ゼーリエ「やれ」   作:目玉焼きは胡椒

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足音は、最初から隠す気がなかった。

 

地下牢へ下りてくる者の足音には、だいたい三つある。

見張りの足音。

怯えた囚人を引きずる足音。

それから、自分が優位にあると信じきっている者の足音だ。

 

今、暗い通路の向こうから近づいてくるのは、三つ目だった。

 

軽い。

速い。

ためらいがない。

しかも、石段を下りるたびにわずかに跳ねる。

若さがある。

血がまだ熱い。

確認より、先に片づけることを選ぶ足だ。

 

アッシェは椅子に座ったまま、その音を聞いていた。

 

背を石壁へ預け、肘を膝へ乗せ、両手はぶらりと落としている。

武器らしいものは腰の剣だけだが、その柄へ手をやる気配すらない。

外套の裾にはまだ上の館の匂いが残り、拳には乾ききらない血の感触がわずかに残っている。

けれど顔だけは妙に静かだった。

静かすぎて、ここが牢なのか待合なのか分からなくなるほどに。

 

灯りは少ない。

通路の壁に掛けられた燭台の火が、湿った石に黄色い影を細く伸ばしている。

鉄格子の影が床に落ち、その線のあいだに暗がりが溜まる。

地下の空気は重い。

息を吸えば、湿り気と古い藁と鉄の匂いが喉に触る。

人が閉じ込められる場所特有の、時間が少しだけ腐っている感じがあった。

 

足音が止まる。

 

通路の向こう、灯りの端に、若い魔族の顔が浮かんだ。

 

ドラートだった。

 

人間に見えなくもない。

それどころか、整っていると言えば整っている。

若い男の顔だ。

目鼻立ちも悪くない。

だが、その整い方の中心にあるものが、あまりにも人間から遠い。

相手を見下すことに慣れきった目。

自分の優位を疑ったことがない者の立ち方。

地下牢へ下りてくるのに、警戒より退屈の方が勝っている顔。

 

その顔のまま、ドラートは鉄格子の前まで来た。

 

「あんたか」

 

最初の一言から、侮りが隠れていない。

 

「協会を名乗って騒いだ不審者ってのは」

 

アッシェは椅子に座ったまま、視線だけを上げた。

 

「ああ」

 

短く答える。

 

ドラートの視線が、杖のない腰、剣、外套、顔へと順に流れる。

おそらく予想していたのだろう。

もっと胡散臭い老人か、もっと気の立った術者か、あるいは口だけの兵崩れみたいなものを。

だが実際にいたのは、牢の中で妙に落ち着いている若い男だった。

 

その“落ち着き”が少しだけ引っかかったのか、ドラートは眉を寄せた。

けれど次の瞬間には、その違和感より侮りの方が勝った。

 

「拍子抜けだな」

 

彼は言う。

 

「もっと厄介なやつを想像してた」

 

アッシェは答えない。

答えないまま、ドラートの呼吸の浅さと重心の置き方だけを見る。

 

若い。

強い。

でも、近づくまでのあいだに一度も自分の足を止めていない。

止まらないまま下りてきたということは、それだけこちらを軽く見ているということだ。

その軽さは、若い相手にはよくある。

そして若い相手は、その軽さで死ぬ。

 

ドラートが鉄格子へ片手をかける。

 

「協会、ねえ」

 

薄く笑う。

 

「本物でも偽物でも、どっちでもいいけどさ。この場で騒いだのは失敗だったね。和睦の席に雑音はいらない」

 

アッシェはそこでようやく口を開いた。

 

「お前が消しに来たのか」

 

「そうだ」

 

あっさりと言う。

 

「俺が来るまでもなかったかなって思ってるけど」

 

軽い。

本当に軽い。

人間を殺すことに、何の重さも感じていない声だった。

 

その軽さを聞いた瞬間、アッシェの中で何かが、すっと下へ落ちた。

 

さっきまで広間で使っていた顔。

協会を名乗る不審者として騒ぐための顔。

半分だけ本物らしく、半分だけ胡散臭く見せるための声。

それらが全部、一枚剥がれる。

 

役は終わった。

 

残るのは、距離だけだ。

相手の首と喉と胸骨の位置。

どこを潰せば止まるか。

その順番だけが、前へ出る。

 

呼吸が少しだけ通りやすくなる。

 

「……息がしやすい」

 

ぽつりと、ほとんど独り言みたいに漏れた。

 

ドラートが眉をひそめる。

 

「何?」

 

アッシェは椅子に座ったまま、口元だけをわずかに歪めた。

 

それは笑いというには浅い。

でも、確かに何かが漏れた形だった。

高揚。

嘲笑。

そして、それらが自分の中にあることへの自己嫌悪。

全部が一瞬だけ混ざって、口元にだけ出た。

 

「本当に」

 

「最悪だ」今度は少しだけはっきり言う。

 

ドラートの目が、そこで初めてわずかに細くなった。

理解したわけではない。

ただ、自分へ向けられているのか、自分以外の何かへ向けられているのか分からない言葉は、人を少しだけ苛立たせる。

 

「意味分かんないな」

 

ドラートは鼻で笑った。

 

「でも、すぐ終わる」

 

鉄格子の鍵が鳴る。

 

見張りは下がっていた。

当然だ。

ここから先は、和睦の席の雑音を“処理する”時間であって、兵が立ち会うようなものではない。

それだけに、この地下の出来事は、しばらく誰の目にも触れない。

 

鉄格子が開く。

ドラートはためらいなく中へ入った。

一歩。

二歩。

扉を閉める必要すら感じていない。

ここで逃げられるはずがないと思っているからだ。

 

アッシェはまだ座っている。

 

「立たないのか?」

 

ドラートが言う。

 

「そのまま死ぬつもり?」

 

その言い方が少しだけおかしくて、アッシェは喉の奥で小さく息を漏らした。

笑ったわけではない。

けれど、息の抜け方が笑いに近かった。

 

それを見て、ドラートの顔がわずかに歪む。

 

「……やっぱり気持ち悪いな、あんた」

 

その瞬間だった。

 

アッシェが立ち上がる。

 

音がほとんどしなかった。

椅子が引かれる音も、服の擦れる音も、何かが“よし立とう”と決めた時の間もない。

今までそこに座っていたものが、ただ別の位置にいる。

初見にはそう見えるくらい、動き出しが薄かった。

 

ドラートの目が、ようやく本当に変わる。

遅い。

だが、まるで警戒がなかったわけではない。

若い魔族なりの速さで、体勢を半歩下げる。

 

その初手は、たしかに速かった。

 

だが、アッシェの方が近い。

 

踏み込みが地下の石床を一度だけ鳴らす。

その音が届く前に、拳はもうドラートの頬骨の下へ入っていた。

 

鈍い音が鳴る。

 

肉ではない。

もっと固いものが、内側から砕ける音だ。

ドラートの顔が横へ跳ぶ。

体が半回転しかける。

だが魔族だから、それで終わらない。

終わらないまま、腕を振るう。

 

アッシェは頭を半寸落としてそれを外した。

空を切った魔力が、背後の石壁に一本の深い線を刻む。

 

「……ッ!」

 

ドラートが目を見開く。

 

何が起きたのか、最初の一撃のあいだに理解が追いついていない顔だった。

人間を一人始末しにきたつもりが、殴られた瞬間に前提そのものが崩れた顔。

 

アッシェは待たない。

 

肩を掴む。

引き寄せる。

膝を腹へ打ち込む。

 

空気が抜ける。

若い魔族の口から、初めて息の潰れた音が漏れた。

そこへさらに左の拳。

胸骨。

右。

喉。

もう一度、頬。

 

地下牢の狭さは、徒手空拳に味方する。

距離がない。

逃げる余白がない。

刃を長く走らせる空間もない。

一度内側へ入られたら、そこから先は全部、肉と骨の近さだけで決まる。

 

ドラートはそこでようやく、本気で後ろへ跳んだ。

 

軽い。

若い。

だから反射そのものはいい。

一気に距離を取ろうとする。

だが地下牢は広くない。

三歩も下がれば石壁だ。

しかも、さっきまでアッシェが座っていた椅子が通路の半分を塞いでいる。

 

ドラートの踵が椅子の脚へ当たった。

 

わずかに体勢が浮く。

 

それで十分だった。

 

アッシェは椅子を片足で蹴り上げた。

木の脚が折れ、椅子そのものが斜めに跳ねる。

ドラートの膝へぶつかる。

ほんの一瞬、若い魔族の視線が下へ落ちる。

 

その一瞬で、アッシェは懐へ戻っていた。

 

「……お前」

 

ドラートがやっと声を絞る。

 

「何なんだ」

 

その問いには、恐怖より先に苛立ちがあった。

理解できないものに対する、若い傲慢さの最後の反発だ。

 

アッシェはそこで、ほんのわずかに笑みの残りみたいなものを口元へ乗せた。

 

「さあ?」

 

低く言う。

 

意味は、ドラートには分からなかっただろう。

だが、その分からなさ自体が余計に不気味だった。

殺されかけている側にとって一番嫌なのは、相手が怒りで動いていない時だ。

怒りならまだ分かる。

でもアッシェの顔には怒りも歓喜もなかった。

ただ、妙に静かで、そこにだけ少し息の通りがよくなっている感じがあった。

 

ドラートが牙を剥く。

 

若い魔族の顔から、ようやく余裕が消えた。

"線"が一気に伸びる。

今度は最初から殺すつもりの線だった。

肩口から斜めに、心臓へ届く軌道。

速い。

鋭い。

本気だ。

 

アッシェは避けない。

 

左腕をわずかに上げて受ける。

布が裂け、皮膚が浅く開く。

血が飛ぶ。

それでも、そこで止まらない。

止まる前に前へ出る。

 

"線"刺さりきるより、拳が速い。

 

一発目。

鼻梁。

 

骨が潰れる。

ドラートの視界が揺れる。

二発目。

喉仏の少し下。

呼吸の通り道が潰れ、空気が変な音で漏れる。

三発目。

肋骨。

内側へめり込んだ感触が、拳の骨に返る。

四発目。

側頭部。

 

そこで初めて、若い魔族の膝が折れた。

 

石床へ片膝をつく。

それでもまだ倒れきらない。

若い分、生命力と魔力の繋ぎが強いのだろう。

だが立ち上がるには、もう少し時間がいる。

 

アッシェはその時間を与えない。

 

髪を掴む。

顔を上げさせる。

ドラートの目はもう怒りと恐怖が半分ずつだった。

理解している。

今、自分は人間に殺されようとしている。

しかも、見下していた“ただの雑音”に。

 

「……まて、はなしを、聞け」

 

初めて、そんな言葉が出た。

 

命乞いではないのかもしれない。

ただ、理解が追いつかないまま、体だけが止めを拒んだのだろう。

若い相手ほど、そういう声を出すことがある。

 

アッシェの胸の奥へ、またあの声が差し込んだ。

 

"強い子に生まれますように"

"その強い体があなたを守ってくれますように"

"そしてその強い体をもって、あなたが人を助けれますように"

 

守るため。

助けるため。

そうであってほしい。

けれど今、自分の呼吸は少しだけ楽だ。

目の前の強い相手を壊せると分かった瞬間だけ、胸が開く。

その事実が何より嫌だった。

 

「最悪だ」

 

本当に小さく、そう言う。

 

ドラートには聞こえたかどうか分からない。

だが次の瞬間には、もうどうでもよかった。

 

最後の一撃は、側頭部から後頭へ抜ける角度だった。

 

拳が沈む。

骨が砕ける。

若い魔族の頭が石壁へ叩きつけられる。

鈍い音。

乾いたひび。

その二つが狭い地下牢の中で重なった。

 

ドラートの体が崩れる。

 

糸の切れた人形みたいに、ではない。

もっと重い。

まだ魔力で器を保っているぶんだけ、変に人間の死体より重く見える。

けれど、その重さも長くは続かなかった。

 

頬の端から。

髪の先から。

肩の輪郭から。

少しずつ崩れ始める。

肉が腐るのではない。

魔力で保っていた形そのものが、砂みたいにほどけていく。

 

アッシェはそれを見下ろしていた。

 

「お前もそう思うだろ?」

 

答えはなかった。

若い魔族は最後まで何か言おうとしたように見えた。

だが唇が動く前に、輪郭そのものが崩れていく。

やがて床には、灰色がかった魔力の残滓と、少しの血の跡しか残らなかった。

 

地下牢が静かになる。

 

さっきまで石壁へぶつかる音と荒い息が満ちていた場所へ、急に重い静けさが落ちる。

燭台の火だけが揺れている。

鉄格子の影はそのままだ。

椅子は片脚が折れて倒れている。

そして、その真ん中にアッシェだけが立っていた。

 

呼吸は少しだけ荒い。

でも、普通の人間が死闘のあとに見せる乱れ方とは違う。

もっと静かで、もっと内側だけで整っている。

だから余計に、人間らしくない。

 

「……終わったか」

 

誰にともなく言う。

 

その声のあとで、胸の奥にあった“息のしやすさ”がすうっと引いていく。

引いていく時の方が、いつも少し空虚だ。

 

戦っている時だけ、少しだけ楽だ。

それが終わるとまた、何をしているのか、自分がどちら側なのか、少しだけ分かりにくくなる。

 

軽口を叩く自分。

狩人みたいに静まる自分。

さっきの地下牢には、後者しかいなかった。

しかも、その後者の方がずっと自然に動いていた。

 

「……最悪だ」

 

もう一度、独り言みたいに言う。

 

誰も答えない。

崩れた魔族も、鉄格子も、湿った石壁も、何も返さない。

 

それでも、返事の代わりみたいに、胸の奥であの声だけがまた揺れた。

 

"そしてその強い体をもって、あなたが人を助けれますように"

 

アッシェは目を閉じない。

ただ、床に残った灰を一度だけ見て、鉄格子の方へ向いた。

 

上では、まだ和睦の席が続いている。

淡い髪の男と、細い目の女が、伯爵の前に座っている。

その席の上へ、今ここで一人分の死が落ちた。

 

もうすぐ、あの連中も気づく。

 

アッシェは折れた椅子を靴先で脇へ払った。

通路が少しだけ広くなる。

そこへ座って待つ理由は、もうなくなった。

 

「次」

 

低く言って、鉄格子の前へ立つ。

 

その時、遠く上の方で、空気がほんの少しだけ変わった気がした。

音ではない。

けれど、何かが途切れたことだけは分かる。

魔族が同族の死を知るのなら、今この瞬間、上の会談室でもまた空気が止まっているはずだ。

 

なら、動くのは向こうも同じだ。

 

アッシェは鉄格子へ手をかけた。

鍵は外側だ。

だが、この程度の障害は時間の問題だった。

 

上の城では今、和睦が一度、地下で死んだ。

その死を知った時、連中がどう顔を変えるのか。

それを見に行くべきだと、体の方がもう知っていた。

 

 

 

25

 

 

 

地下でドラートの頭蓋が砕けた瞬間、地上の会談室では蝋燭の火が一度だけ細くなったように見えた。

 

実際に火が揺れたわけではない。

窓も閉じている。

風もない。

だが、この場にいた三人のうち二人にとっては、火の揺れなどよりはるかに明確な“欠落”が、空気の中に生まれていた。

 

魔族は同族の死を知る。

 

それは人間のように、叫びや断末魔を聞くからではない。

血の匂いを嗅ぐからでもない。

魔力で形を保っていた器がほどけ、世界の中から一つ分の輪郭が消える。

その消え方は、同じ側の者には分かる。

名札が剥がれるようなものではない。

もっと直接的で、もっと不愉快な空白として感じられる。

 

和睦のために設えられた会談室の空気が、そこで一瞬だけ止まった。

 

リュグナーは薄く微笑んだまま座っていた。

淡いアッシュブロンドの髪は夕暮れの最後の光を受け、柔らかい色に見える。

姿勢も、手の置き方も、完璧に整っている。

和睦の使者という仮面を被ったままなら、少し気難しいが礼儀正しい若い貴族にも見えたかもしれない。

 

だが、その微笑が、ほんの一拍だけ止まった。

 

隣に座るリーニエの視線が、わずかに下へ落ちる。

床の石、その下、さらに下。

地下牢の位置を正確に知っているわけではない。

それでも“どこか下の方で、いま一つ、同族の魔力が途絶えた”ということだけは分かる。

 

伯爵はそれを見た。

 

十数年、アウラとその配下に削られてきた男だ。

人間の顔と、人間ではないものの顔、その切り替わる瞬間を見逃さない。

和睦の席のために整えられた空気が、今たしかにわずかに裂けたことを、誰より先に理解した。

 

沈黙が落ちる。

 

ほんの短い沈黙だ。

けれど、言葉が一つ遅れるだけで部屋の意味が変わる場面というのはある。

今がまさにそれだった。

 

リュグナーが最初に口を開いた。

 

「……どういうことです?」

 

声音は静かだった。

静かだが、もう“和睦を望む使者”の声ではない。

問い質す者の声だった。

柔らかく聞こえるよう整えられてはいるが、その内側に刃がある。

 

伯爵は答えない。

 

答えないまま、椅子の背へ静かに身を預ける。

その態度が逆に、この沈黙を深くした。

 

リュグナーの目がほんの少しだけ細くなる。

 

「ドラートの気配が、消えました」

 

今度は隠さない。

魔族だけが知る認識を、人間へ向けてそのまま落とした。

それは確認であり、牽制でもあった。

伯爵が知らぬはずはない。

もし知らぬふりを続けるなら、その態度そのものが答えになる。

 

リーニエは椅子に深くもたれたまま、すでに指先だけが動いている。

細い刃へ触れ、いつでも立てる位置に重心を移していた。

感情はない。

だが観察はしている。

会談室の扉。

壁際の側近。

窓。

伯爵の首筋。

そのすべてを、一度に。

 

伯爵はそこでようやく口を開いた。

 

「さあな」

 

低い。

平坦だ。

だが、平坦に言うための力が要る声だった。

 

「地下で何が起きたかまで、逐一儂が知る必要もあるまい」

 

リュグナーの微笑が、その瞬間に完全に消えた。

 

「伯爵様」

 

その呼びかけには、さっきまでの礼節がわずかに残っている。

だが、それを形だけ残しただけの声だった。

 

「あなたは、何をしたのです」

 

伯爵は即答しなかった。

その代わり、右手の指先を机の天板へ一度だけ軽く鳴らした。

 

乾いた、短い音だった。

 

同時に、会談室の左右の扉が開く。

 

鉄が擦れる音。

甲冑の噛み合う音。

石床を打つ靴音。

左右から伯爵配下の兵が一気に雪崩れ込んでくる。

槍。

剣。

短弓。

会談の護衛としては多すぎる人数。

最初から“いざとなれば切る”ために配置されていた人間たちの動きだった。

 

伯爵はそこで初めて椅子から立ち上がった。

 

動きに迷いはない。

老いてなお重みのある立ち方だった。

長く削られてきた人間の体だ。

だが、折れてはいない。

 

「和睦など」

 

伯爵の声は低く、しかし部屋の中のすべてへ届いた。

 

「クソ食らえだ」

 

その一言で、和睦の席は終わった。

 

 

 

26

 

 

 

兵たちは一斉に踏み込んだ。

 

最前列は槍。

その後ろに剣。

両脇に短弓。

狭すぎず広すぎもしない会談室の広さを考えれば、かなりよく訓練された突入だった。

少なくとも一瞬は、魔族の足を止めるつもりの配置。

 

だが、相手は人間の想定を半歩超える。

 

最初に動いたのはリーニエだった。

 

立ち上がるという動作がほとんど見えない。

そこに座っていた細い影が、次の瞬間にはもう最前列の槍の内側へ滑り込んでいる。

刃が振るわれたと分かるより先に、先頭の兵の喉が開いた。

 

血が走る。

 

続く二人目が叫ぶ。

その叫びは最後まで上がらない。

リーニエの二撃目が胸甲の継ぎ目へ正確に入り、肋の間から心臓へ届いていたからだ。

 

一方、リュグナーはもっと静かだった。

 

椅子を倒さない。

机も蹴らない。

ただ、自分の優先順位に沿って最短で動く。

 

伯爵。

 

その価値だけを取る。

 

「押さえなさい」

 

短く言う。

 

リーニエは返事をしない。

だがその一瞬の視線だけで十分だった。

了解というにはあまりにも冷たい合図が交わる。

 

側近の一人が伯爵の前へ出て剣を抜く。

それは速い剣ではない。

だが十数年のあいだ“当てればいい一刀”だけを磨いてきた剣だった。

飾りがない。

余計な見栄もない。

一撃で首を落とすためだけの軌道。

 

リュグナーはその斬撃を半歩だけずれて避け、返すように血の刃を走らせた。

側近の脇腹が裂ける。

男はそれでも倒れない。

血を吐きながらなお伯爵の前へ立つ。

だがその忠義の厚みも、魔族の冷静さには届かない。

 

二撃目で沈んだ。

 

もう一人の側近が伯爵へ下がるよう叫ぶ。

伯爵自身も脇へ置いていた剣を抜く。

その瞬間だけ、リュグナーの目にわずかな冷えが増した。

 

老人。

疲弊した領主。

だが剣を抜く動きに淀みがない。

十数年、壁の後ろで命じるだけではなく、自分の剣を何度も振るってきた男の動きだ。

 

伯爵は踏み込む。

 

重い。

速さではない。

だが、重さのある剣だ。

一撃で相手の形ごと断つための踏み込み。

リュグナーは初太刀を真正面から血刃で受け、その圧にわずかに腕を流された。

続く二撃目が頬を浅く裂く。

 

薄い血が一筋だけ飛ぶ。

 

リュグナーの顔から、最後の“使者の微笑”が消えた。

 

「なるほど」

 

低く言う。

 

「この地がまだ立っている理由が、少し分かりました」

 

伯爵は返事をしない。

三撃目へ入ろうとしたその瞬間、横からリーニエが死んだ兵の体を蹴り飛ばしてきた。

伯爵はそれを避けざるを得ない。

体勢が半歩だけ開く。

 

それで十分だった。

 

リュグナーの手が伯爵の手首を取る。

人間の手に見える。

だが握力の入り方が違う。

冷たい鉄が肉へ食い込むみたいな掴み方だった。

 

伯爵の剣が床へ落ちる。

 

残っていた兵が二人、最後の突撃をかける。

一人はリーニエに喉を裂かれ、もう一人はリュグナーの血刃に胸を貫かれて崩れた。

 

会談室は、ほんのわずかな時間で静まり返る。

 

倒れた兵。

折れた椅子。

飛び散った血。

蝋燭の火だけが妙に穏やかだ。

その中で伯爵だけが、喉元へ血刃を当てられたまま立っていた。

膝はつかない。

腕を取られてなお、背は落ちない。

 

「結界を解く方法を」

 

リュグナーが言う。

 

「聞かせていただきます」

 

伯爵は、そこでようやく小さく笑った。

笑いというには乾きすぎた音だった。

 

「誰が言うか」

 

「言いますよ」

 

リュグナーは静かに返す。

 

「この街に、守りたいものが多い限り」

 

その言葉は脅しであり、同時に事実でもあった。

伯爵の目が一瞬だけ揺れる。

恐怖ではない。

計算だ。

ここで何を失い、何を残せるかを測る目。

 

その瞬間だった。

 

会談室の扉の外、廊下の奥から足音がした。

 

ただの足音ではない。

急いでいる。

だが焦ってはいない。

さっきまで別の場所で命を奪ってきた者だけが持つ、迷いのない足音。

 

リーニエが真っ先に視線を向ける。

細い目がわずかに動く。

次いでリュグナーも顔を上げた。

 

足音は止まらない。

真っ直ぐこちらへ向かってくる。

 

そして次の瞬間、会談室の入口にアッシェが立っていた。

 

地下の湿り気を外套に少しだけ残したまま。

拳には乾ききらない血と、骨の白い欠片がわずかについている。

表情は静かだった。

静かすぎる。

怒りでもなく、勝ち誇りでもなく、ただ必要なことだけが残っている顔。

 

伯爵がその姿を見て、ほんのわずかに息を呑んだ。

安堵ではない。

むしろ、本当に一人でやったのかと理解した時の息の詰まり方だった。

 

リュグナーの目が細くなる。

 

「お前か」

 

その一言に、確認と怒りと警戒が全部入っていた。

 

「ドラートをやったのは」

 

アッシェは会談室の惨状を一度だけ見た。

倒れた兵。

血。

喉元へ刃を突きつけられた伯爵。

淡い髪の男。

細い目の女。

 

「ああ」

 

短く答える。

 

それだけで十分だったが、ほんの少しだけ口元を動かして続ける。

 

「若過ぎたな」

 

軽口の形をしていた。

だが声があまりにも平たく、そこに笑いの熱はない。

だからこそ不気味だった。

 

リュグナーの表情が、そこで初めてほんの少しだけ崩れる。

怒りはある。

だが怒りに呑まれない。

ドラートではない。

優先順位を間違えない側の目だ。

 

伯爵。

結界。

街。

自分の勝ち方。

その全部と、目の前の異物。

 

一瞬で測り終えた顔で、リュグナーはリーニエへ視線を向けた。

 

「時間を稼げ」

 

短い命令だった。

 

リーニエは答えない。

ただ、細い目がアッシェへ据わる。

その視線には怒りより興味が多かった。

見れば分かる。

真似れば届く。

そうやって来た者が、見ても綺麗にほどけない相手を前にした時の、冷たい集中だった。

 

リュグナーは伯爵の腕をさらに強く取り、側の小扉へ向けて後退する。

 

「待て」

 

アッシェが一歩だけ前へ出る。

 

リュグナーがそこでわずかに微笑んだ。

最初の“和睦の使者”の微笑ではない。

もっと細くて、刃みたいな微笑だ。

 

「待ちませんよ」

 

そう言って、伯爵を引いたまま小扉の方へ向かう。

その先は館の古い階へ続く通路だ。

結界維持の詰所へ通じる道でもある。

 

アッシェがさらに踏み込もうとする。

 

その前へ、リーニエが滑り込んだ。

 

刃が抜かれる。

音がしない。

ただ、いつの間にか細い鉄の線がそこにある。

 

伯爵が初めて叫んだ。

 

「行かせるな!」

 

その一声には、この街の十数年分が詰まっていた。

怒り、悔しさ、焦り、そして意地。

結界を落とされれば終わる。

だからこそ、どんなに人質に取られていても、今ここでアッシェを縛るわけにはいかない。

 

アッシェは足を止めない。

だが進路の前へ、リーニエの刃が静かに置かれる。

 

細い。

軽い。

人間の女にも見える。

だが、その立ち方だけが違う。

こちらがどう動くかを先に計算し、その線の上に立つ立ち方だった。

 

「珍しい」

 

リーニエが言う。

 

「見ればだいたい分かるのに」

 

アッシェの視線が、彼女の足、肩、刃へ流れる。

 

「そうか」

 

「うん」

 

「なら、見てろ」

 

リュグナーが伯爵を連れて小扉の暗がりへ消えていく。

会談室に残るのは、倒れた兵と、散った血と、アッシェとリーニエだけ。

 

戦いの空気が、そこで静かに形を変えた。

 

 

 

27

 

 

 

小扉が閉まったあと、会談室に残った空気は、血の匂いの方へ傾いていた。

 

倒れた兵。

裂けた喉。

崩れた椅子。

机の脚に飛び散った赤。

ついさっきまで“和睦”という言葉のために整えられていた場所が、今はもう、どう見ても殺し合いのあとの部屋だった。

 

その中へ、リーニエだけが妙に静かに立っている。

 

細い。

軽い。

人間の女にも見えなくはない。

けれど、その立ち方だけが違う。

重心の置き方が薄すぎる。

目の焦点が、人ではなく“動き”だけを追っている。

会談室に散らばった死体も、床の血も、伯爵の叫びも、彼女の中ではもう背景へ落ちていた。

 

残っているのは、入口に立つアッシェだけだ。

 

「時間を稼げ」

 

リュグナーの命令は短かった。

感情を挟まない声だった。

ドラートが死に、和睦の席が破綻し、それでもなお優先順位を崩さない。

それがリュグナーの怖さだった。

 

伯爵の腕を取られたまま、血刃を喉へ添えられたグラナト伯爵は、小扉へ引かれていく。

その姿を追おうとしたアッシェの前へ、リーニエが滑るように一歩出た。

 

「行かせない」

 

小さく言う。

 

その声には敵意がない。

敵意の代わりにあるのは、試すような集中だ。

新しいものを観察する時の目だった。

 

アッシェは一歩だけ進路を変える。

それに合わせてリーニエも足をずらす。

刃が低く、静かに上がる。

 

「珍しい」

 

彼女が言う。

 

「見れば、だいたい分かるのに」

 

アッシェの視線が、彼女の肩、腰、足の運びへ流れる。

分かる。

こいつは最初からそうだった。

一つの剣筋ではなく、何人もの人間から剥ぎ取った“それらしい正しさ”の継ぎ合わせで動いている。

だから綺麗だ。

綺麗で、気持ち悪い。

 

「そうか」

 

アッシェが低く返す。

 

「ええ」

 

「なら、見てろ」

 

その一言と同時に、会談室の空気が切れた。

 

リーニエの刃が最初に走る。

喉。

次に肩。

返す流れで脇腹。

最短、最小。

兵の突きにも似ている。

だが兵のそれより、もう半歩だけ余白がない。

見たものを真似るだけでなく、真似たあとで“より無駄のない形”へ詰めている。

 

アッシェは一撃目を頭の落差だけで外した。

二撃目に対しては前へ半歩。

刃の走る位置の内側へ潜り、肘で手首を払う。

金属が鳴る。

リーニエの目がわずかに動く。

力の方向が想定と違ったのだろう。

 

そこへ拳が腹へ向かう。

 

リーニエは紙みたいに体を捻って外した。

その捻りのまま、今度は低い位置から足首を刈りにくる。

人間の軽剣士の癖に似ていた。

どこかで見た足運びだ。

会談室の中で倒れた兵の誰か、あるいは今まで斬ってきた別の人間のものかもしれない。

 

アッシェは片足を上げて避け、着地と同時に踏み込む。

床の血が靴裏でわずかに滑る。

その滑りを利用して距離を詰め、肩からぶつかる。

 

リーニエの体が半歩浮いた。

 

会談室の端で、崩れた椅子がさらに砕ける。

木片が飛ぶ。

 

「硬い」

 

リーニエが小さく言う。

 

「斬った感触が、人間じゃない」

 

「そうらしい」

 

アッシェの声は平たい。

軽口の形をしているが、熱はほとんどない。

戦いの中へ入ると、いつもそうなる。

人に馴染むための声色が一枚剥がれ、必要な音だけが残る。

それが余計に、人間らしくない。

 

リーニエは会談室の半ばでいったん距離を取った。

だが大きくは下がらない。

この狭さでは、下がるほどアッシェの踏み込みに飲み込まれると分かっているのだろう。

 

細い刃が再び上がる。

 

今度は肩の開きが違う。

兵の直線ではなく、もっと古い剣士の軌道。

腰を落とし、振りかぶりを薄くし、それでも重さだけを残す。

見たことのある型を、無理やりこの細い身体へ移している。

 

「真似てるな」

 

アッシェが言う。

 

「ええ」

 

リーニエは淡々と返した。

 

「見たことのある、強い人の動き」

 

「気持ち悪いな」

 

「そう?」

 

そのまま刃が振り下ろされる。

 

重い。

 

細い刃のはずなのに、落ち方だけが大剣みたいだった。

見た目と重さがずれる。

そのずれが、初見には嫌だった。

人は見た目に合わせて力の向きを予測するからだ。

 

アッシェは両腕を交差して受けた。

外套が裂ける。

皮膚が浅く開く。

血が走る。

だがそこで止まらず、そのまま前へ入る。

 

受けながら、詰める。

 

人間なら、そこでためらう。

防いだ瞬間に反射で一歩引く。

アッシェは引かない。

傷と引き換えに、内側へ入ってしまう。

 

「……ッ」

 

リーニエの顔が初めて本格的に変わる。

驚きだった。

見えているのに、見えている通りに相手が動かなかった時の驚き。

 

アッシェの拳が鳩尾へ入る。

細い体が折れる。

返す左が頬を打つ。

右。

胸。

さらに喉。

 

会談室の中へ、鈍い音だけが続けて落ちる。

 

リーニエはそれでも沈まない。

床へ転がり、死んだ兵の槍を拾い、その柄を足場にして後ろへ飛ぶ。

軽い。

重さが抜けすぎている。

人間ならもっと床へ荷重が残るところで、それがほとんどない。

 

「見えてる」

 

リーニエが言う。

 

「でも、分からない」

 

「諦めろ」

 

アッシェが返す。

 

その返しがあまりにも短くて、リーニエの目にほんの少しだけ苛立ちが混じった。

彼女は“見て、理解して、真似る”側だ。

だから、見ても綺麗にほどけない相手が一番気に食わない。

 

会談室の外から、誰かの叫ぶ声がした。

伯爵を連れたリュグナーが、もう次の通路へ出たのだろう。

ここで長引けば、その分だけ結界側へ近づかれる。

 

アッシェは小扉の方へ一瞬だけ視線を投げる。

 

その一瞬を、リーニエは逃さなかった。

 

刃が走る。

肩口。

浅いが速い。

血が散る。

さらにそのまま、腰の位置へ二撃目。

三撃目は目を狙う低い返し。

 

アッシェは頭を傾け、腕で二撃目を受け、三撃目へは前へ出て潰した。

受けてから潰すまでが近い。

近すぎる。

この会談室では、刃の優位が完全には活きない。

 

リーニエもそれを悟ったのだろう。

足をさばき、扉の方へわざと流れる。

 

誘っている。

 

会談室の中では見切れない。

広い場所へ出れば、もっと見える。

もっと読める。

そう判断した顔だった。

 

「広い方がいいのか?」

 

アッシェが聞く。

 

リーニエは細い目をわずかに細めた。

 

「ここだと近すぎて、見えない」

 

その答えがいかにも彼女らしくて、アッシェは喉の奥で小さく息を漏らした。

笑いではない。

けれど、少しだけそれに似た抜け方だった。

 

「そうか」

 

「ええ」

 

「なら行け」

 

言うと同時に、アッシェは会談室の倒れた机を片手で掴み、横へ薙いだ。

 

重い木机が石床を滑る。

血を吸った脚がぎいと鳴り、リーニエの退路を半分だけ塞ぐ。

細い魔族の体はそれを飛び越えた。

軽い。

だが飛んだ先は、会談室の外へ続く回廊だった。

 

アッシェも追う。

 

会談室から廊下へ出る。

館の内側の回廊は夕暮れの最後の光で半分だけ明るい。

その先、正面へ抜けると、館前の石畳広場へ出る。

 

そこは広い。

兵の訓練にも使う場所で、館の正面階段と、側の回廊と、二階の窓と、城壁上からも見下ろせる。

今の時間帯なら、兵も、使用人も、避難がてら館の近くへ集まっていた町の人間も、少なからず視線を向けてしまう位置だ。

 

リーニエはそこへ出た。

 

館の影が石畳へ長く落ちる。

夕陽はもう低く、広場の半分だけが薄く赤い。

兵が二、三人、遠巻きにいた。

水桶を抱えた女が階段の陰で立ちすくみ、年若い衛兵が槍を握ったまま一歩も動けずにいる。

二階の窓には、誰かが布を少しだけずらして下を覗いている影もあった。

 

皆、和睦の席の行方を気にしていたのだ。

その気にしていた先から、血まみれの会談がこちらへ溢れてきた。

 

リーニエは広場の中央で止まり、改めて刃を構える。

 

「ここなら見える」

 

小さく言う。

 

アッシェも広場へ出た。

傷は増えている。

肩口、腕、頬。

だが歩き方に鈍りは薄い。

外套の下の身体が、浅い傷を気にせず前へ出る。

 

広場を見ていた兵たちが、その姿に一瞬だけ迷う。

助けに入るべきか。

下がるべきか。

だが二人のあいだに漂う何かが、普通の乱闘の距離ではないことだけは分かる。

踏み込めば、どちらの刃も拳も、自分たちの方へまで余波を飛ばす。

 

「下がれ!」

 

誰かが叫ぶ。

守備側の側近の声だった。

遅れて広場へ出てきたのだろう。

その一声で兵たちはようやく動き、円を広げる。

だが完全には離れない。

見てしまう距離だ。

助けられるかもしれないし、助けられないかもしれない距離。

 

リーニエが先に動いた。

 

広い場所へ出たことで、彼女の戦い方はさらに不快になった。

見ている。

見ながら、自分の位置を少しずつずらしていく。

館前広場の石畳の目、段差、傾き、血の散り方まで利用して、一番“人間が崩れやすい角度”へ先に立つ。

 

刃が走る。

高い位置から。

次は低く。

今度は横。

どれも別の誰かの癖をなぞっているのに、継ぎ目だけがない。

 

アッシェはそれを、今度は広場の広さごと受けた。

 

下がらない。

円を描かない。

一直線に入る。

 

刃が肩を裂く。

浅い。

次の一撃が脇腹を掠める。

それでも前へ。

石畳を蹴る一歩が、広場の静けさを一度だけ鳴らす。

 

速い。

 

見ていた兵の一人が、思わず息を呑む。

人間が走る速さではない。

いや、走っているようにすら見えない。

景色の中の位置だけが急に変わる。

そう見えるほど、踏み込みの切れ味が鋭かった。

 

リーニエは刃を返す。

だが、広場へ出てもなお、アッシェの動きには“見れば分かる”が綺麗に乗らない。

型がない。

構えの予兆が薄い。

拳が来る。

肩で来る。

時には頭からすら入ってくる。

全部、人間の戦い方のどれにもぴたりとは重ならない。

 

「……分からない」

 

リーニエが、初めて悔しさを隠さずに言った。

 

「見えてるのに」

 

アッシェはそこで、拳を半歩引いたまま小さく言う。

 

「見えてるなら、止めてみろ」

 

次の瞬間にはもう、距離が潰れていた。

 

リーニエの刃が喉を狙う。

アッシェは左腕で受け、そのまま内側から押し折るように手首を払う。

金属音。

リーニエの肩がほんの少しだけ開く。

そこへ頭突き。

鼻梁。

骨が鳴る。

 

広場を見ていた水桶の女が、小さく息を詰める。

悲鳴は出ない。

出す前に、次が来る。

 

拳。

鳩尾。

頬。

胸。

リーニエの細い体が、軽いのに重く揺れる。

それでも、まだ刃を落とさない。

細い目だけは最後までアッシェの肩と腰を追い続けている。

 

「どうして」

 

血を吐きながら、リーニエが言う。

 

「どうして、そんなに読みづらいの」

 

アッシェの胸の奥へ、そこでまた声が差し込んだ。

 

"強い子に生まれますように"

"その強い体があなたを守ってくれますように"

 

呼吸が通る。

広場の空気の中で、今だけ少し胸が楽だ。

強い相手。

見切ろうとする刃。

それを上から叩き潰せる距離。

そういう時だけ、自分の中の静かな方がやけにしっくり来る。

 

その事実に、心の奥が冷たくなる。

 

「……こんな時だけ、息がしやすいんだ」

 

ぽつりと漏れた。

 

近くにいた年若い衛兵が、その声を確かに聞いた。

聞いたが意味は分からない。

ただ、その言葉のあとでアッシェの口元がほんの一瞬だけ歪んだのを見た。

 

笑っているように、見えた。

 

それは勝ち誇った笑いではない。

楽しそうな笑いでもない。

もっと嫌なものだった。

自分で自分に少し引いているのに、それでも呼吸の通りがよくなってしまうことへの、乾いた笑み。

 

「最悪だよ」

 

今度はもう少しだけはっきり言う。

 

リーニエの目がそこへ止まる。

彼女はその言葉の意味を半分くらい理解したかもしれない。

自分でも嫌なものを、相手の中に見た時の目をした。

 

「そう……」

 

血まみれの口元がわずかに動く。

 

「あなたも、そう思うのね」

 

その一言に、アッシェの顔から笑みの残りがすうっと消えた。

 

次の一歩は、もう観察ではなかった。

 

壊すと決めた一歩だった。

 

広場の石畳を深く踏み、リーニエの刃の軌道ごと内側へ踏み潰す。

刃が肩を裂く。

だが止まらない。

掴む。

手首。

折る。

細い骨が嫌な音を立てる。

 

リーニエの体が半分浮く。

 

そのまま腹へ膝。

胸へ拳。

首根を掴み、石畳へ叩きつける。

 

広場に鈍い音が響いた。

 

見ていた兵たちの足が、一斉に半歩下がる。

助かった。

けれど近づきたくない。

その二つが同時に身体へ出た動きだった。

 

リーニエは石畳の上でなお刃を離さなかった。

折れた腕。

潰れた呼吸。

それでも最後まで相手の動きを見ようとする。

真似ようとする。

その執着が、かえって哀れだった。

 

「もう見た」

 

アッシェが言う。

 

低い声だった。

 

「お前の全部」

 

リーニエの細い目が、そこで初めてわずかに揺れた。

恐怖ではない。

見切られた、と理解した時の揺れだ。

 

最後の一撃は、胸の中心へ落とした。

 

心臓だけでは足りない。

器そのものを壊す。

 

拳が沈む。

胸郭が潰れる。

細い体が一瞬だけ持ち上がり、それから石畳へ落ちる。

 

そこでようやく、リーニエの輪郭が崩れ始めた。

 

肩。

髪。

指先。

少しずつ灰色がかった粒へほどけ、魔力で繋いでいた形そのものが砂みたいに消えていく。

 

広場は静まり返っていた。

 

誰も声を出さない。

兵も、側近も、水桶を抱えた女も、二階窓の布の陰にいた影も。

皆、目の前で起きたことを、まだうまく言葉にできていない。

 

助かったのは分かる。

化け物が一体、ここで消えた。

けれど、それをやった男の静けさが、どうしても普通の人間のものに見えなかった。

 

リーニエが最後まで消えきったあとも、アッシェはしばらくその場所へ立っていた。

 

息は少しだけ荒い。

だが荒いといっても、戦いの余熱に酔うような乱れ方ではない。

もっと静かで、もっと内側だけで整っている呼吸だ。

 

彼は広場を見回さなかった。

歓声を待つでもない。

感謝を受けるでもない。

ただ、次の敵の位置だけを探している顔をしていた。

 

その無言の数秒が、見ていた者たちにはやけに長く感じられた。

 

やがて、広場の端にいた若い衛兵が、ごく小さな声で呟く。

 

「……助かった」

 

その声に、自分でも驚いたような響きがあった。

助かったのは本当だ。

でも、その“助かった”の中に、どうしても別のものが混じってしまう。

 

隣にいた年上の兵が、喉を鳴らしてから低く返した。

 

「ああ」

 

一拍。

 

「でも……見ただろ」

 

若い兵は答えない。

答えられないまま、石畳の上に立つアッシェを見る。

 

見た。

たしかに見た。

あの人は戦っている時、ほんの一瞬だけ笑っていた。

楽しそうにではない。

嬉しそうにでもない。

もっと理解しづらい笑みだった。

 

その記憶は、たぶんここにいた者たちの中へ、助かったという事実と一緒に残る。

 

アッシェはようやく顔を上げ、小扉の向こうへ続く通路を見る。

 

リュグナーはまだ生きている。

伯爵も連れていかれている。

なら、立ち止まる理由はない。

 

「次」

 

誰にともなく言って、石畳を蹴る。

 

今度は歓声もざわめきも上がらなかった。

ただ、兵も使用人も町の人も、皆がその背を少しだけ見送り、そして少しだけ距離を置いた。

 

助けられた。

けれど近づきにくい。

その距離が、広場の上にすでに生まれていた。

 

夕陽はもうほとんど沈みきり、館の影が広場を長く覆っていた。

その影の中へ、アッシェの背が吸い込まれていく。

 

後に残ったのは、砕けた石畳のへこみと、魔族がほどけた灰色の跡、そして見てしまった者たちの喉に引っかかる、説明しづらい感謝と恐れだけだった。

 

館前の石畳広場に残った静けさは、長くは続かなかった。

 

アッシェが影の中へ駆け込んでいったあと、遅れてようやく人の声が戻り始める。

押し殺していた息。

低い囁き。

兵の短い号令。

使用人がようやく水桶を落としそうになって立てる金属音。

それらは全部、さっきまで広場の中央にあったものが、あまりにも人の理解から半歩外れていたことの証みたいだった。

 

助かった。

だが、その“助かった”に手放しの明るさはない。

むしろ、助けた側の背中が影へ吸い込まれたあとにだけ、人々は少しずつ人間らしい声を取り戻す。

 

広場の端で、若い衛兵がまだ石畳のへこみを見ていた。

さっきアッシェがリーニエを叩きつけた場所だ。

石が割れ、血と、魔族の輪郭がほどけたあとの灰色の汚れが薄く残っている。

 

「……本当に、あの人がやったのか」

 

若い兵が小さく言う。

 

その横で、年上の兵が喉を鳴らした。

 

「見ただろ」

 

「見ました」

 

「なら、それで十分だ」

 

若い兵はそれ以上言えなかった。

見た。

たしかに見た。

そして、その“見た”の中に、どうしても言葉にしにくい何かが混じっている。

助けられたことと、怖かったことが、今はまだ綺麗に分かれない。

 

守備側の側近が広場へ出てきて、短く命令を飛ばす。

 

「立っている者は持ち場へ戻れ!負傷者を拾え!窓際の者は下がれ、見世物ではない!」

 

その声でようやく、人は人の仕事へ戻っていく。

戻りながらも、視線だけは館の奥、アッシェが消えた暗がりへ引かれていた。

 

 

 

28

 

 

 

その頃、リュグナーは伯爵の腕を取ったまま、館の古い階を上がっていた。

 

会談室の小扉の向こうは、表の回廊とは違う。

外へ見せるための館ではなく、守るために増築され、継ぎ足され、古いものと新しいものが無理やり噛み合っている館の内臓のような造りだった。

 

石段は狭い。

壁は厚い。

窓は少なく、あっても矢狭間のように細い。

灯りもまばらで、階を上がるたび、外の夕光より、内側の冷えの方が強くなる。

 

伯爵は血刃を喉へ当てられたまま、しかし足をもつれさせなかった。

引きずられているのではない。

歩かされている。

その違いは大きい。

足が動くかぎり、人はまだ完全には敗北していない。

 

「どこへ向かうと思う」

 

伯爵が、ふいに言った。

 

リュグナーは答えない。

代わりに、伯爵の腕を取る力がわずかに増す。

喉元の刃も浅く皮膚を裂く。

赤い線が一本だけ引かれた。

 

「答えないか」

 

伯爵は小さく息を吐いた。

 

「なら教えてやろう。お前が今探しているのは“結界そのもの”じゃない。結界に命令を通すための継点だ」

 

リュグナーの目が、ほんのわずかに細くなる。

 

伯爵は続ける。

 

「フランメの結界は一枚の壁ではない。複数の術式を城壁と塔へ噛ませ、街全体を包むように繋いでいる。そのために、命令を書き換えるための継点がある」

 

「それがどこにあるかを、おまえは知っている」

 

和睦の使者という仮面が剥がれたリュグナーが言う。

 

「当然だ」

 

「なら案内してもらう」

 

伯爵はそこで初めて、少しだけ口元を歪めた。

 

「案内などするものか」

 

「いいや」

 

リュグナーの声は静かだった。

 

「するさ。おまえはこの街を守るためなら、自分一人の意地くらい噛み潰せる顔をしている」

 

その言い方は正しかった。

正しいからこそ、伯爵の顔に怒りが差した。

 

「分かったようなことを言うな、化け物」

 

「ああ。分かっている」

 

リュグナーは平然と返す。

 

「長く削った相手のことは、よく見える」

 

石段をさらに上がる。

途中、血を流して倒れている兵が二人いた。

どちらもまだ新しい。

先回りしてきたのだろう。

だが結局、リュグナーを止めきれなかった。

 

伯爵の目がその死体を一瞬だけ捉える。

けれど足は止めない。

止めれば、その一拍を相手へ与えるだけだと知っているからだ。

 

階段の先に、古い木戸が見えた。

館の北側へ突き出す、古い見張り台へ続く扉だった。

もともとは外敵監視のための小塔だったのだろう。

今はそこが、結界の継点の一つに組み込まれている。

 

伯爵が扉を見た、その一瞬の視線で、リュグナーには十分だった。

 

「ここだな」

 

「勝手に決めるな」

 

「今の目で足りた」

 

伯爵は返さなかった。

 

リュグナーは扉の前で一度だけ立ち止まり、そこで初めて後ろを振り返る。

 

館の内側の暗がりは、もうかなり遠くまで見通せた。

誰かが追ってくる気配がある。

魔力ではない。

だが、足音の薄さと速度だけで、何が来るかは十分に分かる。

 

「思ったより早い」

 

リュグナーが小さく言う。

 

その声に、伯爵の目がわずかに動く。

 

「来るな、と言うほど愚かではあるまい」

 

「それほどでもない」

 

リュグナーは淡く笑った。

 

「来てほしいのかもしれん。おまえも」

 

伯爵は答えない。

だが否定しないこと自体が、半分は答えだった。

 

 

 

29

 

 

 

アッシェは、館の中を走りながら、音より先に“削れ”を読んでいた。

 

廊下に残る血。

壁の擦れ。

階段の角で割れた燭台。

兵の死体。

古い塔へ向かう動線。

全部が一つの先へ繋がっている。

 

追う時、アッシェは魔法が見えないことを不利だとは思わなかった。

見えないぶん、人の動きと壊れ方だけを見る。

それはいつも、余計なものを落として本質だけを残す。

 

館の中には、まだ人がいた。

負傷兵を運ぶ者。

命令を伝える者。

窓を閉める侍女。

その誰もが、アッシェを見ると一瞬だけ目を止める。

止めるが、声はかけない。

かけられないのだろう。

広場の戦いを見た者も、見ていない者も、今この男に対して何を言うべきかまだ分からない。

 

ただ、道だけは空く。

 

その空き方が、感謝なのか恐れなのか、自分でも分からないものを含んでいることだけは、アッシェにも分かった。

 

「……面倒だ」

 

小さく漏らし、階段を上がる。

 

戦いのあとの“息のしやすさ”はもう引いていた。

代わりに残っているのは、戦いの中だけ少し楽だった自分への嫌悪と、その嫌悪すら足を止める理由にはならない冷たさだ。

 

胸の奥で、またあの声が微かに揺れる。

 

"その強い体があなたを守ってくれますように"

 

「今はいい」

 

口の中だけでそう言って、さらに上る。

 

古い塔の手前で、息も絶え絶えの兵が一人、壁へ背を預けていた。

腹を裂かれている。

だがまだ意識はあった。

 

「北の……見張り台……」

 

男が絞るように言う。

 

「伯爵様が……」

 

「分かってる」

 

アッシェは足を止めなかった。

だが通り過ぎざま、一瞬だけ男の肩へ手を置く。

それだけで十分だった。

言葉より、まだ追っている人間がいると分かる方が、死にかけの人間には効くことがある。

 

木戸の向こうから、冷たい風が差し込んでいた。

 

外だ。

 

館の中の湿った空気とは違う。

北壁沿いを流れる、薄くて、ひどく広い風。

その風の匂いの中に、ようやく別のものが混じってくる。

 

死。

土。

遠くに溜まった軍勢の気配。

 

アッシェは木戸を押し開けた。

 

北壁の見張り台には、風の音があった。

 

館の内側の空気は重い。

石が熱を持たず、人の声が壁に吸われ、廊下を走る靴音までどこか湿って聞こえる。

だが北壁の上まで来ると、その重さの上へもう一枚、外の薄い風がかぶさる。

風は冷たく、広く、そして容赦がない。

人の営みが壁の内側へ押し込められている土地ほど、壁の上の風は“外のもの”らしい顔をする。

 

見張り台の石床。

腰高の壁。

古い継点の台座。

その向こう、暮れかけた野。

さらに遠く、森の際に溜まる死の軍勢。

 

そこに、リュグナーは伯爵を押し立てていた。

 

喉元へ血刃。

腕は後ろに捻り上げられ、半歩でも踏み違えれば刃が深くなる位置。

人質の取り方が綺麗すぎる。

乱暴に捕まえたのではない。

一番殺しやすく、一番生かしやすい形を、最初から知っている者の取り方だった。

 

アッシェは見張り台の入口で止まり、まず台座を見た。

 

古い金属板。

その周囲へ走る刻印。

ここは結界そのものの核ではない。

だが命令を書き換えるための継点であることは、伯爵の言葉と造りの両方から分かる。

ここで無理に暴れれば、何が外れるか分からない。

壊していい場所ではない。

だからこそリュグナーも、いまこの時点ではまだ一歩だけ慎重だった。

 

「思ったより早い」

 

リュグナーが言う。

 

淡いアッシュブロンドの髪が風に少し揺れる。

会談室で使者の仮面をかぶっていた時より、顔がずっと薄く見えた。

微笑はない。

人間に合わせるための柔らかさを捨てた顔だった。

 

「お前が遅い」

 

アッシェが返す。

 

短い言葉。

声は平たい。

戦いの中へ入る前の静けさに、もう半分以上沈んでいる。

 

伯爵がそこで低く言った。

 

「来るな」

 

喉元へ刃を当てられたままでも、声が潰れない。

意地の残った声だった。

 

アッシェの目がわずかに細くなる。

 

「黙ってろ」

 

「命令か」

 

「そうだ」

 

伯爵の口元が、血の気の薄いまま、ほんのわずかにだけ動いた。

笑ったのではない。

だが、この状況でなおそう返せる程度には、この男もまだ折れていない。

 

リュグナーは石台へ一度視線を落とし、それからまたアッシェを見る。

 

「ここで暴れるのは、美しくない」

 

「何だと」

 

伯爵が吐き捨てる。

 

リュグナーは気にも留めない。

 

「この継点は繊細だ。乱暴に壊せば、結界そのものではなく、命令の流れが歪む。アウラ様は“落ちた形”をお望みだ。事故で崩れた壁など、勝利としては半端すぎる」

 

その言い方に、伯爵の目へ怒りが差した。

アッシェもまた、胸の奥へ細い苛立ちが走るのを感じた。

 

ただ落とすのでは足りない。

門が開き、結界が落ち、人間が迷い、恐れ、そのうえで不死の軍勢が踏み込む。

そういう形で勝ちたい。

それがアウラ側の執着であり、リュグナーの今の慎重さでもある。

 

「なら」

 

アッシェが一歩だけ前へ出る。

 

「そこから離れろ」

 

血刃が伯爵の喉へわずかに食い込む。

赤い線が増える。

 

「断る」

 

リュグナーの声は静かだった。

 

「おまえは二人落とした」

 

その言葉が、アッシェの耳へ小さく刺さる。

もうこちらをちゃんと敵として認めている。

 

伯爵がそこで低く言った。

 

「気にするな」

 

「黙ってろ」

 

「気にするな、と言った」

 

今度は伯爵の方が重ねる。

 

喉元の刃を前にしながら、それでも一歩も引かない声だった。

 

「ここで躊躇えば、街が終わる。儂一人の首と街の首なら、量るまでもない」

 

その言葉を、アッシェは否定しなかった。

 

否定すればきれいだ。

だが、きれいにしていい場面ではない。

本当にそうだからだ。

この男が死んでも、結界が落ちれば街は終わる。

なら今必要なのは、慰めではなく、順番の正しい判断だけだ。

 

リュグナーは伯爵の腕を取ったまま、見張り台の奥へ半歩下がった。

その先には、北壁上の広い石の歩廊が続いている。

見張り台よりさらに開けた場所だ。

外からも、城壁上からも、館の高窓からも見えてしまう。

 

「ここは狭い」

 

リュグナーが言う。

 

「もっと広い場所でやろう」

 

それは挑発ではない。

本気の合理だった。

継点に近すぎる場所で戦えば、自分の目的が狂う。

なら伯爵を盾にしたまま少し広い場所へ移る。

理にかなっている。

 

アッシェはそこで、ようやく理解した。

こいつは最後まで“目的のために戦う”側だ。

強い相手との戦いに高揚するわけではない。

殺しそのものを楽しむ若さもない。

冷たく順番だけを守ってくる。

だから面倒だ。

 

「面倒だ」

 

思わず口に出る。

 

リュグナーの口元がわずかに動く。

 

「ようやく、そう見えたか」

 

「最初からだ」

 

「そうか」

 

そのやり取りのあいだに、兵たちが位置を変えていく。

見張り台の入口にいた弓兵が二人、壁沿いへ走る。

下の広場からも何人かが上がってくる気配がある。

けれど誰も撃てない。

伯爵が盾になっている以上、矢は遅れより害の方が大きい。

 

リュグナーは伯爵を押し立てたまま、北壁上の歩廊へ出た。

 

風が強くなる。

 

石の壁の向こうはすぐ落差で、その先に城外の野が広がる。

死者の軍勢は、いまや遠景ではなく、輪郭の分かる影としてそこにいる。

首の曲がったもの、槍を持つもの、旗の残骸を引きずるもの。

隊列は人間の軍に似ている。

似ているが、息がない。

ざわめきもない。

ただ命令待ちの沈黙だけが並んでいる。

 

城壁上へ、兵たちが離れた距離で弧を描く。

館の高窓や回廊の陰にも、人影がいくつも増えていく。

広場にいた者たちが、騒ぎの先を追ってここまで目を上げてきたのだろう。

 

見られている。

 

そのことを、アッシェは嫌でも感じた。

石畳広場でのリーニエの死を見た視線。

助かったのに近づききれない視線。

いまその視線が、また自分へ向いている。

 

「下がれ!」

 

どこかで兵が叫ぶ。

しかし誰も完全には離れない。

領主が人質に取られ、魔族が城壁の上にいる。

目を逸らせるはずもない。

 

リュグナーは歩廊の中央あたりで止まった。

伯爵の背を自分の胸へ寄せ、喉元へ血刃。

もう片手では、細い血の線をいくつも空中へ浮かせている。

刃にも槍にもなる形。

冷たく、整った魔法だった。

 

「ここなら十分だろう」

 

言う。

 

「広い。見張る者も多い。おまえが飛び込んでくれば、伯爵が死ぬのも皆よく見える」

 

その理屈は嫌になるほど正しかった。

 

アッシェは足を止めたまま、距離を測る。

 

正面からでは間に合わない。

左へずれても、血刃の角度がある。

飛び込めば伯爵が先に裂かれる。

なら別の手を使うしかない。

 

視線が、歩廊の端に立つ兵の槍へ行く。

その少し後ろ、壁に掛けられた警鐘用の鉄輪。

さらにその上、旗竿を支える金具。

風で半ば折れた旗布。

石畳広場からここへ上がってくる細い階段。

 

全部が、一拍を作るためのものに見えた。

 

伯爵がそこで、ほんのわずかに重心を落とした。

 

アッシェには分かった。

この男も動く気だ。

自分一人では刃を外せない。

だが、一瞬だけでも重さをずらせばいい。

そう判断した足の置き方だった。

 

「伯爵」

 

アッシェが低く呼ぶ。

 

伯爵は答えない。

答えないまま、喉元へ刃を当てられた姿勢で、足先だけをわずかに石へ食い込ませる。

 

それで十分だった。

 

アッシェは次の瞬間、近くに立つ兵の槍を奪った。

 

抜くのではない。

兵の手から“借りる”みたいな速さで取る。

兵は何が起きたか分からず目を見開く。

槍はそのまま投げた。

 

まっすぐリュグナーへではない。

伯爵の足元、さらにその後ろにある警鐘の鉄輪へ向けて。

 

金属がぶつかる。

大きく、甲高い音が北壁へ響く。

風の上を滑って、館にも広場にも、城内の人間の耳にも届く。

 

同時に、伯爵が自分から体重を落とした。

 

膝を折り、わざと崩れる。

リュグナーの腕がそれに引かれて半瞬だけ下がる。

 

その半瞬で、アッシェはもう走っていた。

 

石の歩廊が鳴る。

今度は誰の目にも、速すぎると分かる速さだった。

壁上の兵が思わず息を呑み、下から見上げていた女が口を押さえる。

人間の走りではない。

瞬間移動ではない。

けれど、見えた時にはもう距離がない。

 

「……ッ!」

 

リュグナーの目が初めて本気で見開かれる。

血刃を返す。

伯爵を引き戻す。

二つを同時にやる。

だが一拍遅い。

 

アッシェの肩が伯爵へぶつかる。

押し飛ばす。

血刃が喉を深く裂く前に、外す。

伯爵は石床へ転がる。

同時に、リュグナーの血刃がアッシェの肩口から胸へ浅く走った。

 

布が裂ける。

皮膚が開く。

血が飛ぶ。

 

だが止まらない。

 

アッシェの拳が、そのままリュグナーの頬骨へ向かった。

 

リュグナーは辛うじて頭をずらす。

拳は頬ではなく肩へ入る。

鈍い衝撃。

普通の人間ならそれだけで腕が死ぬ。

だがリュグナーは魔族であり、しかもアウラ配下の中核だ。

後ろへ半歩滑りながらも、すぐに血刃を束ね直す。

 

「なるほど」

 

低く言う。

 

「ようやく、まともに見えた」

 

声には怒りより計算が多い。

ドラートのように侮らない。

リーニエのように観察へ寄りすぎない。

目の前の相手を“倒すべき異物”としてちょうどよく認識した声だった。

 

伯爵が転がった先で兵に引かれ、血を押さえられながらもなお叫ぶ。

 

「気にするな!行け!」

 

その叫びが背へ当たる。

 

アッシェは振り返らなかった。

今必要なのは伯爵の無事を確認することではなく、リュグナーをここで止めることだけだ。

 

血刃が飛ぶ。

 

一本ではない。

三本。

喉、目、膝。

人間の急所へ最短で届く線。

美しいほど合理的だ。

 

アッシェは最初の一本を頭の傾きだけで外す。

二本目を左腕で受ける。

外套がさらに裂け、血が走る。

三本目は踏み込みで潰す。

膝を抜き、前へ出ることで“膝の位置そのもの”をずらしてしまう。

 

近い。

 

リュグナーは近づかれる前に距離を取りたい。

その意思が見える。

血刃の本数が一気に増え、歩廊の上へ赤い線が幾重にも走る。

兵たちがさらに下がる。

壁際にいた者の一人など、避けそこなって兜の端を掠められた。

 

「下がれ!」

 

また誰かが叫ぶ。

だが、目は逸らせない。

見てしまう。

領主を守るため、城壁の上で一人の人間が大魔族の配下と真正面からやり合っている。

その事実の方が、恐怖より先に目を縫い止める。

 

リュグナーの血刃は、ドラートやリーニエよりも“嫌な近づきにくさ”があった。

重さも速さも、距離も、全部がきちんと噛み合っている。

若さの粗さも、観察への偏りもない。

必要な角度だけを置いてくる。

 

一撃が肩を裂く。

二撃目が脇腹を掠める。

三撃目が頬を浅く開く。

 

アッシェの傷が増える。

だがどれも深くは入らない。

深く入る前に距離を潰すからだ。

 

リュグナーの目に、そこで初めて明確な苛立ちが入る。

 

「魔力が、ほとんどない」

 

彼は言う。

 

「なのに何だ、その肉体は」

 

アッシェは答えない。

答えないまま、次の血刃を前腕で受け、さらに前へ出る。

 

「聞いている」

 

リュグナーの声が少しだけ低くなる。

 

「おまえは何だ」

 

ようやく、アッシェは短く返した。

 

「人間」

 

その一言に、城壁上の空気が一瞬だけ張り直された。

 

伯爵がさっき言った言葉。

あれは人間だ。

その断言が、いま本人の口からまた出る。

しかも、これだけ人間離れした戦いの最中に。

 

リュグナーの口元がわずかに歪む。

 

「ずいぶん嫌な答えだ」

 

「そうか」

 

「認めたくなくなる」

 

そのまま血刃が、一気に束ねられた。

 

先ほどまでの散らした刃ではない。

一本。

太く、鋭く、杭みたいに凝縮された血の槍。

距離をまとめて貫くための形。

 

アッシェはそれを見て、体が先に理解した。

これは避けても追う。

なら、半端に避けるより“抜ける”方が早い。

 

槍が来る。

 

アッシェは肩を入れた。

 

血の槍が肩口を深く抉る。

肉が裂け、骨の近くまで熱い痛みが走る。

だが貫ききられる前に、踏み込む。

 

近い。

 

リュグナーの瞳に、そこでようやくはっきりした驚きが浮かんだ。

自分の最も太い一撃を、相手が受けて前へ来たからだ。

 

「……ッ!」

 

その一瞬で十分だった。

 

アッシェの頭突きがリュグナーの鼻梁を砕く。

続けて左の拳。

胸。

右。

喉。

さらに肩を掴み、無理やり引き寄せる。

 

リュグナーはそこでようやく本気で後ろへ跳んだ。

歩廊の端、腰壁すれすれ。

血が鼻から流れる。

整った顔が初めて本格的に崩れた。

 

それでもまだ目は死んでいない。

 

「……そうか」

 

息の間で言う。

 

「おまえが、そういうものか」

 

アッシェの呼吸は少し荒い。

肩の傷から血が落ちる。

でも胸の奥には、またあの“息のしやすさ”がじわりと戻ってきていた。

 

強い。

ちゃんと強い。

だから、近づいて壊せるかどうかだけへ集中できる。

その集中が体の中へぴたりと嵌まる。

その嵌まり方が、何より嫌だった。

 

「……息がしやすい」

 

小さく漏れる。

 

近くにいた年若い衛兵が、その声を聞いた。

聞いて、意味は分からなかった。

だが次の瞬間、アッシェの口元がほんの一瞬だけ歪むのを見た。

 

笑った。

そう見えた。

 

嬉しそうではない。

誇らしそうでもない。

もっと理解しづらい、乾いた笑みだった。

自分がこういう時だけ少し楽であることを、本人が一番嫌っているような笑み。

 

「最悪だ」

 

今度は、もう少しはっきり言う。

 

リュグナーはその言葉を聞いて、薄く息を吐いた。

 

「ああ」

 

血の混じった声で返す。

 

「たしかに、最悪だ」

 

その返答には、皮肉も、半分だけ本音もあった。

目の前の人間が、自分たちの理解する“人間”からあまりにも外れている。

それを認めたくない気持ちと、認めざるを得ない現実が、同時に乗っている。

 

アッシェは一歩踏み出した。

 

「お前もそう思うか?」

 

低く言う。

 

その問いは、ドラートへ向けた時と少し違う。

今度の相手は意味を半分くらい理解したかもしれない。

戦いの中でだけ少し呼吸が整ってしまう最悪さ。

殺し合いの順番が、妙に身体へ馴染んでしまう最悪さ。

狩る側に立つことが、少しだけ自然である最悪さ。

 

リュグナーの目がわずかに細くなる。

 

「……どちらが化け物かな、人間」

 

その言葉を最後まで言わせず、アッシェは踏み込んだ。

 

今度は一直線だった。

余計な揺さぶりもない。

避けたら追う。

受けたら砕く。

そう決めた動き。

 

リュグナーが血刃を返す。

喉を狙う。

アッシェは左腕で払い、そのまま内側から手首を掴む。

冷たい。

人間の手に似ているのに、芯のところが妙に軽い。

 

握る。

捻る。

嫌な音。

リュグナーの血刃が散る。

 

さらに右の拳。

肋。

左。

頬。

膝。

一発ごとに、リュグナーの整った形が少しずつ崩れる。

それでも、七崩賢の直臣だけあってしぶとい。

後ろへ下がりながらなお、空いた手で血を刃へ変え、首筋を狙う。

 

アッシェはそれを頬で受けた。

浅い。

ならいい。

 

そのまま、最後の一歩を詰める。

 

腰壁の際。

逃げ場はない。

 

リュグナーの目の中に、そこで初めて本物の死の理解が入った。

怒りでも誇りでもなく、ここで自分は終わるという冷たい理解。

 

「アウラ様は……」

 

何か言いかけた。

 

だが、その続きはもう届かなかった。

 

アッシェの拳が、胸の中心へ沈んだからだ。

 

心臓だけを狙ったのではない。

胸郭ごと潰す。

器としての形を壊す。

 

骨が砕ける。

肺が潰れる。

リュグナーの体が一瞬だけ持ち上がり、それから腰壁へ背を打ちつける。

古い石がひびを鳴らす。

 

そのまま二撃目。

側頭部。

頭が横へ跳ねる。

最後にもう一度、胸。

 

淡い髪の魔族の体が、そこで力を失った。

 

歩廊の上へ崩れ落ちる。

 

だが、その重さも長くは続かなかった。

 

肩から。

髪から。

血の刃を作っていた指先から。

少しずつ輪郭が崩れ、灰色がかった粒へほどけていく。

魔力で繋いでいた器が限界を迎え、形そのものが砂みたいに消えていく。

 

兵たちも、窓の影の人々も、城壁下から見上げていた者たちも、その消え方を見た。

 

化け物が死ぬところ。

そして、その化け物を殴り殺した人間が、血を浴びたまま静かに立っているところ。

 

誰もすぐには声を出せなかった。

 

やがて、風が吹く。

 

リュグナーだったものの灰が、北壁の上からさらわれていく。

暮れきる前の空へ、細かく散る。

 

遠く、死者の軍勢の向こうで、アウラのいるはずの一点が、ほんのわずかにだけ動いたように見えた。

 

気づいたのだろう。

配下が、二人ではなく、三人すべて落ちたことに。

 

伯爵は兵に支えられながら立ち上がった。

喉の傷は浅いが、顔色はよくない。

それでも、北壁の向こうを見て、低く言う。

 

「……来るぞ」

 

その一言で、城壁上の兵たちがようやく息を取り戻した。

弓を構え直し、槍を立て、下へ号令が飛ぶ。

館と街と壁と塔が、一斉に本当の戦の顔へ戻り始める。

 

その中で、アッシェだけがまだ少し静かだった。

 

リュグナーを潰したあとの“息のしやすさ”が、いまゆっくりと引いている。

引いて、代わりにまたいつもの嫌さが戻る。

戦っている時だけ少し楽だった。

そのことが何より嫌だ。

 

「……最悪だ」

 

独り言みたいに言う。

 

近くにいた若い衛兵が、それをまた聞いた。

そして今度は、さっき広場で見た笑みと一緒に、その言葉も記憶へ刻まれる。

 

助かった。

でも怖かった。

あの人は、魔族を倒した時、一瞬だけ笑っていた。

そして、自分で“最悪だ”と言っていた。

 

その理解しづらさごと、後に誰かへ語ることになるのだろう。

 

アッシェは北壁の外を見た。

 

死者の軍勢。

その向こう。

まだ遠くに立つ一点。

アウラ。

 

ここから先は、もう配下ではない。

“勝ち方”を選んでここまで来た大魔族本人だ。

 

伯爵が喉を押さえたまま、低く言う。

 

「行けるか」

 

アッシェは少しだけ肩を回した。

傷は多い。

深いのもある。

だが立てる。

走れる。

殴れる。

 

「ああ」

 

短く答える。

 

伯爵の口元がわずかに動く。

笑ったのではない。

だが、その返事だけで十分だという顔だった。

 

北の風が、さらに強くなる。

 

城壁の上に立つ人間たちと、壁の外に並ぶ死者の軍勢のあいだに、夜が少しずつ溜まり始めていた。

その夜の手前で、アッシェは一人、前へ出る。

 

物語の始まりとしては、あまりにも鮮烈で、あまりにも人の理解から半歩外れた姿のまま。

 

 

 

30

 

 

 

平原の上には、夜が落ちかけていた。

 

まだ完全な闇ではない。

西の空には、沈みきる直前の赤が細く残っている。

けれどその赤はもう温かくはなく、むしろ冷えた鉄の縁みたいに、空の端を薄く光らせているだけだった。

 

その下で、首なしの不死の軍勢が並んでいる。

 

槍を持ったまま首を失った兵。

旗を引きずる騎兵。

胸当ての割れた重装歩兵。

甲冑の隙間から土がこぼれ、古い血が黒く染みつき、それでもなお、命令だけで立っているものたち。

呼吸はない。

ざわめきもない。

ただ、待っている。

命令を待ち、前進を待ち、踏み潰すべき何かを待っている。

 

その軍勢の向こう、少し外れた位置に、断頭台のアウラは立っていた。

 

軍勢の中央ではない。

中央に立つ必要がないからだ。

自分がそこへ立てば、自然と周囲が序列として整う。

そう信じて疑ったことのない者の立ち位置だった。

 

そしてその平原のこちら側には、アッシェが一人で立っている。

 

傷だらけだった。

肩。

腕。

脇腹。

頬。

地下牢。

会談室。

石畳広場。

北壁。

そこまで積み重ねてきた戦いが、そのまま身体へ残っている。

外套は裂け、血は乾きかけ、土と灰が裾へこびりついていた。

 

それでも背筋だけは落ちていない。

 

だが、その姿には、強敵を前にした昂りは薄かった。

少なくとも、最初にそこにあったのは高揚ではなく、もっと鈍く、もっと重いものだった。

 

疲れていた。

 

本当に、ひどく疲れていた。

 

聖都を出てから、ずっとそうだった。

静かすぎる村。

首のない死体。

和睦の噂。

町の疲弊。

伯爵の意地。

地下での囮。

配下三人との殺し合い。

どれも全部、面倒だった。

 

ここまで来るあいだ、ずっと何かを辿っていた。

拾って、繋いで、確かめて、待って、壊して。

その中心が、ようやく今、平原の向こうに立っている。

 

もう追わなくていい。

もう、探らなくていい。

もう、拾った線を頭の中で繋ぎ直さなくていい。

 

目の前のそれを終わらせれば、終わる。

 

その感覚だけが、今のアッシェにとっては、ひどく安堵に近かった。

 

北壁の上から、伯爵のかすれた声が風に乗る。

 

「行けるか」

 

アッシェは目を離さず、小さく息を吐いた。

 

「……ああ」

 

それだけだった。

 

門はすでに開いている。

長く閉ざされてきた門。

十数年、耐えるために閉じてきた門。

今は屈するためではなく、一人の人間を外へ出すために開いている。

 

城壁の上の人間たちの視線が、すべてそこへ集まっていた。

兵も、側近も、使用人も、避難の途中で足を止めた町の人間たちも。

誰も声をかけない。

かけられない。

頑張れとも、死ぬなとも、勝ってくれとも。

そういう言葉を置くには、平原へ出ていく背があまりにも静かすぎた。

 

アッシェは、城壁の影から平原へ踏み出した。

 

草が揺れる。

土は硬い。

昼のあいだに何度も軍勢に踏まれた跡が残っている。

ところどころで鎧の破片が埋もれ、乾いた血が薄く染みている。

この土地は、もうずっと前から戦場だった。

 

アウラが、その一歩を見た。

 

そして、上から下まで一度で量った。

 

杖はない。

剣は腰にあるが、主として使っている気配がない。

全身傷だらけ。

それでも立っている。

そして何より、魔力がほとんど空だ。

 

それは誤差ではない。

隠しているのでもない。

本当に、ほとんどない。

魔法使いとして秤へ乗せる価値がある量ですらない。

 

その認識が、アウラの表情へ、あまりにも露骨な軽蔑を浮かばせた。

 

「これに?」

 

静かな声だった。

けれどその静けさの中に、よく磨かれた侮蔑があった。

 

「これに、リュグナーたちは負けたの?」

 

首なしの軍勢の隙間で、何体かの死者が微動だにせず立っている。

その前でアウラは、まだ戦いの相手としてではなく、“理解に値しないもの”を見る顔をしていた。

 

「案外、不甲斐ないのね」

 

少しだけ首を傾ける。

 

「魔力がほとんど空じゃない。こんなものに三人も落ちるなんて。配下が鈍ったのかしら。それとも人間どもが弱くなりすぎて、比較そのものが狂ったのかしら」

 

城壁の上の兵の何人かが、その言葉を聞いて顔を強張らせた。

意味のすべては分からなくても、見下していることだけは伝わる。

 

アッシェは、ようやく小さく息を吐いた。

 

「そうか」

 

短い。

 

アウラの眉が、わずかに動く。

 

「強がるの?」

 

「違う」

 

アッシェは首を振った。

本当に違った。

強がっているのではない。

ただ、今はもう、相手の言葉に大きな熱で返すだけの余力がなかった。

 

疲れている。

終わりが見えている。

だから、返す言葉も短い。

 

「ひどく疲れた」

 

その一言に、アウラの顔へ不快が差す。

 

「何ですって?」

 

「地下。会談。城壁。死体。和睦。ずっと面倒だった」

 

途切れがちな言い方だった。

演説ではない。

本当に疲れた人間が、疲れた順番にものを並べているみたいな喋り方だった。

 

そしてアッシェは、平原の向こうのアウラを見たまま、さらに言った。

 

「でも」

 

一拍。

 

「ようやく終わる」

 

その言葉に、高揚はなかった。

宣言もなかった。

勝利への確信さえ薄かった。

ただ、長く続いた面倒の終点へやっと辿り着いた者の、疲れた安堵に近い響きだけがあった。

 

それがアウラには耐え難かった。

 

相手は七崩賢の一角。

服従の天秤を操り、不死の軍勢を従え、五百年以上を魔法の上位者として生きてきた大魔族。

本来なら恐れられ、構えられ、全力の警戒を向けられるべき存在だ。

 

なのに目の前の男は、自分を“終わり”として見ている。

強敵ではなく、終わり。

それはアウラにとって、ひどく不遜だった。

 

「笑わせるわね」

 

アウラが言う。

 

「私を前にして、その顔ができるなんて」

 

彼女は片手を上げた。

 

すると首なしの軍勢が一斉に揺れた。

前列の騎兵が一歩。

槍兵がそれに続く。

土が鳴る。

鎧が鳴る。

不死の波が、平原を埋めながらこちらへ押し寄せてくる。

 

「私の前に立つのなら、まずこれを越えなさい」

 

軍勢がさらに進む。

 

「魔力もろくにないあなたに、これを止められるのかしら」

 

その言い方には、魔族という種そのものが持つ価値観がよく出ていた。

 

魔力こそが秤。

魔法こそが誇り。

より多くの魔力を持つ者が上であり、優れた魔法使いであることが価値そのもの。

その秩序の上に立って長く生きてきたアウラにとって、アッシェは最初から“数えるに値しないもの”にしか見えていない。

 

だから見下す。

だから、まだ理解していない。

 

アッシェは、ゆっくり息を吸った。

 

軍勢が来る。

首のない騎兵。

槍兵。

剣士。

古い旗を引きずる死者たち。

平原を埋めるその波の向こうに、アウラが立っている。

 

やることは単純だった。

ここから先はもう、言葉より順番の問題だ。

 

胸の奥で、あの声が微かに揺れた。

 

"強い子に生まれますように"

"その強い体があなたを守ってくれますように"

 

アッシェは小さく息を吐く。

 

「……ああ、息ができる」

 

平原の風の切れ目で、その言葉がほんのかすかに城壁まで届いた。

若い衛兵がまたそれを聞く。

意味は分からない。

でも、その直後にアッシェの口元がほんの一瞬だけ歪んだのを、今度も確かに見た。

 

また笑った。

そう見えた。

 

楽しそうではない。

誇らしそうでもない。

もっと嫌なものだった。

自分がこういう時だけ少し楽であることを、本人がいちばん嫌っているような笑み。

 

「最悪だよ」

 

今度はもう少しはっきり言う。

 

そしてアッシェは、待たずに走った。

 

最初の首なし騎兵の懐へ入る。

槍が喉を狙う。

半歩ずれて外す。

そのまま鎧ごと胸へ拳を叩き込む。

鈍い音。

鎧がへこみ、内側の骨が砕け、騎兵が馬もろとも横へ吹き飛ぶ。

 

次。

次。

さらに次。

 

槍を掴む。

引く。

持ち主ごと倒す。

膝。

拳。

鎧の継ぎ目へ。

頸の残りへ。

器を支えるところだけを正確に潰していく。

 

軍勢の中に、一直線の穴が空き始める。

 

城壁の上の人間たちは、ただそれを見ていた。

 

たった一人。

首なしの軍勢の波の中へ入っていく。

剣ではない。

魔法でもない。

拳と体そのもので、それを裂いて前へ進む。

 

助かる。

たしかにそう思う。

でも、同じだけ恐ろしい。

 

あの人は本当に、人間なのか。

そういう疑問が喉まで来る。

信じるしかないのに、見ているものは人の理解を半歩外している。

 

やがて、軍勢の前列が崩れた。

 

ただ数で押せばいいと思っていた死者の波が、思っていたより早く裂けていく。

アウラの目が、そこでようやくわずかに細くなる。

 

「……やめなさい」

 

彼女が小さく言う。

 

軍勢の動きが、そこで一度だけ止まった。

 

平原へ妙な静けさが落ちる。

風と、死者の外套の揺れる音と、アッシェの呼吸だけが残る。

 

その静けさの中で、アウラは一歩前へ出た。

 

「もういいわ」

 

首なしの軍勢が左右へ割れる。

 

そしてアウラの手元へ、天秤が現れた。

 

服従させる魔法――アゼリューゼ。

 

二枚の皿。

長い腕。

黒鉄にも見える、だが魔力で編まれた秤。

夜に沈みかけた平原の上で、それだけが異様な存在感を持って浮かぶ。

 

城壁の上の兵の何人かが、意味は分からなくとも本能的に息を呑んだ。

危ない。

それだけは分かる。

 

アウラの声が、平原へ落ちる。

 

「あなたは、何も持っていない」

 

冷たい。

誇り高い。

そして長く上位に立ってきた者の声だった。

 

「私は五百年以上、魔法にすべてを捧げてきた」

 

風が、そこで一度だけ弱まる。

その声を聞かせるためみたいに。

 

「魔法こそが誇り。魔力こそが秩序。強き者が上に立ち、弱き者が膝をつく。それが、この世の正しいあり方よ」

 

アウラの手元の天秤の一方へ、彼女自身の魔力が満ちる。

深い。

重い。

五百年以上を費やし、魔法へ傾倒し、上位者として積み上げた純粋な質量。

それだけで平原の草が押し伏せられるように見えた。

 

「それを」

 

アウラの目が、アッシェを射抜く。

 

「お前のような空っぽが踏みにじるなど、あるはずがない」

 

もう一方の皿へ、アッシェの灯が乗る。

 

小さい。

あまりにも小さい。

魔法使いとして見れば、嘲笑すら浮かぶほどに。

 

天秤は当然のようにアウラ側へ傾いた。

 

「跪きなさい」

 

世界が、一瞬だけ重くなる。

 

見えない圧が、アッシェの膝裏へ来る。

喉へ来る。

背骨へ、座れ、伏せろ、従えと命じる冷たい力が流れ込んでくる。

 

城壁の上にいた兵の何人かの膝まで、意味もなく少し震えた。

命令はアッシェだけへ向いているのに、その言葉そのものが、人の神経を逆撫でする。

 

アッシェの足が、ほんのわずかに沈んだ。

 

土が鳴る。

 

アウラの口元に、冷たい確信が浮かびかける。

 

だがその瞬間、アッシェの胸の奥で、別の命令がよみがえった。

 

"強い子に生まれますように"

"その強い体があなたを守ってくれますように"

"そしてその強い体をもって、あなたが人を助けれますように"

 

聞いたことのないはずの、父と母の声。

優しく、静かで、しつこいほど強い声。

 

“跪け”という外からの命令と、

“立て”“生きろ”“守れ”という、もっと古く、もっと深く肉体へ焼きついた願い。

 

両親のまじないは、アッシェの現在の魔力を増やしたわけではない。

魔法使いとしての器を肥やしたわけでもない。

むしろ逆だ。

本来なら魔力として巡るはずだったものの一部を、骨と筋と神経と、生存性そのものへ先に組み替え、焼きつけてしまった。

 

だからアウラの天秤は、たしかにアッシェの“現在の魔力”には勝つ。

皿は当然のように傾く。

けれど、その先の命令が届くべき身体の奥底には、もう別の命令が先に刻まれている。

 

立て。

生きろ。

守れ。

 

アウラの命令は、そこで滑る。

 

膝は沈む。

だが、つかない。

 

アッシェはゆっくり顔を上げた。

 

アウラの目に、初めて本物の違和感が差す。

 

「……なぜ」

 

それは怒りではなく、理解できないものを前にした声だった。

 

「跪きなさい」

 

二度目の命令。

さらに強く。

天秤が軋み、魔力の圧が平原へ落ちる。

 

アッシェの肩が少しだけ沈む。

痛みはある。

喉の奥が冷たく締まる。

それでも身体の根幹だけが、別の論理で立っている。

 

「何なの、あなた」

 

アウラが言う。

 

アッシェは小さく息を吐いた。

 

「知らん」

 

本当に知らない。

なぜ自分がこうなのか。

どこまでがまじないで、どこからが自分なのか。

戦いの中だけ息がしやすいのも、そのことがひどく嫌なのも、全部を綺麗には説明できない。

 

ただ、ひとつだけ分かる。

 

「お前の秤には」

 

アッシェが低く言う。

 

「俺は乗れないらしい」

 

その一言が、アウラの誇りを真正面から踏み抜いた。

 

秤こそ秩序。

秩序こそ世界。

それが絶対だと信じてきた者へ、“乗らない”と言う。

それは序列の外に立つと言うのと同じだった。

 

「ふざけないで」

 

アウラの声へ、初めて生の苛立ちが混ざる。

 

「秤の外にいるものなんて、あるはずがない」

 

アッシェの口元が、そこでほんの少しだけ歪んだ。

 

笑みだった。

でも勝ち誇るものではない。

自分がまたこういう場所でだけ少し楽であることを、自分で自分に引いている笑みだった。

 

「……そうか」

 

疲れたように言う。

 

アウラの目が怒りに細まる。

 

「私は五百年以上を魔法に捧げてきた」

 

アウラが言う。

そこには、本物の誇りがあった。

魔族という種そのものが抱く、魔法への愛着と序列への信仰。

その先端に立ち続けてきたものの、冷たく高い誇り。

 

「五百年以上、魔力の高みを積み上げてきた。上位であることを証明し続けてきた。それを、お前のような空っぽが乱すなど――」

 

そこで、アッシェはまた小さく息を吐いた。

 

狩人の夜が、そこで少しずつ終わり始めているのが自分でも分かった。

地下、会談、城壁、広場。

そこまでは、相手を壊すための顔だけでよかった。

でも今は少し違う。

終わりが見えている。

だから、戦いの中にいるまま、少しだけ“人間の口”が戻ってくる。

 

「そうか」

 

アッシェが言う。

 

アウラが黙る。

 

「五百年もやって、それしか分からなかったのか」

 

その一言は、アウラにとって最大の侮辱だった。

 

五百年。

積み上げた時間。

誇り。

序列。

魔力。

その全部を、重みではなく、視野の狭さの証拠へひっくり返された。

 

アウラの顔が、本気で崩れる。

 

アッシェはそこで、疲れたように、少しだけ口元を緩めた。

 

「やっぱり長生きはするもんじゃないな」

 

その言葉はアウラへの侮蔑だった。

五百年も生きて、秤の外にあるものひとつ理解できない。

そんなものは長生きではなく、古びた偏執にしか見えない。

 

だが同時に、それはアッシェ自身へ向けた本音でもあった。

 

この世界で長く生きた先に、自分の居場所があるようには思えない。

魔法の時代。

魔力の秤。

人と魔族と協会と結界。

そのどこにも、自分が綺麗に収まる気はしない。

 

戦いの中でしか少し息がしやすくないのなら。

こういうふうにしか終わりへ触れられないのなら。

 

やっぱり、長生きはするもんじゃない。

 

その諦観が、ほんの少しだけ混ざっていた。

 

アウラには、それは分からない。

ただ、自分の五百年を古びたものとして切り捨てられた侮辱だけが届く。

 

「黙れッ!」

 

アウラの声が、初めて叫びに変わる。

 

天秤が唸り、黒い魔力がいくつも空中へ走った。

服従の魔法ではない。

今度は純粋な攻撃だ。

刃。

槍。

砲撃に近い圧。

五百年以上研ぎ澄ませてきた魔法使いとしての殺意が、そのまま平原へ降り注ぐ。

 

アッシェは真正面から走った。

 

黒い刃が肩を裂く。

槍が脇腹を掠める。

胸の前で圧が爆ぜ、息が詰まる。

それでも止まらない。

 

走りながら、胸の奥へまたあの声がよみがえる。

 

"強い子に生まれますように"

"その強い体があなたを守ってくれますように"

 

守るため。

助けるため。

そうであってほしい。

でも今、自分はまた、少しだけ呼吸が通りやすい。

 

「……息がしやすい」

 

小さく漏れる。

 

城壁の上の若い衛兵が、またそれを聞いた。

今度はその言葉と、平原の上を一直線に走る背中とが、一緒に焼きつく。

 

アッシェは魔法の雨を抜け、アウラの目前へ入った。

 

アウラが防御魔法を張る。

半透明の膜が、夜前の空に一瞬だけ浮かぶ。

まともな魔法使いなら解く。

戦士なら一度下がる。

アッシェは、その上から殴った。

 

膜が鳴る。

次いで、割れる。

 

アウラの顔へ初めて、はっきりした恐怖が差す。

 

ありえない。

そう言っている顔だった。

五百年以上積み上げたものの上で、“ありえない”としか呼べない現象が目の前に来ている。

 

拳が頬へ入る。

鼻梁が鳴る。

血が飛ぶ。

 

アウラが爪を返す。

黒い魔力が近距離で弾ける。

アッシェの腕が裂ける。

それでも、拳の順番は崩れない。

 

左。

胸。

右。

喉。

肩を掴み、引き寄せる。

頭突き。

膝。

さらに拳。

防御魔法の残りかすの上から、そのまま。

 

アウラの体が揺れる。

 

美しく整っていた顔が、痛みと驚愕で初めて崩れる。

魔法使いとしての距離がない。

秤の上で勝つための論理が、ここでは役に立たない。

 

「離れなさい!」

 

アウラが叫ぶ。

 

命令ではなく、初めての悲鳴に近い声だった。

 

アッシェはそれを聞き流した。

 

「ようやくだ」

 

低く言う。

 

アウラが顔を上げる。

そこにはもう軽蔑はない。

あるのは、自分の秤が通じないものを前にした、理解し損ねた恐怖だけだった。

 

「私は、大魔族だ……」

 

そこまでしか言えない。

 

アッシェは、もう答えなかった。

 

「七崩賢で……」

 

「そうか」

 

その一言だけは、ひどく静かだった。

 

最後の一撃は、胸の中心へ落とした。

 

心臓だけを狙ったのではない。

器そのものを壊す。

長く上位に立ち、秤を振るい、“正しい勝ち方”に執着してきた大魔族の形そのものを、拳で終わらせる。

 

骨が砕ける。

アウラの体が一瞬だけ浮く。

次の瞬間、さらに頭が平原の土へ叩きつけられる。

土が跳ね、草が揺れ、夜前の空気が一度だけ鈍く鳴った。

 

断頭台のアウラは、そこでようやく動きを止めた。

 

動きを止め、そして少しずつ輪郭を失い始める。

 

髪の先から。

指先から。

整っていた顔の輪郭から。

灰色がかった粒へほどけ、魔力で保っていた形そのものが、静かに砂みたいに崩れていく。

 

夜が、ついに平原へ落ちる。

 

死者の軍勢の上に立っていたものは消えた。

残ったのは、土の上に一人で立つ傷だらけの男と、それを見てしまった人間たちの、感謝と恐れの入り混じった沈黙だけだった。

 

狩りの夜は、そこで終わったのかもしれなかった。

だが、その夜が終わったあとに残るものが、果たして“普通の人間の朝”なのかどうかは、まだ誰にも分からなかった。

 

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