ゼーリエ「やれ」 作:目玉焼きは胡椒
31
断頭台のアウラが消えたあとも、平原にはしばらく風の音だけが残っていた。
夜の落ちきる直前の風だった。
昼の熱はもうどこにも残っていない。
それなのに夜の底へ完全に沈みきってもいない、境目の時間の冷たい風が、草の先を撫で、崩れかけた死者の鎧を鳴らし、灰になりかけた魔族の残りを少しずつ運んでいく。
平原の上には、命令を失った首なしの軍勢がまだいくつも残っていた。
だがそれも長くは続かなかった。
首のない騎兵は土へ傾き、槍兵の膝は折れ、旗を引きずっていた死者たちは、糸を切られた人形のように一体ずつ草の中へ沈んでいく。
魔力で無理やり形を保っていたものが、その支えを失って、ただの残骸へ戻っていくのだ。
その中で、アッシェだけがまだ立っていた。
肩に深い傷がある。
頬には裂け目。
腕にも脇腹にも、血の線がいくつも走っている。
だが、そのどれもが今すぐ彼を倒す傷ではなかった。
彼の身体は、普通の人間より少しだけ、痛みや損傷の“効き方”が違う。
その違いを、本人だけがうまく説明できないまま、ずっと抱えてきた。
風が吹くたび、アウラの残りが少しずつ夜へほどけていく。
平原の向こう、城壁の上には、人の影が並んでいた。
兵。
側近。
使用人。
避難の途中で北壁まで来てしまった町の者たち。
誰も声を出さない。
出せないのだろう。
助かった。
それはもう分かっている。
町は落ちなかった。
門も壁も残った。
伯爵も生きている。
大魔族も消えた。
なのに、喉が開かない。
自分たちを救ったものが、ひどく人間離れした形でその場へ立っているからだ。
アッシェは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥で、さっきまで少しだけ通りやすくなっていた呼吸が、ようやく元へ戻っていく。
戦いの中でだけ少し楽だ。
その事実が、何より嫌だった。
嫌なのに、終わったあとになっても、そこに少し安堵している自分がいる。
「……最悪だ」
小さく漏らした声は、風に薄く持っていかれた。
けれど、城壁の上の何人かには届いていた。
若い衛兵が、その言葉を聞いて唇をきつく結ぶ。
平原の上で、あの人はまたそう言った。
魔族を倒したあと、自分で“最悪だ”と言った。
その意味までは分からない。
だが、忘れないだろうと彼は思った。
グラナト伯爵は喉を押さえたまま、長く息を吐いた。
十数年。
それ以上かもしれない。
長い長い摩耗の果てに、ようやく終わった。
ヒンメルに退けられた敗走を、アウラ自身が“正しい勝ち方”で上書きしようとしてきた。
その執着ごと、今ここで終わった。
伯爵は平原に立つ男を見て、低く言う。
「人間だ」
それは確認だったのか、自分へ言い聞かせる言葉だったのか、聞いていた兵には分からなかった。
ただ、その一言だけが、北の風の中でひどく重く響いた。
32
翌朝の空は、ひどく普通だった。
北側諸国らしい、薄い灰色の朝だった。
晴れとも曇りとも言い切れない、頼りない色の空。
夜の冷えをそのまま引きずった光が、城壁の石を白くも青くもない色で撫でていく。
昨夜までのことが嘘だったような朝ではない。
そんな都合のいい朝ではなかった。
石畳にはまだ血の跡が残っている。
壁際には運びきれなかった壊れた槍が寄せられている。
館前の広場には、叩きつけられた何かのへこみが浅く残り、水を流しても消えきらなかった灰色の汚れが石の目地へ入り込んでいた。
それでも、朝だけは来る。
露店の板が持ち出される。
井戸へ人が集まる。
パンを焼く匂いが、ようやく表の通りまで流れ出す。
子どもの姿はまだ少ない。
昨日までよりは増えた。
でも、まだ完全には戻っていない。
町全体が、壊れなかったものたちを一つずつ撫でながら、
まだ使えるか
と確かめているみたいな朝だった。
石畳広場では、兵が二人、へこんだ石を見下ろしていた。
一人は若い。
昨夜、北壁の上でアッシェの声を何度も聞いていたあの衛兵だ。
もう一人は年嵩で、目の下に濃い隈があり、戦場の空気を長く吸ってきた顔をしている。
若い兵が、石のへこみへしゃがみ込んだまま言う。
「……本当に終わったんだよな」
年嵩の兵は、しばらく石のひびの走り方を見ていた。
昨夜の音を思い出しているのかもしれない。
やがて低く返す。
「ああ」
短い返事だった。
短いのに、その声にもまだ追いついていないものが残っていた。
終わった。
たしかにそうだ。
でも、心の方が終わりへ追いつくには、昨夜は少し濃すぎた。
「助かったんだよな」
若い兵がもう一度言う。
確認のようだった。
誰かに答えてもらえれば、自分でもそう信じやすくなる類の問いだ。
年嵩の兵は、そこで石畳から目を上げた。
「ああ。助かった」
一拍。
「……でも、お前も見ただろ」
若い兵は答えない。
答えないまま唇をきつく結ぶ。
見た。
たしかに見た。
広場の真ん中で、細い女の魔族を石に叩きつけた時、
その男の口元がほんの一瞬だけ歪んだのを。
あれが笑いだったのかどうか、今でもよく分からない。
でも、そう見えた。
その時、背後からしわがれた声がした。
「朝っぱらから、湿気た面してやがるな」
二人が振り返る。
そこにいたのは、五十をとうに越えた町の男だった。
背は高くない。
片脚が少し悪いのか、歩き方にわずかな癖がある。
髭は雑に伸び、目尻の皺が深い。
昔は兵だったのかもしれないし、ずっと死体運びや荷役に関わってきたのかもしれない。
どちらにせよ、長くこの町で“戦いの残り”に触れてきた顔だった。
善人かと言われれば、たぶん違う。
少なくとも素直な男ではない。
礼をそのまま礼として言えない顔をしている。
何かひとつ言われれば、ついその横へ腐れた釘みたいな一言を足したがる類の男だ。
若い兵が少しだけ顔をしかめる。
「別に湿気てませんよ」
「してる」
男は即答した。
「助かった顔と、助かってもまだ喉に引っかかってる顔の区別くらい見りゃ分かる」
年嵩の兵が苦く笑う。
「あんたは朝から口が悪いな」
「朝だけじゃねえよ」
男は鼻を鳴らし、石畳のへこみの前まで来た。
そこで少しだけ屈み、指先で灰色の跡をなぞる。
「助かったさ」
独り言みたいに言う。
「そりゃ間違いねえ」
誰も口を挟まない。
その一言が本音なのは、声の調子で分かった。
「伯爵様も生きてる。門も残った。結界も落ちなかった。アウラも消えた。だったら助かったってことだ」
男は立ち上がる。
その顔には、感謝を表へ出したがらない者だけが持つ、妙なねじれがあった。
「でもな」
若い兵の目が、わずかに動く。
男はへこんだ石畳を顎で示した。
「英雄なんてもんじゃねえよ、ありゃ」
一拍。
「あれは聖都からやって来た獣だ」
朝の空気が、その一言でわずかに止まった。
若い兵が眉を寄せる。
「……獣、ですか」
「そうだ」
男は平然と言う。
「人間の形はしてた。聖都から来たって話だ。町も助けた。そこまではいい」
そこで肩をすくめた。
「だが昨夜のありゃ、英雄様だの騎士様だの、そういう綺麗なもんじゃねえ。魔族を食い千切るために聖都から降りてきた獣だ」
若い兵は反発したそうな顔をする。
「そんな言い方――」
「間違ってるか?」
男が被せる。
鋭い言い方ではなかった。
むしろ妙に静かだった。
「お前、見たんだろ」
若い兵は口を閉じる。
「広場で魔族を石に叩きつけたのも。北壁の上で、あの淡い髪の魔族を砕いたのも。平原で、大魔族をぶん殴って終わらせたのも。全部見たんだろ」
若い兵は視線を落とした。
「……見ました」
「なら、言葉を綺麗にしすぎるな」
男は吐き捨てるように言う。
「助けちゃくれた。それは本当だ。だが、あの夜のありゃ、人間の顔じゃなかった」
その言葉に、近くで水を汲んでいた女が小さく肩をすくめた。
昨夜、階段の陰でアッシェとリーニエの戦いを見てしまったあの女だった。
「やめとくれよ」
少し困ったように言う。
「助けてくれた人なんだから」
「分かってるさ」
男はぶっきらぼうに返した。
「だから厄介なんだろうが」
女は黙る。
男の言い方は乱暴だった。
だが、完全には否定できない。
なぜなら、彼もまた“助かった”を否定していないからだ。
「魔族よりはましだ」
男が言う。
「ずっとましだ。あの獣が来なきゃ、俺たちは今ごろ壁の中で首を落とされてた」
その言葉に、若い兵がゆっくり顔を上げる。
「じゃあ、やっぱり恩人じゃないですか」
男はそこで初めて、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑ったのではない。
苦く、乾いた動きだった。
「恩人だよ」
一拍。
「だが、恩人って言やぁ全部きれいに片づくほど、人の心は器用じゃねえ」
その言い方には、妙な重みがあった。
自分でもそう思いたい。
でも昨夜見たものが、それを許さない。
そういう人間の本音の重さだ。
水桶の女が小さく言う。
「……あの人、戦ってる時だけ少し違った」
男は鼻を鳴らす。
「少し、か」
「そう見えたよ」
女は強く言い返さない。
ただ、自分の中の言葉をそのまま出す。
「戦いが終わったあとは、ひどく疲れた顔をしてた。まるで、ようやく終わったって顔だった」
若い兵が、そこでぽつりと言う。
「“最悪だ”って言ってました」
男の目がそちらへ向く。
「聞いたのか」
「ええ」
若い兵は頷く。
「何度か。広場でも、北壁でも、平原でも。魔族を倒したあとで……“最悪だ”って」
男はそこで少しだけ黙った。
朝の光が、深い皺の間へ落ちる。
「ふん」
と、やがて鼻を鳴らした。
「獣が、自分で自分のことを嫌ってやがるのか」
その言い方は悪い。
悪いが、何かひとつ本質に触れている気もした。
朝の空気の中へ、その呼び名だけが残る。
聖都の獣。
悪口だ。
感謝をそのまま言えない男の、ひねくれた呼び方だ。
でも、それだけではない。
この町が昨夜見たものを、一番乱暴に、そして一番正直に要約してしまった名でもあった。
33
館の奥、北向きの客間で、アッシェは傷の手当てを受けていた。
肩。
腕。
脇腹。
頬。
包帯の白が、乾いた血の色を余計に濃く見せる。
治療師の老人は、包帯を巻き終えたあと、小さく息を吐いた。
「妙だな」
「何がだ」
「治らんわけじゃない。だが、普通の人間より“傷が深く入りきらん”感じがある」
アッシェは窓の外へ視線をやった。
石畳広場のへこみは、ここからでも少し見える。
そこに三、四人、人が立っているのも。
「そうらしい」
治療師はちらりと顔を上げた。
「他人事みたいに言うのだな」
「他人事みたいなもんだ」
「自分の体だろう」
「それでもだ」
治療師はそれ以上追わなかった。
長く人を見ていれば、聞いても出てこない沈黙があると知っている。
やがて扉が叩かれ、若い兵が食事を運んできた。
昨夜、何度もアッシェの言葉を聞いていたあの衛兵だ。
盆を机へ置き、少しだけ迷ってから言う。
「……助かりました」
本音だった。
それはすぐ分かった。
アッシェは短く返す。
「そうか」
兵はまだ去らない。
何かもう一つ言いたげな顔だった。
やがて意を決したように口を開く。
「下で……町の人が、あなたのことを話していました」
アッシェは目だけを向ける。
「何て」
若い兵は、少しだけ困ったような顔になった。
「気を悪くするかもしれません」
「言え」
兵はためらい、それでも答えた。
「……“聖都の獣”だと」
部屋の空気が、それで変わるわけではなかった。
アッシェの顔も、ほとんど動かなかった。
ただ、一拍だけ沈黙が落ちる。
若い兵は慌てたように続ける。
「でも、悪口だけじゃないんです。その……助かったって。本当に助かったって、みんな言ってました。ただ、昨夜のことを思い出すと、うまく――」
「分かってる」
アッシェが言う。
兵は口を閉じる。
アッシェは窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
「獣、か」
その一言には怒りも苦笑もなかった。
むしろ、少しだけ疲れた納得に近かった。
人の輪へ馴染むために軽口を使う。
戦いになると狩人みたいに静かになる。
どっちが本当の自分なのか、自分でも分からない。
なら、“獣”と呼ばれるのは、たぶんそれほど的外れでもないのかもしれない。
それが嫌で、でも否定しきれない。
胸の奥で、あの声がまた微かに揺れる。
"強い子に生まれますように"
"その強い体があなたを守ってくれますように"
"そしてその強い体をもって、あなたが人を助けれますように"
「……助けた、か」
小さく言う。
若い兵にはその意味が分からなかっただろう。
でも、それ以上は聞かなかった。
去り際、兵は一礼して言う。
「俺は……獣でも、別にいいと思います」
アッシェが少しだけ目を上げる。
兵は顔を赤くしたまま続ける。
「助かったので」
それだけ言って、逃げるように部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、アッシェはしばらくその音を聞いていた。
助かった。
でも怖かった。
獣みたいだった。
それでも助かった。
その矛盾が、たぶんこの町の人間の正直なところなのだろう。
34
伯爵との短い謁見のあと、アッシェはその日の夕方に町を出ることを決めた。
北側諸国最大の魔法都市――オイサースト。
次の目的地はそこだった。
アウラ討滅の報告だけなら、封書でもできる。
文面を整え、封蝋し、使いへ預ければ済む話だ。
だがそれでは数日、町に留まる必要がある。
報告書を整え、街道の安全を見て、返答を待つ。
その数日を、アッシェは欲しなかった。
町は助かった。
人は生きた。
それは本当だ。
だが町に残った空気は、感謝だけでできてはいなかった。
助かった、でも怖かった。
あの人は笑っていた。
“最悪だ”と言っていた。
聖都の獣。
そういう視線の中に、長く立っていたいとは思わなかった。
もうひとつは、戦いの余韻だった。
地下。
会談。
城壁。
平原。
そこまでに重ねたものの熱が、まだ少し胸の奥に残っている。
戦っている時だけ、少し息がしやすい。
その最悪さを、町の中でじっと飼い慣らすより、北へ向かう風の中で冷やしたかった。
報告は、自分の足で持っていく。
ついでに少し北へ抜ける。
余計なものが少し冷えるかもしれない。
そんなふうに考えて、アッシェはさらに北へ出た。
見送りの場には多くの人がいたわけではない。
門番。
若い衛兵。
水桶の女。
それから、母親の陰から覗いていた子ども。
少し離れた石壁にもたれかかって、あの捻くれた男も立っていた。
腕を組み、いかにも見送りなどする気はないという顔で。
でも、結局そこに来ている時点で、そういうことなのだろう。
アッシェが門をくぐろうとした時、水桶の女が小さく言う。
「助かりました」
今度ははっきり聞こえた。
アッシェは振り返らず、片手だけ上げた。
それが礼なのか別れなのか、判別のつきにくいくらい軽い動きだった。
すると石壁にもたれていた男が、低く吐き捨てるように言った。
「次は別の町を助けてこいよ、聖都の獣」
若い衛兵が慌てる。
「おっさん!」
だが男は気にしない。
「礼だよ」
ぶっきらぼうに言う。
「町を残していった礼だ」
アッシェはそこで初めて、ほんの少しだけ振り返った。
男と目が合う。
男は相変わらず、素直に頭を下げる顔をしていない。
悪態の形でしかものを言えない男だ。
でも、その目の底にはたしかに、助けられた人間だけが持つ色があった。
アッシェは一拍だけ黙って、それから小さく言った。
「そうか」
それだけだった。
でも、その「そうか」は、今までのものよりほんの少しだけ柔らかかった。
狩りの夜が終わり、人間の口が少しだけ戻っている時の声だった。
男は鼻を鳴らす。
「ふん」
そしてわざとらしく顔を逸らした。
「さっさと行け。長居されても困る」
アッシェはそれ以上何も言わず、街道へ出た。
背は少しずつ小さくなっていく。
北の空気の中へ、いつの間にか溶けていくみたいに。
町に残ったのは、
助かったという事実と、
でもあの人は少し怖かったという感触と、
平原の上で一瞬だけ笑って見えた顔の記憶と、
そして新しく与えられた通り名だった。
聖都の獣。
35
北へ行くほど、街道は痩せていく。
村も疎らになる。
人影は減り、代わりに雪が増える。
北側諸国の冬は境目が曖昧だ。
秋の終わりがそのまま長い冬へ擦れていき、気がつくと、地面も岩も木の幹も、全部が同じ冷たさを帯びている。
オイサーストへ至る道の途中、デッケ地方へ差しかかった頃には、雪はもう“降るもの”ではなく“そこにあるもの”になっていた。
白い。
ただ白い。
岩の陰も、草の屍も、古い道標も、全部が半ばまで白に埋まっている。
吹いていなければ静かだ。
だが一度風が立つと、その静けさのすべてが刃みたいに反転する。
シュヴェア山脈の麓へ入った時、吹雪は突然来た。
白い壁が立つ。
風と雪が一緒になって、前も横も上もなくなる。
耳が詰まり、目が潰れ、鼻の奥まで冷たくなる。
道は消え、岩の位置もあやふやになり、少し離れた木立すら輪郭を失う。
アッシェは立ち止まらなかった。
吹雪そのものは、彼にとって致命ではない。
寒さも飢えも、普通の人間ほど素直には届かない。
息が凍りつくほどの夜でも、骨と筋肉と皮膚のどこかが、まだ生きる方へ強くできている。
それでも、そのまま歩き続けるつもりだった彼を止めたのは、吹雪ではなく声だった。
「おい、そっちは崖だ」
白の向こうから、低くよく通る声がした。
アッシェがわずかに足を止める。
吹雪の裂け目の向こう、白い息の中に男が立っていた。
背が高い。
肩が広い。
雪に濡れても少しも慌てていない立ち方。
僧服に似た格好をしているが、野にいる者の体でもある。
「あんたは?」
アッシェが言う。
「失礼。
「…アッシェ」
短く答える。
「崖は見えていた」
「見えてるようには見えなかった」
クラフトは平然と返す。
「避難小屋が近い。少なくとも、今この吹雪の中を意地で進む必要はない」
アッシェは少しだけ空を見た。
見ても何も見えない。
雪しかない。
風の音しかない。
「平気だ」
「そうだろうな」
クラフトはあっさり言う。
「お前はたぶん、平気だ」
その言い方が妙に正確で、アッシェは一瞬だけ相手を見た。
クラフトは、雪まみれの中でわずかに肩をすくめる。
「だが、平気なのと、無意味に吹雪へ背を向けるのは別だ」
一拍。
「中に来い。避難小屋に火がある」
アッシェは少し迷って、それから従った。
吹雪に従ったのではなく、
平気だからといって、わざわざ無意味に進む必要はない
という理屈の方に、少しだけ納得したからだった。
避難小屋は、シュヴェア山脈の麓の岩陰に半ば埋まるように建っていた。
古い。
だが手入れはされている。
雪を凌ぐための分厚い壁。
風を殺すための低い屋根。
中へ入ると、薪の匂いと、乾いた木の熱と、人が何度も使ってきた場所にだけある柔らかな煤の匂いがした。
火種は落ち着いて燃えていた。
その火のそばで、クラフトはアッシェを一瞥してから言った。
「傷だらけだな」
「そうか」
「ひどく疲れてる顔もしてる」
「そうか」
「話したくない顔だ」
「そうか」
そこまで言ってから、クラフトは鼻で笑った。
「面倒な返しをするやつだ」
アッシェは火へ手をかざした。
温かい。
温かいが、何かが治る温かさではない。
ただ、吹雪の白をいったん忘れさせる程度の熱だった。
「吹雪が引くまではここにいたほうがいい」
クラフトが言う。
それ以来、アッシェは避難小屋に留まっていた。
別に彼が小屋の中へ座っている必要はない。
吹雪の中でも死なない。
山を越えられる。
そういう身体だ。
だが、クラフトはそれを知ったうえで、妙に自然に彼を小屋へ留めた。
「火は絶やすなよ」
「雪を落としてこい」
「薪が減ってきた」
「夜は長い」
そうやって仕事を振る。
追い出しもせず、変に気も遣わず、ただ「いるなら働け」という温度で扱う。
それが少しだけ楽だった。
その日も、アッシェは薪にするための木を集めに外へ出ていた。
吹雪はまだ強い。
だが朝よりはわずかにましだった。
小屋の近くに目印を打ち、倒木を割り、乾いている部分だけを選んで束ねる。
木の匂いが、雪と氷の匂いの中で妙に生々しい。
薪を抱えて帰る途中、風の向こうから、はっきり違う気配がした。
人だ。
複数。
足取りが乱れている。
吹雪に対して体の置き方がよくない。
遭難しかけている歩き方だ。
アッシェは足を止めた。
白の壁の向こうに、ぼんやり三つの影が揺れる。
一つは細く、ぶれない。
一つは大きくて、吹雪に押されている。
もう一つは小さいが、足運びだけはまだしっかりしている。
遭難した旅人。
そう判断するまでに時間はかからなかった。
彼は抱えていた薪の束を片腕へ寄せ直し、吹雪の中へ数歩踏み出した。
やがて、白の切れ目の向こうから顔が見えた。
銀髪の少女。
紫の髪の少女。
赤髪の青年。
雪をまとい、吐く息も白く、頬を風に打たれながら、それでもなお前へ進もうとしている。
だが、進む先は少しずつずれていた。
このままだと、山肌の陰へ寄って、もっと見つかりにくい方へ流される。
アッシェは声を張らなかった。
この風では叫んでも削れる。
代わりに、近づいて短く言う。
「こっちだ」
赤髪の青年がぎょっとして顔を上げる。
銀髪の少女だけが、最初からあまり驚かなかった。
アッシェは続ける。
「小屋がある。ついてこい」
青年が何か言いかける。
たぶん警戒だ。
だが紫の髪の少女が、吹雪の中でも冷静な目でアッシェを一度だけ見て、すぐ頷いた。
「お願いします」
短く、はっきりした声だった。
アッシェはそれ以上話さず、先に立つ。
雪の中を迷いなく進む。
山に詳しい者の足というより、吹雪の視界の悪さそのものが、あまり障害になっていない歩き方だった。
赤髪の青年が小さく漏らす。
「なんで見えるんだよ……」
紫の少女が「今は黙って」と小さく返す。
銀髪の少女は無言だった。
だが、その無言は疲労だけのものではない。
途中で一度だけ、彼女の視線がアッシェの背へ静かに止まった。
小屋へ戻るまでの道は、普段より長く感じられた。
吹雪の中では距離の感覚が鈍る。
白しかない世界では、人は数歩先の背中ひとつへしがみつくように進むしかない。
ようやく避難小屋の輪郭が見えた時、赤髪の青年が本気で安堵の息を吐いた。
中へ入る。
扉を閉める。
雪を払う。
火の熱が一気に頬へ当たる。
それだけで、別の世界だった。
小屋の中にはクラフトがいた。
火の番をしながら、扉の音に顔を上げる。
三人の旅人を見て、驚くより先に「増えたか」という顔をした。
「拾った」
アッシェが言う。
クラフトは頷いた。
「そう見える」
銀髪の少女――フリーレンは、火のそばへ歩み寄りながら、そこで初めてアッシェをまともに見た。
魔力はほとんど空に近い。
これははっきりしている。
普通の魔法使いとして見れば、驚くほど薄い。
それなのに、吹雪の中を平然と薪を抱えて戻ってきた。
肉体の芯だけが異様に成立している。
しかも、その“空っぽさ”の上に、別の名残がうっすら残っていた。
乾ききらない血の匂い。
肩や腕に走る新しい裂傷。
そして何より、アウラ一党の魔法の残り香。
リュグナーの血の魔法の、細く鋭い傷跡のような残滓。
服従の天秤が通りきらなかった後の、歪んだ魔力の擦れ。
大魔族級の防御魔法を力で割った時にだけ生まれる、嫌な歪み。
フリーレンの目が、そこでほんのわずかに細くなる。
数日前、南から北へ向かう旅人の口から聞いた噂が頭の中でつながった。
グラナト伯爵領でアウラが落ちた。
聖都から来た妙な男がいた。
人々はその男を、“聖都の獣”と呼んでいるらしい。
その時は大げさな噂だと思った。
人は強いものを見たあと、すぐに話を濃くする。
だが今、目の前にいる男は、その噂の輪郭へ妙に合ってしまう。
魔力はほとんどない。
でも、その身体は明らかに普通ではない。
しかも大魔族級の戦場を通ってきた残骸だけを、静かにまとっている。
フリーレンが黙っていると、クラフトが火へ薪をくべながら言った。
「南の方から、妙な噂が先に届いていた」
何でもない口調だった。
「聖都から来た獣、だったか」
赤髪の青年――シュタルクが目を丸くする。
「え、なにそれ」
クラフトは肩をすくめる。
「さあな。噂をそのまま信じる趣味はない」
そこで一拍置いて、アッシェを見た。
「だが、まるきり外れでもないのかもしれん」
フェルンが、火の向こうからアッシェを静かに見た。
警戒している。
でも怯えてはいない。
あくまで丁寧に距離を測る目だった。
フリーレンはそこで、ぽつりと言った。
「獣だって聞いてたけど、人間だね」
小屋の中が、ほんの一瞬だけ静かになる。
シュタルクは「えっ」と小さく漏らし、フェルンはフリーレンを横目で見る。
クラフトは火をいじる手を止めない。
アッシェはすぐには答えなかった。
火を見た。
燃えている薪を見た。
吹雪に白く削られた自分の靴先を見た。
そして、少しだけ疲れた顔のまま、小さく息を吐いた。
「……まだわからない」
その返事には、否定も肯定もなかった。
獣じゃない、とも言えない。
そうだ、とも言い切れない。
自分が何なのか、まだ本人にも分かりきっていない。
戦いの中でだけ息がしやすいことも、そのことを自分で嫌っていることも、何も整理がついていない。
だから、保留するしかない。
フリーレンは、その返しを聞いてほんの少しだけ目を細めた。
たぶん、その“保留”の仕方に、人間らしさを見たのだろう。
吹雪はまだ外で鳴っている。
壁を叩き、屋根を擦り、世界を白一色に閉ざしている。
だが、その小屋の中にだけは、火があり、木の匂いがあり、人の呼吸があった。
しばらくして、フリーレンが言った。
「私はフリーレン」
まっすぐな言い方だった。
警戒を解いたわけではない。
でも、名乗るだけの距離には入ったという声だった。
アッシェは彼女を見た。
銀髪。
静かな目。
噂の向こうにいた名前。
魔王を倒した勇者一行の魔法使い。
その名前を、彼はたしかに知っていた。
「アッシェ」
短く返す。
それだけだった。
だがその一往復だけで、小屋の中の空気は少し変わる。
噂だったものが名を持ち、通り名だったものが一人の旅人として火の前に座る。
まだ完全に理解したわけではない。
理解する必要もない。
ただ、名前が置かれた。
外では吹雪が、まだ白い壁を作っている。
けれどその小屋の中だけは、次の物語へ続くための、細い火がたしかに燃えていた。
思いついたのでテスト
感想114514
続くかどうかは謎