その刹那に愛を──   作:星乃 望夢

3 / 14
第三話

 

再び目を覚ました時には、窓の外は燃えるような夕焼けに染まっていた。

 

身体を起こしてみる。俺を苦しめたあの鉛のような重さは消え去り、視界もクリアだ。どうやら、ほむらちゃんが「拝借」してきた薬と点滴の効果は絶大だったらしい。

 

「……ほむらちゃん?」

 

呼びかけてみたが、返事はない。

 

無機質で生活感の薄い彼女の部屋には、ただ夕刻の静寂だけが満ちていた。

 

どこへ行ったんだろうか。

 

(……補充か、それとも)

 

考えられる理由はいくつかある。

 

一つは、あの委員長の魔女との戦いで消費した弾薬の補充だ。時間停止中にぶち込んだあの爆薬の量を考えれば、軍の駐屯地かヤクザの事務所へ「在庫」を確認しに行っていても不思議じゃない。

 

あるいは――キュゥべえの捜索。

 

俺があれほど接触を止めたとはいえ、彼女にとってあの白い獣は不確定要素の塊だ。俺が眠っていた二日間のうちに彼女が学校へ転校していたのなら、既にまどかと接触している可能性もある。まどかに近づく前にキュゥべえを排除しようと、街のどこかで血眼になって狩り続けているのかもしれない。

 

だが、あまり性急に動きすぎれば、この街の「守護者」である巴マミとの初対面が最悪のものになる。ただでさえ、ほむらちゃんはマミさんとの相性が(色んな意味で)良くないんだ。

 

「……座して待ってられる性分じゃないな、俺は」

 

俺はベッドから這い出し、椅子の上に用意されていた服を手に取った。

 

彼女が用意してくれたらしい外着は、サイズも驚くほどぴったりで、どことなく彼女と同じような機能的で落ち着いた色合いだった。

 

身支度を整え、俺は彼女の隠れ家を後にした。

 

一歩外へ踏み出すと、夕暮れ時の見滝原の街が広がっていた。

 

高層ビルが並ぶ美しい街並み。けれど、その影には魔女の結界が潜み、インキュベーターの企みが張り巡らされている。

 

「さて、どこから探すべきか……」

 

俺の名前は暁美まどか。

 

神様でも魔法少女でもないけれど、彼女の「物語」を知るただ一人の観測者として。

 

俺は赤く染まった街の中へと、彼女の背中を追って走り出した。

 

 

◇◇◇

 

 

赤く染まった見滝原の街並みを歩きながら、俺は記憶の糸をたぐり寄せていた。

 

確か、物語の幕が上がる瞬間――鹿目まどかが初めてキュゥべえと接触するのは、ほむらちゃんがキュゥべえを始末しようと執拗に追いかけ回している最中だったはずだ。

 

「……だとしたら、ほむらちゃんが早まらなければ、あの惨劇のサイクルは始まらないはずなんだけどな」

 

だが、相手は確率と合理性の塊だ。

 

宇宙の熱的死――エントロピーの増大による終焉。それは物理法則として避けられない事象だという。光もなく、闇さえも意味を成さない、完全なる虚無。

 

それを回避するため、あるいは先延ばしにするために、年頃の女の子たちの心を弄ぶ。希望を抱かせ、最後には絶望へと叩き落として「魔女」へと変える。その瞬間に発生する膨大な感情エネルギーを搾取し、宇宙の寿命を延ばすための薪としてくべる……。

 

「反吐が出るな。ああいう詐欺師みたいな手合いは、どうしても赦せない」

 

俺は立ち止まり、長く伸びた自分の影を見つめた。

 

この世界において、俺はイレギュラーだ。本来なら存在しない「暁美まどか」という名の観測者。

 

俺は、わざと世界に認識されるように、低く、けれど確かな声で言葉を紡いだ。風に消えてしまいそうな囁きだったが、その内容は宇宙の摂理を根底から揺るがす真実だ。

 

「……エントロピーを凌駕する感情エネルギーの回収。魔法少女と魔女の相転移を利用した、インキュベーターによる一方的な搾取……。この宇宙の仕組みは、あまりにも残酷で、そして稚拙だと思わないか?」

 

声に出した瞬間、空気がわずかに震えた気がした。

 

俺はこの世界の「裏側」を口にした。観測者として、物語の結末を知る者として。

 

もしキュゥべえがどこかで聞き耳を立てているのなら、今の言葉は致命的な「毒」としてあいつらのシステムに検知されるはずだ。

 

「さあ、どう動く、インキュベーター。このイレギュラーな観測者を無視するか、それとも……排除しに来るか。乗るか反るか、選ばせてやるよ」

 

夕闇が街を飲み込み始める中、俺は冷ややかな殺気と、得体の知れない視線がこちらを向くのを待った。

 

俺の名前は、暁美まどか。

 

神様でも魔法少女でもない、ただの男だ。

 

だが、この宇宙で最も冷酷な詐欺師に喧嘩を売るくらいの度胸は、あの抱擁の瞬間に、ほむらちゃんから分けてもらったつもりだ。

 

『……わけがわからないよ』

 

不意に、脳内に直接、少年のように高く澄んだ声が響き渡った。

 

感情の起伏が一切排除された、ひどく無機質で冷たい響き。それは耳からではなく、意識の奥底に直接打ち込まれたテレパシーだった。

 

「やっとお出ましかな。……案外、早かったじゃないか」

 

俺が視線を向けた先、公園のフェンスの上に、その「白い獣」は座っていた。

 

真っ白な毛並みに、意思を感じさせない赤い瞳。周囲を歩く人々は誰もその姿に気づかず、まるですぐ側に存在しないかのように通り過ぎていく。

 

『どうして、君のようなただの「人間の男性」が、僕たちインキュベーターの目的と、この宇宙の構造を正確に認識しているんだい?』

 

キュゥべえはフェンスからふわりと、重力を無視したような軽やかさで飛び降りた。

 

音もなくアスファルトに着地し、尻尾を揺らしながら、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってくる。その視線は、親愛など微塵もなく、ただ未知の事象に対する純粋な好奇心と、冷徹な分析の光に満ちていた。

 

『君からは、魔法少女の素質はおろか、魔力の波長すら一切感じられない。それなのに、君の口にした内容は、これから僕が彼女たちに提案しようとしていたシステムの核心そのものだ。君のようなイレギュラーな存在は、僕たちの観測史上、一度も記録されていない』

 

キュゥべえは俺の足元で立ち止まり、首を僅かに傾げた。その口は動かない。ただ、平坦な意識だけが脳裏に流れ込んでくる。

 

『君は一体、何者なんだい?』

 

俺は鼻で笑い、その赤い瞳を真正面から見据えた。

 

こいつにとっては、この宇宙すべてが効率と数値で計算されるスプレッドシートのようなものなのだろう。そこに突如として現れた、数式を無視する文字列。それが俺だ。

 

俺は一息つき、夕闇に溶けていく街の喧騒の中で、はっきりと告げた。

 

「俺の名前は、暁美まどか。……お前たちが『最も効率的な熱源』として目をつけ、そして一人の少女が人生のすべてを賭けて守り抜こうとしている――その因果の結び目から零れ落ちた、ただの『観測者』だ」

 

キュゥべえの瞳に、僅かな変化も生じない。

 

けれど、俺の「名前」を口にした瞬間、周囲の空気が僅かに張り詰めたのを俺は見逃さなかった。

 

俺の言葉を、キュゥべえは黙って受け止めていた。

 

それは、宇宙の理を司る支配者と、その台本をすべて読み終えた一人の男との、最初で最後の交渉の始まりだった。

 

俺はポケットに手を突っ込んだまま、足元の白い獣を冷ややかな目で見下ろした。

 

「なぜ俺がお前たちインキュベーターを知っているか、だったな」

 

キュゥべえの無機質な瞳が、俺の言葉を一言半句漏らさぬよう注視している。

 

「さっきも言った通りだ。俺はこの因果が渦巻く宇宙の、さらに上位の階層からこの世界を眺めていた『観測者』だよ。そう名乗っておくのが、お前にとっても一番理解が早いだろう?」

 

『上位階層……。僕たちの観測の外側にある次元、ということかい?』

 

「そうだ。だから知っているんだよ。お前たちが遥か昔から、多感な時期の女の子を言葉巧みに誘惑し、魂を抜き取って魔法少女に仕立て上げていることも。お前がよく言う『聞かれなかったから答えなかった』という理屈の裏側にある、魔法少女と魔女の相互関係……その共食いのシステムさえもね」

 

俺が淡々と語るたびに、周囲の空気が重苦しく凝固していく。

 

「お前たちが宇宙の熱的死を食い止めるために必死なのはわかっている。だが、それは上位から見ればあまりにも無駄で、滑稽な足掻きに過ぎないんだ」

 

キュゥべえは微動だにせず、俺の全身をスキャンするように見つめている。あいつの計算回路は今、俺を排除すべきか、あるいは新たなデータソースとして保存すべきかを激しく弾き出しているはずだ。

 

「ああ、言っておくが、俺を解剖しても無駄だぞ。俺はちょっとした事故でこの世界に迷い込んだだけで、肉体そのものはただの人間だ。殺したところで人間一人分のエネルギー総量にしかならない。……お前は『効率』を何よりも優先するんだろう? なら、そんな無意味な労力を使うのは賢明じゃない」

 

俺は一歩、キュゥべえの方へ踏み出した。

 

「そんな非効率的な作業に腐心するよりも、次元を超えてやってきた『上位の観測者』との対話の方が、お前にとって遥かに有意義だと思わないか?」

 

『……』

 

沈黙。

 

感情を持たないはずのインキュベーターが、初めて「判断」を保留したように見えた。

 

『君の話は、僕たちの論理を根底から揺さぶるものだ。確かに、君を失うよりも、君が持つ「情報の開示」を受ける方が、宇宙の寿命を延ばすための新たな可能性を見出せるかもしれない』

 

キュゥべえの赤い瞳に、さらに深い、暗い好奇心が宿る。

 

『わかったよ、暁美まどか。君の提案に乗ろう。君は僕たちにとって、魔法少女の候補以上に価値のある「特異点」だ。……ぜひ、君の知っていることをもっと詳しく聞かせてくれないかい?』

 

「交渉成立だな」

 

俺は冷たく微笑んだ。

 

これで、ひとまずキュゥべえを俺というイレギュラーに釘付けにできた。

 

あいつの興味が俺に向いている間は、本物の鹿目まどかや、他の魔法少女たちへの「営業活動」を鈍らせることができるはずだ。

 

だが、背後に感じる気配。

 

夕闇の向こうから、冷たい殺気を孕んだ紫の瞳が、俺とこの白い獣の接触をじっと見つめていることに、俺は気づいていた。

 

(……怒ってるだろうな、ほむらちゃん)

 

心の中で苦笑いしながら、俺はあえてキュゥべえとの対話を続ける。

 

この綱渡りのような交渉が、救済への第一歩になると信じて。

 

「さて、再三言わせてもらうが……」

 

俺は夕暮れの冷たい空気をゆっくりと肺に吸い込み、足元の白い怪物に向けて言葉を紡いだ。

 

「まず前提条件として、俺という人間はちょっとした事故でこの世界にやって来た、いわば『時空漂流者』みたいなものだ。来て早々、運悪く魔女に襲われたところを、偶然居合わせた魔法少女に助けてもらってね。今は少しばかり、彼女のところに厄介になっている程度の身の上さ」

 

キュゥべえは、微動だにせず俺を見上げている。そのビー玉のような赤い瞳には、警戒も敵意もない。ただ底無しの虚無が広がっているだけだ。

 

「とはいえ、俺の個人的な事情なんて些末なことを話しても、互いに何の利益もないだろう? 俺が興味があるのは、お前たちのその『やり方』の根幹だ」

 

俺は一歩だけキュゥべえに歩み寄り、俺の知るSF的知識とこの世界の矛盾をぶつけた。

 

「感情の相転移……。俺たち人類からすれば、魔法としか言いようがないほどの超科学力を持つお前たちインキュベーターが、なぜ物理的なアプローチをとらない?」

 

夕闇が濃くなる中、俺の声だけがやけに鮮明に響く。

 

「恒星規模の物理的な相転移エンジンや、重力崩壊を利用した縮退炉……。そういった物質技術的な方法で宇宙の熱的死を回避し、維持する方が、お前たちの科学力ならはるかに安定的で確実なはずだ。それなのに……」

 

俺はあえて、侮蔑の響きを込めて言い放った。

 

「わざわざ地球という辺境の星に来て、思春期の不安定で、感情の相転移すら確約されていない人間の『感情』をターゲットにする。……その非効率で回りくどい手段を選ぶ本当の理由の方が、俺にはよっぽど興味があるな」

 

インキュベーターの持つ技術力と、やっていることのスケールのアンバランスさ。観測者だからこそ抱くその純粋な疑問は、感情を持たない彼らの論理回路にどう響くのだろうか。

 

『なるほど。君たち上位次元の文明は、そこまで物理法則を極めているんだね』

 

少年のように無垢で、しかし中身が空洞であるような無機質な声。キュゥべえはフェンスの影で尻尾を静かに揺らし、まるで人類という未熟な生徒に宇宙の真理を説く教師のような、尊大なまでの平坦さで語り続けた。

 

『もちろん、僕たちも恒星のエネルギーを利用したり、君の言う物理的アプローチはとうの昔に試している。けれど、この宇宙が閉鎖系である以上、「エントロピーの増大」という絶対法則からは逃れられない。消費した以上のエネルギーを物理法則の中で生み出すことは不可能なんだよ』

 

キュゥべえは音もなく一歩、俺へと近づく。そのガラス玉のような瞳には、人間という種族への純粋な不可解さが浮かんでいた。

 

『でも、君たち人間の「感情」だけは違った。物理法則を無視して、無から有を生み出す。特に、第二次性徴期の少女の希望が絶望へと相転移する瞬間のエネルギー発生量は、僕たちの文明が作り得るどんな反応炉よりも桁違いに巨大なんだ。感情という非合理なシステムを持たない僕たちからすれば、まさに奇跡のようなエネルギー源だよ。だから、僕たちは地球に来た』

 

淡々と語られる、残酷なまでの宇宙の収支報告。

 

だが、インキュベーターの演算処理はそこで止まらなかった。その赤い瞳が、スッと細められる。

 

『……でも、奇妙だね』

 

キュゥべえの首が、コテリと直角に近い角度まで傾いた。

 

『君は「偶然居合わせた魔法少女に助けられ、厄介になっている」と言った。この見滝原で現在活動している魔法少女は、僕の知る限り「巴マミ」ただ一人だ。しかし、彼女の最近の戦闘記録の中に、君のような特異点を保護したデータは存在しない。……君を助け、匿っている魔法少女とは、一体誰なんだい?』

 

インキュベーターの論理的な推論が、的確に俺とほむらちゃんの関係性の矛盾を突いてくる。こいつのデータベースには、まだ「暁美ほむら」というイレギュラーは登録されていない。あるいは、登録されていたとしても「戦力外の少女」として処理されているはずだ。

 

俺は背後に感じる、凍りつくような殺気の温度が一段と下がるのを感じた。

 

夕闇の物陰で、彼女が盾に手をかけ、今にもこの白い獣を挽肉に変えようと構えているのが手に取るようにわかる。

 

「……さすがはインキュベーターだ。情報の整合性を取る速度だけは一流だな」

 

俺はわざとらしく肩をすくめ、キュゥべえの視線を自分へと釘付けにするように一歩前に出た。

 

「だが、お前のその『観測データ』が正しいという前提が、そもそも間違っているとは思わないか? お前が把握している魔法少女がこの街に一人しかいないという事実は、あくまで『お前の次元のセンサー』が捉えた結果に過ぎない」

 

俺は、すぐ近くに潜んでいるであろう彼女に届くように、しかしキュゥべえには「上位次元の理屈」として聞こえるように言葉を重ねた。

 

「俺を助けたのは、お前の計算式には決して現れない、この宇宙のバグのような存在だよ。お前が彼女を見つけられないのは、彼女が『お前の知らないルール』で動いているからだ」

 

『……僕の知らないルール?』

 

「ああ。お前がどれだけ高性能な演算機でも、読み解けない物語はある。……なあ、キュゥべえ。お前はさっきから『エントロピーの増大』を絶対的な前提にしているが、上位次元から見れば、それは『観測範囲を限定しただけの局所的なルール』なんだよ。その外側を知っている彼女が、お前のデータベースから外れているのは、むしろ当然だろ?」

 

キュゥべえの赤い瞳が激しく瞬きを繰り返す。俺の口にする「上位次元の概念」と、目の前の現実の矛盾を埋めようと、全宇宙のインキュベーター・ネットワークが演算を加速させているのだろう。

 

だが、俺は知っている。

 

どんなに計算を重ねても、彼らには決して辿り着けない答えがあることを。

 

「愛」という名の、物理法則を容易に踏み倒す「叛逆」の力を。

 

「彼女のことを知りたいか? ……教えないよ。お前に教えるのは、お前が『理解』ではなく『絶望』を味わうその時まで取っておくことにする」

 

俺はそう言い放つと、背後の暗がりに向かって、心の中で小さく語りかけた。

 

(大丈夫だ、ほむらちゃん。まだ、撃たなくていい。……こいつの喉元を掴んでいるのは、今のところ俺の方だ)

 

夕闇の中、一瞬だけ風が止まった。

 

彼女の放つ殺気が、僅かに凪いだ気がした。

 

『僕としてはその未知の魔法少女に関して知りたいところなんだけどね』

 

夕闇が深まり、街灯が一つ、また一つと点灯し始める。俺はフェンスに腰を下ろした白い獣を見据え、鼻で笑った。

 

「それを今、お前に話す必要があるとは思えないな」

 

俺はあえて突き放すように、冷ややかな声音を意識した。

 

「そうだな、上位次元漂流者らしく『禁則事項』として処理させてもらおう。知りたければ、お前のその膨大な端末ネットワークを駆使して、勝手に調べることだ」

 

キュゥべえの赤い瞳が、無機質な好奇心を湛えて俺を観察し続けている。

 

「そもそも、この見滝原だけに魔法少女がいるわけでもないだろう? 他の街から流れてきた魔法少女が偶然俺を助けた……という可能性に辿り着けないほど、お前たちはポンコツだとは思えないんだがな」

 

『……なるほど。確かに僕たちの観測範囲外から移動してきた個体である可能性は否定できないね。その推論は合理的だ』

 

キュゥべえの平坦な返答を聞きながら、俺は一歩、その白い身体へと歩み寄った。

 

「しかし、やはりそうか。感情を持たない演算システムのようなお前たちからすれば、人間の持つ『感情』という名の精神生体エネルギーは、まさに未知の領域、ブラックボックスというわけだ」

 

知識として知ってはいた。だが、こうしてその当事者から直接「感情は非合理な奇跡だ」と聞かされると、奇妙な感慨が胸を去来する。

 

「だからこそ、忠告しておく。……人間を、侮るなよ」

 

俺の声に、熱がこもる。それは俺自身の意志であり、同時に、俺が愛したあの物語の少女たちが証明し続けてきた真実だ。

 

「人間は、たとえ絶望の淵に立たされても、希望を捨てずに前を向くことができる生命体だ。光もなく、生命の灯火さえ届かない闇の中の虚無であっても……『それでも』と言い続ける人の意志の光は、宇宙を温め、宇宙の死さえも次なる生を産み出すためのレゾンデートルへと変えていく」

 

キュゥべえは黙って俺を見上げている。その演算回路は、俺の吐き出した「熱量」を理解できずに弾き出しているのかもしれない。

 

「たとえどれほど闇が支配する世界になろうとも、人の心は闇には染まらない。その心にたった一つの希望がある限り、人は……自分自身で、光になれるのだから」

 

言い切った瞬間、背後の闇の中で、張り詰めていた空気がふわりと緩んだのを感じた。

 

ほむらちゃんだ。

 

彼女が今、どんな顔で俺の背中を見ているのか、俺にはわからない。

 

けれど、俺の言葉が彼女の孤独な戦いを肯定する「光」として届いたのなら、この狂った宇宙への宣戦布告にも意味があったはずだ。

 

「……さて。今日の授業はここまでだ、インキュベーター。お前のその薄っぺらなロジックを、俺がこれから時間をかけて、徹底的に上書きしてやるよ」

 

俺はそう言い捨てると、夕闇の中に佇む白い獣に背を向け、彼女が待つ暗がりへと歩き出した。

 

俺というイレギュラーが投げ込んだ波紋は、もう止まらない。

 

この残酷な物語の結末を、絶望から希望へと書き換えるために。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。