ゼーリエ「やれ」 作:目玉焼きは胡椒
聖都の夜は、整っている。
北側諸国の夜のように、闇そのものが人の喉へ手をかけてくることはない。
白い石の塔。
回廊。
礼拝堂の灯。
水路へ落ちる月の色。
そのすべてが、人の手で置かれ、人の都合で磨かれ、人の秩序の中へ組み込まれている。
夜になっても、聖都は人の都の顔を失わない。
静かではある。
だがその静けさは、息を殺した結果ではない。
守りがあり、結界があり、灯があり、鐘が鳴り、正しい場所に正しいものが収まっていると信じている街の静けさだ。
ゼーリエの執務室もまた、その白い静けさの中にあった。
広い机。
書架。
必要な分だけ灯る魔道具。
積み上げられた実務の書類。
北方支部の補修申請。
街道被害の一覧。
一級魔法使いの配置換え。
どれも人間にとっては重大で、どれも人間の社会には必要なものだ。
ゼーリエはそれらに目を通していた。
読んでいる。
だが、同時に別のものも見ている。
遠く。
とても遠く。
北側諸国の方角。
グラナト伯爵領のあたり。
魔力探知という言葉では少し足りない。
ゼーリエが感じ取っているのは、ただ「どこかに大きな魔力がある」という程度の粗い感覚ではなかった。
もっと細かく、もっと根の方にある、魔力で形を保っているものの輪郭そのものに近い感覚だ。
だから、最初の欠落が起きた時も、彼女はすぐに分かった。
北のどこかで、ひとつ分、魔力の形がほどけた。
紙を持つ指先が、そこでほんの少しだけ止まる。
「……へえ」
小さく言う。
それだけだった。
まだその段階では、嘲るほどでも、驚くほどでもない。
北には魔族も、人間も、兵も術者もいる。
何か一つ落ちることそれ自体は、別に珍しいことではない。
だが、その場がグラナト伯爵領であり、そこにアウラの配下が動いていることを思えば、候補は自然と絞られる。
若い方かもしれない、とゼーリエは思った。
勢いが勝ち、確認より先に自分の力を使いたがる類。
そういうものはだいたい死にやすい。
紙へ視線を戻す。
読む。
書き込みを追う。
だが意識の一部はもう、完全に北へ向いていた。
やがて二つ目が消えた。
今度はさっきより、はっきりしていた。
偶然ではない。
一枚だけの欠落ではなく、連続した死だ。
ゼーリエはそこで、羽根ペンを置いた。
椅子へ深くもたれ、薄く息を吐く。
「ほう」
その声には、もう明らかな愉快さがあった。
「二枚か」
窓の外の聖都は、相変わらず白く静かだった。
だがゼーリエの意識の中では、北の夜が少しずつ形を取り始めている。
アウラ。
昔、勇者ヒンメルに退けられた七崩賢。
退けられ、逃げ、沈み、そしてまた力を蓄えて戻ってきた大魔族。
あれの配下が、いま二つ、立て続けに消えた。
ゼーリエは、そこでまず笑った。
声を立てる笑いではない。
喉の奥で、ほんの少しだけ冷たく転がす笑いだ。
一度敗れたのなら、それで足りただろうと彼女は思う。
ヒンメルに退けられた。
なら、その時点で身の程を知って、大人しく北の闇のどこかで朽ちていればよかった。
力を取り戻したからといって、わざわざ同じ地へ戻り、今度こそ“勝った形”で上書きしようとする。
その執着を、人間なら執念とか雪辱とか呼ぶのかもしれない。
だがゼーリエはそうは呼ばない。
「愚かだ」
ただそう思った。
一度敗れてなお、その敗北に縛られ続ける。
それは自由ではない。
力が増そうが、歳月を重ねようが、結局は昔の敗走へ引き戻されているだけだ。
そして、その愚かさはアウラだけのものではない。
ゼーリエはそこを、きちんと知っている。
魔族は皆、魔法を愛している。
魔法に誇りを持っている。
長い時間のほとんどを、一つの魔法を研ぎ澄ますために費やす。
より優れた魔法使いであること。
より多くの魔力を持つこと。
それが、そのまま序列であり、価値であり、上位性になる。
つまり彼らにとって魔力とは、ただの力ではない。
秤そのものだ。
世界を量り、自分と他者の高低を測るための絶対の尺度。
だからこそ、魔法を心理戦に絡めることを嫌う。
魔力量を隠す。
弱く見せる。
相手に誤認を与える。
そういう戦い方は、彼らにとってただの戦術ではなく、秤そのものを汚す行為なのだ。
魔族は欺きの生き物だ。
だがそのくせ、魔法の勝負に限っては妙な正面性へ執着する。
誇りとでも呼ぶしかない、ひどく人間的で、そしてひどく不自由な歪みだ。
アウラもまた、その種の論理の中にいる。
いや、アウラはその論理を、服従と序列の魔法という形で、さらに先鋭化して体現している。
より多くの魔力を持つ者が上。
少ない者が下。
上が下を従える。
その秩序を、魔法そのもので証明してきた。
だから、一度ヒンメルに退けられたことが許せない。
ただ滅ぼせばいいのではない。
門が開き、結界が落ち、人間が恐れ、迷い、そして最後に自分の軍勢が踏み込む。
そういう形で勝ちたい。
勝利の形式そのものに執着する。
魔族らしい、とゼーリエは思う。
魔法を絶対の価値基準にし、その秤に自分も他者も載せ続ける。
だからこそ、その秤の外にあるものを最後まで理解できない。
「みじめだな」
小さく言う。
その時だった。
三つ目が消えた。
今度は、ゼーリエもほんの一拍だけ黙った。
最初の一枚。
次の一枚。
そして三つ目。
これで確定だ。
若い配下だけではない。
細い方だけでもない。
最後の一枚、淡い髪の魔族まで落ちた。
和睦を装い、言葉で人間を揺らし、序列の中で上手く立ち回るあれが、いま消えた。
「……そうか」
ゼーリエは窓辺まで歩いた。
聖都の白い夜景が下に広がる。
灯。
塔。
水路。
どれも変わらず、人の都の整いを保っている。
その整いの向こうで、北では今、アウラの配下三人が立て続けに消えた。
あれがやったのだろう。
送り出した男。
杖を持たず、魔力はほとんどなく、けれど肉体の側が異様に偏っているあれが。
ゼーリエはそこで、ようやく冷たい感心を覚えた。
実務は紙の上で、先行偵察だの現地接続だの必要時牽制だのと書いた。
いかにも人間らしい言葉だ。
だが、あれを北へ投げ込めば、そういう紙の言葉で収まるはずがないことくらい、最初から分かっていた。
そして実際、収まらなかった。
「見事だよ」
小さく言う。
褒めているようで、それだけではない。
面白がっているようで、それだけでもない。
見立てが当たったことへの納得と、やはりあれはそういう形でしか世界へ触れられないのだという、冷たい確認が混じっている。
だがその先に来た感情は、単なる嘲笑ではなかった。
ゼーリエは、窓枠へ手を置いたまま、ほんのわずかに目を細める。
魔力を絶対の秤にしてきた種。
魔法を誇りとし、その勝負の“正しさ”に妙な潔癖さを持つ種。
その魔族の、その中でも特に序列と服従の論理を濃く持つアウラが、最後に引導を渡される相手が、魔力のほとんどない男だということ。
それは、あまりにも皮肉だった。
ただの強敵に負けるのとは違う。
魔力の多寡で説明できる敗北なら、彼らの秤の中にまだ収まる。
上が下を倒した。
下が上に屈した。
それで世界はまだ彼らの論理の中にある。
だが、違う。
今アウラの前にいるものは、秤の上に正しく乗らない。
魔力量で測っても意味がない。
魔法の技巧で値踏みしても意味がない。
魔法使いとしての誇りや正面性で語っても、そもそも戦いの前提が違う。
それは、魔族にとってはかなり残酷なことだった。
自分たちが絶対だと信じてきた価値基準が、役に立たないまま終わる。
しかも、その終わりが、自分たちの誇りを逆撫でする形で来る。
ゼーリエは、その構図を思って、初めてごく薄い憐れみを覚えた。
情ではない。
温かさでもない。
もっと構造的な、冷たい憐れみだ。
「哀れだな、アウラ」
その声は静かだった。
一度ヒンメルに退けられた。
退けられたなら、そのまま北の闇へ沈んでいればよかった。
力を蓄え、執着を育て、“正しい勝ち方”にまで拘って戻ってきた。
そして最後に待っているのが、魔法の秤では量れないものに壊される結末だ。
それはたしかに、当然の報いでもある。
だが、当然であることと、哀れであることは矛盾しない。
「魔力を秤にしてきたお前が」
ゼーリエは窓の外を見たまま、低く続ける。
「秤の外にいるものに殺されるか」
その一文には、嘲りもあった。
そして、それと同じだけの冷たい同情もあった。
アウラだけが特別なのではない。
魔族という種そのものが、そういう秤の上でしか世界を見ない。
だから、秤の外側から来るものに弱い。
理解できず、認められず、最後まで“何に負けたのか”さえ綺麗には飲み込めないまま終わる。
アウラはその最も分かりやすい実例になるのだろう。
「フランメ」
誰に聞かせるでもなく、ゼーリエは言った。
「お前の弟子も、結界も、勇者も、結局はこういうところへ繋がる」
それは弟子へ向ける呆れにも似ていた。
魔法文明。
結界。
勇者。
魔族。
全部が長い時間をかけて絡まり、最後の最後で、ほとんど魔力のない異物が一つ、それを殴って終わらせる。
ずいぶん歪で、ずいぶん綺麗な構図だ。
ゼーリエはそこで、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑った、というほどではない。
けれど、遠い北でいままさに起ころうとしている結末の形が、あまりにも出来すぎていて、少しだけ可笑しかったのかもしれない。
「さて」
小さく言う。
「そこから先は、本当にお前自身の番だ」
誰に向けた言葉かは、半分曖昧だった。
アウラか。
アッシェか。
それとも、その二人がぶつかることでようやく形を持つ、物語の始まりそのものか。
いずれにせよ、配下三人の灯は消えた。
残るのは本体だけだ。
ゼーリエは窓から手を離し、机へ戻る。
書類はまだそこにある。
北方支部。
輸送路。
人間の実務。
彼女は再びそれらへ目を落とした。
だが横顔には、まださっきの嘲笑と憐れみの残りが薄くあった。
魔法を誇りとし、魔力を秤とし、その秤の正しさを疑わずに生きてきたもの。
それが最後に、秤の外から首を折られる。
それを滑稽と言わずして何と言う。
それを哀れと言わずして何と言う。
聖都の夜は、何も知らないまま白く静かだった。
だが、その静けさの裏で、ゼーリエだけは北の終わりの近さを、はっきり知っていた。