた。

 

「けれども……それももう、十数年も前の話なんだよ。残酷な言い方だけど、君たちの物語は『既定路線』として、もう完結してしまっている」

 

彼女の肩が、微かに跳ねた。

 

彼女がこれまで費やしてきた、気が遠くなるほどの時間。繰り返してきた別れと、流してきた血と涙。それが、この世界の人間にとっては「一昔前の完成された記録」でしかないという事実。

 

「今の君が何周目の時間軸から来たのか、俺にはわからない。……けれど、君が何をどう頑張ろうと、結局のところ、鹿目まどかは魔法少女になって世界を救う。それが君たちの世界の、動かしようのない『筋書き』なんだ」

 

部屋の空気が、一気に凝固した。

 

彼女が左腕の盾に添えた指が、白くなるほど強く握り締められる。その瞳に宿ったのは、激情を通り越した、深い、深い絶望の淵のような光。

 

「……インキュベーターのようなことを言うのね、あなたは」

 

「ああ、自分でもそう思うよ。撃ち殺したくなったかい? それならそれでも構わないさ。俺はただの、熱で動けない観測者に過ぎないんだから」

 

自嘲気味に笑うと、喉の奥で鉄の味がした。

 

「ただ、あいつ……キュゥべえと俺の決定的な違いを教えてあげようか。あいつは聞かれない限り、自分に都合の悪い事実は決して口にしない。……でも俺は違う。聞かれなくても、君が知るべきことを、君が絶望するような未来を、すべて教えてあげられる」

 

俺はあえて、彼女の紫の瞳を正面から見据えた。

 

「君が孤独に戦い抜いた結末も……全部知っているんだ、ほむらちゃん。君がどれだけ、まどかを愛していたかも含めてね」

 

彼女は何も言わず、ただ銃口を俺の胸元へと向けた。

 

けれど、その銃口は先ほどよりも激しく震えている。

 

無敵の「時間遡行者」として振る舞ってきた彼女の仮面が、音を立てて崩れようとしていた。

 

俺の言葉は、彼女にとって救いになるのか、それとも最後の一押しになるのか。

 

煮えきった頭では、その答えさえも霧の向こう側だった。

 

荒い呼吸を繰り返す俺の視界の中で、彼女の影がわずかに揺れた。

 

「……ひとつ、教えておくよ」

 

俺は焼けるような喉を震わせ、彼女に最後通牒のような忠告を突きつけた。

 

「もし君が、魔法少女となったまどかがワルプルギスの夜を倒し、この世から魔女を消し去ったあとの……あの『円環の理』を知っているのだとしたら。そして、どうしてももう一度まどかに会いたいと、そう願っているのなら……悪いことは言わない。それは、止めておいた方がいい」

 

ほむらの瞳が、凍りついたように見開かれる。

 

「……どうして、それを」

 

「君がそれを行動に移そうとすれば、キュゥべえに……インキュベーターにその想いを利用され、察知され、そして裏切られることになるからだ」

 

俺は、彼女の微かな震え、その立ち居振る舞いから確信を得ていた。

 

「今の君の態度と言葉でわかったよ。君は……君が何度も何度も世界をやり直し、その結果として、まどかを中心に絡まり続けた因果の糸が、彼女を『最強の魔法少女』にしてしまったあとの……あの結末を知っているほむらちゃんなんだな?」

 

彼女の表情から、一切の血の気が引いていく。

 

自分がひた隠しにしてきた、神の領域に等しい秘密。それを、この病床の男はまるですべて見てきたかのように語っている。

 

「なら、尚更だ。世界をどうこうしようとか、まどかに会いに行こうとするのは止めたほうがいい。それを実行した瞬間……君は、まどかが自らを犠牲にして築き上げた、あの『魔女のいない救済の世界』を、自らの手で破壊してしまうことになるんだから」

 

沈黙が、重苦しく部屋を支配した。

 

カーテンの隙間から差し込む月光が、彼女の左腕にある盾を冷たく照らす。

 

「……私が、まどかの世界を、壊す……?」

 

絞り出すような彼女の声は、震えていた。

 

愛ゆえに、守りたいと願ったがゆえに、最終的に彼女が何に成れ果て、何をしでかしてしまうのか。その「完結した物語」の続きを、俺は知っている。

 

「信じられないかもしれない。けれど、それが君の愛が招く『叛逆』の結末なんだ。キュゥべえは君のその『愛』という不確定要素を観測し、まどかを……神となった彼女を、再び自分たちの支配下に置こうと画策する」

 

俺は一度、大きく咳き込み、熱に浮かされた視線で彼女を射抜いた。

 

「……俺を撃つなら今だよ、ほむらちゃん。君の愛が世界を壊すなんていう悪夢を語る俺を、消してしまいたいならね。でも、これは君がこれから歩むはずだった、もう一つの残酷な真実なんだ」

 

彼女は銃を構えたまま、立ち尽くしていた。

 

引き金にかかった指は、今にもはじけそうなほどに震えている。

 

俺が語る「未来」という名の「既定路線」。

 

それを知ってしまった彼女の瞳に、絶望とも、決意ともつかない暗い焔が灯るのを、俺は意識が遠のく中でじっと見つめていた。

 

視界の端が赤く燃えている。熱のせいか、それとも語っている未来の凄惨さのせいか、もう自分でも分からなかった。

 

「……俺が知っているのは、そこまでだ」

 

俺は力なく、けれど最後の一滴を絞り出すように告げた。

 

「君は、愛ゆえに『悪魔』となる。そして、まどかが自らを捧げて作った秩序(せかい)を、自らの手で引き裂き、壊してしまうんだ」

 

ほむらの息が止まる。

 

その表情から、先ほどまでの殺意が消え、代わりに底なしの虚無と恐怖が這い上がってくるのが見えた。自分の唯一の生きる糧である「まどかへの愛」が、結果として彼女の救済を汚すことになる。その事実は、彼女の心を砕くには十分すぎるほどの毒だった。

 

「……ひとつ、アドバイスをさせてくれ」

 

俺は重い瞼を持ち上げ、彼女の瞳をじっと見つめる。

 

「キュゥべえの前で、絶対に『魔女』の話はするな」

 

彼女の指先が、ぴくりと跳ねた。

 

「あいつら……インキュベーターの目的は知っているだろ。君たちくらいの少女が、希望から絶望へと堕ちる瞬間に発生する膨大なエネルギーを回収し、宇宙の寿命を延ばすことだ。……だが、魔女のいなくなった円環の理の世界には、その効率的なエネルギー源が存在しない」

 

喉の奥が焼けつくようだ。俺は一度唾を飲み込み、言葉を続けた。

 

「もし、かつて存在した『魔女』という概念を……ソウルジェムが絶望で穢れきり、魔女へと成れ果てるあのシステムのことを、キュゥべえが知ったらどうなるか。……ほむらちゃん、君ならわかるはずだ」

 

彼女の持つ盾……その中の砂が、一際激しく流れる音がした。

 

「あいつらは、そのシステムを再現しようとするだろう。……干渉遮断フィールドを作り、君のソウルジェムを実験場にして、円環の理そのものを支配下に置こうと画策するはずだ。……それが、君が悪魔へと堕ちていく『叛逆』の引き金になる」

 

「…………」

 

彼女は沈黙していた。

 

だが、その沈黙は否定ではなく、あまりにも理にかなった「残酷な予測」に対する絶望的な納得だった。

 

「だから……絶対に口にするな。まどかが作り替えたこの世界を愛するなら、君の胸にあるその記憶を、誰にも、特にあいつには、悟らせてはいけないんだ……」

 

言い終えると同時に、急激な脱力感が俺を襲った。

 

もう、喋る気力も、目を開けている力も残っていない。

 

俺は重力に従い、意識の底へと沈んでいった。

 

最後に視界の端に映ったのは、絶望的な真実を突きつけられ、銃を握ったまま立ち尽くす一人の少女の、あまりにも孤独で痛々しい姿だった。

 

(……ごめんな、ほむらちゃん。……せめて、俺のこの悪夢が、君の未来を変える何かに、なればいいんだけど……)

 

意識が薄れゆく境界線で、俺は最後にもう一度だけ、彼女に声を絞り出した。

 

「……一つ、可能性が無きにしもあらず……だ」

 

その瞳には、絶望の影に隠れて、微かな、本当に微かな「飢え」が見えた。それは、救いを求める飢えだ。

 

「確かに君たちの歩みは、この世界では既定の物語として描かれている。……けれど、何度も時間を繰り返し、あり得たはずの異なる可能性を追求し続けてきた君なら、理解できるはずだ」

 

俺は荒い息を吐きながら、熱を帯びた言葉を繋ぐ。

 

「もう一度……すべての始まりに還って、ワルプルギスの夜と戦う覚悟があるのなら。もし、まどかを魔法少女にすることなく、あの化け物を君一人の手で討ち果たせたのなら……。まどかが『円環の理』となって消えることもなく、世界がそのまま続いていくという……そんな可能性の分岐を、君自身が作り出せるかもしれない」

 

彼女の肩が、目に見えて震えた。

 

それは彼女が、何十回、何百回と繰り返してきた中で、一度も掴み取ることのできなかった「最高のハッピーエンド」の形。

 

「この世界で語られている物語は、あくまで観測され、創造された『既定路線の一つ』に過ぎない。……いいか、ほむらちゃん」

 

俺は自嘲気味に口角を上げた。

 

「今、俺の目の前にいる君が、俺の知っている世界線の君本人だなんて……一体誰が観測して、誰が決定づけられるっていうんだ?」

 

彼女は言葉を失ったように、ただ俺を見つめていた。

 

シュレディンガーの猫のように、観測されるまでは状態が確定しないのだとしたら。

 

俺が今ここで「君は物語とは違う結末に辿り着ける」と口にしたこの瞬間、彼女の運命は、既成の台本から外れた新しい白紙のページへと足を踏み入れたのかもしれない。

 

「君は……『暁美ほむら』という物語の一部なんかじゃない。……君は、ここにいるんだ。俺と同じように、呼吸をして、迷って、戦っている……一人の女の子として」

 

「…………」

 

彼女はゆっくりと、自分の左腕にある盾に触れた。

 

その瞳から、先ほどまでの濁った絶望が消え、静かな、けれど研ぎ澄まされた意志の光が宿る。

 

「……そうね。物語が完結しているというのなら、その先を書き換えることも、あるいは最初から書き直すことも、私の自由だというわけね」

 

彼女の声から、震えが消えていた。

 

たとえ俺の言葉が熱病の見せた幻想だったとしても、彼女はそれすらも利用して、絶望の連鎖を断ち切る力に変えるだろう。そういう女なのだ、暁美ほむらは。

 

「……おやすみなさい、名もなき観測者。あなたの見た『悪夢』は、私が責任を持って……現実にさせないわ」

 

カチャリ、と金属の音が響く。

 

それが、彼女が再び戦場へ赴くための合図だったのか。

 

視界の端で、彼女の輪郭が陽炎のように揺らぎ、淡い光の粒子となって溶けはじめた。

 

その瞬間、俺の身体は思考を追い越し、反射的に手を伸ばしていた。

 

後で撃ち殺されるか、あるいは時空の狭間に放り出されるか。そんな恐怖よりも、このまま彼女をひとりで、再び終わりのない孤独な戦いへと還したくないという衝動が勝った。

 

「……っ!」

 

俺は、消えゆく彼女の腕を力任せに引き寄せ、その細い身体を強く抱きしめた。

 

「なっ……何をするの……っ!?」

 

腕の中に閉じ込めた暁美ほむらは、驚くほど華奢で、少し力を込めただけで折れてしまいそうだった。肌に触れる感触は心地よくひんやりと冷たいが、その芯には、彼女が灯し続けてきた「愛」という名の、確かな熱が脈打っている。

 

魔法の発動に巻き込まれ、周囲の風景が歪み、加速する。世界と時間を超える轟音の中、彼女の息を呑む音が耳元で聞こえた。

 

「あなた……何を! 放して、このままじゃ……!」

 

周囲の空間が、彼女の盾を中心に激しく歪み始める。

 

彼女が時空を超えようとするその「魔法」の渦に、俺の意識も引きずり込まれていくのが分かった。このまま離さなければ、俺は世界も時間も超えて、彼女の行く末に同行することになるだろう。

 

「……無理だよ。放っておけるわけないじゃないか」

 

俺は、困惑に震える彼女の肩に顔を埋め、熱に浮かされたまま、最後にして最大の「秘密」を告げた。

 

なぜ、見ず知らずの俺が、君のすべてを知っているのか。

 

なぜ、命を懸けてまで君の孤独に介入しようとしたのか。

 

「多分……これは、俺の名前の『呪い』みたいなもんなんだ」

 

彼女の身体が、一瞬で凍りついたように硬くなる。

 

俺の名前を聞けば、彼女は驚愕に目を見開くか、あるいは「ふざけないで」と、氷よりも冷たい蔑みの視線を送るだろう。それでも、これだけは伝えなければならなかった。

 

「教えてあげるよ……。俺の名前は――暁美まどか、って言うんだ」

 

運命の悪戯か、あるいは観測者が仕組んだ残酷な冗談か。

 

腕の中の少女が、文字通り凍りついた。

 

自分と同じ名字、そして、彼女がすべてを賭けて愛し、救おうとしていた少女の名。その二つが組み合わさった俺の姓名を聞いて、彼女は目を見開いたまま絶句している。

 

「ずっとひとりで頑張ってきて……これからもまた、全部ひとりで背負おうとする君を……。そんな名前を持った俺が、放っておけるわけないじゃないか」

 

重なり合う鼓動。加速する時空。

 

彼女の瞳に、激しい感情の濁流が溢れ出すのがわかった。

 

「……まどか。……まどか、なのね……?」

 

震える声で紡がれたその名は、俺を呼んだものか、それとも彼女が焦がれ続けたあの子を呼んだものか。

 

答えが出る前に、まばゆい光が俺たちの意識を飲み込み、世界は真っ白に塗り潰された。

 

 

 




ガチで寝込む程の高熱の最中にまどマギ見返して寝落ちした時に見た夢をベースにしてますので、整合性とか細かい事は笑って許してくれると幸いです。
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