その刹那に愛を──   作:星乃 望夢

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第十四話

 

ピタリ、と。

 

隣を歩いていた「暁美まどか」が足を止めた。

 

彼と指を深く絡ませ、万力のような力で繋いでいた私の手も、その動きに引かれるようにして止まった。

 

「……どうしたの、まどか」

 

私が声をかけると、彼はどこか遠くの景色を探るように、その紫の瞳を細めていた。

 

「ほむらちゃん、何か感じない?」

 

彼の言葉に、私は自分の感覚を研ぎ澄ませた。

 

数瞬の遅れのあと、私の魂にもその「毒」のような感覚が伝わってくる。

 

魔女の気配――。

 

けれど、あまりに希薄だ。魔女本体というよりは、その眷属である「使い魔」の残滓だろうか。

 

知識としてはこの世界の全てを把握している彼であっても、それを「直感」として正確に捉えられないのは無理もないことだった。

 

なにせ、彼がこの世界で魔女と邂逅したのは、たったの二回。

 

そして、私と魂を一つにし、魔人として初陣を経験したのは昨夜の『ハコの魔女』との一戦だけなのだ。

 

すべてを知っていても、それはあくまで『物語』としての知識。

 

経験が伴っていない彼を責める気なんて、私にはこれっぽっちもなかった。むしろ、これから私が彼を導き、守ってあげられるのだと思うと、その不慣れな危うさすら愛おしく思えて、胸の奥で心地よく疼く。

 

「暁美さん、まどか君。どうかしたの?」

 

私たちの様子を見て、前を歩いていた巴マミが不思議そうに首を傾げた。

 

「貴女は感じないの? 巴マミ」

 

「感じる……?」

 

私の問いかけに、彼女はさらに困惑の色を深める。

 

けれど、そこはやはりこの街を一人で守り抜いてきた歴戦の魔法少女というべきか。彼女はすぐさま、私たちの空気が「戦闘」のそれに切り替わったことを鋭く察知した。

 

「……私はまだ何も感じ取れていないけれど。貴方たち二人がそう言うのなら、疑う必要はないわね」

 

巴マミがその手にソウルジェムを掲げる。

 

私も既に、意識のすべてを左腕の聖遺物――『砂時計の盾』へと向けていた。

 

彼という『魂』を内包し、別宇宙の法を取り込んだ私の盾が、獲物を求めて静かに駆動を始める。

 

「行くわよ」

 

「ああ」

 

「ええ、いつでもいいわ」

 

二人の返事を聞き届けると同時に、私は地面を蹴った。

 

沈みゆく夕日が街を赤黒く染め上げる中、私たちはその微かな、けれど逃しようのない絶望の香りを追って、見滝原の影へと走り出した。

 

 

◇◇◇

 

 

数日前の私――あの中途半端に絶望に慣れ、ただ孤独であることを誇りにしていた哀れな私に見せてあげたいわ。今のこの、胸が焼けるような、それでいて甘美な充足に満ちた私の姿を。

 

きっと過去の私は、今の私を軽蔑し、鼻で笑い、あり得ないと切り捨てるでしょうね。鹿目まどか以外に心を割く余裕なんて、あの時の私には一欠片も残っていなかったはずだから。

 

彼は、毒だわ。

 

一度味わえば二度と逃れられない、脳を麻痺させるほど甘美な猛毒。

 

出逢った瞬間のことを思い出すたび、自分でも失笑してしまう。

 

見知らぬ部屋の、湿った布団。高熱に浮かされ、死人のような顔をしていた彼が、気怠げに見上げた視線の先で放った第一声。

 

『……あのさ、ほむほむさんや。そのアングル……スカートの中、見えてるよ』

 

困惑と、羞恥と、そして即座に引き金を引き絞りたくなるほどの殺意。あの時の冷たい銃口の感触は、今でも指先に残っている。けれど、そんな最悪の邂逅が、まさか魂を分け合うまでの関係になるなんて、誰が想像できたかしら。

 

彼は私を暴いた。

 

私たちの戦いが、何者かに観測され、編まれた『物語』に過ぎないこと。

 

私が最後にはまどかを取り戻そうとするあまり、彼女が創り上げた救済の理さえ破壊する『悪魔』に成れ果てること。

 

そして――。

 

もう一度ワルプルギスの夜に挑み、まどかを魔法少女にすることなく勝利できれば、あの子が概念として消えることもなく、人として生きられるという『可能性』。

 

あの子が、ただの女の子として笑っていられる。

 

その未来を提示し、地獄の路を共に行くと誓い、あろうことか私を強く抱き締めた馬鹿な人。

 

自分の名前は『呪い』のようなものだと言って、私の時間遡行に無理やり付いてきた狂った観測者。

 

インキュベーターをその口八丁で黙らせ、私の何百回という無為な戦いを「無駄ではなかった」と初めて肯定してくれた。

 

私に魂を捧げ、私の一部として宿り、暗闇の先を歩むための導きの音色を奏でてくれる人。

 

ああ……愛おしい。

 

なんて、愛おしいのかしら、貴方は。

 

傍に居て。離れないで。私を一人にしないで。

 

私を抱き締めて、私だけを愛して、私だけを見つめて。

 

こんなにも小さく、それでいて全宇宙を飲み込むほどに巨大な独占欲に、私という存在が塗り潰されていく。

 

過去の私が見れば、あまりの浅ましさに吐き気を催すでしょうね。まどか以外に想いを抱き、その温もりに溺れている自分自身を、因果ごと消し去るために襲いかかってくるかもしれない。

 

でも、いいわよ。やってみれば?

 

今の私は、貴女の呪詛も、貴女の殺意も、これっぽっちも怖くない。

 

何を言われても、痛くも痒くもない。

 

『まどか』という名前の男に愛されることで、あの子に置いていかれた傷を誤魔化しているだけだ?

 

そうかもしれないわね。そう見えても構わない。

 

けれど、今の私は『独り』じゃない。

 

こんなにも私を想い、私だけを熱く愛してくれる人が、私の魂の中に確かに存在している。

 

一緒に地獄に落ちようと言ってくれた。

 

永劫回帰の那由多の果てまで、共にあると誓ってくれた。

 

ねえ、震えて立ち尽くしている過去の私。

 

――貴女には、そんな『魂の伴侶』が居るのかしら?

 

私は彼の手を強く握り締め、指を絡め、恋人繋ぎで私たちの絆を誇示する。

 

運命が歪もうとも、この手の熱だけは誰にも奪わせない。

 

ああ、滑稽だわ。

 

満たされた私を見つめて、絶望に狂い哭く貴女の姿を想像するだけで、ゾクゾクするような愉悦を感じる。

 

貴女が欲しくても得られなかったものを、私はすべて持っている。

 

貴女が耐え続けた孤独を、私は愛に変えて飲み干した。

 

もう、後戻りはできない。

 

まどかのための覇道。そして、彼を永遠に私の檻の中に閉じ込めるための愛道。

 

私は、この二つの業を背負って、神の座さえも踏み躙って進む。

 

愛しているわ、私のまどか。

 

貴方の魂が、私の渇望で焼き尽くされ、私なしでは存在できなくなるその時まで。

 

私は貴方を、一秒たりとも離さない。

 

繋いだ手から伝わってくる、彼の熱。

 

この温もりを、決して離さない。そう誓うたびに、胸の奥でどろりと濁った情念が鎌首をもたげる。

 

――本当は、嫌なの。

 

貴方が私以外の誰かを見ているなんて、耐えられない。

 

まどか……あの子の前で貴方が跪くのは、仕方がないと思っているわ。だって、まどかだもの。私が守りたい光、私が人生のすべてを捧げたあの子への想いが、魂を通じて貴方に影響を及ぼしているのなら、それは必然で、不可避の理。

 

だから、あの子が相手なら、私は痛みを堪えて目を瞑ってあげる。

 

けれど、貴方は優しすぎるわ。

 

あの子と同じ『まどか』という名を背負っているからなの?

 

貴方は、あの子が愛したこの世界を、そこに生きる無価値な他人のことまで、放っておこうとしない。

 

その甘美な『毒』を巴マミに分け与え、彼女の腐りかけた孤独を救い、光を求めて泥を啜る美樹さやかのことまで気に掛けて……。

 

分かっているわ。まどかが笑って過ごせる『永遠の刹那』を築くためには、彼女たちの存在が必要なピースであることくらい。

 

それでも……嫌なのよ。

 

その貴方の愛を、私以外に向けて欲しくない。

 

私以外を、愛さないで。

 

私以外を、見ないで。

 

私以外の誰かも、その腕で抱き締めたりしないで。

 

繋いだ指が折れるほど力を込めても、この狂おしい渇望が伝わらないと言うのなら……。

 

私は、この身体を貴方に捧げても構わない。

 

貴方が己の魂を、私の聖遺物に、私の存在の核に捧げてくれたように。

 

私の絶望も、私の希望も、そしてこの肉体のすべてを、貴方の望むままに。

 

私と貴方は、もう切り離せない一心同体の存在。

 

まるで一つの身体に二つの頭を持つ蛇のように、この世界の不条理を呑み込み、塗り替えていく双頭の怪物。

 

だから、貴方を私だけに繋ぎ止めるためなら、私は何でもする。

 

神の理を裏切り、悪魔の業を重ね、この宇宙のすべてを敵に回してもいい。

 

貴方が私を求めてくれるなら、私は何にだってなってみせる。

 

だから……お願い、まどか。

 

貴方だけは、あの子みたいに、私を置いて行かないで。

 

概念になって、手の届かない空の彼方へ消えたりしないで。

 

私という檻の中で、私という毒の中で。

 

いつでも、どこでも、いつまでも。

 

私と一緒に居て。

 

愛しているわ、まどか。

 

貴方の瞳に映るものが、永遠に私だけでありますように。

 

――私の、たった一人の、暁美まどか。

 

 

◇◇◇

 

 

駆ける私の隣には、いつもと同じようでいて、決定的に異なる「体温」がある。

 

鹿目まどかを守る。

 

それは私にとって、この宇宙が定めたどんな物理法則よりも優先されるべき絶対の真理だ。あの子こそが私の光であり、あの子のいない世界に意味などない。そう信じて、私は何百回、何千回という絶望の円環を独りで彷徨い続けてきた。

 

誰も信じない。誰にも頼らない。

 

心を鋼鉄の檻に閉じ込め、ただ一人の少女の救済のためだけに己を削り続ける……。そう決めていたはずの私の人生に、彼は文字通り「乱入」してきた。

 

『暁美まどか』。

 

私と同じ姓を名乗り、私の左腕の盾――魂の最奥に宿り、「永劫回帰の那由多の果てまで、いつでもどこでも一緒に居る」と誓った、私の唯一無二の共犯者。

 

一蓮托生、比翼連理。

 

魂そのものが分かちがたく混ざり合い、私の冷え切った渇望を、彼はその身に余るほどの熱で包み込んでくれる。

 

(……おかしいわ。こんなこと、計算になかったはずなのに)

 

全力で走りながら、私は繋いでいない方の手で、胸の鼓動を抑えたい衝動に駆られた。

 

死滅していたはずの感情が、魂の奥底で音を立てて軋んでいる。

 

これまで、私の「愛」はすべて鹿目まどかへと捧げられていた。それは、一人の少女が神を仰ぎ見るような、崇高で、そして痛ましいほど一方的な祈りだった。

 

けれど、彼は違う。

 

彼は私を「悲劇のヒロイン」として観測するのではなく、ただの、傷つき不器用な「一人の女の子」として理解しようとする。私の傲慢な覇道を肯定し、私の歪んだ独占欲を「素敵だ」と笑って受け止める。

 

……そんな風に真っ直ぐに愛されて、揺らがないほど、私は強くなかった。

 

無意識のうちに駆動を始めた私の「乙女回路」が、自分でも制御できないほど熱を帯びている。

 

彼に手を引かれれば、それだけで意識が白濁しそうになる。彼が他の女――巴マミなんかに優しくすれば、宇宙ごと消し飛ばしたくなるほどの嫉妬に身を焼かれる。

 

こんな、情けないほど年相応な反応。

 

暁美ほむらという戦士を全うするなら、切り捨てるべきノイズ。

 

けれど、彼と魂を重ね、彼の「俺は君を離さない」という想いを受け取るたびに、そのノイズは心地よい旋律となって、私の枯れ果てていた心に新しい命を吹き込んでいく。

 

(……ずるいわよ、まどか)

 

誰よりも愛するあの子と同じ名前を持つ、この残酷で優しい共犯者。

 

私を独りから救い出し、一人の女として完成させてしまおうとする彼。

 

巴マミが隣で戦闘態勢に入っている。

 

魔女の気配が、すぐそこまで迫っている。

 

けれど、今の私の頭の中を占めているのは、戦いへの高揚感だけじゃない。

 

隣を走る彼の、時折こちらを気遣うように向けられる視線。

 

繋がった魂から流れ込んでくる、私を「愛おしい」と慈しむ、あまりにも温かな奔流。

 

「……まどか。遅れないで」

 

私は、自分の声が少しだけ震えているのを隠すように、冷徹な仮面を強く被り直した。

 

けれど、魂の繋がりは嘘をつけない。

 

私は、彼に守られ、支えられ、愛されている今のこの瞬間に、これまでのどのループでも味わったことのない、剥き出しの「幸福」を感じてしまっている。

 

たとえ、この想いが私の『覇道』をより歪ませることになっても。

 

私はもう、この温もりを手放すことなんてできない。

 

「行くわよ。……私たちの邪魔をするものは、何一つ残さない」

 

漆黒の魔力を盾から溢れさせながら、私は加速する。

 

一人の少女を救うための神として。

 

そして、隣にいるこの男に愛されるための、ただの一人の女の子として。

 

私は、この残酷で愛おしい新世界を、どこまでも駆け抜けてやる。

 

 

◇◇◇

 

 

踏み込んだ結界の中は、歪んだ「拒絶」に満ちていた。

 

「立ち入り禁止」「工事中」……至る所に無造作に立てられた看板。それは、外の世界を拒み、自分だけの庭園に閉じこもろうとする者の不信の象徴。

 

そこを舞うのは、黒い羽を持つ不気味な蝶。あるいはその羽の先に、瞳のない頭部をぶら下げた、口だけの異形。

 

「薔薇園の魔女、か……」

 

私の隣で、まどかがその名を言い当てた。彼は使い魔を一瞥しただけで、まるで手垢のついた図鑑をめくるかのように、その魔女の深層を暴いていく。

 

「性質は不信。何よりも薔薇を大事にする、筋金入りの庭師だ。結界に迷い込んだ人間から生命力を奪い、それを愛する薔薇に分け与えている。……人間という存在そのものを、自分の庭を荒らす汚物のように嫌悪しているんだ」

 

淀みなく紡がれる言葉に、巴マミが驚きの表情を見せる。無理もない。初見の魔女の性質を、これほどまでに的確に解説する「魔術師」など、彼女の経験にはないはずだ。

 

『誰も信じなかった。けれど花が好きで、その美しさと愛らしさを何よりも愛した……ただの孤独な娘の成れの果てなんだろうな。きっと』

 

脳裏に、彼との間にだけ通じる魂の響きが届く。

 

魔法少女の残酷な真実。魔女の悲しい正体。

 

それを知らない巴マミに悟られないよう、彼は私にだけ、その同情を伝えてくる。

 

相変わらずね、貴方は……。討つべき敵にさえ、かつての輝きを視てしまう。

 

私は彼の甘い同情を振り払うように、冷たく銃を構えた。

 

その時だった。

 

――微かな、けれど私の魂を激しく揺さぶる声。

 

私はハッとして、考えるよりも先に地を蹴っていた。

 

「ちょ、暁美さん!?」

 

背後で巴マミが困惑の声を上げるけれど、そんなことはどうでもいい。私の世界には、今、あの子の安否以外の価値など存在しない。

 

『時よ止まれ――お前は美しい』

 

私の魂の一部である彼が、私の渇望に応え、世界の理をねじ伏せる。

 

私の意識の中の一秒が十秒に、十秒が百秒に、百秒が千秒へと刻まれていく。

 

世界すべての動きが止まったような静止空間、いいえ、止まって見える程に世界が遅く見える程に、その中で加速した私だけが、光を置き去りにして突き進む。

 

……やっぱり、気のせいじゃなかった。

 

美樹さやか。そして、私が何よりも愛し、守らなければならない唯一の光――鹿目まどか。

 

二人が、無数の使い魔たちに囲まれていた。

 

一発の九ミリ弾さえも対戦車ライフル並みの破壊力を帯びている今の私の火器では、あの子たちまで巻き込んでしまう。

 

私は瞬時に判断し、盾から何の変哲もない鋼のワイヤーを取り出した。

 

音速を超え、魔人の腕力で振るわれる一閃。

 

彼との因果が込められたその糸は、もはや単なる鉄の線ではない。空間そのものを断ち切る鋭利な刃となり、使い魔たちを音もなく細切れに寸断し、消滅させていく。

 

あの子を背後に庇うようにして、私はその場に降り立った。

 

同時に、世界の時間は再び、元の残酷な速度で流れ出す。

 

「……動かないで」

 

振り返らず、ただ背後の温もりを守るためだけに私は立ち塞がる。

 

もう、誰にも触れさせない。

 

たとえこの世界そのものが敵になろうとも、私と、私の魂に宿る彼が、貴方を絶望の淵から救い出してみせる。

 

 

 

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