ゼーリエ「やれ」   作:目玉焼きは胡椒

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聖都を離れた直後の街道は、あまりにも普通だった。

 

石で固められた道。

畑。

水車。

低い森。

鐘の届かない村。

行き交う荷車。

巡礼の歌。

犬の吠え声。

人が作り、人が保ち、人が毎日使い続ける道の顔をしている。

 

世界のどこかで十年単位の消耗戦が続いていようと、

北の城壁で兵が眠れない夜を重ねていようと、

中央諸国の街道はまず「生活のための道」から始まる。

その事実は、時々ひどく腹立たしい。

同時に、少しだけ安心もする。

世界が全部、同じ熱を帯びているわけではないのだと分かるからだ。

 

最初の半日は、人とよくすれ違った。

 

聖都帰りの商人。

巡礼の親子。

荷車を引く二人組の農夫。

傷んだ鎧を肩から吊るした若い兵。

皆それぞれの行き先を持っていて、アッシェのことなど最初の一瞥で通り過ぎていく。

そういう無関心の中を歩くと、自分が世界の中心ではないことがよく分かる。

それは悪くない。

 

昼前、小さな水場で最初の休憩を取った。

 

屋根だけの簡素な休憩所だった。

石の縁から水が細く落ち、小さな桶が二つ置かれている。

旅人が三人。

薬草売りらしい老人、荷の軽い女、肩幅だけがやたら広い兵崩れ。

誰も大きな声では話していないが、疲れているというほどでもない。

中央諸国の中腹では、人の顔はまだ“持ちこたえている”より“暮らしている”に近い。

 

「北へか」

 

水を飲んだところで、薬草売りの老人が言った。

 

「そうなる」

 

「嫌な時期だな」

 

「良い時期があるのか」

 

老人は歯の欠けた口で笑った。

 

「ないな。北へ行く時は大体どの時期でも嫌だ」

 

アッシェは少しだけ肩をすくめた。

 

「役に立たない忠告だな」

 

「年寄りの忠告は半分くらい役に立たん」

 

「残り半分は?」

 

「聞いた時にはもう遅い」

 

その返しに、荷の軽い女がくすっと笑った。

兵崩れは黙ったままだったが、口元だけは少し緩んだ。

 

こういう時、アッシェは自然に軽い方の顔を使う。

場を少しだけ和らげる。

自分がただ黙っているだけの異物ではないと、相手に思わせる。

そのために覚えた返しだ。

 

けれど笑いが落ちたあと、胸の奥にわずかな空白が残る。

 

――今のは、誰だ。

 

そう思う。

言ったのは自分だ。

でも、本当に“自然な自分”がそう言ったのかは分からない。

人の輪へ入るために、便利な顔を借りているだけかもしれない。

 

「お前、思ったより喋るな」

 

兵崩れが不意に言った。

 

アッシェは少しだけ眉を上げる。

 

「そうか」

 

「もっと無口な顔してる」

 

「黙ってると、怖がるだろ」

 

兵崩れはそこで一瞬だけ目を細め、それから鼻で笑った。

 

「自覚あるのか」

 

「少しはな」

 

「面倒なやつだ」

 

「よく言われる」

 

そのやり取りで、また少しだけ空気が緩む。

だが、そこで終わりにするのがちょうどよかった。

深く入ると難しくなる。

軽く触れて離れるくらいが、今のアッシェにはいちばん楽だ。

 

休憩を終え、歩き出す。

背中にさっきの三人の気配が小さく残る。

それを感じながら、アッシェは少しだけ思う。

もし自分がずっと中央諸国の中だけで生きていたら、こういう軽さのままもう少し長く人の中にいられたのだろうか、と。

 

でも、その想像はすぐ消える。

北へ向かう線が、すでに体の中で静かに張りつめているからだ。

 

 

 

12

 

 

 

二日目の道で、街道の顔が少し変わった。

 

石畳の割合が減る。

轍が深くなる。

街道脇の草は、踏まれてもそのまま戻りきっていない場所が増える。

荷車の数そのものはまだ多い。

だが、積まれている荷の種類が少しずつ偏ってくる。

 

塩。

干し肉。

油。

布。

鉄。

矢柄。

南へ向かう荷より、北へ送る荷の方が、よほど“生き延びるため”と“戦うため”に寄っている。

 

つまり中央諸国のこの辺りですでに、北側諸国はどこかの延長線上ではなく、

支え続けなければならない別の土地として認識されているのだ。

 

昼過ぎ、街道沿いの礼拝所へ寄った。

 

旅人のための小さな建物だった。

白漆喰の壁はところどころ剥がれ、屋根の端も少し傷んでいる。

それでも井戸と祈りの場所があるだけで、人はつい立ち寄る。

道の上では、小さな整いが命を保たせる。

 

若い神官が中から出てきた。

日に焼けていて、聖都の修道士よりずっと外の顔をしている。

 

「水ですか」

 

「ああ」

 

短い会話のあと、水を受け取る。

神官はアッシェの荷の少なさと、腰の剣と、杖のないことを見て、少しだけ目を細めた。

 

「北へ?」

 

「そうだ」

 

「戻ってくる人の方が多いですよ」

 

「そうだな」

 

神官は少しだけ言い淀む。

 

「この先、ヴァールが近づくにつれて顔つきが変わります」

 

「兵のか」

 

「旅人のです」

 

神官は礼拝所の外を一度見てから続ける。

 

「皆、同じことを言います。“向こう側は静かだ”と」

 

アッシェはその言葉を受け取っても、顔を動かさなかった。

だが神官は気にせず言葉を継いだ。

 

「静かな土地は、普通なら良い場所なんです。でも北へ向かう人が言う“静か”は違う。犬が吠えない。人が戸を閉めるのが早い。誰も余計なことで笑わない」

 

「話しかけられた話は?」

 

神官の目が少しだけ動く。

一瞬だけ、驚きと納得が混じる。

 

「その話も聞きました」

 

「誰から」

 

「ここへ寄った商人から。護衛を減らして戻ってきた人です」

 

アッシェは水袋の口を閉める。

革のきしむ音が、礼拝所の前でやけに大きく響いた。

 

「何を言われた」

 

神官は答える前に、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 

「“争う理由はない”、“これ以上血を流す必要はない”、“門を閉ざし続ける方が愚かだ”と」

 

使者の言葉は、こうして少しずつ北風みたいに南へ吹き下りてきている。

それだけで厄介だった。

言葉は門より先に動く。

結界より先に人の耳へ入る。

 

「ありがとう」

 

神官がふいに言った。

 

アッシェは顔を上げる。

 

「何がだ」

 

「行くんでしょう」

 

神官は小さく笑うでもなく、ただ静かに言う。

 

「それなら、向こう側の空気を知っている人が一人でも増えるのは、ありがたいです」

 

アッシェはそれにすぐ返せなかった。

感謝される筋合いがまだ自分にあるのか、よく分からなかったからだ。

何もしていない。

まだ道を歩いているだけだ。

 

「……そうか」

 

結局それだけ言って、礼拝所を離れた。

 

少し歩いてから、自分の返事の浅さが少しだけ嫌になった。

軽口の方なら、もう少し場に馴染む返しができたかもしれない。

でも、そういう顔はこういう時ほど出しにくくなる。

誰かの祈りや感謝みたいなものを正面から向けられると、うまく返せない。

そこへ自然に入っていけるほど、人の輪に慣れていない。

 

三日目の夕方には、空の色まで少し変わって見えた。

 

 

 

13

 

 

 

北へ行くほど、風景の遠さが増す。

人の暮らしが密な土地では、空は家や塔や木立のあいだで切り取られる。

だが北へ近づくと、その切り取りが少しずつ薄くなる。

景色の中に余白が増えるのだ。

その余白は美しいと同時に、少しだけ不気味でもある。

人の手が届いていない場所が増えていくからだろう。

 

その日の宿は、街道沿いの二階建てだった。

壁は厚く、食堂は低い天井で、灯りは黄色い。

中央諸国最後の宿場町というわけではないが、ヴァールへ向かう旅人が自然と集まる場所なのだろう。

兵も商人も巡礼も、皆どこかで“明日には境目へ着く”ことを知っている顔をしていた。

 

広間で食事をしていると、斜向かいの卓から声が聞こえてきた。

 

「ヴァールで止められたらしいぞ」

 

「何が」

 

「塩の荷だよ。荷じゃない、人の方を見られたって」

 

「最近は、兵より先に耳の数を数えてるって話だ」

 

「耳?」

 

「北から妙な噂を持ってくるやつが増えたんだろ」

 

その会話が、今の中央諸国の終わり方をよく表していた。

まだ誰も本物の痕跡を見ていない。

でも、皆その手前の“空気の悪さ”だけは感じている。

 

酒を運んできた宿の女が、杯を置きながら言う。

 

「ヴァールを越えたら、もう旅の顔してちゃだめよ」

 

アッシェは杯を持ち上げたまま、女を見る。

 

「どういう顔ならいい」

 

「どういうって……」

 

女は少し考えてから肩をすくめる。

 

「帰ってこられる顔」

 

それはずいぶん曖昧な答えだった。

けれど、こういうところの人間は曖昧な答えの方が本質を突くことがある。

 

「持ってるかもしれん」

 

アッシェが言うと、女は喉の奥で笑った。

 

「そういう言い方をする人は、だいたい半分くらいしか持ってないの」

 

「半分あれば足りるだろ」

 

「北じゃ足りないわね」

 

その返しに、アッシェはほんの少しだけ笑った。

こういう軽さはまだ使える。

中央諸国側の最後の夜だからかもしれない。

ヴァールを越えれば、もうこの軽い顔は今より出しにくくなる。

自分でもそれが分かっていた。

 

夜、寝台へ入ったあとで、また声が来た。

 

"強い子に生まれますように"

"その強い体があなたを守ってくれますように"

 

今夜のそれは、前夜より少しだけ遠かった。

近いのに、少し遠い。

水の底から聞こえるみたいに輪郭が揺れている。

 

アッシェは目を閉じたまま、小さく言う。

 

「守るだけなら、まだ分かる」

 

それは誰へ向けた言葉でもない。

ただ、自分の中へ落としただけだ。

 

守るために強くあれ。

それは分かる。

だが、その強さで人を助けろと言われると、途端に曖昧になる。

自分がやるのは、結局、壊すことから始まるからだ。

 

"そしてその強い体をもって、あなたが人を助けれますように"

 

声は優しい。

優しすぎる。

だから余計に重い。

 

アッシェは寝返りを打った。

窓の外では風が少しだけ強くなっていた。

明日は境目の街が見える。

中央諸国の空気が終わり、北の削れ方が始まる。

 

眠りは浅かったが、それでも夜は過ぎていった。

 

 

 

14

 

 

 

四日目の昼前、遠くに灰色の帯が見えた。

 

最初は山の影かと思った。

だが違う。

それはまっすぐで、横へ長く、あまりに人の意思が強すぎた。

 

城壁だった。

 

ヴァール。

 

高い壁。

低く厚い門楼。

その上に立つ小さな槍の影。

遠目にも分かる。

あれは迎えるための街ではなく、止めるための街だ。

 

アッシェは道の上で一度だけ立ち止まった。

 

ここが境目だ、と体の方が先に理解した。

中央諸国の終わり。

北側諸国の入口。

噂が一度だけ人の口へ乗り、荷が量られ、顔が見られ、通る者と戻る者が少しずつ違う表情を持ち始める場所。

 

ヴァールの方へ、いくつもの荷車が出入りしているのが見えた。

だが、その動きには街道宿の気安さがない。

一台一台が、少しずつ壁へ飲み込まれ、少しずつ吐き出されているように見える。

関所とは、たぶんそういう街だ。

 

風が吹いた。

ヴァールの向こうから来る風は、中央のものより少し薄い。

乾いているのではない。

空いている。

人の暮らしがまばらになった先の、余白の多い風だ。

 

アッシェは再び歩き出した。

 

軽口を叩く顔は、まだ完全には消えていない。

だが、ヴァールの壁が近づくにつれて、静かな方が少しずつ前へ出る。

境目の街では、人に馴染むための顔と、線を拾うための顔の、その切り替わりがもっとはっきりするだろう。

 

そう思いながら歩くうちに、胸の奥へまた微かに声が揺れた。

 

"その強い体があなたを守ってくれますように"

 

アッシェは今回は、何も返さなかった。

 

守れるか。

助けられるか。

壊すことと守ることのあいだに、本当の自分があるのか。

それはまだ分からない。

 

でも少なくとも、今、自分は境目の街へ向かっている。

北の異変の輪郭が、ようやく噂から手触りへ変わる場所へ。

 

ヴァールの城壁は、陽を受けて鈍く光っていた。

近づくほど、その壁の色はただの灰色ではなく、たくさんの風と手と時間を吸った石の色に見えてくる。

それは少しだけ、燃え残りの灰にも似ていた。

 

アッシェは歩幅を変えなかった。

関所の街はもう目の前だった。

 

ヴァールは、近づくほど壁の街だった。

 

遠目にはただの灰色の帯に見えた城壁が、歩を進めるにつれて、少しずつ人の手の重さを持ち始める。

積み上げられた石。

継ぎ足された補修痕。

矢を受けたらしい欠け。

雨に削られた目地。

壁というものは、遠くから見ると一つの線だ。

だが近くで見れば、それが何年も何十年も「ここで止める」と言い続けてきた人間の意思の塊だと分かる。

 

ヴァールの城壁は、まさにそういう壁だった。

 

高い。

厚い。

飾りがない。

門楼も、立派というより太い。

華やかさの代わりに、ひたすら“抜かせない”という機能だけを前へ出した建ち方をしている。

 

人を迎える街ではない。

人と物と噂と危険を、いったんここで止めて、量って、通すか返すかを決める街。

中央諸国と北側諸国の境目に置かれた関所都市とは、たぶんこういう顔をするのだろう。

 

門前にはすでに列ができていた。

 

南から来た荷車。

北から戻る毛皮商。

巡礼の一団。

兵站用らしい油樽を積んだ車。

荷の軽い徒歩の旅人。

荷物の割に目だけが重い護衛たち。

 

列は長い。

だが、騒がしくはない。

こういう場所では普通、待たされれば愚痴が出る。

遅い、腹が減った、日が落ちる、荷が傷む。

そういう言葉が少しずつ漏れるものだ。

けれどヴァールの門前では、誰もが必要以上に声を低くしていた。

 

皆、門の上を見る。

門番の手元を見る。

どの荷が止められ、どの荷がすぐ通されるかを見る。

兵が数えているのが車輪の数か、人の数かを見ようとしている。

 

言葉より先に、視線が動いていた。

 

アッシェは列の最後尾へつく前に、一度だけ全体を眺めた。

 

北から来た荷の方が傷んでいる。

それは当然だ。

だが、その傷み方に規則がある。

車輪の片側ばかり泥が濃い。

幌の裂け方が低い。

つまり、街道の途中で片側だけ急に道を外れた車が多い。

何かを避けたのか、何かに押しやられたのか。

そして戻ってきた護衛の数が、荷の量に対して少ない。

 

また“人だけ減っている”。

 

「次」

 

門番の声が飛ぶ。

低く、無駄のない声だった。

何十回も同じ確認を繰り返した声。

同じだが、疲れていないわけではない。

ただ、疲労を混ぜずに仕事へ落とし込める声だ。

 

列が少し進む。

アッシェの前には、毛皮を背負った三人組の男がいた。

北から戻ってきたらしい。

外套の裾に、乾いた泥と、さらにその上へ飛び散った赤黒い染みがある。

古い血だ。

 

門番が一人ずつ見る。

荷を見る。

指先を見る。

腰の刃物を見る。

そのあいだ、三人組の男たちは露骨に苛立ちもせず、妙に素直だった。

早く中へ入りたい時の人間の素直さだ。

 

アッシェの番が回ってきたのは、その少しあとだった。

 

門番は若くない男だった。

髭は短く、目の下に影がある。

鎧の継ぎ革が新しい。

最近どこかを直したのだろう。

あるいは直す暇がなくて、そこだけ急ごしらえなのかもしれない。

 

「名」

 

「アッシェ」

 

「所属」

 

「協会」

 

その一言で、門番の目が少しだけ動いた。

敬意でも嫌悪でもない。

実務的な重さの変化だった。

 

「北へ入るのか」

 

「そうなる」

 

「目的は」

 

「先の方の確認だ」

 

門番はそこで、書きつけへ視線を落とした。

協会筋の簡易通行証。

正規の大仰な派遣令ではない。

いかにも、急ぎの実務案件という感じの薄い紙だった。

 

「魔法使いか」

 

アッシェは少しだけ肩をすくめる。

 

「そう見えるか」

 

門番は、ほんの一拍だけアッシェを見てから言った。

 

「見えねえな」

 

「じゃあ違う」

 

「そういう返しをするやつは、大体何か面倒な側だ」

 

アッシェはそこで、わずかに口元を動かした。

 

「門番の勘か」

 

「長く立ってると身につく」

 

「役に立つのか」

 

「立つ。勘がよくなけりゃ、ここじゃ生き残れない」

 

その返し方が妙に正確で、アッシェは少しだけ本当に笑いそうになった。

だが目の前の門番の顔には、冗談を楽しむ余白が薄い。

笑いに行くより、止めておく方が正しい気がした。

 

「北は静かだ」

 

門番が、不意にそう言った。

 

アッシェは視線だけ上げる。

 

「そうらしいな」

 

「らしい、じゃない。こっちへ戻ってきた連中が、みんなそう言う」

 

門番は通行証を返さないまま続ける。

 

「犬が吠えない。村が戸を閉めるのが早い。子どもが道へ出ない。あれは平和な静けさじゃねえ」

 

アッシェは何も言わなかった。

老人も、礼拝所の神官も、道中の女も、似たことを言っていた。

つまりこれは、偶然ではなく、すでに北の生活そのものに染み出した変化なのだ。

 

「最近はな」

 

門番はさらに声を落とす。

 

「話しかけられた、って戻ってくるやつもいる」

 

「魔族か」

 

「そうだろうよ」

 

門番は短く答えた。

 

「魔物があんなふうに“気の利いたこと”を言えるなら、この世はもっと面倒だ」

 

その物言いが少しだけよくて、アッシェは今度こそ、ほんの少し喉の奥で笑った。

軽い方の顔が、まだここでは使える。

ヴァールは境目だ。

北へ入り込んではいないが、中央からも少し外れている。

そのぶん、人の言葉の重さもまだ完全には戦場のものになっていない。

 

門番はようやく通行証を返した。

 

「中へ入れ。だが日が沈む前に宿を取れ。ヴァールは壁の中でも油断できる街じゃない」

 

「壁の中なら安全だろ」

 

そう返すと、門番は初めて少しだけ口元を歪めた。

 

「安全な壁の街なら、ここまで人の顔は擦り減らねえよ」

 

それはずいぶん正直な言い方だった。

 

アッシェは受け取った紙を外套の内側へ差し込み、門をくぐる。

 

城壁の影が一瞬だけ身体を呑み込む。

明るさが落ち、石の冷えが近くなる。

その短い暗がりを抜けた先で、ヴァールの内側が開いた。

 

 

 

15

 

 

 

ヴァールの中は、思っていたより狭かった。

 

広いのは壁であって、街そのものではない。

街はむしろ、壁の内側へぎりぎりまで押し込まれた感じがある。

低い建物。

石と木で急いで継ぎ足したような軒。

狭い通り。

通りの上を横切る物干し。

兵舎。

馬屋。

鍛冶場。

食糧庫。

市場はあるが、贅沢品の色より兵站の匂いの方が強い。

 

この街は、豊かさのために存在しているのではない。

北を持ちこたえさせるために存在している。

 

それが、一歩入っただけで分かった。

 

人の流れも、中央諸国の都市とは少し違う。

ヴァールでは、誰もがどこかへ“用があって”歩いている。

立ち話が少ない。

歩きながら周囲を見る者が多い。

子どもはいるが走り回らない。

兵と民の歩き方が、あまり変わらない。

皆、目線の端で門と荷車と壁の上を見ている。

 

関所都市とは、人が安心して腰を落ち着けるための街ではなく、

行き交うものを一度止めるための器なのだと、アッシェは思った。

 

彼はまず、門からそう遠くない宿兼酒場へ入った。

 

こういう街では、いちばん人の話が落ちる場所はたいてい酒場だ。

特にヴァールのような関所都市では、兵も商人も帰還者も、結局一度はどこかの卓へ腰を下ろす。

そして、人は疲れている時ほど喋る。

黙っていたことを、酒の温度に押し出されるように。

 

酒場の中は、昼を少し過ぎたばかりだというのに、もう半分ほど埋まっていた。

 

北から戻ったらしい毛皮商。

荷運び。

鎧を脱ぎきらない兵。

南から上がってきた油売り。

顔の浅黒い傭兵崩れ。

皆、声を出してはいる。

だが笑い声の底が浅い。

楽しいから笑うというより、張りつめすぎた空気に継ぎ目を作るために笑っている感じだ。

 

「泊まり?」

 

カウンターの女が聞く。

 

「今は酒と何か食えるもの」

 

「珍しいわね。聖都上がりみたいな顔して、いきなり酒場」

 

「神殿の方が似合ったか」

 

女はそこで小さく鼻を鳴らした。

 

「そっちへ行く人は、もっと疲れた顔してる」

 

「じゃあ、ここで合ってるな」

 

そのやり取りで、女の口元がほんの少しだけ緩む。

これもアッシェの覚えた軽い顔の使い方だった。

相手の仕事の邪魔にならない程度に口を返し、ほんの少しだけ“話の通じる客”に見せる。

 

だが、そうしている自分が本当なのかどうかは、今でも分からない。

 

杯と皿が置かれる。

アッシェがそれに手をつけていると、斜め後ろの卓から声が聞こえた。

 

「……いや、本当に見たんだって」

 

若い男の声だった。

張りがある。

でも、無理に張っている感じもある。

 

「またそれかよ」

 

年上の男が返す。

 

「見たって、何をだ」

 

「使者だよ。和睦の使者」

 

アッシェは食事の手を止めなかった。

だが意識は少しだけそちらへ向く。

 

若い男は、北から戻ってきた護衛らしかった。

外套の肩口が浅く裂けている。

傷は深くない。

死線を潜ったというより、死線の端へ触れて戻った顔だ。

 

「グラナト伯爵領へ入る手前で見た」

 

若い男が続ける。

 

「三人いた。若い魔族とちっちゃい小娘みたいな魔族だ。で、先頭の男が……妙なんだよ」

 

「妙?」

 

「感じがいいんだ」

 

その表現に、酒場の中で何人かが顔を上げた。

感じがいい、という言葉は、今この場所で一番似合わない単語の一つだったからだ。

 

若い男は手振りまで交えて言う。

 

「髪は薄い色だった。金っていうには淡すぎる。乾いた藁みたいな、灰の混じった金。服はきちんとしてて、姿勢も良くて、貴族みたいでさ」

 

「で、感じがいいのか」

 

「最初はな」

 

若い男はそこで言葉を切った。

 

「でも見てるうちに、何か変なんだ。笑い方がずっと同じで、優しそうに見えるのに、“優しそうに見えるように真似してるだけ”って感じになる」

 

それは、ひどくうまい言い方だった。

 

アッシェは杯を持ち上げたまま、ほんの少しだけ視線を落とす。

淡い金髪。

感じがいい。

貴族めいている。

優しさを真似している。

北へ向かう線の上に、その証言がまた一つ、きれいに重なる。

 

「何て言った」

 

別の卓から声が飛ぶ。

 

若い男は嫌そうに口元を歪めた。

 

「“無益な殺し合いを避けたい”ってさ。“人間も魔族も、長い戦いで疲れている。これ以上の血を流して何になる”って」

 

酒場の空気がわずかに沈む。

 

「……続けろ」

 

年上の男が低く言う。

 

「“伯爵が門を閉ざし続けるから、余計に人が死ぬ”“結界なんてものに頼るから、恐れが残る”“疑いを捨てれば終わる”だってさ」

 

カウンターの女が、アッシェへ酒を注ぎ足しながら小さく言う。

 

「ね。最近の北は、こんなのばっかり」

 

「いつからだ」

 

アッシェが聞く。

 

女は布巾で手を拭きながら答えた。

 

「和睦使者の話が回り始めたのは、ここ数日。でも街道が変になったのは、その前からよ。戻ってくる荷車の護衛が減ってたり、御者が片方だけいなくなってたり、北へ向かう人間がみんな“夕方が嫌だ”って顔したり」

 

「夕方?」

 

「ええ」

 

女は少しだけ目を細める。

 

「日が落ちる前が、一番静かになるんですって。村も、街道も。皆、息を殺して待つから」

 

それは、道中の女が言っていたことと同じだった。

一人の印象ではなく、土地の感覚として広がっている。

 

「ヴァールはまだましよ」

 

女が続ける。

 

「壁があるから。兵も多いし、人の数もある。でも向こう側は違う。向こうは、静かさがそのまま不安になる」

 

アッシェは短く頷いた。

 

「北へ行くの?」

 

「そうなる」

 

「やめとけ、とは言わない」

 

「言わないのか」

 

女は肩をすくめた。

 

「そういう顔してるもの」

 

アッシェは少しだけ眉を動かす。

 

「どんな顔だ」

 

「止めても行く顔」

 

その言い方が、礼拝所の神官や道中の女と同じで、少しだけ可笑しかった。

同じことを三度言われると、さすがに本当らしく聞こえる。

 

「嫌な見方するな」

 

「酒場の女はだいたい嫌な見方するのよ」

 

「役に立つのか」

 

「立つわ。そうじゃなきゃ、ここで何年も商売できない」

 

そこへ、さっきまで使者の話をしていた若い護衛が立ち上がってきた。

杯を持ったまま、少し躊躇うようにアッシェの隣へ寄る。

 

「協会か?」

 

唐突な問いだった。

だが、この街では珍しくないのだろう。

協会の人間が来れば、誰かが期待と警戒の半分で声をかける。

 

「そうだ」

 

アッシェは答える。

 

若い護衛は、そこで少し息を吐いた。

 

「だったら一応言っとく。あの使者、赤髪じゃない。妙に薄い色だ。陽が弱い朝の藁みたいな……」

 

「淡い金」

 

アッシェが言う。

 

「そう、それだ」

 

「貴族みたいな顔か」

 

若い護衛の目が少しだけ見開く。

 

「見たのか?」

 

「まだだ」

 

「じゃあ、何で」

 

アッシェは少しだけ肩をすくめた。

 

「同じ話をするやつが多い」

 

それだけで、若い護衛は妙に納得した顔になった。

人は、自分の見たものが他人の証言と噛み合うと、それだけで少し楽になる。

自分だけが変なものを見たのではないと思えるからだ。

 

「気をつけろよ」

 

若い護衛は最後にそう言った。

 

「感じがいいやつほど、向こうじゃろくでもない」

 

アッシェは杯を少しだけ上げる。

 

「覚えとく」

 

その短い動作だけで、会話は終わった。

深く続ける必要はない。

続ければ、この男の中に残った怯えや、ここへ戻ってきたことへの後ろめたさまで引っ張り出すことになる。

そこまで触る必要はなかった。

 

夕方までヴァールにいたあいだ、アッシェはあと二、三の話を拾った。

 

北から戻った塩の荷が、途中で護衛を一人欠いたこと。

グラナト伯爵領周辺では、最近“門”と“結界”という言葉がやけに人の口に上ること。

そして、使者はただ伯爵領へ入っただけではなく、その周辺でわざと噂になるよう動いているらしいこと。

 

それだけで十分だった。

 

和睦は提案ではない。

空気の工作だ。

門を開ける前に、まず人の気持ちを少しずつ緩める。

十年続いた戦いの内側へ、“終わるかもしれない”という言葉を滑り込ませる。

あまりにも、性格が悪い。

 

「面倒だ」

 

酒場を出る時、思わずそう漏れた。

 

カウンターの女が笑う。

 

「また来てちょうだいよ」

 

アッシェは振り返らずに片手だけ上げた。

その仕草が自然だったのか、擬態だったのか、自分でも分からなかった。

 

 

 

16

 

 

 

夜のヴァールは、聖都とは違う意味で眠りが浅い。

 

壁の上を歩く兵の足音。

馬屋の気配。

遅れて入ってくる荷車の軋み。

門が閉まる音。

鍛冶場の火が完全には落ちきらない赤さ。

関所都市は、夜になっても完全には閉じない。

閉じれば、そのあいだにどこかで何かが詰まるからだ。

 

宿の寝台に横になりながら、アッシェはヴァールの音を聞いていた。

 

ここはまだ中央諸国ではある。

でももう、中央の眠り方ではない。

境目の街の眠り方だ。

片目を開けたまま、門の音を待つような眠り方。

 

胸の奥に、またあの声が揺れた。

 

"強い子に生まれますように"

"その強い体があなたを守ってくれますように"

 

アッシェは目を閉じたまま、小さく息を吐く。

 

ヴァールの内側までは、まだ軽口を使える。

まだ人の輪の端で、話の通じる顔をしていられる。

でも門を越えたら、それはもう少し減るだろう。

向こう側では、必要なのは人に馴染むための顔より、線を拾い、死の形を読み、近づき、壊す方の自分だ。

 

その時、どちらが本当なのか。

分からないままでも進むしかない。

 

"そしてその強い体をもって、あなたが人を助けれますように"

 

「……分からん」

 

今夜はそれだけ言った。

反発でもなく、受容でもなく、ただ事実のように。

 

助けるためなのか。

殺すためなのか。

まだ線は引けない。

でも、明日には少なくとも“噂”ではなくなる。

 

ヴァールの東門を越えた瞬間から、話は土地の上へ出る。

静かすぎる村。

人だけ減った荷車。

首のない死体。

死体兵の運用痕。

そのすべてが、もうすぐ噂の外側に現れる。

 

眠りは浅かった。

だが、朝は来る。

 

 

 

17

 

 

 

翌朝、東門はまだ影の色をしていた。

 

門楼の上には弓兵。

槍の穂先は鈍く光り、空気は聖都より一段低い。

ヴァールの外へ出る列は少なかった。

戻る者より、出る者の方が少ないのは当然だ。

北へ入るということは、それ自体が少しずつ勇気の要ることなのだろう。

 

昨日の門番が、今朝も立っていた。

 

「早いな」

 

「そっちもな」

 

「仕事だからな」

 

「こっちも似たようなもんだ」

 

門番は通行証を見てから、アッシェの顔を見る。

 

「北の村じゃ、日が傾く前に泊まれる場所を探せ」

 

「夜が危ないのか」

 

「夜も危ない。でも最近は、夕方の方が嫌だって戻ってくるやつが多い」

 

道中で聞いたのと同じだ。

土地が違っても、皆そこを怖がる。

 

「何でだ」

 

門番は槍の石突きを地面へ軽く当てる。

 

「皆、息を殺して待つからだとよ」

 

「待つ?」

 

「来るかもしれないものを」

 

それ以上の説明はいらなかった。

 

門番は紙を返し、最後に一言だけ付け加える。

 

「向こうへ行けば、もう噂じゃ済まねえ」

 

アッシェは短く頷いた。

 

「知ってる」

 

「ならいい」

 

門が開く。

石の影を抜ける。

ヴァールの壁が背中へ回る。

そして、その一歩で世界の質感が変わった。

 

風が少し薄い。

音が遠い。

同じ朝なのに、空気の中の人の気配だけが一枚薄くなる。

中央諸国の延長ではない。

北側諸国へ入ったのだと、体の方が先に理解する。

 

軽い顔は、ここから先、少しずつ剥がれるだろう。

人の輪へ半歩だけ入るための言葉より、静かな方が前へ出る。

狩人みたいに静まり、線だけを拾う自分。

 

それが本当なのか、必要だからそうなるだけなのか、やはりまだ分からない。

 

それでも、足は止まらなかった。

 

ヴァールの東門は、ゆっくりと背後で閉じていく。

中央諸国と北側諸国の境目が、一枚の石として背中へ降りる。

 

アッシェは北を向いた。

 

ここから先は、もう“感じのいい使者の噂”だけでは済まない。

土と血と、首を落とされた死体と、死体兵の列が答えになる。

 

それを確かめるために、自分はここまで来たのだ。

 

ヴァールの東門を越えた瞬間、風が変わった。

 

寒さが急に増したわけではない。

空の色だって、昨日までの中央諸国とそう劇的に違うわけではない。

それでも一歩外へ出た時、アッシェははっきり分かった。

ここから先は、もう「同じ大陸の延長」ではない。

 

ヴァールの内側まで届いていた人の気配が、そこで一枚だけ薄くなるのだ。

 

街道はある。

轍もある。

補修の跡もある。

それでも、道の上を満たしていた“人の生活の密度”だけが、門を越えたところで急に引く。

 

ヴァールまでは、人の手が行き届いている道だった。

道は使われ、直され、毎日何かが運ばれていた。

人の都合が、道そのものに染み込んでいる。

 

だがヴァールの外側では、同じ街道であっても意味が少し違う。

ここから先の道は、人が暮らしのために使うものというより、持ちこたえるために、何とか保っているものに近い。

壊れたら困る。

閉ざされたらもっと困る。

だから手は入れる。

けれど手を入れる余裕は少ない。

 

道の肩へ寄せられた砂利が荒い。

轍の埋め戻しが浅い。

草を刈った跡も、中央諸国のそれより雑だ。

雑というより、急いでいる。

どこか別の場所も同時に崩れかけているから、ここだけを丁寧に整えていられないのだ。

 

アッシェは歩きながら、その“急いで保っている”感じを足の裏で拾っていた。

 

風は広い。

空は高い。

中央諸国の街道に比べれば、景色の余白が多い。

その余白は、本来なら美しさになるはずのものだった。

でも今の北側諸国では、その余白がそのまま不安に見える。

人の手が薄い。

薄いから、その外側に何かが滲み込んできやすい。

 

午前のあいだに二組の荷車とすれ違った。

 

一組はヴァールへ戻る毛皮商。

もう一組は、北へ向かう塩と油の車だ。

どちらの荷も、それぞれの方向にふさわしい。

けれど、どちらの顔もよくなかった。

 

毛皮商の方は、人の数が荷の重さに対して少ない。

本来なら護衛がもう一人いてもいい積み方をしている。

北へ向かう方の護衛たちは、逆に人数は揃っていたが、視線が前へ行かない。

道の先を見るより、左右の林と草の陰を気にしている。

まだ襲われてはいない。

だが、襲われる想像だけは皆もう持っている。

そういう顔だ。

 

アッシェは彼らに声をかけなかった。

こういう顔をしている人間は、無理に話しかけると余計なものまでほどけることがある。

今はそれより、土地の静けさの方を読むべきだと感じていた。

 

昼近く、最初の村が見えた。

 

村といっても小さい。

十軒か、十五軒。

畑。

井戸。

羊小屋。

干し草を積んだ納屋。

それだけがぽつぽつと固まっている。

北側諸国では珍しくない、街道沿いの小村だ。

 

遠目に見て、最初におかしいと思ったのは、犬の声がしないことだった。

 

犬はいる。

柵の内側に影が見える。

納屋の陰にも何か動く気配がある。

それでも吠えない。

人影が近づいた時に、犬が完全に黙ることは普通あまりない。

低く唸るなり、短く吠えるなり、何かしらの音を立てる。

それがない。

 

それだけなら、躾のいい村で済む。

だがこの村は、それだけではなかった。

 

井戸の桶が揺れていない。

畑に人がいない。

洗濯物は出ているのに、干し方が妙に急いでいる。

家の戸は閉め切っていないが、どれも半端に開いていて、**“何かあればすぐ閉められる位置”**で止まっている。

子どもの姿は見えない。

いや、見えないのではなく、見せていないのだろう。

家の影に押し込めている気配がある。

 

「……静かだな」

 

思わず口に出た。

 

その声に反応したのか、一軒の戸口に人影が立った。

 

女だった。

若くはない。

だが老いてもいない。

腕はまだ太く、肩も落ちていない。

長く働いてきた女の体だ。

ただ目の奥に、ここしばらく眠りが浅い人間の影が濃い。

 

女は戸を全開にはしなかった。

半分だけ。

その半分の隙間から、アッシェをまっすぐ見る。

 

「旅の人かい」

 

「そうだ」

 

「ヴァールから?」

 

「来た」

 

「北へ?」

 

「たぶんな」

 

女はそこで、ほんの少しだけ眉を動かした。

 

「“たぶん”で来る顔じゃないね」

 

アッシェは少し肩をすくめた。

 

「じゃあ、行く」

 

その返しに、女の口元が一瞬だけ動いた。

笑った、というほどでもない。

でも、人間の会話の形に一度だけ乗った顔だった。

 

「やめとけ、とは言わないよ」

 

「言わないのか」

 

「言っても行くだろ」

 

「そうだな」

 

短いやり取り。

それだけで、村の空気がほんのわずかに緩む。

こういう時、アッシェはまだ軽い顔を使える。

人に馴染むための、半歩だけ輪へ入るための顔。

でも、それが自然なのか擬態なのかは、やはり分からない。

 

女は戸を半分開けたまま言う。

 

「何を聞きたい」

 

「最近、何があった」

 

女はそれにすぐ答えず、村の奥を一度見た。

視線の先に、閉じた戸が三つあった。

そこに誰かがいるのだろう。

あるいは、もういないのかもしれない。

どちらにしても、その視線にははっきりした重みがあった。

 

「大したことはないよ」

 

女はようやく言った。

 

「大したことない?」

 

「静かになっただけさ」

 

アッシェは村をもう一度見た。

 

「犬が吠えない」

 

「ええ」

 

「子どもが出ない」

 

「出さない」

 

「戸を閉めるのが早い」

 

「そう」

 

「日が落ちる前に、皆家へ引っ込む」

 

女はそこで、初めてはっきり頷いた。

 

「夕方がいちばん嫌なんだよ」

 

その言い方に、アッシェは少しだけ目を細めた。

 

「なぜだ」

 

女は答える前に、水の入っていない桶を持ち上げ、また下ろした。

手持ち無沙汰なのではない。

言葉を探す時間を、その動作で埋めているのだ。

 

「暗くなる前が、いちばん静かになるからさ」

 

「静かになる?」

 

「そう。皆、息を殺して待つんだよ。来るかもしれないものを」

 

その一文は、説明ではなく、経験だった。

理屈ではなく、体がもうそう覚えてしまっている人間の言葉。

 

アッシェはそれ以上、そこを深掘りしなかった。

必要なのは“なぜ怖いか”の理屈より、“何を怖がっているか”の形だ。

 

「使者が来たか」

 

今度はまっすぐ聞いた。

 

女の目の奥が、そこでほんの少しだけ沈んだ。

嫌なものを飲み込んだ時みたいな変化だった。

 

「来たよ」

 

「何人だ」

 

「三人」

 

ヴァールと同じ数。

噂ではなく、動いている線だ。

 

「小僧みたいなのに、小娘が一人、先頭の男は、淡い色の髪だった」

 

女は声を落とした。

 

「金とも違う。薄い朝の藁みたいな色で……感じのいい顔をしてた」

 

「よく笑うか」

 

女が少しだけ顔を上げる。

 

「見たのかい」

 

「まだだ」

 

「じゃあ、よく分かるね」

 

アッシェは、そこで少しだけ口元を動かした。

 

「感じのいいやつほど、だいたいろくでもない」

 

その返しに、女は今度こそはっきり笑った。

笑ったが、すぐに消えた。

笑いが長く持たない。

それがこの村の今の深さだった。

 

「“和睦”だって言ってた」

 

女が言う。

 

「“これ以上、無益な血を流したくない”“争いを終わらせる道はある”“伯爵が門を閉ざすから余計に死ぬ”“結界に頼り続ける方が、恐れを長引かせる”そんなことを」

 

アッシェの視線が、村の戸口の並びに流れた。

 

この村に門はない。

結界もない。

つまりここでその言葉を落としていく意味は、村そのものにはない。

もっと北。

もっと大きな城壁都市。

つまり、使者はわざわざ周辺へも“和睦”という空気を撒いているのだ。

 

「街へ行くのか」

 

女が言う。

 

「たぶんな」

 

「グラナト伯爵領へ?」

 

アッシェはそれにすぐ答えなかった。

否定もしなかった。

それだけで、女には足りたらしい。

 

「危ないよ」

 

今度のその声は、さっきまでよりずっと素直だった。

警戒も駆け引きもなく、ただ土地の人間として言わずにいられない種類の言い方だった。

 

「危なくないと思って来たわけじゃない」

 

「そういう意味じゃない」

 

女は少し苛立ったように言った。

その苛立ちは、アッシェ個人へ向けたものではない。

危険を知ってなお進む人間に向けるしかない、どうしようもない苛立ちだ。

 

「ただ魔族がいるから危ないんじゃない。長く戦って、長く耐えて、もう皆疲れてるんだよ。そういうところへ“終わるかもしれない”なんて言葉が来たら、強い人間だって少しは揺れる」

 

その言葉は、協会実務が危惧していたことと同じだった。

ただ、紙の上の判断と違って、こちらはもっと生々しい。

 

「伯爵様が騙されるとは思わないよ」

 

女は続ける。

 

「でも、兵も、家の人も、町の人も、皆がみんな同じだけ強いわけじゃない。十数年やれば、心は痩せる」

 

十年。

その数字が、村の女の口から普通のものとして落ちる。

それだけで、この土地がどれだけ長く削られてきたかが分かった。

 

「猟師が一人、戻ってない」

 

女が不意に言った。

 

「森の奥の方へ入ってた人だ」

 

アッシェの視線が少し動く。

 

「いつから」

 

「先月」

 

「何を見に行った」

 

「獲物を追って」

 

女は首を振った。

 

「でも、昔からあの人は言ってたよ。森の奥に古い石があるって。昔の城だか、貴族の館だか、そんなものの残りが」

 

古城。

森の奥。

猟師が消える。

まだそれだけでは弱い。

だが、街道に運用痕が出るのだとすれば、本隊はもっと人目から遠いところにあるはずだ。

その感触と噛み合う。

 

「その猟師は、どの方角へ?」

 

女は村の北東を顎で示した。

 

「あっち。でも行かない方がいい。今の森は、前より近い」

 

その言い方がよかった。

森が“近い”。

距離ではなく、気配の話だ。

街道の上まで、森の側の論理が滲み出てきている。

 

「……そうか」

 

アッシェは短く答えた。

 

女はしばらく彼を見ていたが、やがて言う。

 

「助けてくれ、とは言わない」

 

その一言で、アッシェは少しだけ顔を上げた。

 

普通なら、そう言う場面だ。

北へ向かう協会筋の人間。

腕も立ちそうな男。

村は静かで、人は疲れていて、危険は近い。

なら「助けてくれ」と言えばいい。

 

けれど女は、そう言わない。

 

「どうしてだ」

 

女は戸口へ手をかけたまま答える。

 

「言ったら、あんたがここへ残る顔をするかもしれないだろ」

 

アッシェは何も言わなかった。

 

「でも、あんたが見るべきなのは、うちみたいな小さい村じゃない。もっと北だ。もっと大きいところだ」

 

女の目は、村の戸口の向こうではなく、もうその先を見ていた。

 

「グラナト伯爵領へ行くなら、行きな」

 

それは頼みではなかった。

許しでもない。

ただ、この土地の人間が現実の重さを量った末に出すしかなかった言葉だった。

 

「ああ」

 

アッシェはそう答えた。

 

その返事の時、軽い顔はもうほとんど出ていなかった。

必要なら使える。

けれど北へ深く入るほど、それは出しにくくなる。

人に馴染むための言葉より、線を拾うための静けさの方が体に近くなる。

 

女は最後に一度だけ言った。

 

「夕方までに、村を二つ越えな」

 

「何で」

 

「一つ目で泊まれると思うと、二つ目で死ぬからだよ」

 

その言い方は、理屈ではなく経験だった。

アッシェは頷き、村を出た。

 

背中に女の視線がしばらく残っていた。

頼らなかった人間の視線は、頼った人間のものより重いことがある。

 

 

 

18

 

 

 

高台へ出た時、最初に見えたのは壁ではなく、影だった。

 

夕方の光はもう少しで傾ききるところで、低い日が北側諸国の空を斜めに裂いていた。

その中で、グラナト伯爵領の城壁は鈍い石の塊として立ち上がり、その足もとから長い影を野に引いている。

塔の影。

壁の影。

門楼の影。

それらは一本ずつ地面へ落ちているのに、遠目には全部が一つの暗さに溶けて見えた。

 

防ぐための都市。

耐えるための都市。

十年という時間を、削られながらもまだ立ったまま受け止めてきた都市。

 

アッシェは高台の上で足を止めた。

 

ここまで来るあいだにも、静かすぎる村を見た。

首を失った死体も見た。

死体兵の運用痕も拾った。

和睦使者の噂は、ヴァールの中と外で何度も聞いた。

それでも、こうして城壁を目にした瞬間に初めて、今までの線が全部“ここへ集まっている”と分かる。

 

グラナト伯爵領。

 

ここが、長く続いた戦いの芯だ。

周辺の村は皮膚で、街道は血管だ。

だが心臓はここにある。

使者が周辺を回るのも、死体兵が街道を削るのも、全部この壁の内側へ届くためだ。

 

風が吹く。

 

高台の草が一斉に低くなる。

その風の中に、まだ血の匂いはない。

だが匂いより深いところで、緊張だけがすでに分かる。

人がたくさんいる場所には、独特の張り詰め方がある。

平和な都市のそれはざわめきへ溶ける。

だが、いつ崩れるか分からない都市の緊張は、外にまで薄く滲み出る。

 

「……ようやくか」

 

独り言みたいにそう言って、アッシェは高台を下りた。

 

門前は、静かなのに騒がしかった。

 

人の数そのものは多くない。

だが少ない人のすべてが、どこか過剰に武装している。

門の前には厚い甲冑を着込んだ衛兵が並び、その内側にも槍を持つ兵がいる。

見張りの数が多い。

門楼の上にも弓兵。

弓が使える位置に立つ者が、日暮れ前だというのに交代せず残っている。

 

一方で、人通りは薄い。

露店も出てはいるが、数が少ない。

野菜は並ぶ。

乾物もある。

だが店主たちは声を張らない。

客も立ち止まるより、必要なものだけ買って早く去ろうとする。

路地の先にあるはずの子どもの声が、表まで流れてこない。

 

和睦の使者が来ているのなら、本来なら町は少しだけ緩んでもよさそうなものだった。

長く続いた戦いに、もしかしたら終わりが見えるかもしれない。

人がそう考える余地はある。

だが、門前の空気は少しも緩んでいなかった。

 

むしろ逆だ。

“話し合いが始まったかもしれないからこそ、余計に何かが起きそうだ”

という張りがある。

 

衛兵の一人が、石段を上がってきたアッシェを見て槍を少しだけ立てた。

 

「止まれ」

 

声に無駄がない。

だが緊張が乗っている。

この数日、同じように「止まれ」と言い続けてきた声だ。

 

アッシェは止まる。

両手は見える位置。

敵意のない立ち方。

ただし、隙は見せない。

 

「名は」

 

「アッシェ」

 

「用件は」

 

「協会から来た」

 

それだけで、衛兵の目がわずかに変わった。

一気に通すわけではない。

だが、ただの旅人や傭兵崩れではないと分かった目だ。

 

「協会?」

 

「ああ」

 

「大陸魔法協会か」

 

「他に何がある」

 

その返しに、近くの若い兵が一瞬だけ眉を動かした。

不遜に聞こえたのかもしれない。

だが槍を構えた年長の衛兵は、それを咎めなかった。

むしろ、少しだけ値踏みするようにアッシェを見る。

 

「魔法使いには見えんな」

 

アッシェは肩をすくめた。

 

「よく言われる」

 

「そうだろうな」

 

年長の衛兵は答えると、脇の兵へ合図した。

 

「中へ伝えろ。“協会から来たアッシェ”だと」

 

若い兵が走る。

石畳を打つ足音が、妙に大きく響いた。

 

「待て」

 

年長の衛兵が言う。

 

アッシェは門の脇へ寄せられる。

槍は下りない。

当然だ。

和睦使者が来ている時に、外から来た協会筋の人間を何も確認せず通すわけがない。

むしろこの警戒は正しい。

 

「待つのは慣れてる」

 

アッシェが言うと、衛兵は少しだけ口元を動かした。

 

「そう見えるな」

 

「お前は眠れてなさそうだ」

 

衛兵の目が一瞬だけ細くなる。

 

「余計なことまで見えるか」

 

「見える」

 

「協会の芸か」

 

「たぶん違う」

 

そのやり取りを交わしているうちに、アッシェの視線は門内の町へ流れていく。

 

城門からまっすぐ伸びる通りは広い。

だが広さのわりに、人の流れが少ない。

荷車は動いている。

物は運ばれている。

けれど、それが“暮らしの賑わい”には見えない。

兵站だ。

必要最低限を回しているだけの流れに見える。

 

露店には、傷んだ林檎と乾いた根菜が少し。

布を売る店も開いているが、派手な色は表へ出していない。

鎧屋の前には、補修待ちの甲冑が二領。

その横で、衛兵が胸当てを着たまま歩いている。

通常なら甲冑を脱いでいていいような場所でも、誰も完全には軽くなっていない。

 

町は生きている。

だが、生活が半歩だけ戦時へ寄っている。

 

「和睦の噂がある割には、静かだな」

 

思わずそう漏れる。

 

衛兵は槍を持ったまま答えた。

 

「噂は人を安心させることもある。だが、悪い噂は逆だ」

 

「使者はいつ来た」

 

「それを外の人間に簡単に喋ると思うか」

 

「思わん」

 

「なら聞くな」

 

その返しが少しだけよくて、アッシェは喉の奥で小さく笑った。

軽い顔はまだ使える。

だが、門の中の空気に触れるほど、その軽さは少しずつ引いていく。

 

やがて、さっきの若い兵が戻ってきた。

 

「伯爵がお会いになる」

 

衛兵の顔がさらに引き締まる。

アッシェはそこで初めて少しだけ視線を上げた。

 

すぐ通すのではなく、“会う”のだ。

つまり伯爵は、外から来た協会の人間を単なる補助術者としてではなく、判断材料の一つとして扱うつもりらしい。

その時点で、こちらの価値は十分だ。

 

「ついてこい」

 

若い兵が言う。

 

アッシェは門をくぐった。

 

城壁の内側へ入ると、町の疲れはさらによく見えた。

 

門前から見ていた時より、近くで見た方がむしろ賑わいの乏しさが際立つ。

通りには人がいる。

でも皆、足を止めない。

余計な立ち話をしない。

買い物をする手つきまで急いでいる。

誰もが、日が落ちる前に自分の家か仕事場へ戻りたがっているように見える。

 

衛兵は多い。

それも、見せかけの巡回ではない。

目の動きが、飾りの兵のそれではなかった。

道の角、屋根、窓、群衆の流れ、そして門。

常に何かを確認している。

 

小さな広場を横切る時、一人の子どもが路地の陰から顔を出しかけて、すぐ引っ込んだ。

その後ろで、母親らしい女の手が腕を引いたのが見えた。

あれは日常のしつけではない。

見せないようにしている動きだ。

 

若い兵が先を歩く。

案内というより、監視だ。

それでいい。

今この城壁の内側で、不用意に自由に歩かれていい人間などいない。

 

「街は疲れてるな」

 

アッシェが言う。

 

若い兵は振り返らずに答えた。

 

「十数年戦えばな」

 

その返答に飾りがなかったのが、むしろ印象に残った。

この町では十年という言葉が、もう説明を要しない重さで流通しているのだ。

 

「それでも和睦を信じるやつはいるか」

 

今度は兵の足が、ほんのわずかにだけ鈍った。

 

「……いる」

 

低く、絞るように言う。

 

「いるが、口には出さない」

 

「出せば?」

 

「怒鳴られる。殴られる。あるいは、泣かれる」

 

その最後の一言が、町の深さをよく表していた。

 

アッシェはそれ以上聞かなかった。

もう十分だ。

“和睦を信じるかどうか”が問題なのではない。

信じたいと思ってしまうほど、皆もう疲れていることが問題なのだ。

 

 

 

19

 

 

 

伯爵の館は、城というより石の牙城だった。

高くもあるが、同時に厚い。

無駄な装飾は少ない。

窓も狭い。

見栄より防御を優先している建ち方。

そこに通されるまでのあいだ、さらに二度身分確認があった。

 

最後の扉の前で、若い兵が初めて振り返る。

 

「失礼のないように」

 

「善処する」

 

兵はそれを聞いて、かなり微妙な顔をした。

 

「その言い方、失礼がない感じがしないんだが」

 

アッシェは少しだけ肩をすくめる。

 

「口より先に手が出る方じゃない」

 

「それは今、全然安心できる言い方じゃない」

 

その返しに、アッシェは少しだけ口元を歪めた。

だが扉が開くと、その軽さはきれいに引いた。

 

グラナト伯爵は、立ったまま待っていた。

 

椅子へ座って迎えるより、先に立って相手を見る。

それだけで、この男がまだ完全には折れていないことが分かる。

 

年を取っている。

若くはない。

だが老いきってもいない。

肩は広く、背は落ちていない。

十年の戦いは人を削る。

その削りを受けた顔だ。

けれど芯まではまだ届いていない。

そういう目をしていた。

 

「協会の人間か」

 

伯爵が言う。

 

「アッシェです」

 

「聞いている」

 

伯爵はアッシェを頭から足まで一度見て、それから口元だけでわずかに笑った。

 

「……魔法使いには見えんな」

 

「よく言われます」

 

「だろうな」

 

それで最初のやり取りは終わった。

互いに、余計な探りを入れない。

それが逆に、今の状況の切迫をよく示していた。

 

伯爵は部屋の中程を示す。

 

「座れ」

 

アッシェは椅子に腰を下ろした。

若い兵は扉の外へ出る。

部屋の中には伯爵と、壁際に控える側近が二人。

窓は閉じている。

蝋燭の火は静かだ。

 

「協会はどこまで知っている」

 

伯爵が先に聞いた。

 

アッシェは短く答える。

 

「長期戦。結界。不死の軍勢。和睦使者の噂」

 

伯爵はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。

 

「噂、か」

 

「現地協会筋から急報が入りました」

 

「私からではない」

 

「承知しています」

 

その一言で、伯爵の視線が少しだけ変わった。

試すようなものから、話の分かる相手を見る目に。

 

「儂は、和睦の件で泣きついたわけではない」

 

「はい」

 

伯爵はそこで初めて、椅子へ腰を下ろした。

 

伯爵は椅子へ深く腰を下ろし、しばらく黙っていた。

その沈黙は、言葉を選ぶためというより、長いあいだ胸の底へ沈めてきたものを、今さら掘り返すための時間に見えた。

 

部屋の中には火の音だけがある。

窓は閉ざされ、外のざわめきもここまでは届かない。

けれど静かであるほど、壁の向こうに兵と町と結界があることが分かる。

この部屋だけが世界から切り離されているわけではない。

むしろ逆で、ここで口にすることの一つ一つが、壁の向こうの重みに繋がっている。

 

「断頭台のアウラ」

 

伯爵は低く言った。

 

「七崩賢の一人だ。そして、十年前からこの地を削り続けている化け物でもある」

 

アッシェは黙って聞いていた。

首切り。

死体兵。

和睦の使者。

ここまで拾ってきた線が、その名の上でようやく一つの形になる。

 

伯爵は続ける。

 

「だが、あれが最初にこの地へ来たのは十年前ではない」

 

その一言で、空気の質が少し変わった。

 

「勇者ヒンメルがまだ生きていた頃だ」

 

伯爵はそう言って、目をほんのわずかに伏せた。

懐かしむ顔ではない。

むしろ、思い出すこと自体が少し不快であるような顔だった。

 

「奴は昔にも一度、この地へ攻め入った。今ほど力を取り戻す前だ。だが、あの時たまたま、勇者ヒンメルたちがこの近くにいた」

 

一拍。

 

「偶然に近い話だ。我々は彼らに助けを求め、奴はこの地で勇者一行とぶつかり、そして敗れて退いた」

 

その“敗れて退いた”という言い方に、伯爵は意図的な重さを乗せていた。

討たれたのではない。

打ち勝ったのでもない。

だが、逃げたのだ。

それがアウラにとって、どれほど耐え難い記録として残ったかを、伯爵はよく知っているのだろう。

 

「それから長いあいだ姿を消した」

 

伯爵は言う。

 

「傷を癒やし、力を蓄え、軍勢を整えた。そして戻ってきた。最初はゆっくりと。街道を削り、村を削り、死者を集め、こちらの兵を摩耗させる形でな」

 

アッシェはそこで、ようやく一つ口を挟んだ。

 

「ただ街を落としたいなら、もっと雑なやり方もあります」

 

伯爵はすぐ頷いた。

 

「ある」

 

言い切る。

 

「結界の外縁を乱暴に壊し、術式同士を食い違わせる。守りを崩すだけなら、あれほど回りくどい真似をせずとも方法はある。結界事故のような形で街ごと吹き飛ばすことも、理屈の上ではできるだろう」

 

そこで伯爵は、机の端に置いた自分の拳へ一度だけ目を落とした。

 

「だが、奴はそうしない」

 

「なぜ」

 

アッシェの問いに、伯爵はゆっくり顔を上げる。

 

「勝ちたいからだ」

 

短い言葉だった。

だがその中に、十年見続けてきた相手への理解がよく詰まっていた。

 

「アウラは都市を壊したいのではない。少なくとも、それだけでは足りない。奴が欲しいのは“この地が滅んだ”という結果ではなく、“この地がアウラに敗れた”という形だ」

 

伯爵の目は冷たかった。

怒りを通り越し、長く観察しすぎた相手にだけ向ける種類の冷たさだ。

 

「昔、ここで勇者に退かされた。その事実があれの中には残っている。だから、ただ吹き飛べばいいわけではない。門が開き、結界が落ち、人間が恐れ、迷い、そして最後に自分の死者の軍勢がこの街へ踏み込む――そういう形で落ちてほしいのだ」

 

伯爵はそこで、ほんのわずかに唇を歪めた。

 

「要するに、上書きしたいのだろうよ」

 

その一言は、妙に静かだった。

 

「昔の敗走を。“勇者ヒンメルに退けられたアウラ”ではなく、“グラナト伯爵領をついに踏み潰したアウラ”として、この地を塗り替えたい」

 

部屋の中の火が、小さく鳴った。

 

アッシェはしばらく黙ったまま、伯爵の言葉を頭の中で組み直していた。

首を落とす。

死者を従える。

和睦を装う。

疲れた人間の心へ“終わるかもしれない”という言葉を差し込む。

どれも単なる攻略として見るなら、回りくどい。

だが“勝ち方そのものを選ぶ”相手だと考えれば、むしろ筋が通る。

 

「だから和睦」

 

アッシェが言う。

 

「そうだ」

 

伯爵は答える。

 

「壁を砕くのではない。壁の内側を自分の言葉で少しずつ緩ませ、最後に自分の軍勢で踏み込む。その方が、奴にとっては“正しい勝利”になる」

 

「伯爵は信じていない」

 

「当然だ」

 

「ですが、町は疲れています」

 

伯爵は一拍だけ黙り、それから低く頷いた。

 

「兵も疲れている。家臣も、町も、市井の人間もだ。だから厄介なのだ」

 

その声音には、ようやく少しだけ苦さが混じった。

 

「儂が奴を信じるかどうかは本質ではない。問題は、十年耐えた人間が“もしかしたら終わるかもしれない”と、一瞬でも思ってしまうことだ。その一瞬を、あの化け物は待っている」

 

アッシェは、そこで初めてわずかに息を吐いた。

 

「……面倒だ」

 

伯爵は目を細める。

 

「面倒で済むなら、十年も戦っていない」

 

「その通りです」

 

短いやり取りだった。

だが、その短さの中で、二人の見ているものはほとんど同じになっていた。

 

アッシェは少しだけ首を巡らせ、閉じた窓の向こうを思う。

門前の静けさ。

人通りの少なさ。

衛兵の多さ。

露店の寂しさ。

子どもの姿が少ないこと。

あれは戦いが長引いた町の顔だった。

同時に、“和睦”という言葉が入ったことで、余計に張りつめている町の顔でもある。

 

「なら」

 

やがてアッシェが言う。

 

「受け入れたように見せてください」

 

伯爵の眉がわずかに動く。

 

「和睦を、か」

 

「はい」

 

「正気か」

 

「半分は」

 

その返しに、伯爵は一瞬だけ本当に嫌そうな顔をした。

けれど怒らなかった。

この男がふざけているわけではないと、もう分かっていたからだ。

 

アッシェは続ける。

 

「奴はこの街を落としたいんじゃない。“自分の手で落とした”形が欲しい。なら、その形に一歩近づいたと見せれば、配下はもっと深く入ってくるでしょう」

 

「危険すぎる」

 

「危険じゃないやり方をする時期は、とっくに過ぎています」

 

伯爵の目が細くなる。

その目の中で、反論と計算と怒りが一度に走ったのが分かった。

 

「外で好きに揺らされるより、中で順番を握った方がましです」

 

アッシェは静かに言った。

 

「和睦を受け入れたふりをする。使者をもう一度呼ぶ。そこで、“協会を名乗って騒いだ不審者を地下へ入れた”とでも言えばいい」

 

伯爵は答えない。

だが、その沈黙はさっきまでのものとは違った。

拒絶ではなく、どこまで危険を飲めるか量っている沈黙だった。

 

「若いのが一人、先走る」

 

アッシェが言う。

 

「そこから崩せます」

 

「なぜそう思う」

 

「往々にして若さというのは先走りしやすいものです」

 

伯爵は、ほんの少しだけ口元を動かした。

笑ったわけではない。

けれど、その見立てが妙に腑へ落ちた顔だった。

 

「……面白い男だ」

 

「よく言われます」

 

「褒めてはいない」

 

火の音がまた小さく鳴る。

 

伯爵はしばらく黙っていたが、やがて言った。

 

「奴は“勝ち方”を選んでいる。ならこちらも、負け方を選ばぬために策を使うしかない、か」

 

その一言で、会談の流れは決まった。

 

 

 

20

 

 

 

伯爵はすぐには答えなかった。

 

答えないまま、長く息を吐き、その息が消えるのを待つみたいに沈黙した。

さっきまで低く揺れていた火だけが、部屋の空気をわずかに動かしている。

壁際の側近たちも口を開かない。

彼らもまた、今ここで出される返答一つで、城の内側に流れる時間の質が変わると分かっているからだ。

 

アッシェは急かさなかった。

 

急かしていい種類の沈黙ではなかった。

これは逡巡ではあるが、弱さから来る逡巡ではない。

長く耐えてきた人間が、一線を越える前に、越えたあと失うものまで含めて量っている沈黙だった。

 

窓の外では、夕方の最後の明るさがゆっくりと引いていた。

閉じた窓越しでも、日がもうほとんど落ちていることは分かる。

この時間帯は、さっきまで村人たちが口をそろえて嫌がっていた時間でもある。

暗くなる前が一番静かで、一番息を殺す、と。

 

この町もたぶん今、同じ顔をしているのだろう。

門を見、塔を見、家へ入るかもう少しだけ外を見るかを迷いながら、それでも余計な声を立てずにいる顔を。

 

「……危険すぎる」

 

ようやく伯爵が言った。

 

その声音は、提案を退ける響きではなかった。

危険であることを確認し直す響きだった。

 

「和睦を受け入れたふりをする。使者をもう一度中へ呼ぶ。しかも、こちらから“協会を名乗る不審者を地下へ入れた”と、餌まで吊るす」

 

一つ一つ、手触りを確かめるみたいに言葉へ置いていく。

 

「人が死ぬ」

 

アッシェは即答しなかった。

それを即答して軽くするのは違う気がしたからだ。

代わりに、少しだけ視線を落としてから言う。

 

「何もしなくても死にます」

 

伯爵の目が上がる。

 

「脅しじゃありません」

 

アッシェは続けた。

 

「今のままだと、使者は外でも中でも空気を削るでしょう。兵も、市民も、門も、結界も。一つずつ薄くなる。薄くなってから壊れる方が、死ぬ数は多い」

 

側近の一人が、堪えきれないように口を開いた。

 

「だからといって、わざわざ城の内へ毒を招き入れろと言うのか」

 

年のいった男だった。

鎧は着ていないが、立ち方に軍務の癖がある。

おそらくこの城の守備を長く預かってきた者なのだろう。

その怒りはもっともだった。

城を守る者にとって、“開けたふりをする”という発想は本能的に受け入れがたい。

 

アッシェはその側近を見た。

 

「招き入れるんじゃない」

 

「同じだ」

 

「違う」

 

「何が違う」

 

側近の声が荒くなる。

 

「城の中へ入ってきた時点で、こちらの不利だ!」

 

「外で好きに散らされるよりはましだ」

 

アッシェは平坦に返した。

 

感情の乗っていない声だった。

怒鳴り返すでもなく、押しつけるでもない。

ただ、自分が拾ってきた線を、そのまま机の上へ置くみたいな言い方。

 

「今あいつらは、城壁の外も、村も、街道も、門前の空気も使ってる。和睦の言葉を撒いて、誰がどこまで揺れるかを見てる。あいつらの方がずっと広く動いてる」

 

側近は黙らない。

 

「だからといって、こちらから場を整えてやる必要がどこにある!」

 

「ある」

 

アッシェは短く言った。

 

「順番を握れる」

 

その一言で、部屋は少しだけ静かになった。

 

「今は向こうが選んでる。どこで言葉を撒くか、どこで死体兵を流すか、どこを削るか。受け入れたふりをすれば、その一部だけでもこっちが選べる」

 

伯爵はそこで、初めて椅子の肘掛けへ置いていた手を動かした。

ゆっくり拳を握り、また開く。

関節が、かすかに鳴る。

 

「受け入れたふりをしたあと、どうする」

 

アッシェは答える。

 

「若いのが一人、先走る」

 

「先ほどもそう言ったな」

 

「若い顔をしてる。人間を見下してる。確認より先に、自分で消したがる」

 

側近が眉を寄せる。

 

「顔で分かるのか」

 

「全部じゃない」

 

「では何で」

 

アッシェは少しだけ肩をすくめた。

 

「似たようなのを見たことがある」

 

それは説明になっているようで、半分もなっていなかった。

だが今の部屋では、その半端さの方が妙に本物らしく聞こえる。

作った理屈ではなく、肉で拾った直感だけを言っているからだ。

 

伯爵はアッシェを見ていた。

若い。

魔法使いには見えない。

杖もなく、口の利き方も整ってはいない。

けれど、目の前の危機に対してだけは、妙に迷いがない。

その迷いのなさが、時々ひどく危うく見える。

 

「もし、若い方が先走らなかったら」

 

伯爵が聞く。

 

「その時は」

 

アッシェは少しだけ考えてから答えた。

 

「その時は、もっと面倒になります」

 

その返事に、側近が露骨に顔をしかめた。

だが伯爵は、そこで初めてほんのわずかに口元を動かした。

笑いとは言えない。

けれど、この男が“分かりやすい嘘を言わない”ことだけは感じ取った顔だった。

 

「お前は、勝てると思っているのか」

 

その問いは単純だった。

単純だが、今ここで一番本質に近い問いでもあった。

 

アッシェは少しだけ目を伏せた。

 

勝てる。

そう言い切るのは簡単だ。

簡単だが、その言い切り方はあまり信用しない。

強い相手は何度も見てきた。

死体兵も、魔族も、人の絶望も。

そこで“絶対”に近い言葉を口にする人間ほど、最後に何かを見落とす。

 

だから彼は別の言い方をした。

 

「やります」

 

伯爵の眉が動く。

 

「勝てる、ではなく」

 

「やります」

 

アッシェは繰り返した。

 

「勝てるかどうかは、向こうにもこっちにもまだ残ってるものがあります。でも、やる。そのために来たのです」

 

その言葉は、強がりではなかった。

自信満々でもなかった。

むしろ奇妙なほど平たかった。

だからこそ、伯爵にはその平たさがよく響いた。

 

“勝つ”と言い切る若者は多い。

だが、ここまで削れた城の中で、静かに“やる”とだけ言う者は少ない。

 

伯爵はしばらく黙ったあと、側近たちへ視線を向けた。

 

「お前たちはどう見る」

 

最初に口を開いたのは、さっき反対していた守備側の側近だった。

 

「嫌ですな」

 

言い切る。

 

「城へ刃を向けてきた相手に、対話の席を設けたように見せる。しかもこちらから“地下に不審者を入れた”と教える。気に食わん。あまりにも城を守る側のやり方ではない」

 

「だが」

 

伯爵が促す。

 

側近は歯を食いしばるみたいに一度だけ口を閉じ、それから続けた。

 

「……今のままでも、削られていくのは事実です。兵は減り、街道は痩せ、市民の顔もよくない。和睦を信じぬ者ですら、“終わってほしい”とは思っている。その願いをあの魔族が利用しているなら、放っておけばいずれ内から緩みます」

 

それは不承不承の同意だった。

同意しながらも、なお受け入れがたいという顔をしている。

だからこそ本音だ。

 

もう一人の側近が口を開く。

こちらは文官に近い顔立ちだった。

甲冑ではなく濃い色の上着をまとい、机と城務に長く関わってきた人間の手をしている。

 

「伯爵様」

 

静かに言う。

 

「もし本当に受け入れたように見せるなら、館の中で動線は完全に絞るべきです。会談の席も、兵の配置も、退路も。向こうに“交渉の余地がある”と思わせながら、こちらが選べる場所を増やす形でなければ意味がない」

 

伯爵が頷く。

 

「つまり、やるなら徹底的に、か」

 

「ええ」

 

その側近は答えた。

 

「半端に揺れれば、本当に揺れたことになる。揺れたふりをするなら、こちらの手の中で揺れさせなければ」

 

それを聞いて、アッシェは初めて少しだけその男を見た。

やっぱりこの城は、ただ十年耐えてきたわけではない。

耐える中で、どう崩れないかを考える人間が何人もいたのだ。

 

伯爵は目を閉じた。

 

ほんの短い時間だった。

だが、その短さの中に、この十年が全部詰まっているように見えた。

死んだ息子。

削られた街道。

兵の墓。

和睦の噂に揺れる町。

勇者ヒンメルが偶然この地にいた昔。

退いたアウラ。

戻ってきたアウラ。

全部を胸の中で一度だけ並べ替え、それでもなお次の一手を選ばねばならない領主の顔だった。

 

やがて、伯爵は目を開いた。

 

「……受け入れたように見せる」

 

その声は低かったが、揺れてはいなかった。

 

側近たちが息を呑む。

反対していた守備側の側近でさえ、もう口を挟まない。

決まったのだと分かったからだ。

 

伯爵はアッシェをまっすぐ見た。

 

「だが、条件がある」

 

「何でしょう」

 

「お前は儂の命令で動け」

 

アッシェは一瞬だけ黙った。

 

それは服従を求める言い方ではない。

責任の所在を明確にするための言い方だ。

この策は、アッシェ一人の思いつきでは終わらない。

城の中で実行される以上、最後に背負うのは領主でなければならない。

 

伯爵は続ける。

 

「お前が餌になるなら、それは儂が城内で許した餌だ。使者を呼ぶのも、兵を伏せるのも、地下を使うのも、儂の命令で動く。でなければ、兵は納得しない。市民も、家臣も、後で城が割れる」

 

アッシェは短く頷いた。

 

「承知しました」

 

「返事が軽いな」

 

「重くした方がよかったですか」

 

伯爵の口元がわずかに動く。

 

「軽いままでいい。ただ、背負うものの重さは間違えるな」

 

「そういうのは分かります」

 

「本当にか」

 

「たぶん」

 

その返答で、今度は伯爵が本当に小さく息を漏らした。

笑いとまではいかない。

だが、この局面で“たぶん”と言う男を前にして、怒る気力もないという顔だった。

 

「面倒な男だ」

 

「よく言われます」

 

「そればかりだな」

 

「便利ですから」

 

その短いやり取りが、奇妙なことに部屋の緊張をほんの少しだけ和らげた。

極限に近い場面ほど、こういう無駄に見える会話が人を保たせることがある。

 

伯爵は立ち上がった。

 

「呼べ」

 

側近たちへ向けて言う。

 

「使者へ伝えろ。伯爵は和睦について、もう一度話を聞く気になったとな」

 

守備側の側近が、なお険しい顔のまま聞く。

 

「本当に、そう伝えるのですな」

 

「そうだ」

 

伯爵は言い切る。

 

「ただし館へ入れる動線は絞る。兵は見せる位置と伏せる位置を分けろ。地下の一番奥を空けろ。鍵は二重にせず、すぐ開くようにしておけ」

 

文官の側近がすぐさま受ける。

 

「“協会を名乗る不審者”の件はどうなさいます」

 

伯爵の視線がアッシェへ向く。

 

「お前が騒げ」

 

アッシェは少しだけ眉を上げた。

 

「どのくらい」

 

「化け物どもに和平などあるものか、と」

 

伯爵は静かに言う。

 

「儂は騙されている、結界を守れ、門を開くな、と。協会の名を出してもいい。ただし正式な使者らしさは出すな。中途半端に本物らしくしろ。だからこそ向こうは迷い、若い方が先走る」

 

アッシェはそこで、ほんの少しだけ口元を歪めた。

 

「嫌な役ですね」

 

「向いているだろう」

 

「否定しにくい」

 

伯爵は一歩だけ近づく。

 

さっきまで机越しだった距離が縮まり、初めてこの男の年齢と疲労が近くで見えた。

額の皺。

目の下の影。

だが背筋は落ちていない。

十数年戦ってなお、立っている人間の顔だった。

 

「お前」

 

伯爵が低く言う。

 

「死ぬな」

 

その言葉には、命令と願いが半分ずつ入っていた。

 

「お前が死ねば、この策はそこで終わる。終わるだけでなく、城の内側に余計な傷を残す」

 

アッシェは答える。

 

「努力はします」

 

伯爵の眉が少しだけ寄る。

 

「半分くらいしか信用できんな」

 

「半分あれば十分でしょう」

 

「北では足りん」

 

そのやり取りに、側近の一人が小さく息を吐いた。

呆れているのか、少しだけ肩の力が抜けたのか、自分でも分からない顔だった。

 

伯爵は踵を返す。

 

「行くぞ」

 

短い命令で、部屋の中の全員が動き出した。

 

側近たちはそれぞれの持ち場へ散る。

守備側の男は兵の配置へ。

文官の男は使者への伝達と館の動線整理へ。

扉が次々に開き、廊下へ人が消えていく。

館全体が、一つの策のために静かに組み替わり始める音がした。

 

アッシェも立ち上がる。

 

部屋を出る前、伯爵が背を向けたまま言った。

 

「アウラは昔の敗走を上書きしたいのだろう」

 

アッシェは足を止める。

 

「なら、こちらはその筆を折る」

 

振り返った伯爵の目には、怒りよりも深いものがあった。

意地だ。

十年のあいだ削られて、なお残った領主の意地。

 

「この街は、あれの勝利の形にはならん」

 

アッシェはそれに短く頷いた。

 

「はい」

 

その答えだけで十分だった。

 

 

 

21

 

 

 

部屋の外へ出る。

廊下はさっきまでよりずっと慌ただしい。

ただし、やみくもな慌ただしさではない。

命令が走っている慌ただしさだ。

兵が鎧を鳴らし、侍女が表の応接間から余計なものを下げ、灯りの数まで調整されていく。

館そのものが、和睦を受け入れた“ふり”をするための顔へ変わろうとしていた。

 

その流れの中で、アッシェだけが少し異質に見えた。

杖もなく、剣を主武装にするでもなく、ただ静かに歩いている。

けれど、その静かさの奥に、これから自分が餌になることへの迷いは薄い。

 

迷いがないわけではない。

ただ、順番が決まっている。

 

まず騒ぐ。

捕まる。

地下へ入る。

若い方が来る。

殺す。

そこから崩す。

 

その順番だけが、今は妙にはっきりしていた。

 

胸の奥で、またあの声が小さく揺れる。

 

"強い子に生まれますように"

 

アッシェは歩きながら、口の中だけで返した。

 

「……今は黙ってろ」

 

返事はない。

ただ、残る。

優しくて、しつこくて、時々ひどく重い。

 

館の奥では、もう和睦のための席が整えられ始めている。

整えられながら、その実、最初から壊すための場でもある。

 

アッシェは廊下の角で立ち止まり、一度だけ窓の外を見た。

 

夕暮れの町は静かだった。

露店は店じまいを急ぎ、通りの人影はまばらで、衛兵だけが目立つ。

和睦の噂があるというのに、誰も安心した顔をしていない。

むしろ皆、何かが起きる前の空気を吸っている。

 

「助けてくれ」とは誰も言わなかった。

その代わりに、この町は今、領主も兵も市民も、全部をまとめて歯を食いしばっている。

 

なら、自分がやることは一つだ。

 

アッシェは窓から離れた。

軽く喋る顔も、場に馴染むための癖も、今は少しだけ遠い。

これから必要になるのは、もっと別の方だ。

 

地下へ向かう石段は、もう暗くなり始めていた。

 

 

 

22

 

 

 

館の空気は、決断が下ると同時に変わった。

 

さっきまで伯爵の私室のまわりに重く溜まっていた沈黙が、今は細かい動きへほどけている。

廊下を急ぐ靴音。

扉の開閉。

甲冑の擦れる音。

低く交わされる命令。

侍女が盆を持ったまま脇へ寄り、書記が紙束を抱えて走り、兵が曲がり角の先で短く敬礼して進路を変える。

誰一人、騒いではいない。

だが、館そのものが「今から何かを始める」ために組み替わり始めているのが、床の下からでも分かる。

 

アッシェはその流れの中を、少し遅れて歩いていた。

 

自分だけが急いでいない。

いや、急いでいないわけではない。

ただ、周りの慌ただしさに自分を合わせて見せる必要がないだけだ。

これから自分がやるのは、兵のように配置につくことでも、文官のように言葉を整えることでもない。

 

騒ぐ。

目立つ。

半分だけ本物らしく、半分だけ胡散臭く、和睦へ水を差す。

そうして地下へ入る。

 

順番は決まっている。

けれど、その順番が決まっているからといって、気分が軽くなるわけではなかった。

 

むしろ逆で、アッシェは歩きながら、胸の奥にいつもと違う嫌さを感じていた。

 

戦うのではない。

まだ、戦わない。

人に見せるための顔を、今からもう一枚、意識して作る。

 

それは得意なことではあった。

必要なら、人に馴染むための軽い顔を出せる。

場を少しだけ緩める返しもできる。

それで恐れを薄めたこともある。

でも今回のは、それと少し違う。

 

今回は、わざと“面倒で危険そうな男”に見えなければならない。

ただ黙って異物でいればいいのではなく、

異物だが、何かを知っていそうな、しかし完全には信用できない不審者として振る舞う必要がある。

 

半端に本物らしく。

半端に胡散臭く。

 

それは、今のアッシェにとって妙にしっくり来てしまう役でもあった。

そして、そのしっくり来てしまう感じが、少しだけ嫌だった。

 

「顔色が悪いな」

 

不意に横から声がした。

 

さっき守備の件で伯爵へ強く反対していた側近だった。

鎧は着ていないが、体の置き方に戦場の匂いが残っている男だ。

年は五十を少し越えているだろう。

顔に深い皺がある。

だが、疲れているわりに目だけはよく生きている。

 

「元からだろ」

 

アッシェが返す。

 

側近は鼻を鳴らした。

 

「違う。元から悪い顔色と、これから嫌な役をやる顔色は少し違う」

 

その言い方が妙に正確で、アッシェは一瞬だけ相手を見た。

 

「見えるのか」

 

「長く兵を見ていればな。腹が決まってる時の顔と、決まってるのに気分の悪い時の顔くらいは分かる」

 

側近は廊下の先を見ながら続ける。

 

「お前、これから芝居を打つのが気に食わんのだろう」

 

アッシェはすぐには答えなかった。

だが否定もしない。

 

側近はそこで少しだけ口元を歪めた。

笑いではない。

戦の前にしか出ない、乾いた納得の顔だ。

 

「安心しろ」

 

「何がだ」

 

「城の人間も、芝居は好きじゃない」

 

それは慰めではなかった。

事実だった。

城を守る者にとって、正面から門を閉ざして耐えるのが本筋だ。

和睦を受け入れたふりをして、敵を誘い、内側で仕留める。

そういうやり口は必要だから飲むだけで、胸を張って好むものではない。

 

「だが、今はやるしかない」

 

側近が低く言う。

 

「だからやる」

 

アッシェは短く答えた。

 

「そうか」

 

側近は頷くと、一歩だけ近づいた。

 

「一つだけ言っておく。お前を取り押さえる兵の全部が事情を知っているわけじゃない」

 

「それでいい」

 

「いいのか」

 

「半端に知ってる顔の方が、向こうは怪しむ」

 

その返答に、側近はほんの少しだけ目を細めた。

 

「……面倒なところだけ、よく見える男だな」

 

「よく言われる」

 

「そればかりだな」

 

「便利だからな」

 

短いやり取りのあと、側近はそれ以上何も言わなかった。

ただ、廊下の先にある曲がり角を顎で示す。

 

「次の広間だ。兵はもう伏せてある。お前が騒げば、何人かは本気で抑えに来る。少し痛いかもしれん」

 

アッシェは肩をすくめた。

 

「それくらいで済むなら安い」

 

「そう思えるのが、少し怖いところだ」

 

その言葉は、独り言のように落ちた。

 

 

 

 

 

広間は、館の表へ近い場所だった。

 

正面の応接間ほど格式ばってはいない。

だが私室へ入るほど閉じてもいない。

来客をいったん待たせたり、侍女や書記が行き来したり、家臣の目が自然と集まったりする、中途半端に人目のある空間だ。

 

今は夕方の光が長く差し込んで、床の石に格子窓の影を落としていた。

 

人がいる。

 

兵。

書記。

侍女。

年配の家臣。

表向きは、それぞれの仕事でそこにいる顔をしている。

だがアッシェには分かる。

半分以上は待っている。

これから始まる“騒ぎ”のために。

 

その空気の中へ足を踏み入れた瞬間、アッシェは一度だけ息を吸った。

 

戦う前の呼吸とは違う。

もっと浅くて、もっと嫌な呼吸だ。

拳を握るためではなく、声を作るための呼吸。

 

自分からやる。

順番どおりに。

 

アッシェは広間の中央まで歩き、そこでわざと足を止めた。

 

何人かの視線が集まる。

兵の一人が不審そうに眉を寄せる。

まだ誰も止めない。

止めるには、もう一歩、騒ぎの側から踏み込ませる必要がある。

 

だから、アッシェは声を上げた。

 

「ふざけるな」

 

広間の空気が、一気に止まる。

 

広い部屋ではない。

だから声はよく響く。

侍女の手が止まり、書記が抱えた紙束をきつく握り直し、兵が槍の石突きをほんの少しだけ鳴らした。

 

アッシェはもう一度、今度はさらに大きく言う。

 

「化け物どもに和平などあるものか!」

 

今度は、通路の向こうにいた数人まで振り向いた。

広間の外へも声が漏れる。

それでいい。

聞かせるためにやっている。

 

「伯爵は騙されている!」

 

一歩踏み出す。

 

「門を開くな!結界を守れ!和睦など嘘だ、あいつらは――」

 

そこで、あえて少しだけ言いよどんだ。

完全に整った告発ではなく、感情に押されて口を滑らせている感じを出すためだ。

 

「――あいつらは化け物だ!」

 

兵がようやく動く。

 

「静まれ!」

 

一人が怒鳴る。

別の一人が前へ出る。

だが、アッシェはそこで止まらない。

止まれば芝居にならない。

もっと中途半端に本物でなければいけない。

 

「協会はそんなものを認めない!」

 

わざと“正式な使者”らしさは薄くする。

だが完全に胡散臭くもしない。

聞いた者が、

本当に協会筋かもしれない。

でも、正規の立場かどうかは分からない。

と思うくらいの線。

 

「結界を下ろせば終わるぞ!」

 

そこまで言った瞬間、真正面から兵が二人飛び込んできた。

 

一人は事情を知っている顔。

もう一人は本気で腹を立てている顔だった。

後者の方がやや速い。

それもまた都合がよかった。

 

「黙れ!」

 

若い兵が肩からぶつかってくる。

アッシェはあえて半歩遅れて受けた。

完全に避けるのではなく、わざと少しだけ崩される。

その崩れ方が本物であるほど、見ている側の納得は深くなる。

 

背を押される。

腕を掴まれる。

もう一人の兵が、手首を後ろへ回そうとする。

掴み方は甘い。

本気でやれば簡単に外せる。

だが、外さない。

 

「離せ!」

 

アッシェはあえて荒く言った。

 

「目を覚ませ!あれは――」

 

そこで横からさらに二人来る。

甲冑がぶつかり、広間に金属音が響く。

侍女の一人が小さく悲鳴を飲み込み、書記が本気で顔色を変える。

その反応が見える。

見えると、自分が今“見せるための騒ぎ”の中にいることが嫌でも分かる。

 

「こいつを下へ!」

 

事情を知る側の兵が怒鳴る。

怒鳴り方までうまい。

焦りと苛立ちが混ざった、もっともらしい声だった。

 

若い兵がアッシェの肩を押しつける。

 

「協会だか何だか知らんが、これ以上騒ぐなら――」

 

「知らない方がましだ」

 

アッシェが低く返す。

 

その声が妙に平たくて、若い兵の方が一瞬だけたじろいだ。

そこで別の兵が本気で押し込んでくる。

肘が脇腹へ入る。

痛みがある。

その痛みが逆に場を本物にした。

 

「っ……」

 

短く息が漏れる。

 

芝居ではない。

本当に痛い。

でもその方がいい。

こういう場で都合よく痛くなければ、それこそ嘘になる。

 

「抑えろ!」

 

兵がさらに増える。

三人、四人。

一人が首根を取る。

一人が膝裏を蹴る。

事情を知らない者が混じっているから、容赦が微妙にない。

石床へ片膝をつかされる。

床の冷たさが膝を打つ。

 

その瞬間、広間の奥から伯爵の声が落ちた。

 

「何の騒ぎだ」

 

全員の動きが一瞬だけ揃う。

 

伯爵が現れた。

側近を一人従え、廊下の奥から静かに歩いてくる。

歩き方は落ち着いている。

だが声には、今この城で最も重い権威が乗っていた。

 

兵たちが慌てて頭を下げる。

 

「伯爵様。この男が……協会を名乗り、和睦の場を乱すようなことを――」

 

「協会だ!」

 

アッシェがあえて被せる。

 

「お前たちは化け物に城を売るつもりか!」

 

その一言で、広間にいた何人かが本気で顔を強張らせた。

見ていた侍女の一人など、泣きそうな顔で下を向いている。

もう十分だ。

この騒ぎは、単なる“仕込み”ではなく、城の空気の一部になった。

 

伯爵はアッシェを見下ろした。

 

その目は冷たかった。

だが、内側に何があるかを知っている目でもある。

この男は今、城の前で伯爵に反発する不審者の役を演じている。

伯爵はそれを知っている。

知っているうえで、全員の前で切らなければならない。

 

「名は」

 

伯爵が低く問う。

 

アッシェはわずかに息を整えて答える。

 

「……アッシェ」

 

「所属は」

 

「協会だ」

 

「正式な使者か」

 

ここで、ほんの一拍だけ間が必要だった。

間違いなく本物なら、伯爵の対応も変わる。

完全な偽物なら、逆に価値が落ちる。

だから、“中途半端に本物らしい”線をここで踏む。

 

「知るか」

 

アッシェは吐き捨てた。

 

「言うべきことを言いに来ただけだ」

 

その答えを聞いた広間の人間たちの表情が、さらに揺れる。

本物かもしれない。

でも正規ではないのかもしれない。

協会崩れか。

あるいは現場上がりの半端者か。

その曖昧さが、ちょうどよかった。

 

伯爵はしばらくアッシェを見下ろし、それから冷たく言った。

 

「不審者として地下へ入れろ」

 

兵たちの腕に、力が入る。

 

「伯爵!」

 

アッシェがさらに叫ぶ。

 

「目を覚ませ!あれはお前の街を――」

 

そこで、伯爵が一歩だけ前へ出た。

 

「黙れ」

 

短い一言だった。

だがその重みで、広間の空気が一段沈む。

 

「お前が何者であれ、この城の中で儂の許しなく騒ぐなら、それは不審者だ」

 

伯爵は兵へ視線を向ける。

 

「地下へ」

 

「はっ」

 

今度はもう、兵たちに迷いがない。

若い兵の一人はなお本気で怒っていたし、事情を知る側の兵はその怒りを利用して動きを大きくしている。

腕を捻り上げられ、肩を押し込まれ、アッシェは石床から引きずるように立たされた。

 

その時だった。

広間の端で、誰かが小さく呟くのが聞こえた。

 

「本当に協会の人なのか……?」

 

答える者はいない。

いないまま、その疑念だけが広間の中に残る。

 

それでよかった。

 

不審であること。

正体が半分だけ本物らしいこと。

和睦へ水を差す声として、城の空気にちゃんと残ること。

全部、必要だ。

 

アッシェは兵に両腕を取られたまま、伯爵を一度だけ見た。

 

伯爵はもう、こちらを見ていなかった。

その視線は広間全体へ向き、今の騒ぎが城の中でどう落ちていくかを量っている。

まるで本当に、厄介な不審者を片づけた領主みたいな顔だった。

 

その冷たさが、逆に信頼できた。

 

 

 

23

 

 

 

地下へ降りる石段は、表の廊下よりずっと冷えが濃い。

 

兵たちはアッシェを急がせる。

本気で押す者もいる。

事情を知っている方の兵は、あえてそれを止めない。

雑な扱いでいい。

雑な扱いの方が自然だ。

 

「歩け」

 

若い兵が言う。

 

「歩いてる」

 

「口が減らないな」

 

「減ると困るだろ」

 

その返しに、若い兵は一瞬だけムッとした顔をした。

その本気の苛立ちが、逆に芝居を濃くする。

 

階段を下りるにつれて、灯りが減る。

上の館に残っていた人の気配も、石の厚みの向こうへ押し返されていく。

地下は、最初から“見せないもの”のための場所だ。

湿り気。

鉄の匂い。

古い藁。

壁に染みた暗さ。

 

通路の奥まで行くと、事情を知る側の兵が小さく言った。

 

「ここだ」

 

一番奥ではない。

だが、奥に見える位置の牢だ。

鉄格子は重く、鍵も二重にはなっていない。

すぐ開けられる。

すぐ閉められる。

都合がいい。

 

若い兵が扉を開ける。

 

「入れ」

 

アッシェは一歩だけ止まり、内部を見た。

狭い。

石壁。

藁。

水差し。

壁際には椅子が一つ。

最初からそこに置かれていたものではない。

誰かが後で運んだのだろう。

 

用意されている。

それが分かると、胸の奥が妙に静かになった。

 

「何だ」

 

若い兵が怪訝そうに言う。

 

「椅子がある」

 

「悪いか」

 

「いや」

 

アッシェは小さく言う。

 

「気が利いてる」

 

事情を知る兵が、そこでほんのわずかに口元を動かした。

笑ったわけではない。

ただ、この男がここでそういうことを言うのが少しだけ可笑しかったのだろう。

 

アッシェは牢へ入る。

 

鉄格子が閉まる。

鍵が鳴る。

若い兵はなお不機嫌な顔のままだ。

 

「協会だか何だか知らんが、ここで頭を冷やせ」

 

「たぶん冷える」

 

「そうだろうよ」

 

兵たちは去る。

ただし、事情を知る側の一人だけが少し遅れて残り、通路の陰で低く言った。

 

「……若い方が来ると、本当に思うか」

 

アッシェは椅子へ座りながら答える。

 

「来る」

 

「どうしてそこまで」

 

「俺なら来る」

 

兵はそれを聞いて、少しだけ嫌そうに顔をしかめた。

 

「それは根拠としてどうなんだ」

 

「悪くない」

 

兵は鼻を鳴らし、それ以上何も言わずに去っていった。

 

地下牢に、静けさが落ちる。

 

上では、和睦の席が整えられている。

兵が伏せられ、通路が選ばれ、灯りの数まで調整されている。

そのすべての上に、今ここでの静けさがある。

 

アッシェは椅子へ深く座った。

 

背を壁につける。

肘を膝へ乗せる。

頭を少しだけ下げる。

待つ姿勢だ。

狩りの前の姿勢とも、少し似ていた。

 

そのことに気づいて、胸の奥がまた少し嫌な感じになる。

 

自分は本当に、こういう時だけ少し楽なのか。

何かが来ると分かっていて、順番が決まり、壊すべきものが近づいてくる時だけ、呼吸が整うのか。

 

「……こんな時だけ、息がしやすい」

 

小さく漏らす。

 

地下の石壁は、何も返さない。

 

胸の奥で、例の声がごく薄く揺れた。

 

"その強い体があなたを守ってくれますように"

"そしてその強い体をもって、あなたが人を助けれますように"

 

アッシェは目を閉じなかった。

 

「最悪だ」

 

今度のそれは、半分笑いに近かった。

楽しいわけではない。

でも、自分が今、これから来るものを待っていることを知っている。

その待ち方が、あまりにも自分の中へ馴染んでいる。

 

鉄格子の向こう。

暗い通路。

灯りの揺れ。

湿った石。

そこで、足音が一つ、遠くから落ちた。

 

軽い。

若い。

躊躇がない。

 

アッシェは椅子に座ったまま、視線だけを上げる。

 

「来たな」

 

低く言う。

 

足音は止まらない。

こちらを見下したまま近づいてくる気配が、通路の暗がりにもうはっきりあった。

 

地下牢の空気は、そこでほんの少しだけ息を止めた。

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