その刹那に愛を──   作:星乃 望夢

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第十二話

 

「……とりあえず、屋上に行くわよ」

 

火照った顔がちっとも戻らない俺の手を引いて、ほむらちゃんは迷いのない足取りで再び階段を駆け上がった。

ついさっきまで俺がインキュベーターを言葉でボコボコに殴っていた戦場へ、今度は二人きりの「お弁当タイム」のために舞い戻る。

 

屋上の重いドアを開けると、そこには先ほどまでの殺伐とした空気はなく、ただ穏やかな昼の陽光と風が吹き抜けていた。

 

「お弁当……と言っても、用意があるわけじゃないけれど」

 

ほむらちゃんはフェンス際に腰を下ろすと、購買部で「拝借」してきたという袋を取り出した。

 

彼女が選んだのは、これまた学生の昼食の定番、コロッケパン。そして俺の手には、購買部の争奪戦を制した者だけが味わえる至高の主役、焼きそばパン。

 

「……ま、お洒落なカフェ飯より、今の俺たちにはこういうのが似合ってるかもね」

 

俺は隣に座り、まだ指先に残る彼女の手の感触を誤魔化すようにパンの包みを開いた。

 

世界を塗り替えようとする覇道神の萌芽と、その魂の半身。そんな大層な存在の昼食が、袋詰めの惣菜パンだというのは、なんだか愉快な矛盾だった。

 

「ねえ、ほむらちゃん」

 

焼きそばパンを一口齧り、紅生姜の酸味を感じながら、俺はふと気になっていたことを口にした。

 

「……良かったの? ほむらちゃん。せっかくまどかと話せて、一緒にお昼を食べられるかもしれない絶好の機会だったのに。俺なんかとお昼、食べちゃってさ」

 

俺の問いに、コロッケパンを口に運ぼうとしていたほむらちゃんの動きが止まった。

 

彼女は視線を落とし、風に揺れる自分の長い黒髪を耳にかけながら、静かに、けれど迷いのない声で答えた。

 

「……あの子は、私が守るべき光。それは、何があっても変わらないわ」

 

彼女の紫の瞳が、僅かに細められる。

 

「でもね、まどか。今の私にとって、貴方は『光』を見失わないための道標であり、この暗い地獄を一緒に歩いてくれるたった一人の『共犯者』なのよ。……どちらかを選ぶなんて、そんなの、最初からできない相談だわ」

 

「ほむらちゃん……」

 

「それに」

 

彼女は少しだけ照れくさそうに、けれど誇らしげに俺を振り返った。

 

「あのインキュベーターをあそこまで黙らせた貴方の活躍を、一番近くで称えてあげたいと思ったの。……これは、私の我儘よ。文句あるかしら?」

 

「……いや。文句なんてあるわけないだろ。最高の報酬だよ」

 

俺は苦笑いしながら、焼きそばパンを咀嚼した。

 

彼女にとっての「鹿目まどか」は、永遠に守り抜くべき聖域。

 

そして俺という「暁美まどか」は、共に血を流し、共に罪を背負う、現実に隣り合う魂。

 

彼女は今、その両方を自分の腕の中に抱え込もうとしている。

 

なんて欲張りで、なんて愛おしい「覇道」だろうか。

 

「……美味しいわね。このパン」

 

「だろ? 次はメンチカツパンも試してみようぜ。あれも結構いけるんだ」

 

二人で並んで座り、惣菜パンを齧る。

 

インキュベーターの計算式には決して現れない、穏やかで不器用な日常の一幕。

 

俺たちは、神になる前の、ただの「兄妹」のような時間の中で、静かに絆を深め合っていた。

 

見滝原の空は、どこまでも澄み渡っていた。

 

この平和な青空を「永遠の一瞬」にするために。

 

俺は隣にいるこの少女と共に、これからも何度だって運命と戦い続けてやる。

 

「……私の隣から、離れないでね。まどか」

 

彼女の小さな手が、再び俺の服の裾をぎゅっと掴んだ。

 

その確かな重みを、俺は一生、手放さないと心に決めていた。

 

購買部で拝借した惣菜パンを半分ほど食べ終えた、その時だった。

 

「あ、いたいた! 暁美さーん! お兄さーん!」

 

屋上の重いドアが勢いよく開き、さやかちゃんの快活な声が響き渡った。だが、俺の意識は彼女の隣に佇む、もう一人の少女に釘付けになった。

 

ふわふわと風に揺れる、柔らかな桜色の髪。

 

その姿を視界に捉えた瞬間、俺の胸の奥が、まるで雷に打たれたような衝撃と共に「トクンッ」と跳ね上がった。

 

(……落ち着け。落ち着け、俺。これは一目惚れなんかじゃない。……これは、俺と繋がっているほむらちゃんの魂の『汚染』だ。彼女の狂おしいまでの執念が、俺の心拍数を勝手に引き上げているだけなんだから)

 

俺は必死に自分に言い聞かせ、熱くなりかけた脳を冷却する。俺という個我が、彼女の抱く「鹿目まどか」という概念に当てられて、無意識に恋に落ちるような反応を示しているだけだ。これはまやかしだ。そう、処理しなければならない。

 

「ほら、まどかも! せっかくだからお昼、一緒しようよ」

 

さやかちゃんに腕を引かれ、戸惑いながらもこちらへ歩み寄ってくる少女。

 

本物の、この時間軸の鹿目まどか。

 

彼女は俺の顔を見るなり、隣に座るほむらちゃんと見比べて、信じられないものを見たように目を丸くした。

 

「え……。あ、あの……暁美さんが、二人……?」

 

「あはは、びっくりしたでしょ? こっちの、ほむらちゃんにそっくりなのがお兄さんなんだって。……あ、そういえば名前、まだ教えてなかったっけ? この人も『まどか』っていうんだよ。暁美まどかさん!」

 

「えっ……。ま、まどか……くん?」

 

さやかちゃんの紹介を聞いた瞬間、彼女は今度こそ、言葉を失って固まった。

 

そして、運命の瞬間が訪れた。

 

彼女の、濁りのない無垢な瞳と、俺の視線が真正面から交差した。

 

瞬間、俺の自我の防壁をいとも容易く擦り抜け、怒涛の如く「何か」が流れ込んできた。

 

それは、灼けるように熱く。壊れそうなほどに烈しく。

 

苛烈で壮絶な、魂の衝動、燃焼、激動、疾走、爆発、嵐――。

 

同時に、強く、優しく、陽気で、愛おしい。

 

宇宙の法則そのものに包み込まれるような、圧倒的な質量の思念。温かくて、心地よくて、あまりにも切ない「未来」と「祈り」の残照。

 

「…………」

 

俺は、自分でも気づかないうちに立ち上がっていた。

 

意識はまだ混濁の渦中にあるというのに、身体が勝手に、至高の主君を仰ぐ騎士のような、あるいは最愛を慈しむ聖者のような動作を始める。

 

俺はまどかの前で、流れるような動作で片膝を突き、跪いた。

 

そして、彼女の小さく柔らかな手を、まるで世界に一つしかない至高の芸術品を扱うかのように、丁寧に、優しく、両手で包み込んだ。

 

「……初めまして。鹿目まどかさん」

 

自分の声が、自分のものではないように深く、優しく響く。

 

「俺の名前は、暁美まどか。……ほむらちゃんの双子の兄であり、君を守るためにこの世界に現れた、ただの『観測者』だ。……君に会えて、光栄だよ」

 

跪いた俺の頭上で、ほむらちゃんが息を呑む気配がした。

 

さやかちゃんが呆気にとられて口を半開きにしているのも、視界の端で見える。

 

だが、俺にはもう、目の前の少女しか見えていなかった。

 

「ひゃああっ……!? え、えええええっ!?」

 

目の前で、本物の――この時間軸の鹿目まどかが、文字通りリンゴのように顔を真っ赤にしてフリーズした。

 

その隣では、さやかちゃんが腹を抱えて爆笑しながら、容赦ないツッコミを飛ばしてくる。

 

「ひゃははは! ちょっと暁美兄、いきなり何やってんの!? 王子様!? 王子様ごっこなの!? あまりに様になりすぎてて逆に引くわ!!」

 

その声で、ようやく俺を支配していた「因果の濁流」が引いていった。

 

……ハッとした。

 

俺は今、何をしていた?

 

指先に残る、まどかの手の柔らかくて温かな感触。地面に突き、土の汚れがついたままの俺の右膝。そして、至近距離で見上げる、潤んだ彼女の瞳。

 

(あああああああああああああああああああ!!!!)

 

脳内で、俺自身の理性が断末魔の叫びを上げた。

 

羞恥心。後悔。そして、築き上げてきたはずの「冷静な観測者」としての自尊心が、音を立てて木端微塵に崩壊していく。

 

いや、言い訳はさせてくれ。

 

魂が同化し、随神相として顕現している以上、主神であるほむらちゃんの「まどかへの狂おしいまでの崇拝」が俺の行動にフィードバックされるのは、ある意味で術式上の仕様なんだ。

 

でも、それにしてもだ!

 

これじゃあ、黄昏の女神を前にして「あなたに恋をした。跪かせて頂きたい、花よ」とかのたまっている、あの最悪で最高なコズミック変質者とやってることが丸っきり同じじゃないか!!

 

永劫回帰を司る神様がやるならまだしも、見滝原中学校の屋上で、制服を着た自称「双子の兄」がやるムーブとしては、あまりにも痛すぎる。痛恨の極み、厨二病の末期症状にしか見えない。

 

「……あ、あはは。ごめん、まどかさん。……なんていうか、君があまりにもほむらちゃんの言ってた通り、素敵な人だったから。……つい、ね」

 

俺は音速で立ち上がり、何食わぬ顔でズボンの汚れを払った。顔が熱い。耳まで焼けるように熱い。もし今、誰かが俺の体温を測ったら、即座に保健室送りにされる自信がある。

 

「あ、う、ううん……。びっくりしたけど……。えへへ、暁美さんのお兄さん、面白い人なんだね」

 

まどかは真っ赤な顔のまま、それでも俺を怖がることなく、不器用に笑ってくれた。その優しさが、今の俺には猛毒のように突き刺さる。

 

恐る恐る隣のほむらちゃんを見ると、彼女は――。

 

表情こそ無機質な仮面のようだったが、魂を通じて流れ込んでくる彼女の意識は、「よくやった(称賛)」と「私のまどかに触れやがって(殺意)」、そして「私が代わりにやりたかった(羨望)」が複雑にブレンドされた、とんでもない劇薬カクテル状態になっていた。

 

「さ、さあみんな! パン食べようぜパン! 焼きそばパン、まだ半分残ってるから! ほら、さやかちゃんもまどかちゃんも、購買のパンは早い者勝ちだぞ!」

 

俺は、裏返りそうな声を必死に絞り出し、半分食べかけの焼きそばパンをブンブンと振り回しながら、無理やりお弁当タイムを再開させた。

 

この凍り付いた空気と、自分の顔から立ち昇る熱を強引にリセットするには、もはや「食」という生存本能に訴えかけるしかない。

 

……悲しいかな。

 

普段なら冷徹な計算と圧倒的な魔力で俺のフォローをしてくれるはずの、唯一無二の味方であるほむらちゃん。そのバックアップがない今の俺は、ただの「行き当たりばったりで空気をぶち壊す能無し」でしかない。

 

俺は内心で血の涙を流しながら、必死に焼きそばパンを咀嚼した。

 

「あはは……。暁美さんのお兄さん、本当に勢いがあるっていうか、個性的だねえ」

 

さやかちゃんがようやく笑いすぎて痛む腹を押さえながら、お弁当の包みを広げる。

 

まどかも、まだ顔に赤みが残ってはいたが、俺のあまりの必死さに毒気を抜かれたのか、「……そうだね。暁美くん、ありがとう」と、お母さんが持たせてくれたであろう、可愛らしいお弁当箱を開いた。

 

「…………。まどか、食べかけのパンを人に見せびらかすのはやめなさい。はしたないわ」

 

隣から、ほむらちゃんの氷点下のツッコミが飛んでくる。

 

彼女は優雅にコロッケパンを口に運びながら、目線だけで俺を殺そうとしていた。その視線は「後で魂の連結部分を千切りにしてやるから覚悟しなさい」と雄弁に語っている。

 

(ごめん、ごめんってほむらちゃん! でもさ、あの状況で他にどうしろっていうんだよ!)

 

俺は魂通信で必死に弁明を送るが、彼女からの返信は「死になさい」という短文一つだけだった。手厳しい。

 

屋上のフェンス越しに、見滝原の平和な街並みが広がっている。

 

二人の「まどか」と、二人の「暁美」。そして、何も知らずに笑うさやかちゃん。

 

一歩間違えれば、ここから魔法少女の契約や、絶望へのカウントダウンが始まってしまう。

 

でも、今は……。

 

「……あ、まどかの卵焼き、ハート形だ! いいなー、一個ちょうだい!」

 

「あ、待ってよさやかちゃん! 暁美さんたちの分もあるから……暁美さんも、お兄さんも、もしよかったら食べる?」

 

まどかが差し出してくれた卵焼き。

 

俺はそれを、聖遺物でも扱うかのような恭しさで受け取り、口に運んだ。

 

……甘い。

 

世界を塗り替えるための「覇道」なんて、今はどうでもいいと思えるくらいに、その卵焼きは優しくて温かな味がした。

 

俺は自分の「痛い」失敗をパンと一緒に飲み込みながら、この最高に不格好で、最高に幸福な時間を、一秒でも長く繋ぎ止めることを改めて誓った。

 

覇道神の初陣が「屋上での失態」から始まるなんて、どこの神話にも書いていないだろうけど。

 

それもまた、俺たちが書き換えていく「新しい物語」の一節だと思えば、悪くないかもしれない。

 

さやかちゃんの屈託のない笑い声。まどかの少しはにかんだような微笑。そして、隣で不機嫌そうに、けれどどこか安堵したようにパンを齧るほむらちゃん。

 

何気ない、どこにでもある昼休みの風景。

 

けれど、その光景を眺めているうちに、俺の胸の奥から、せり上がるような、狂おしいほどの情念が溢れ出してきた。

 

(ああ……ずっと、こうしていられればいいのに)

 

それは、かつて語った『永遠の刹那』を求めた神と同じ、あまりにも純粋で、あまりにも傲慢な渇望。

 

楽しい時間は、瞬く間に過ぎ去っていく。午後の予鈴が鳴れば、この幸福な箱庭は解かれ、再び過酷な運命の歯車が回りだす。それが世界の理だというのなら――。

 

(いっそ、このまま時が止まってしまえばいい。この最高に幸福な一瞬を切り取って、永遠に、死ぬまで、宇宙の終焉まで繰り返したい)

 

人間なら誰しもが抱く、一瞬の逃避。

 

だが、今の俺が抱くその想いは、もはやただの願望ではなかった。魂を共有し、彼女の因果に染まった今の俺にとって、それは世界を塗り替えるための「法」としての熱量を帯び始めている。

 

これは、ほむらちゃんの魂による『汚染』なのだろうか。

 

彼女が何百回、何千回というループの中で、一秒でも長くまどかと笑い合いたいと願い、その願いが叶わぬまま絶望へと変わっていった、その残り香が俺を突き動かしているのか。

 

いや。

 

仮にそうだったとしても、今、俺が「この時間を失いたくない」と、泣きたくなるほどに強く願っているのは、紛れもない俺自身の意志だった。

 

隣のほむらちゃんに視線をやる。

 

彼女は俺の視線に気づいたのか、パンを持った手を止めて、紫の瞳でじっと俺を見つめ返した。

 

魂通信は、もう必要なかった。

 

彼女の瞳の奥にも、俺と同じ、美しくも醜い『執着』が燃えている。

 

まどかの笑顔を曇らせる明日の太陽なんていらない。彼女を傷つける因果の連鎖なんて、この停滞の中に閉じ込めて、無に帰してしまえばいい。

 

「……美味しいわね。まどかの、卵焼き」

 

ほむらちゃんが、消え入るような声で呟いた。

 

「……ああ。本当に、最高だよ」

 

俺たちは、自分たちの「正義」が、いかに歪んでいるかを自覚している。

 

世界がどれほど澱んでも、この穏やかな時間が永遠に続くなら、神の座さえも踏み台にして構わない。

 

さやかちゃんが、不思議そうに俺たちを見ている。

 

まどかが、嬉しそうに小首を傾げている。

 

俺は、その無垢な二人の姿を網膜に焼き付けるように見つめながら、己の『覇道』を改めて定義した。

 

インキュベーターの搾取も、魔法少女の悲劇も、この「永遠の刹那」の前では、ただの排除すべきノイズに過ぎない。

 

俺の魂が、ほむらちゃんの愛と共鳴して、一段と高く、烈しく拍動を始める。

 

(……俺が、守ってみせるよ。ほむらちゃん)

 

俺は、彼女のスカートの裾を、誰にも見えないようにそっと握った。

 

彼女が求めた停滞を。

 

彼女が守りたかった、この瞬間の光を。

 

屋上のチャイムが、遠くで鳴り響こうとしていた。

 

けれど、俺たちの意志は、その無情な音色さえも、既に置き去りにしようとしていた。

 

 

 

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