ゼーリエ「やれ」   作:目玉焼きは胡椒

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第一章 聖都の獣
上


町が滅びたあと、雪が降った。

 

最初は細い粉のような雪だった。

燃え残った梁の先に、割れた石垣の角に、井戸の縁に、倒れた人間の肩に、ほとんど音もなく降り積もる。

火を消すための雪ではない。

もう火はほとんど消えていた。

むしろそれは、焼け跡の輪郭をもっと静かに、もっと動かないものとして定着させるための雪だった。

 

その町は、北へ伸びる街道から半日ほど外れた斜面にあった。

春になると白い花が咲く土地だった。

小さく、名も知られない野の花。

強い風にも折れず、痩せた土でも根を張る花。

町の人間はそれを好いていて、旗にもその花の紋を織っていた。

五弁の白い花。

豪奢ではない。

ただ、風に負けない花だった。

 

その町を、魔族は半日で壊した。

 

どの家が最初に燃えたのか。

誰が最初に逃げ、誰が最初に死んだのか。

もう誰にも分からない。

 

町が消えてから二日と半日ほど経ったころ、現場へ辿り着いた回収班の人間たちは、最初から遅れた顔をしていた。

彼らはこういう顔を、何度もしたことがある。

間に合わなかった現場へ着いた時の顔だ。

怒りも、悲しみも、悔いも、全部ある。

だがそれを表へ出すには遅すぎて、結局はただ静かになるしかない顔。

 

「散れ」

 

年長の回収士が言った。

 

声は低く、平たかった。

声を荒げれば、余計なことまで崩れそうな静けさが町じゅうに残っていたからだ。

 

回収班は手際よく散った。

遺体の確認。

生存者の有無。

魔力残滓の採取。

魔族の痕跡。

井戸。

食糧庫。

家畜小屋。

火の回り方。

壊れた町を前にして、やるべきことは意外と多い。

人が死んだあとには、死そのもの以外の情報が大量に残る。

そして、残るということは、その後の人間がそれを拾って持ち帰らなければならないということだ。

 

広場の北端で、一人の若い回収士が足を止めた。

 

瓦礫の隙間に、布が見えた。

黒く煤け、雪に湿っている。

最初はただの敷布か何かだと思った。

だが近づいてみると、その端に白い花の紋が残っていた。

 

町の旗だった。

 

「ここにもいる」

 

若い回収士はそう言って屈んだ。

遺体がある、という意味で言ったつもりだった。

だが旗へ触れたその時、布の下から、ごくかすかな音がした。

 

最初は風かと思った。

雪が擦れたのかと思った。

けれど違った。

それは息だった。

本当に細くて浅い、今にも途切れそうな、それでもたしかに生きているものの呼吸だった。

 

若い回収士の手が止まる。

 

「……待て」

 

低く言う。

 

近くにいた二人が振り向いた。

その間に、旗の下の音はもう一度だけ、小さく震えた。

 

布が持ち上げられる。

 

その下にいたのは、遺体ではなかった。

 

赤子だった。

 

煤けた布に包まれていたわけではない。

その町の旗そのものに、包まれていた。

焦げた木片と崩れた石の隙間に押し込まれるようにして、声も上げず、泣きもせず、ただ小さく胸だけを動かしていた。

 

誰もすぐには言葉を出せなかった。

 

二日と半日。

食べ物も水もない。

昼の冷えと夜の寒さの中で、周囲には死体しかない。

普通なら、とっくに死んでいる。

 

「ありえない……」

 

若い魔法使いが、思わずそう漏らした。

 

「祝福か」

「違う」

「呪いか」

「それとも」

 

言葉だけが上滑りした。

 

年長の回収士がしゃがみ込み、旗ごと赤子を抱き上げた。

驚くほど軽かった。

それなのに、驚くほど熱があった。

火が消えたあとの炭みたいな、妙にしつこい熱だった。

 

赤子は泣かなかった。

泣く力も残っていなかったのかもしれない。

ただ、一度だけ目を開きそうになって、けれどやめた。

まぶたの裏で何かを諦めたような、妙に静かな顔だった。

 

「運ぶぞ」

 

年長の回収士はそう言った。

それだけで十分だった。

誰も反対しない。

誰も、できない。

 

花の町は、その日で完全に終わった。

だが同時に、その焼け跡から一つだけ、生きたものが持ち出された。

 

それが、後にアッシェと呼ばれる子どもだった。

 

 

 

1

 

 

 

聖都は、灰の匂いを嫌う街だった。

 

高い塔。

白い石。

磨かれた回廊。

朝と夕に鳴る鐘。

整った礼拝堂。

濁りのない水路。

外から来た人間が最初に抱く感想は、たいてい「白い」だ。

白く、整い、乱れが目立つ街。

 

だからこそ協会は、その白さの中で少しだけ浮いていた。

 

大陸魔法協会は、聖都の中心でありながら、聖都が外へ押しやりたいものを引き受ける場所でもあった。

負傷者。

呪い。

回収された魔道具。

捨てられた知識。

身寄りのない子ども。

壊れた現場の報告書。

白い街が見ないふりをしたいものほど、協会の奥にはよく集まる。

 

赤子も、その一つとして運び込まれた。

 

最初に行われたのは看病ではなかった。

確認だった。

 

魔力測定。

呪詛の有無。

魔族の擬態の可能性。

魔物の寄生。

異常な祝福。

遺物との共鳴。

生き残りとして持ち込まれるものの中には、時々“中身が人間ではないもの”が混じる。

だから調べる。

慈悲ではなく手順として。

 

だが、この赤子はどの枠にも綺麗には収まらなかった。

 

魔力は、ほとんど感じられなかった。

呪いの濁りもない。

祝福の煌めきもない。

それなのに、生きている。

二日と半日の瓦礫の中を、生き延びている。

 

「人間ではある」

 

老いた魔法医が言った。

 

「少なくとも、今のところは」

 

「今のところ?」

 

記録官が眉をひそめる。

 

「この生存自体が、普通の人体の理屈ではない」

 

老魔法医はそう言って、赤子の額へ指先を置いた。

熱い。

だが熱そのものが危険というより、身体の奥のしぶとさが熱として残っている感じだった。

 

「捨てますか」

 

記録官が、事務的に聞いた。

 

老魔法医は顔も上げずに答える。

 

「抱える」

 

それは保護というより、監視に近い言い方だった。

だが、それで十分だった。

少なくともこの赤子は、聖都の外へ捨てられない。

 

名前を決める時、少しだけ揉めた。

 

血筋がない。

家名もない。

洗礼名も分からない。

あるのは、焦げた旗と、白い花の紋だけだ。

 

いくつかの候補が出て、消えた。

美しすぎる名は似合わなかった。

立派すぎる名も違った。

最後に残ったのは、ひどく単純な音だった。

 

アッシェ。

 

灰。

燃え残り。

燃え尽きたあとに残るもの。

 

名づけた老女は、書き記す手を止めて言った。

 

「良い名ではないわね」

 

「では変えるか」

 

そう聞かれて、老女は首を振った。

 

「いいえ。忘れない名前よ。そういう名前は役に立つ」

 

その言葉どおりだった。

アッシェという名は、聖都の白さの中で妙に残った。

汚れのように、煤の指跡のように。

 

 

 

2

 

 

 

アッシェは泣かない子どもだった。

 

腹が減っても、熱があっても、転んで膝を割っても、泣く前にまず傷口を見る。

手のひらの血を眺め、痛みを確かめ、泣くべきかどうかを考える。

そういう順番の子どもだった。

 

乳母は最初、それを楽だと思った。

次に、不気味だと思った。

 

「痛いかい」

 

転んだ後、乳母が聞く。

 

幼いアッシェは、しばらく黙ってから答える。

 

「いたい」

 

「じゃあ泣きなさい」

 

「なくとなおるのか」

 

その言葉に、乳母は一度だけ言葉を失った。

子どもは普通、そんな順番で考えない。

痛いから泣く。

泣けば抱かれる。

それで少し楽になる。

そういう回路があるはずなのに、この子は先に“役に立つかどうか”を考える。

 

それは利口というより、どこか壊れた大人に近かった。

 

魔法の素質を測る年頃になると、異物ぶりはさらに明確になった。

 

魔力測定では、ほとんど反応が出ない。

無いわけではない。

ただ、術式へ回すには薄すぎる。

練るにも、流すにも、定着させるにも足りない。

教導師たちは最初、集中力の問題だと思った。

次に、怠慢だと思った。

だが違う。

本当に、魔法の回路へ体がうまく乗らないのだ。

 

「感じろ」

 

教導師が言う。

 

「分からない」

 

「そこにある」

 

「俺にはない」

 

「ある。皆ある」

 

「ない」

 

そのやり取りは何度も繰り返された。

声を荒げられ、座らされ、魔法陣を書かされ、叱責されても結果は変わらない。

アッシェは結局、火花ひとつ満足に起こせなかった。

 

教導師の一人が、最後には小さくため息を吐いた。

 

「空っぽではない」

 

補佐役の若い術者が聞く。

 

「では何なのです」

 

教導師は、幼いアッシェの顔を見てから言った。

 

「我々の箱に入らない」

 

その言い方だけが妙に正確だった。

 

術式の箱にうまく入らない。

器そのものが違う。

まだその理由は誰にも分からない。

ただ、普通の魔法使いとして育てる道が、この子には最初からかなり細いことだけははっきりしていた。

 

一方で、身体だけは妙に強かった。

 

階段から落ちても大きく壊れない。

年上の少年に殴られても、泣くより先に立ち上がる。

息が詰まっても回復が早い。

転んだ時の受け身も、教わっていないくせに妙にうまい。

 

そして力加減がよく分からない。

 

木剣の訓練では、相手が持っていた柄を折った。

食事の木椀を割ったこともある。

洗濯桶の縁を握り潰しかけたこともある。

本人に悪気はない。

だから余計に厄介だった。

 

周囲の子どもたちは、アッシェを遠巻きに見るようになった。

 

最初は珍しいから見る。

次に怖いから見る。

最後は、目を合わせないようにしながら、それでも気にする。

 

「気味が悪い」

 

ある日、年上の少年が言った。

 

アッシェはしばらく相手を見て、それから答えた。

 

「そうか」

 

「そうか、じゃないだろ」

 

「じゃあ何だ」

 

その返しが余計に怖がられた。

 

ただ黙っているだけなら、まだ分かりやすい。

怒るなら怒るで、もっと分かりやすい。

だがアッシェは、怖がられていること自体に、あまり意味を感じていないようだった。

その距離感が、子どもにはかえって不気味だった。

 

 

 

3

 

 

 

ゼンゼを最初に意識したのは、怪我の後だった。

 

何歳だったか、アッシェ自身も後になると曖昧になる。

ただ、訓練場の床がひどく冷たく、呼吸のたびに脇腹が軋んだことだけは妙にはっきり覚えている。

 

年上の少年と組み手をしていた。

相手は苛立っていた。

アッシェは無言だった。

無言の相手は、それだけで人を苛立たせる。

 

踏み込みが強くなり、体勢が崩れ、二人まとめて床へ落ちた。

落ち方が悪かった。

息が詰まり、視界が白く揺れた。

でも、それだけだった。

立てないほどではない。

 

だから立とうとした。

 

「動くな」

 

声が落ちた。

 

低く、短く、感情の色が薄い。

なのにその場のざわめきだけが一瞬で遠のく。

 

ゼンゼだった。

 

彼女はいつの間にかそばへ来ていた。

訓練監督でも医官でもない。

だが、訓練場の端にいることが多い人だった。

見ていないようで、やたら細かく見ている人間の目をしていた。

 

「動ける」

 

アッシェが言う。

 

「だろうね」

 

ゼンゼはしゃがみ込み、肋のあたりへ触れた。

痛いところを、迷いなく探り当てる指だった。

 

「だが、今ここで動くかどうかを判断するのは君じゃない」

 

「何でだ」

 

「君は自分の傷の度合いに対する判断が雑だから」

 

「雑じゃない」

 

「雑だ」

 

「違う」

 

「違わない」

 

やり取りのあいだに、ゼンゼはもう骨の位置と呼吸の乱れを見終えていた。

立ち上がり、訓練監督へ二、三言だけ伝える。

それからまたアッシェを見る。

 

「折れてはいない。だが今日はこれで終わりだ」

 

「まだできる」

 

「知っているよ」

 

ゼンゼは少しだけ目を細めた。

 

「できることと、やらせることは別だ」

 

その時、アッシェは思った。

この人は面倒だ。

かなり。

 

けれど同時に、この人は妙に自分を見ている、とも思った。

 

子どもを見る時、大人はたいてい足りないものの方を先に見る。

魔力。

礼儀。

集中力。

将来性。

何が欠けているか。

どこが普通でないか。

 

ゼンゼは少し違った。

欠けているものも見ている。

だがそれ以上に、今壊れているか、壊れていないかを見る。

それがアッシェには、少しだけ珍しかった。

 

それからも、ゼンゼはときどきアッシェを呼び止めた。

 

「歩き方が雑だ」

「背筋を伸ばしなさい」

「食事の量が少ない」

「眠れていないね」

「左手を見せなさい」

「その腕、昨日ぶつけたね」

 

それが監視なのか、世話なのか、当時のアッシェには分からなかった。

たぶん今でも、完全には分からない。

 

ただ、彼女の前では少しだけ言い返し方が弱くなった。

逆らわなくなるわけではない。

だがこの人には、自分の“雑さ”を見抜かれる。

それを知ってしまったのだ。

 

ある日、ゼンゼは言った。

 

「髪、邪魔だろう」

 

アッシェは眉を寄せた。

 

「邪魔じゃない」

 

「さっき三度払っていた」

 

「数えるな」

 

「見えたのだから、仕方がないだろう」

 

そう言って差し出された紐を、アッシェはうまく扱えなかった。

結びは斜めになり、すぐ解けた。

ゼンゼはそれをしばらく眺めてから言う。

 

「貸しなさい」

 

「できる」

 

「できていない」

 

「今できる」

 

「五度目だ」

 

結局、ゼンゼが後ろで髪をまとめた。

引っ張りすぎず、緩すぎず、視界を塞がない位置へ。

手つきは無駄がない。

 

「終わったよ」

 

「……そうか」

 

「ああ」

 

「こういうのもやるんだな」

 

ゼンゼは結び目を確かめながら言った。

 

「見る人がいないのなら、ね」

 

それだけだった。

 

その言葉を、その時のアッシェは半分しか理解しなかった。

でも後になって何度も思い出すことになる。

見る人がいないなら、やる。

つまりこの人は、自分を放っておくと勝手に削れていくものだと、かなり早い段階から知っていたのだ。

 

 

 

4

 

 

 

アッシェが軽口を覚えたのは、教えられたからではなかった。

 

必要だったからだ。

 

黙っていると、人は勝手に怯える。

何を考えているか分からない相手は、それだけで不気味だ。

そしてアッシェは、黙っているだけでそう見られることが多かった。

 

きっかけは些細なものだった。

回収庫の古参たちが、ひどい現場帰りでもよく笑うのを見たこと。

馬屋の男が、喧嘩のあとでわざと軽口を叩いて場を緩めるのを見たこと。

厨房の女が、疲れている時ほど余計な一言を挟んで他人の肩を抜くのを見たこと。

 

ああいう言葉は、楽しいから言っているわけではない。

言わなければ、その場が持たないから言うのだ。

 

アッシェはそれを覚えた。

 

最初はひどいものだった。

間が悪い。

タイミングが遅い。

皮肉のつもりが事実を言いすぎる。

軽くしたいのに余計に冷たくなる。

何度か失敗して、何度か相手に本気で嫌な顔をされて、それでも少しずつ形を真似ていく。

 

「お前、思ったより喋るんだな」

 

ある日、警護班の男にそう言われた。

 

アッシェは少しだけ考えてから答える。

 

「黙ってると、怖がるだろ」

 

男は一瞬だけ言葉を失ったあと、吹き出した。

 

「そこまで分かっててやってんのかよ」

 

「たぶんな」

 

「器用なのか不器用なのか分かんねえな」

 

アッシェはその時、少しだけ肩をすくめた。

そういう仕草も、いつの間にか覚えていた。

 

周囲に馴染むための顔。

そうしておいた方が、少なくとも「気味が悪い」から少し離れられる。

なら使う。

ただそれだけだった。

 

でも、時々ふと引っかかることがあった。

 

軽口を叩いたあと、周りが少しだけ笑う。

空気が緩む。

自分もそれに合わせて少しだけ口元を動かす。

けれど、その瞬間にだけ、奇妙な空白が胸の奥へ生まれる。

 

――今のは、誰だ。

 

そう思う。

自分が言った。

でも、本当に“自分”が言ったのかは分からない。

周りに馴染むために必要だから、形だけ借りて使っているような感じがした。

 

黙っている自分。

喋る自分。

どちらも使える。

どちらも役に立つ。

そのことが、かえって少し怖かった。

 

 

 

5

 

 

 

最初に声を聞いたのは、熱を出した夜だった。

 

年はまだ幼かった。

七つか、八つか、そのあたりだったと思う。

高熱で意識が沈み、天井の白さが溶けていくような夜だった。

 

夢を見ているのだと思った。

けれど夢にしては、妙にはっきりしていた。

 

男の声と、女の声。

どちらも知らない。

でも、聞いた瞬間に自分の方を向いていると分かる声。

 

優しい、と思った。

そう思ったこと自体に少し驚いた。

自分へ向けられる声として、あまりにも迷いなく優しかったからだ。

 

"強い子に生まれますように"

"その強い体があなたを守ってくれますように"

"そしてその強い体で、誰かを助けられますように"

 

最初は、熱のせいだと思った。

 

そういう夜くらいある。

高熱で人は変な夢を見る。

死んだ犬の夢を見る子もいる。

怒鳴る教導師の夢を見る子もいる。

だから、自分だけが変な声を聞いたからといって、特別とは限らない。

 

だが、その声は一度きりではなかった。

 

ひどく疲れた時。

痛みが深い時。

戦う前。

あるいは何もない日の、廊下の角でふと立ち止まった時。

聞こえる、というより、心の奥底へ急に差し込まれるように蘇る。

 

聞いたことのない両親の声。

 

アッシェは長いあいだ、それを誰にも言わなかった。

言えば“変だ”の一言で片づけられる気がしたし、実際自分でも変だと思っていたからだ。

 

ようやくゼンゼに話したのは、十五の頃だった。

雨の日の夕方、訓練のあとで妙に沈黙が重かったからかもしれない。

 

「声がする」

 

そう言った時、ゼンゼはすぐには問い返さなかった。

 

「誰の」

 

少ししてから、そう聞いた。

 

「知らん」

 

「いつから」

 

「前から」

 

「内容は」

 

アッシェは少しだけ言いよどみ、それから、途切れ途切れに口にした。

 

ゼンゼは最後まで何も挟まずに聞いた。

聞き終えてからも、しばらく黙っていた。

 

「……妄想だと思うかい?」

 

彼女が尋ねる。

 

「分からん」

 

アッシェは答えた。

 

「分からないから面倒だ」

 

それが本音だった。

 

もし妄想なら、自分はどこか壊れている。

もし妄想でないなら、今度はもっと厄介だ。

生まれる前の何かが、今も自分の中に焼き付いていることになる。

 

ゼンゼは、窓の外の雨を見てから言った。

 

「まじないの残響かもしれないね」

 

「残響」

 

「消えきらなかった願い、みたいなものだ」

 

「そんなものが残るのか」

 

「強く願えば、残ることはあるよ」

 

彼女は曖昧にしか言わなかった。

断定しない。

断定できないのだろう。

 

「気休めを言ってるのか」

 

とアッシェが聞くと、ゼンゼは少しだけ目を細めた。

 

「そういう時にだけ、妙に人を試すね」

 

「答えろ」

 

「分からない」

 

即答だった。

 

「分からないが、そうあったら良いなと私が個人的に思っただけだ」

 

「私は平和主義者だからね」と彼女は口癖を続けた。

その答えは気休めではなかった。

だからこそ、少しだけ苦かった。

 

声はその後も消えなかった。

 

そして戦うようになるにつれ、むしろ濃くなった。

拳で相手を砕く瞬間。

骨が折れる音。

喉が潰れる感触。

その一瞬あとに、優しい声が蘇る。

 

"その強い体で、誰かを助けられますように"

 

そのたびにアッシェは、胸の奥でひどく嫌なものがざわつくのを感じた。

 

守るための強さ。

助けるための体。

そのはずなのに、自分がやっていることは結局、殴って殺すことだ。

 

もしこの声が本物なら。

もし本当に両親の願いが焼き付いているのなら。

自分はその願いを、暴力として消費しているだけではないか。

 

その考えは、戦闘の最中ほど重くなる。

集中すればするほど、狩人のように静かになればなるほど、余計に。

 

普段の軽口の自分は、人に馴染むための顔だ。

戦う時の静かな自分は、獲物を殺すための顔だ。

そのどちらも必要だから使っている。

なら、本当の自分はどこにある。

 

軽く笑う自分。

静かに殴り殺す自分。

どちらも違うなら、自分の中心には何もないのではないか。

 

その恐怖を、アッシェは名前もつけずに抱え込んでいた。

 

 

 

6

 

 

 

青年期に入るころ、アッシェは聖都周辺の小規模任務へ同行するようになった。

 

正式な魔法使いとしてではない。

あくまで補助。

現場確認。

回収。

護衛。

大きい言い方をすれば、試し使いだ。

 

最初に“使える”と明確に見なされたのは、南東の林地へ出た時だった。

 

街道沿いの旅人を襲う若い魔族が一体。

報告上はそれだけの案件。

だが、行ってみれば現場は違った。

荷馬車の壊れ方が妙に綺麗で、死体の位置に躊躇がない。

“これから学ぶ側”の若い魔族なのに、壊し方だけは嫌に性質が悪い。

 

同行した中堅魔法使いが言った。

 

「ここだ」

 

林の中は湿っていた。

腐葉土の匂い。

古い血の薄い臭い。

木々の間の光の切れ方。

 

アッシェはそこで立ち止まった。

鼻先へ入ってくる空気の中に、説明しづらい“ぬめり”があった。

魔力を感じるのとは違う。

もっと生物の死に近い、不快な湿り気だ。

 

「いる」

 

そう言った時、他の二人は一瞬だけ眉をひそめた。

何を根拠に、という顔だ。

けれど次の瞬間、枝の上から笑い声がした。

 

「へえ」

 

若い男の姿をした魔族が、こちらを見下ろしていた。

 

その瞬間、アッシェの中で何かが切り替わった。

 

普段の、少しだけ人に合わせる顔が消える。

軽口を探す癖が落ちる。

ただ目の前の相手との距離と、喉と、骨と、どこを砕けば終わるかだけが残る。

 

あとでゼンゼはそれを“狩人のモード”と呼んだが、当時のアッシェには名前がなかった。

ただ、そういう時だけ自分はよく喋らなくなる、とだけ知っていた。

 

魔族は若かった。

それだけに、アッシェを軽く見た。

 

魔法使いではない。

杖もない。

術の気配もない。

なら脅威ではない。

 

その判断が終わる前に、アッシェは踏み込んでいた。

 

距離が消える。

若い魔族の目が初めて見開かれる。

その顔を見た瞬間、アッシェは一瞬だけ昔から知っているものを見た気がした。

“見誤った側の顔”だ。

人間でも、魔族でも、同じ顔をする。

 

拳が顎へ入る。

骨が鳴る。

若い魔族が枝から落ちる。

中堅魔法使いが遅れて術を起こし、槍使いが距離を詰める。

一連は短かった。

そして最後は、アッシェの拳が喉を潰して終わった。

 

終わったあとで、声が蘇った。

 

"その強い体があなたを守ってくれますように"

"その強い体で、誰かを助けられますように"

 

息が一瞬だけ乱れる。

誰にも気づかれない程度の乱れだった。

だが自分には分かる。

 

守ったのか。

助けたのか。

たしかに旅人は今後助かる。

けれど今やったことは、拳で喉を潰し、骨を折り、相手を殺したことだ。

 

中堅魔法使いが言った。

 

「お前……今、何をした」

 

アッシェは魔族の首を見下ろしたまま答える。

 

「殴った」

 

「そういう意味じゃない」

 

「近い方が早い」

 

その時の言葉が、そのまま報告書に残った。

 

近い方が早い

簡単で、ひどく分かりやすい理屈だった。

 

報告書にはさらにこう記された。

 

対象は討滅済み。被害軽微

補助要員アッシェ、対魔族近接戦闘において極めて実戦的

術式への依存がなく、魔法使いでは追いきれない初動を持つ

判断は荒いが、対魔族任務に限れば有用

 

最後に、別の筆跡で小さく追記されていた。

 

有用と管理困難は両立する

 

たぶんゼンゼの字だった。

 

 

 

7

 

 

 

北方から届く報告には、二種類あった。

 

一つは、最初から“上へ届けるために書かれた文書”。

封蝋が深く、紙が厚く、文章が整っている。

読み手へ誤解を与えないよう、事実の順番まで磨かれている。

領主や役人が出す文書はたいていそうだ。

言葉は刃物にも盾にもなると知っている者たちの文章である。

 

もう一つは、もっと早く、もっと乱れて届く。

紙の質が悪い。

筆圧が揺れる。

報告として完成していない。

ただ、それでも“今すぐ知るべき何か”が乗っている。

現場の協会員や連絡役、関所に詰める補助要員や、道の上で情報を拾う者たちの報せは、たいていこちらだ。

 

その朝、北方案件受付卓へ運び込まれた紙片は、明らかに後者だった。

 

羊皮紙ですらない。

粗い紙を半分に折り、外側へ簡単な認証印だけを押したもの。

封蝋は薄く、角がすでに欠けている。

急いで持たされ、急いで渡され、途中でもっと急いで運ばれた紙の顔だった。

 

受付の書記官は、最初それを普通の街道急報だと思った。

北方では今や、急報そのものは珍しくない。

兵站の滞り。

村落の失踪。

冬支度の遅れ。

結界補修の延期。

それらのすべてが、現場では“急ぎ”になる。

 

だが、差出の印を見た瞬間、手が一度だけ止まった。

 

ヴァール北方連絡所・臨時協力員印。

 

ヴァールは中央諸国と北側諸国の境目だ。

関所であり、兵站線の喉元であり、北から南へ降りてくる噂が最初に一度だけ人の口へ乗る街でもある。

そのヴァールから、臨時とはいえ協会筋の印で急報が来る。

それだけで、ただの街道事故ではない匂いがした。

 

書記官は封を切った。

 

中身は短かった。

短いが、短すぎて逆に嫌な文面だった。

 

北方連絡。至急。

 

グラナト伯爵領に、魔族側から和睦の使者が入ったとの情報あり。

発信源は伯爵家そのものではなく、伯爵領周辺で活動する協会協力員および往還商人の一致した証言。

使者は三名。先頭の男は淡い色の髪を持ち、貴族的な態度で“無益な殺し合いの停止”を説いているとのこと。

結界・門・兵の扱いに踏み込む発言をしているらしい。

風聞の域を出ぬ部分もあるため断定は避けるが、長期交戦案件の局面変化の可能性あり。

至急、北方実務調整に回されたし。

 

読み終えた書記官は、表情をほとんど変えなかった。

変えないまま、紙を裏返し、受領印を押し、通常の北方継続案件棚ではなく、その奥にある細長い木箱へ入れる。

 

要再評価・北方優先確認

 

箱の中には、まだ数枚しか紙が入っていない。

どれも、すぐには大部隊を動かせないくせに、放っておくと後で人が大量に死ぬ種類の案件ばかりだった。

 

その日の午前のうちに、紙は北方実務調整室へ運ばれた。

 

調整室は、立派な執務室ではなかった。

 

壁一面に棚がある。

棚には報告書、要請書、輸送記録、街道被害一覧、支部術者の配置表、結界維持の消耗計算表が詰め込まれている。

机の上には地図が何枚も広げられ、色の違う針が刺さっていた。

紙と地図の上では、世界はいつも平たい。

どの痛みも同じ厚さに見える。

だからこそ、そこで判断する人間はいつも少しだけ顔色が悪い。

 

部屋には三人いた。

 

北方実務調整官。

その補佐役。

それに、北方戦線と対魔族案件の双方へ顔の利く監督役。

 

監督役は、聖都の高位魔法使いのような華やかさとは無縁の男だった。

着ているローブも実務向けで、袖口にはインクの跡が残っている。

机と街道のあいだを長く往復してきた人間の疲れ方をしていた。

 

調整官が急報を机の中央へ置いた。

 

「ヴァールからです」

 

監督役が紙へ目を落とす。

 

「……和睦の使者、か」

 

補佐役が別紙をめくる。

 

「グラナト伯爵領とアウラの長期交戦案件は、すでに継続監視扱いです」

 

「知ってる」

 

監督役の返事は短かった。

 

「伯爵の息子が落ちたのが十年前。そこから先も、死者の軍勢との小競り合いは断続的に続いている」

 

「ええ」

 

調整官は、机の端から古い報告書束を引き寄せた。

 

グラナト伯爵領・防衛継続案件

フランメ由来結界維持報告

北側諸国・死体兵運用の疑い

 

書類の題だけ見ても、長く付き合ってきた嫌な案件であることが分かる。

 

「伯爵領はこれまで持ちこたえてきた」

 

補佐役が言う。

 

「大魔法使いフランメの結界があるからです。アウラの不死の軍勢は厄介ですが、結界と壁と地の利がある限り、即座の陥落までは考えにくい」

 

監督役は頷いた。

 

「だから今までは、“危険だが今すぐ崩れない案件”として扱われてきた」

 

それは冷たい言い方だった。

だが実務とはそういうものだ。

危険なだけでは優先順位は決まらない。

危険で、しかも今すぐ崩れるかもしれないものが、どうしても先へ出る。

 

調整官が急報の一行へ指を置く。

 

「問題はここです」

 

結界・門・兵の扱いに踏み込む発言をしているらしい。

 

部屋が少しだけ静かになる。

 

監督役が低く言った。

 

「つまり、和睦を装って結界の内側へ言葉を入れてきた」

 

「その可能性が高いかと」

 

補佐役が続ける。

 

「伯爵本人が騙されるかどうか、という話ではありません。長期戦の末に“和平の可能性”そのものが城と街へ入り込むことが危険です」

 

その言い方が、すべてをよく表していた。

 

グラナト伯爵は無能ではない。

アウラがどういう相手かも、十年の戦いで骨まで知っているはずだ。

だから、伯爵本人が簡単に和睦の言葉へ飛びつくとは考えにくい。

 

だが、問題はそこではない。

 

兵が疲れている。

民も疲れている。

結界維持のために動いてきた術者も、物資を運んできた荷車も、もう長く消耗している。

そういう時に“争いを終わらせる道があるかもしれない”という言葉が入る。

その事実自体が危険なのだ。

 

「伯爵が拒否して終わり、では済まない」

 

調整官が言う。

 

「家臣の一部が揺れるかもしれない。兵の何人かが、“もし本当に終わるなら”と考えるかもしれない。市民が門を開けるよう願い始めるかもしれない。一度でもその空気が生まれれば、結界と防衛線は物理だけでは保てません」

 

監督役が急報を持ち上げ、目を細めた。

 

「現地協会員は誰だ」

 

「伯爵領周辺の巡回補助と、ヴァール経由の連絡員です。名前は記号化されてますが、同じ情報を商隊の証言でも補強しています」

 

「使者の人数も一致か」

 

「はい。三人」

 

「先頭は淡い色の髪。よく笑う。貴族的な態度」

 

監督役はそこで、嫌そうに息を吐いた。

 

「趣味が悪い」

 

「魔族ですから」

 

補佐役が答える。

 

「違う」

 

監督役は首を振った。

 

「ただ殺すだけなら、もっと雑にやる。こういう“感じのいい顔”を差し出してくるのは、ちゃんと人間の疲れ方を知ってる側だ」

 

それは事実だった。

 

長期戦の果てに必要になるのは、刃より先に空気を緩める言葉だ。

門を砕くより先に、門を守っている側の心を少しだけ緩ませる。

アウラのような大物がそこまでやる理由は一つしかない。

 

均衡を、内側から崩しに来た。

 

監督役が紙を机へ戻す。

 

「正規の大規模救援は」

 

調整官がすぐに首を振る。

 

「無理です」

 

「即答か」

 

「即答します。北方支部は結界維持と街道補修で詰まっています。中央から一級級をまとめて北へ切れば、他方面が崩れます。七崩賢級案件の可能性があるからといって、中途半端な術者を束ねて送れば、それこそ消耗を増やすだけです」

 

「では、何が出せる」

 

その問いに、部屋の空気が少し重くなった。

 

補佐役が、ためらいがちに別の報告束を引いた。

表紙に書かれている名は短い。

 

アッシェ

 

監督役の目が、わずかに細くなる。

 

「……"あれ"を北へ回すのか」

 

調整官は淡々と頷く。

 

「正式救援ではありません。先行偵察、現地接続、必要時牽制。伯爵領の内外で、和睦使者が実際にどこまで入り込んでいるかを見極める役です」

 

補佐役が不安そうに言う。

 

「危険すぎませんか」

 

監督役が先に答えた。

 

「危険だ。だが今この状況で“安全な北方案件”なんて最初からない」

 

紙をめくる音だけが少し響く。

 

アッシェの報告書には、いつも似たような文言が並ぶ。

 

対魔族近接戦闘において異様に実戦的。

街道被害や現場痕の読解に優れる。

術式に乗らない。

扱いづらい。

管理困難。

 

そして最後に、どこかで必ず同じような意味の言葉が付く。

 

それでも有用。

 

「北の現場は、もう“魔法の情報”だけを追う段階じゃない」

 

調整官が言う。

 

「長期戦の疲弊、村の沈黙、街道の削れ方、使者の言葉。そういうものを拾える人間が要る。通常の術者より、あれの方が噛みます」

 

監督役はしばらく黙っていたが、やがて短く言った。

 

「上へ回せ」

 

「差し止め判断ですか」

 

「そうだ。我々の実務判断としては出したい。だが、止められる立場の人間には見せる」

 

その言い方だけで十分だった。

名前を口にする必要はない。

この協会で、そういう紙を“止められる”立場にいるのは、だいたい一人だ。

 

ゼーリエ

 

 

 

8

 

 

 

ゼーリエの机へ届いた時、紙は二つになっていた。

 

一つは、ヴァール経由で入った急報の写し。

もう一つは、北方実務調整室からの簡易上申。

 

上申は、必要なことしか書いていなかった。

 

グラナト伯爵領と断頭台のアウラの長期戦は既知。

フランメの結界により即座の陥落可能性は低いと見なされてきた。

しかし現地協会筋より、魔族側が和睦使者を差し向けたとの情報あり。

事実であれば、敵は消耗戦から結界攻略・内側の揺さぶりへ戦術を転換した可能性が高い。

正規大規模救援の即時編成は困難。

先行偵察・現地接続・必要時牽制要員として、協会所属要員アッシェの派遣を提案する。

異議がある場合は差し止めを請う。

 

"異議がある場合は差し止めを請う"

 

ひどく実務的で、ひどく誠実な文面だった。

そして、その誠実さがいかにも嫌だった。

こういう文面はだいたい、正しい。

正しいからこそ、少し遅い。

そして少し遅いものは、たいてい現場で血になる。

 

ゼーリエは先に急報を読み、そのあとで上申へ目を通した。

最後まで読んで、紙を机へ置く。

指先で軽く叩く。

 

「へえ」

 

小さく言う。

 

その“へえ”には、呆れと納得が半分ずつ混じっていた。

 

グラナト伯爵領がアウラとやり合っていることは、前から知っている。

伯爵が十年耐えてきたことも知っている。

フランメの結界があるから、簡単には落ちないことも知っている。

だから今までは、危険だが持つ案件として積んでおけた。

 

だが、和睦使者は違う。

 

結界そのものを砕けなくても、

結界を守る人間の気持ちは砕ける。

あるいは、揺らぐ。

それが一番厄介だ。

 

扉が叩かれる。

 

「入れ」

 

ゼンゼが入ってきた。

呼ばれていたわけではないだろう。

だが、この書類がここまで上がったと読んで来たのだろうことは、顔を見れば分かる。

 

「見られましたか」

 

「ああ」

 

ゼーリエは紙を机へ滑らせた。

 

ゼンゼが急報を読む。

読んでいるあいだ、表情はほとんど変わらない。

だが最後まで行ったところで、ほんの少しだけ眉間が深くなる。

 

「……和睦ですか」

 

「そうらしい」

 

「伯爵が受け入れるとは思いません」

 

「私もだ」

 

ゼーリエは頬杖をついたまま答えた。

 

「でも問題は伯爵じゃない」

 

ゼンゼは目を上げる。

 

「ええ」

 

「十年やれば、人は疲れる。兵も、家臣も、街も、民も。“終わるかもしれない”という言葉が中へ入るだけで、壁は少し薄くなる」

 

その見立ては、嫌なくらい正確だった。

 

「アウラは、ずいぶん人間らしいことを覚えましたね」

 

ゼンゼが静かに言う。

 

「昔からそういう手合いだ」

 

ゼーリエは指先で上申書を叩く。

 

「で、実務は"あれ"を出したいらしい」

 

「あれ、ですか」

 

「アッシェ」

 

ゼンゼは少し黙った。

驚いたわけではない。

ただ、その名がここで出ることを最初から予感していた顔だった。

 

「止めますか」

 

「なぜ?」

 

ゼンゼは少しだけ目を細める。

 

「危険です」

 

「今さらだ」

 

「そういう意味ではありません」

 

「分かってる」

 

ゼーリエの返しは軽い。

だが、理解していないわけではない。

 

「実務の理屈は通ってるだろう。正規救援は遅い。伯爵領の外と内、どこまで揺れてるかを掴む必要がある。魔法の匂いだけじゃなく、街道の削れ方と人の沈み方を拾える要員がいる。――あれは、そういう時に妙に噛む」

 

ゼンゼはそれでも、すぐには頷かなかった。

 

「ゼーリエ様は、その案件を面白がっている」

 

「そうだな」

 

否定しないところが、やはり嫌だった。

 

ゼーリエは続ける。

 

「でも、面白がっていることと、間違っていることは別だ」

 

「ええ」

 

「それに、私が主導して出すわけじゃない」

 

ここが大事だった。

ゼーリエは前へ出ない。

伯爵領を救うための責任者として振る舞うのではない。

ただ、実務が上げてきた紙を見て、止めるか止めないかを選ぶだけだ。

 

「止めないんですね」

 

ゼンゼが言う。

 

ゼーリエはほんの少しだけ笑った。

 

「止める理由がない」

 

一拍。

 

「それと、名を先に与えるな」

 

ゼンゼの視線がわずかに動く。

 

「アウラの名を、ですか」

 

「そう」

 

「なぜです」

 

「最初から“断頭台のアウラのもとへ行け”と渡せば、見方が一つ減る。今必要なのは、長期戦の疲弊、使者の空気、街道の死、村の静けさを、名抜きで拾わせることだ」

 

ゼーリエは魔導書の上で指を組んだ。

 

「伯爵がアウラと認識していることは構わない。実務側も知っていていい。でも、あれに渡す必要はない」

 

それは救援のためだけの判断ではなかった。

観察も混ざっている。

ゼンゼには、それが分かる。

分かるから嫌だった。

 

「また試すんですね」

 

「試すというほど綺麗じゃない」

 

ゼーリエは淡々と言う。

 

「ただ、見たいだけだ。既知の大物案件の“崩れ目”へ、あれを投げ込んだ時、何を拾って、どこまで自力で辿るか」

 

ゼンゼはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。

 

「本当に嫌な人ですね」

 

「知っている」

 

それで会話はほとんど終わった。

残るのは、紙を実務へ返して通すだけだ。

 

去り際にゼンゼが立ち止まる。

 

「アッシェには、どこまで伝えますか」

 

「伯爵領とアウラの長期戦案件であることは伝えていい」

 

ゼーリエは言った。

 

「ただし、“今度の使者で均衡が崩れるかもしれない”という危惧を主にしろ。名前は最後まで伏せて構わない」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

ゼーリエはそこで少しだけ目を細めた。

 

「救援要請が伯爵本人から和睦の件で来たわけじゃない、という点はきちんと伝えろ。伯爵を愚かに見るような誤解は無駄だからな」

 

ゼンゼは一瞬だけ目を見開いた。

その配慮が意外だったのかもしれない。

あるいは、意外に見えるだけで、この人は昔からそういう妙なところだけは正確なのかもしれない。

 

「ええ」

 

短く答えて、部屋を出る。

 

一人になった執務室で、ゼーリエは急報をもう一度読んだ。

 

和睦使者。

結界と門に踏み込む言葉。

十年の消耗。

そして、まだ持っている城壁。

 

「面倒だ」

 

誰にともなくそう言う。

 

長期戦そのものは珍しくない。

だが、長く持ちこたえた均衡が崩れる瞬間だけは、いつ見ても少し気分が悪い。

そして、その崩れ目へ“あれ”が行く。

 

「もっと面倒だ」

 

今度は少しだけ笑った。

笑いではない。

不快な予感を、わずかに楽しんでいる顔だった。

 

 

 

9

 

 

 

アッシェが呼ばれたのは、その日の夕方だった。

 

聖都の廊下は、日が傾くと白さが冷える。

昼間はただ整って見える壁が、夕方には少しだけ墓標みたいに見える。

アッシェはその廊下を歩きながら、すれ違う書記に二度見られ、訓練場帰りの警護班の男に「外か」と言われた。

 

「たぶんな」

 

そう返すと、男は笑った。

 

「その返し方の時は、だいたい面倒な時だな」

 

「よく分かるな」

 

「見てりゃ分かる」

 

軽口が一度だけ交わされる。

そういう短いやり取りの時、アッシェは自然に人の輪へ寄った顔を使う。

少し口元を動かし、声の角を丸くする。

それが自分で身につけた擬態だということを、今では本人も分かっている。

 

だが、呼び出し先の小会議室へ入った瞬間、その軽さは半歩だけ引いた。

 

中には北方実務調整官とゼンゼがいた。

机の上には地図、薄い報告書、急報の写し。

ゼーリエはいない。

 

それだけで十分だった。

これは上からの大仰な命令ではなく、現場寄りの実務判断だ。

そういう匂いがする。

 

「北方へ出てもらう」

 

調整官が言う。

 

「どこだ」

 

地図が机を滑る。

ヴァール。

北側諸国。

グラナト伯爵領。

周辺の街道。

 

「グラナト伯爵領とアウラの長期戦案件は知っているな」

 

アッシェの目が少しだけ細くなる。

 

「書類ではな」

 

「伯爵領は大魔法使いフランメ由来の結界で持ちこたえてきた。だが、今朝、現地協会筋から急報が入った」

 

調整官は紙を差し出した。

 

アッシェは受け取り、目を走らせる。

和睦使者。

三人。

淡い色の髪の男。

結界・門・兵に踏み込む口上。

 

「伯爵本人からじゃないな」

 

一読してすぐ、そう言う。

 

調整官が小さく頷く。

 

「そうだ。伯爵が泣きついてきたわけじゃない。現地協会員、協会協力員、商隊の証言が一致した」

 

「伯爵は」

 

「おそらく、アウラが何を狙っているか分かっている。だからこそ問題は、伯爵本人が騙されるかどうかじゃない」

 

アッシェは紙から目を上げる。

 

ゼンゼがその先を引き取った。

 

「十年続いた戦いの末に、“和平の可能性”という言葉が城と街へ入り込むこと自体が危険なんだよ」

 

その説明は、ひどく正しかった。

アッシェにも分かる。

人は長く削られると、明確な嘘より“少し終わるかもしれない話”に揺れる。

 

「正規救援は遅れる」

 

調整官が言う。

 

「だからお前を出す。先行偵察、現地接続、必要時牽制。和睦使者がどこまで入り込み、現地がどこまで揺れているかを見てこい」

 

アッシェは地図を見る。

ヴァール。

伯爵領。

境目。

街道。

結界。

そして、まだ名を完全には与えられていない“大きいもの”。

 

「行けばいいのか」

 

「行け」

 

「相手の名は」

 

調整官が少しだけ黙る。

その沈黙が答えの半分だった。

 

「断定はしない」

 

「そうか」

 

アッシェはそれ以上は聞かなかった。

聞いても、おそらく余計なものが混じる。

なら、北で拾えばいい。

 

ゼンゼが静かに言う。

 

「伯爵領へ行くなら、最初に見るべきは敵だけじゃないよ」

 

「何だ」

 

「城の内側が、どこまで疲れているか見るんだ」

 

その言葉を聞いて、アッシェはほんの少しだけ目を伏せた。

戦闘の話ではない。

でも、今度の案件でいちばん厄介なのはそこなのだろうと分かる。

 

「……面倒だな」

 

小さく言う。

 

ゼンゼは頷いた。

 

「かなり」

 

その返答だけで、部屋の空気が少しだけ緩んだ。

アッシェはそこで一瞬だけ、いつもの軽い顔を出しそうになった。

でも、北へ向かう線を頭が掴んだ瞬間から、そちらは少しずつ遠くなる。

 

「出立は明朝」

 

調整官が言う。

 

「ヴァールを経由しろ。北へ入る前に、関所で聞けるだけ聞いておけ」

 

「分かった」

 

「あと一つ」

 

ゼンゼが呼び止める。

 

「何だ」

 

「これは“狩り”ではないよ」

 

アッシェは数秒だけ黙った。

 

その沈黙のあいだに、部屋の温度が少し下がった気がした。

戦闘や討滅という言葉が出ると、どうしても静かな方が前へ出る。

軽口を探す癖が落ちる。

 

「……分かってる」

 

やがて、低く答える。

 

それが本当にどこまで分かっているのかは、ゼンゼにも分からない。

本人にだって、半分くらいしか分からないのだろう。

 

「死なないでくれよ」

 

最後にそう言う。

 

「努力はする」

 

「半分かい」

 

「半分だ」

 

そのやり取りだけで、会議は終わった。

 

アッシェが部屋を出ていったあと、調整官が小さく息を吐く。

 

「大丈夫ですか」

 

誰に向けた問いか、少し曖昧だった。

北方の案件にか。

アッシェにか。

あるいは、これを止めなかった上の誰かにか。

 

ゼンゼはしばらく扉の方を見てから答える。

 

「大丈夫かどうかは、向こうで決まる」

 

そして心の中でだけ続ける。

 

止めることができた人が、止めなかった。

その時点で、もうこれは単なる実務判断ではない。

少しだけ歪んだ運命の押し出しでもある。

 

だが、そういう歪み方でしか届かない案件も、この世界にはたしかにあるのだ。

 

 

 

9

 

 

 

夜の聖都は、昼より白い。

 

日があるあいだは、白い石も白い壁も、ただ整って見えるだけだ。

人の目が多いから、白さは風景の一部に沈む。

けれど夜になると、聖都の白さは少しだけ性質を変える。

通りの灯りが減り、人の声が細くなり、足音が石畳へよく響くようになると、白い壁は急に“そこにあるもの”として浮き出る。

 

高い塔。

長い回廊。

水路の端。

階段の角。

礼拝堂の柱。

どれも昼より輪郭が硬い。

白いというより、冷たい。

清らかというより、眠れない街の骨に近い。

 

アッシェは、その白い回廊をゆっくり歩いていた。

 

出立は明朝。

荷はもう整っている。

地図も受け取った。

食料も水も、必要な分だけある。

剣はまだ壁へ立てかけたままだった。

主武装ではない。

拳の方が早いし、拳の方が怖い。

本人もそれを知っているし、周りもだいたい知っている。

 

だから、今さら準備することはほとんどない。

 

それなのに眠れなかった。

 

緊張しているわけではなかった。

北へ向かうことそのものは、命令が降りた時点でもう体の中で決まっている。

迷いも少ない。

嫌なら、たぶんもっと違う顔になる。

今の自分は、嫌ではない。

少なくとも、聖都の白さの中で腐るよりはいい。

 

それでも、眠れない。

 

理由をはっきり言葉にするとしたら、たぶん二つあった。

 

一つは、任務の重さだ。

これはいつもの討滅とは違う。

ただ北へ行って、ただ魔族を殴り殺して終わる話ではない。

長く続いた均衡が崩れるかもしれない。

十年保ってきた城と結界のあいだへ、“和睦”という言葉が滑り込んだ。

それを、外から見に行く。

 

誰がどこまで揺れているか。

門はまだ固いか。

兵は疲れているか。

街は耐えられるか。

そして、もし遅ければ、どこから崩れるか。

 

それは狩りというより、傷口の観察に近い。

アッシェはそういう役目を嫌うわけではない。

だが、好きだと言えるほど器用でもない。

 

もう一つは、もっと嫌な理由だった。

 

北へ行く前ほど、自分の中の静かな方が早く目を覚ます。

 

軽口を叩く顔。

空気を少しだけ和らげるための顔。

周囲へ馴染むために覚えた、人間の輪の中へ半歩だけ入るための顔。

それは日常では役に立つ。

実際、さっきも書記の若い男に「また面倒なところへ行くんですか」と言われて、「面倒じゃないところへ行った覚えがない」と返し、少しだけ笑わせた。

ああいう時の自分は、少なくとも“異物のまま突っ立っているだけのもの”ではない。

 

でも、北へ向かう前夜になると、そういう顔は少しずつ薄くなる。

 

体が勝手に知っているのだろう。

これから必要になるのは、言葉の角を丸くする方ではなく、線を拾って、距離を詰めて、躊躇なく壊す方だと。

だから軽い自分が引き、静かな自分が前へ出る。

 

その切り替わりが、時々ひどく怖かった。

 

人に馴染むための自分。

戦うための自分。

どちらも必要だから使う。

どちらも、それなりにうまくやれる。

そのこと自体が、ひどく嫌だった。

 

必要に応じて顔を変えられる。

それは便利だ。

でも便利であるということは、どちらも“本当の自分”ではないかもしれないということでもある。

 

軽く笑う自分。

狩人みたいに静まる自分。

その二つのあいだに、何も飾らない中心が本当にあるのか。

あるいは、自分の中には最初から“必要に応じて使う顔”しかないのではないか。

 

その考えは、眠れない夜ほど大きくなる。

 

アッシェは廊下の端で足を止め、回廊の窓を押し開けた。

 

夜気が入る。

冷たい。

遠くで鐘が鳴る。

鐘の音は、昼よりずっと長く続くように聞こえる。

白い石がその音を抱えて、ゆっくり返してくるからだろう。

 

窓の下には中庭があった。

刈り込まれた木。

動かない噴水。

夜番の灯り。

静かで、整っていて、余計なものがない。

聖都らしい景色だった。

 

その整い方が、今夜は妙に息苦しい。

 

「……最悪だ」

 

小さくそう言う。

 

誰に聞かせるでもなく、ただ口からこぼしただけの声だった。

 

その直後、胸の奥にふっと、あの声が差し込んだ。

 

"強い子に生まれますように"

"その強い体があなたを守ってくれますように"

 

男の声と女の声。

低く、静かで、優しい。

聞いたことがない。

見たこともない。

それなのに、自分へ向いていると一瞬で分かる声。

 

アッシェは窓枠へ置いた手に、少しだけ力を込めた。

 

「……今はやめてくれ」

 

答えは返ってこない。

いつもそうだ。

声はある。

でも対話はできない。

祈りが焼き付いたみたいに、一方的によみがえるだけだ。

 

そしてその強い体をもって、あなたが人を助けれますように。

 

その一文だけは、今でも少し痛い。

 

人を助ける。

守る。

意味は分かる。

きっと願いとしては正しい。

でも現実に自分がやっていることは、拳で顔面を割り、喉を潰し、骨を折ることだ。

そうして相手を殺して、その結果として、誰かが助かる。

 

順番が、時々ひどく嫌になる。

 

もしこの声が本物なら。

もし本当に両親の願いが、まじないの残響として自分の中へ焼き付いているのなら。

自分はその願いを、結局は暴力としてしか使えていないのではないか。

 

守るための強さ。

助けるための体。

そう言われるたびに、自分の拳の重さだけが先に思い浮かぶ。

 

「知るか」

 

声へ向けてそう言う。

反抗なのか、怯えなのか、自分でも分からない。

 

その時、回廊の向こうで足音がした。

 

静かだが、隠してはいない足音。

聖都でわざと音を殺さず歩ける人間は多くない。

それだけで誰か分かる。

 

「起きているね」

 

ゼンゼの声だった。

 

返事をする前に、彼女の影が回廊の角を曲がってくる。

外套は羽織っていない。

日中の業務を終えた後らしい簡素な姿だ。

それでも背筋だけはきっちりと真っ直ぐで、夜の聖都の白さの中でも輪郭が崩れない。

 

「……ああ」

 

アッシェが答える。

 

ゼンゼは窓の開いた回廊を一度見てから、アッシェの顔を見る。

 

「眠れないのかい」

 

「別に」

 

「そうか」

 

明らかに眠れていない人間に向ける返事として、明らかに嘘だった。

けれど、ゼンゼはそこを責めなかった。

責めてもこの男はもっと深いところへ沈るだけだと知っている顔だった。

 

彼女は窓際まで来て、中庭を見下ろした。

 

「明日は冷える」

 

「そうか」

 

「北へ行くには、ちょうど嫌な温度だ」

 

アッシェは少しだけ口元を動かした。

 

「良い温度ってあるのか」

 

「ない」

 

即答だった。

 

「ですが、嫌な温度にも種類があるよ」

 

その返し方が少しだけおかしくて、アッシェは喉の奥で小さく笑った。

笑い、というほど明るいものではない。

でも、ほんの少しだけ夜の空気が緩む。

 

ゼンゼはそれを横目で見て、わずかに目を細めた。

 

「まだそちらの顔が出るなら、完全に固まったわけではなさそうだね」

 

アッシェは眉を寄せた。

 

「そちら?」

 

「軽口を叩く方」

 

「面倒な言い方するな」

 

「分かりやすく言うと、人に馴染もうとする方の君」

 

言われた瞬間、アッシェの肩がほんの少しだけ固くなる。

そこまで見られているのか、と今さら思う。

いや、今さらではない。

この人は昔からそうだ。

見ていないようで、やたら細かく見ている。

 

「馴染もうとしてるように見えるか」

 

「ああ」

 

ゼンゼはあっさり答えた。

 

「少なくとも、あなたが人と距離を取ることだけを選んでいないのは分かる」

 

アッシェは少しだけ視線を逸らした。

 

「……そうか」

 

「不満かい」

 

「別に」

 

その返答に、ゼンゼは小さく息を吐いた。

不満ではない。

ただ、見抜かれるのが面倒なのだ。

そういう顔だった。

 

しばらく、二人とも窓の外を見ていた。

 

中庭の灯りは揺れない。

風が少ない夜だった。

そのかわりに、建物の中を流れる気配がよく分かる。

夜番の足音。

どこかの扉の閉まる音。

遠い礼拝堂の鐘。

聖都は眠るが、完全には眠らない。

 

「北は」

 

と、ゼンゼが言った。

 

「ただ魔族を殺して終わる任務ではないよ」

 

「知ってる」

 

「伯爵領の外だけではなく、内側の空気も見る必要がある」

 

「それも聞いた」

 

「ならいいんだけど」

 

「なら、何だ」

 

ゼンゼは少しだけ言葉を選んだ。

 

「君は、狩る対象がはっきりすると、そこだけを見やすい」

 

アッシェは沈黙する。

否定はしない。

その通りだからだ。

 

「今回は、敵を見つける前に、“まだ壊れていないものがどこまで残っているか”を見てきなさい」

 

夜気が一瞬だけ冷たく感じた。

 

壊れていないもの。

その言い方は、妙に胸へ引っかかった。

 

今のアッシェにとって、物事はよく“壊す側”から見えやすい。

拳で砕ける骨。

破れる皮膚。

潰れる喉。

死体兵の残り方。

首を落とされた遺体。

そういうものの方が、はっきり分かる。

逆に、まだ持ちこたえているものの輪郭は、時々ぼやける。

 

「……面倒だな」

 

低く言う。

 

「そうだね」

 

ゼンゼは頷く。

 

「かなり」

 

その返しが、やけにいつも通りで、少しだけ救われる。

 

アッシェは窓から手を離し、壁にもたれた。

 

「お前、何で来た」

 

「見に」

 

「何を」

 

「眠れない顔をしている人を」

 

「嫌な趣味だな」

 

「今さらだね」

 

その返答で、また少しだけ空気が緩む。

だが今度は、緩んだぶんだけ別のものが浮きやすくなった。

 

アッシェは少し黙ったあとで言う。

 

「声がする」

 

ゼンゼの表情は変わらなかった。

驚きもしない。

前にも聞いているからだ。

ただ、今この夜にそれを自分から言うということが、少し重いのだろう。

 

「強いのかい」

 

「さっきよりは」

 

「内容は」

 

アッシェは窓の外を見たまま答える。

 

「同じだ」

 

それ以上言わなくても、ゼンゼには分かる。

"強い子に生まれますように"

"その強い体が守ってくれますように"

"その強い体で、人を助けられますように"

 

彼女はその言葉を自分の口で繰り返さなかった。

繰り返せば、この男の中で別の痛みが増えると分かっていたからだ。

 

「妄想だと?」

 

以前と同じ問いだった。

ただ、今夜のそれは少しだけ深い。

 

アッシェはすぐには答えなかった。

窓の外の白い壁を見て、その向こうの夜を見て、それからようやく言う。

 

「分からない」

 

「…」

 

「妄想なら俺はどこか壊れてるし、現実ならもっと面倒だ」

 

「そうかもしれないね」

 

ゼンゼの答えは、今夜も曖昧だった。

曖昧にしかできないのだろう。

断定してしまえば、逆に軽くなる。

軽くしていい話ではない。

 

アッシェは壁へ背を預けたまま、天井を見た。

 

「守るための強さ、らしい」

 

「ああ」

 

「助けるための体、らしい」

 

「でも結局、俺がやるのは殴って壊すことだ」

 

その言葉のあとに、しばらく何も続かなかった。

 

ゼンゼはすぐには返さない。

安い慰めは効かない。

“人を守るためなんだから大丈夫です”とでも言えば、この男はたぶん余計に黙る。

 

「……壊すことと、守ることは同じではないよ」

 

やがて、静かに言う。

 

「だけど、守るために壊さなければならない時があるのも事実」

 

アッシェは天井から目を外さない。

 

「綺麗事だな」

 

「そうだね」

 

ゼンゼは否定しなかった。

 

「綺麗事だ。でも、綺麗事を全部嘘だと決める必要もない」

 

その言葉は、理屈としては弱い。

弱いが、それ以上のものを今この男へ渡すことはできない気もした。

 

「君が怖がっているのは、自分が“壊す方”に寄りすぎていること?」

 

アッシェはしばらく黙っていたが、やがて小さく言う。

 

「軽く喋る方も、静かな方も、必要だから使ってるだけだ」

 

「…」

 

「人の輪に入る時の顔も、狩る時の顔もある。どっちも役に立つ。だから余計に、どっちも俺じゃない気がする」

 

ゼンゼはその言葉を聞いて、すぐには口を開かなかった。

 

「……中心がない、か」

 

アッシェは答えない。

答えないことが、答えに近い。

 

「仮面を使い分けているんじゃなくて、仮面しか持っていない気がする」

 

その一言だけは、かなり遅れてから落ちた。

ぽつりと。

夜の白い回廊に沈むように。

 

ゼンゼは目を伏せた。

 

その不安は、分からないでもなかった。

この男は生まれる前からまじないに書き換えられている。

肉体そのものが、普通の人間の設計図から少し外れている。

そのうえで、人に馴染むための軽さと、戦うための静けさを後天的に使い分けている。

なら、“自然な自分”がどこにあるのか分からなくなるのは、ある意味で当然だ。

 

「私は」

 

ゼンゼはゆっくり言った。

 

「君に“本当の自分”があるかどうかは知らないし、知り得ない」

 

アッシェが少しだけ眉を寄せる。

慰めではない返答だった。

 

「だけど」

 

ゼンゼは続ける。

 

「人はたいてい、必要な顔で生きている。君は少し、それが極端なだけだ

」

 

前にも言った言葉だった。

だが今夜は少し違う重さがあった。

 

「そして、極端であることは、空っぽであることと同じではない」

 

アッシェは何も言わなかった。

言い返す言葉を探していたのかもしれない。

あるいは、ただその言葉が胸のどこへ落ちるかを待っていたのかもしれない。

 

しばらくして、彼は小さく言う。

 

「……慰めが下手だな」

 

ゼンゼは少しだけ口元を緩めた。

 

「知っているよ」

 

「自覚あるのか」

 

「ある」

 

「最悪だな」

 

「今さらだね」

 

その返しで、二人のあいだにほんの少しだけ、夜の冷たさとは違う温度が戻る。

 

ゼンゼは窓から離れた。

 

「明朝、東側回廊の門を使いなさい」

 

「近いのか」

 

「君の部屋なら西よりましだ」

 

「そうか」

 

「食料は足りてるのかい」

 

「たぶん」

 

「なら少し増やそう」

 

「勝手だな」

 

「いつものことだ」

 

そう言って、彼女は扉の方へ向かう。

だが、出る直前で一度だけ止まった。

 

「アッシェ」

 

「何だ」

 

「北へ行くのは、君が強いからではないよ」

 

少しだけ、間が空く。

 

「誰かが助けを求めていて、しかも“終わるかもしれない”という言葉が、長く耐えた人たちの中へ入ってしまったからだ」

 

アッシェは黙って聞いている。

 

「だから、狩りのつもりだけで行ってはいけないよ」

 

前にも言われた言葉だった。

でも今夜は、少しだけ深い場所に届いた。

 

軽口を叩く自分。

狩人みたいに静まる自分。

どちらが本当かはまだ分からない。

それでも少なくとも、北へ向かう理由だけは、今この瞬間にはっきりしていた。

 

「……分かってる」

 

低く答える。

 

「半分だね」

 

「半分だ」

 

ゼンゼはほんの少しだけ目を細めた。

 

「帰ってきたら、残り半分も聞かせておくれ」

 

「面倒だな」

 

「そうだね」

 

ゼンゼの口角が少し上がる。

 

「かなり」

 

それで会話は終わった。

 

扉が閉まり、回廊にまた静けさが戻る。

 

アッシェはしばらくその場に立っていた。

窓の外、中庭の灯り、白い壁。

何も変わらないように見える。

でも明日、自分はそこを出る。

ヴァールを越え、北へ入り、長く保ってきた均衡の綻びを見に行く。

 

胸の奥で、また声が微かに揺れた。

 

その強い体があなたを守ってくれますように。

そしてその強い体をもって、あなたが人を助けれますように。

 

今夜は、その言葉にすぐ反発はしなかった。

受け入れたわけでもない。

ただ、少しだけ、ゼンゼの言葉と並んで残った。

 

守るためなのか。

壊すためなのか。

本当の自分があるのか、ないのか。

まだ何も決まっていない。

 

でも少なくとも、明日北へ向かう自分だけはたしかにいる。

 

アッシェは窓を閉めた。

白い回廊の冷たさが少しだけ薄れる。

寝台へ戻る。

眠りは相変わらず浅い。

それでも、さっきまでよりは少しだけ目を閉じやすかった。

 

聖都の夜は、最後まで白いままだった。

だがその白さの中で、灰の中から拾われた男は、ようやく北へ向かう自分の輪郭を少しだけ掴みかけていた。

 

 

 

10

 

 

 

朝の聖都は、夜より少しだけ優しい。

 

夜の白さは冷たすぎる。

石も壁も、光が薄いぶんだけ輪郭を主張して、人を起こしたまま眠らせない。

けれど朝になると、同じ白が少しだけ柔らかく見える。

東から上がる光が、塔の角や回廊の柱の陰に薄い金を差し込み、街全体へようやく血が通い始めるからだろう。

 

それでも、アッシェには朝の聖都が特別好きだとは思えなかった。

 

好きではないが、嫌いとも少し違う。

慣れてしまったのだ。

この街の白さにも、整い方にも、自分がその整った秩序の中で少しだけ浮いて見えることにも。

長くいると、違和感は消えないまま、日常だけになる。

 

出立の朝、アッシェはまだ鐘が完全に鳴り切る前に目を覚ました。

 

眠れたのかどうかは、自分でもよく分からなかった。

目を閉じていた時間はある。

だが、眠りの深さは薄かった。

水面の上に浮いたまま、沈みきれなかった感じがする。

それでも体は動く。

むしろこういう日の方が、体だけは妙に澄んでいる。

北へ向かうことが、もう半分、肉体の方では決まりきっているからだ。

 

荷は少ない。

 

外套。

食糧。

水。

簡易の包帯。

火打ち具。

小さな刃物。

そして長剣。

 

剣は主武装ではない。

剣に頼るつもりはほとんどない。

それでも持つ。

もともとは、ある村を救ったあとで人から贈られたものだった。

感謝として。

実用品として。

形見というほど重くはない。

だが、だからこそ持ち歩ける。

 

刃を確かめ、鞘へ収め、腰へ下げる。

剣をつけたところで、自分のいちばん危ない部分が拳であることは変わらない。

それでも、こうして身につけると少しだけ“旅へ出る人間”の形になる気がした。

 

部屋を出る前に、アッシェは一度だけ机の上を見た。

 

何も残っていない。

置いていくものがない。

それは身軽であると同時に、少しだけ寒い。

 

外套の内側へ手を入れる。

縫い込まれた小さな布片に指先が触れる。

焦げた旗の切れ端。

白い花の紋。

故郷と呼べるものの、ほとんど全部。

 

「……行くか」

 

誰にともなくそう言って、部屋の扉を閉めた。

 

東側回廊の門へ向かう途中、聖都はまだ完全には起きていなかった。

 

水路の上に薄い靄が浮いている。

パン屋は火を入れ始めたばかりで、まだ香りが広がりきっていない。

夜番と朝番の兵が交代する時間帯で、槍の石突きが石畳へ当たる音が小さく響く。

階段を掃く箒の音、早起きの修道士が足早に渡る回廊、鐘が一つ、低く鳴り、それから少し間を置いて二つ目が重なる。

 

聖都はこうして毎日、同じように朝になる。

それがこの街の強さであり、同時に少しだけ息苦しいところでもある。

人が死のうが、遠くで村が消えようが、鐘は同じ順番で鳴る。

パンは焼かれる。

回廊は掃かれる。

白い石は白いままだ。

 

アッシェは回廊を抜け、東門の影へ出た。

 

門はまだ半分だけしか開いていない。

通行を絞っている時間帯なのだろう。

門衛が二人、書きつけを見ながら荷の確認をしている。

旅人は少ない。

北へ向かう者より、南や東へ向かう者の方が多かった。

荷車を引く農夫、巡礼の女、商人らしい男。

誰もが、それぞれの生活のために門をくぐる。

その中で、自分だけが少し違う方向へ向かっている感じがした。

 

「朝早いね」

 

後ろから声がした。

 

振り返らなくても分かった。

ゼンゼだった。

 

昨日の夜と同じような簡素な姿だが、今朝は薄い外套を羽織っている。

彼女もまた、完全には眠れていない顔だった。

ただ、それを顔の下に沈めるのがうまい。

 

「お前もな」

 

アッシェが言う。

 

ゼンゼは隣まで来て、門の向こうの朝焼けを一度だけ見る。

 

「見送りにきた」

 

「律儀だな」

 

「面倒を見るのがいなくなるからね」

 

その言い方が少しだけ前夜と繋がっていて、アッシェはほんの少しだけ口元を動かした。

 

「そういうの、毎回言うのか」

 

「必要なら何度でも」

 

「面倒だ」

 

「知っているよ」

 

門衛の一人が、ちらりとこちらを見た。

協会の人間だと分かったのだろう、すぐに視線を戻す。

聖都では、協会の人間が朝早く門へ立っていても不思議ではない。

ただ、見送りの空気をまとっていると少しだけ珍しい。

 

「食料、増やしておいたよ」

 

ゼンゼが言う。

 

「やっぱり勝手だな」

 

「昨夜のうちにやると言っただろう」

 

「聞いた覚えがない」

 

「覚える気がなかっただけだ」

 

その返しに、アッシェは少しだけ肩をすくめた。

こういう短い応酬は楽だった。

意味がないわけではない。

でも意味の重さを増しすぎない。

人と話す時、アッシェはこういう軽さを後天的に覚えた。

場の端で少しだけ緩く返し、そこで終わる会話。

深く入らない。

入らなくても、完全には遠くならない。

 

「北へ行ったら」

 

ゼンゼが言葉を選ぶみたいに少し間を置いた。

 

「ヴァールまでは、まだ中央の空気が残っているだろね」

 

「そうか」

 

「だから、向こうで拾える情報は拾っておきなさい。関所は噂の溜まる場所だから」

 

「知ってる」

 

「本当かな」

 

「今知った」

 

ゼンゼはわずかに目を細めた。

 

「そうか」

 

そのやり取りの中に、昨日の夜の重さはなかった。

完全に消えているわけではない。

ただ朝の白い光が、少しだけ輪郭を薄くしている。

 

「……ゼンゼ」

 

アッシェがふと呼ぶ。

 

「何だい」

 

「昨日の話」

 

ゼンゼは返事を急がなかった。

何についてか、聞き返さなくても分かっている顔だった。

 

「仮面しか持っていない気がする、という話?」

 

「ああ」

 

「覚えているよ」

 

「忘れろ」

 

「無理だね」

 

そう言ってから、彼女は少しだけ門の向こうへ目をやった。

 

「向こうへ行けば、今より静かな顔になる」

 

「だろうな」

 

「でも、それで全部が狩人だということにはならない」

 

アッシェは何も言わない。

 

「人は、必要な顔をして生きている。君がそうであることと、中心が空っぽであることは同じではない」

 

前夜にも似たことを言われた。

けれど朝に聞くと、また少し違う位置へ落ちる。

 

「慰めが下手だな」

 

アッシェが言う。

 

ゼンゼはわずかに口元を緩めた。

 

「君が下手な慰めしか受け取らないからね」

 

「責任転嫁か」

 

「事実だ」

 

その返しで、アッシェはほんの少しだけ笑った。

軽い顔。

人に馴染むために使う顔。

それでも今朝のそれは、いつもより少し自然に出た気がした。

だから逆に、少しだけ怖い。

 

門衛がこちらへ向けて合図をする。

 

「そろそろだね」

 

ゼンゼが言う。

 

「そうだな」

 

「死んではいけないよ」

 

「努力はする」

 

「半分か」

 

「半分だ」

 

これももう、儀式みたいなやり取りだった。

何度やっても同じ返答で、でも同じだからこそ少し落ち着く。

 

「帰ってきたら」

 

ゼンゼが最後に言う。

 

「今度はもう少し、自然に笑えるようになりなさい」

 

アッシェは一瞬だけ視線を止めた。

 

自然に。

その言葉が、思いのほか深く刺さる。

 

軽く笑う顔。

狩人のように静まる顔。

どちらが“自然”なのか、自分にはまだ分からない。

だから、その頼みは少しだけ難しすぎる。

 

「善処する」

 

やがてそう言う。

 

ゼンゼは、それ以上何も言わなかった。

ただ短く頷く。

 

アッシェは門へ向かう。

石畳から石畳へ、白い街の境目を歩き、そして最後の影を抜ける。

 

聖都の白さが背中へ回る。

 

その瞬間、胸の奥でまた、微かにあの声が揺れた。

 

"その強い体があなたを守ってくれますように"

 

アッシェは振り返らなかった。

 

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