ゼーリエ「やれ」   作:目玉焼きは胡椒

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第二章 雪の火


吹雪の夜は、世界を狭くする。

 

山に慣れた者なら、それをよく知っている。

晴れた日の山は広い。

尾根の向こうまで見え、雪面は淡く光を返し、遠い木立や岩場までも地図みたいに並んでいる。

だが、一度吹雪が立つと、その広さはあっけなく消える。

世界はたちまち、人の手が届くぶんだけの白へ縮む。

目の前の背中。

数歩先の扉。

火の明かりの届く半径。

人はその狭さの中でしか、もう物を考えられなくなる。

 

シュヴェア山脈の麓にある避難小屋もまた、その狭くなった世界のひとつだった。

 

外から見れば、岩陰へ半ば埋まるように建っているだけの、低く古い小屋に見える。

だが中へ入ると、風を防ぐための工夫がいくつも積み重ねられているのが分かる。

壁は厚い。

窓は小さい。

扉は重く、隙間には新しい革が打たれていた。

土間の上には雪を溶かした水が細く流れ、奥には毛布と寝具がきちんと積まれ、中央の炉には乾いた薪がほどよく組まれている。

 

暖炉の上の棚には、小さな木彫りの像が置かれていた。

 

まだ完成していない。

顔立ちは粗く、衣の皺も浅い。

だが、尖った耳の輪郭と、背に広がる両翼の線だけは、もうはっきりしていた。

女神像だとすぐ分かる。

この大陸で生きる者なら誰でも幼い頃から見慣れている、あの姿だ。

天地を創り、聖典をもたらしたとされる女神。

一度も姿を見せないまま、千年以上を人の信仰の中で生き続けている存在。

 

像の足元には、彫り屑が少しだけ残っていた。

まだつい先ほどまで、誰かがそこを削っていたのだろう。

 

そして小屋の外、風のもっとも当たる側には、雪をかぶった荷車があった。

 

幌はしっかり縛られ、車輪の下には雪へ沈まぬよう板が噛ませてある。

傍らには掘り出したばかりらしい荷箱がいくつか寄せられ、そのひとつの蓋は半ば開いていた。

中には干し肉、乾パン、豆、保存の利く根菜、塩、鍋、ランタン油、予備の手袋、毛布、修繕用の布、縄、釘、斧。

冬山に入る人間が思いつく限りのものが、無駄なく、しかも十分に収まっている。

 

吹雪の中でそこまで見抜いたわけではない。

だが、小屋へ入ったあとに雪を払うため一度外へ出たシュタルクが、幌の隙間から覗いた荷を見て思わず声を上げた。

 

「……え、これ全部、あんたの?」

 

火のそばで濡れた手袋を絞っていたクラフトは、特に誇るでもなく頷いた。

 

「そうだ」

 

「こんなに?」

 

「冬山で手ぶらは死にたい者のやることだ」

 

あまりにも当たり前の調子で言われたので、シュタルクは反論の言葉を失った。

たしかにそうだ。

そうなのだが、目の前の男はそれを“よく準備した結果”ではなく、“そうあるべき前提”として持っている顔をしている。

 

フェルンは荷箱の中身をひとつずつ確かめながら、静かに言った。

 

「乾物の量だけでも、かなりありますね」

 

「吹雪が長引くことは珍しくない」

 

クラフトは炉の火を見ながら答える。

 

「山は、人が予定した日数を笑って延ばす」

 

フリーレンは寝袋の端に腰を下ろしながら、小さく呟いた。

 

「ちゃんとしてるね」

 

「お前がちゃんとしていないだけだ」

 

すぐ返ってきたその言葉に、シュタルクが思わず吹き出しそうになり、フェルンが小さく溜め息をついた。

小屋の中に初めて、ほんの少しだけ人間らしい空気が戻る。

 

その端で、アッシェは黙って薪の束を壁際へ下ろしていた。

 

扉のそばに寄せた薪からは、まだ雪と生木の匂いがする。

外套の裾にも、肩にも、髪にも吹雪の白が残っている。

それなのに、雪の重さも寒さも、彼にとってはどこか半歩遅れて届いているように見えた。

 

小屋の中へ入った時、シュタルクは最初、それが少し怖かった。

 

雪の中で平然と立っていた。

薪を抱えたまま、吹雪の視界の中をまっすぐ戻ってきた。

魔力の強い魔法使いには見えない。

むしろ、驚くほど空っぽに近い。

なのに、体だけが妙にしっかりしている。

 

しかも数日前、南で聞いたばかりなのだ。

グラナト伯爵領でアウラが落ちた。

聖都から来た妙な男がいた。

人々はその男を、聖都の獣と呼んでいるらしい。

 

その噂を、シュタルクはまだ半分しか信じていなかった。

でも、さっき吹雪の中で現れた男が、その噂の輪郭へあまりにも妙に合ってしまっている。

 

火の明かりが、アッシェの頬に走る薄い傷を照らす。

新しい。

それもひとつではない。

肩。

腕。

頬。

衣服の裂け目。

そこに残るのはただの旅傷ではなく、もっと新しく、もっと鋭い戦いの痕だった。

 

フリーレンは、火の向こうからそれを見ていた。

 

魔力はほとんど空に近い。

だが、傷にまとわりついた残滓だけは普通ではない。

血の魔法。

服従の秤の歪み。

防御魔法を力で破ったあとに残る、嫌な擦れ。

大魔族級の戦場を、つい最近通ってきた者だけが纏う魔法の残骸だった。

 

噂だけなら信じなかった。

でも実物を見ると、逆に噂の方が静かだったのだと分かる。

“獣”という呼び名は乱暴だ。

だが乱暴なくらいで、ようやく人が見たものに追いついているのかもしれない。

 

アッシェは壁際へ薪を寄せ終えると、小屋の中を一度だけ見回した。

火。

鍋。

荷箱。

寝具。

扉。

窓の隙間。

誰がどこに座っているか。

戦いではない場所であっても、彼の視線はまずそういう順番で場を把握する。

 

それが終わってから、ようやく腰を下ろした。

 

シュタルクが、その一部始終を見て思わず言う。

 

「……お前って、どこでもそんな感じなのか?」

 

アッシェは少しだけ目を向ける。

 

「どんな感じだ」

 

「なんかこう……」

 

シュタルクは両手を宙で動かす。

言葉がうまく選べない時の動きだ。

 

「戦う前みたいに周り見るっていうか。

いや、別に今戦うわけじゃないんだけどさ」

 

アッシェは少し考えてから答えた。

 

「癖だ」

 

それだけだった。

 

シュタルクは「ふうん」と言いながらも、まだ少し落ち着かない顔をしていた。

フェルンは鍋へ水を入れながら、そのやり取りを聞き流しているようで、ちゃんと聞いている顔だった。

 

「癖というより」

 

彼女が言う。

 

「すぐには解けない緊張、でしょう」

 

アッシェはそちらを見た。

 

フェルンは鍋へ豆と干し肉を落としながら続ける。

 

「ここ数日で何があったのかは知りませんが、そういう顔をしています」

 

火の明かりが、彼女の横顔を静かに照らす。

責めるでもなく、気遣いすぎるでもなく、ただ見たものをそのまま言う声だった。

 

アッシェは一拍だけ黙って、それから小さく言った。

 

「そうか」

 

フェルンはそれ以上追わなかった。

 

その短い応酬を、フリーレンは寝袋へ脚を入れたまま見ていた。

この男は“獣”と呼ばれたらしい。

でも今、火のそばで交わしている言葉だけを聞けば、むしろ逆だった。

何かを噛みついて壊すより先に、自分の中のどこかがまだ硬く張っている感じがある。

獣というには静かすぎる。

人間というには、少し変だ。

そのあいだのどこかにいる。

 

「疲れてるね」

 

フリーレンがぽつりと言う。

 

アッシェは少しだけ目を上げた。

 

「そう見えるか」

 

「見える」

 

「そうか」

 

またそれか、とシュタルクが思った顔をした。

短い。

とにかく返しが短い。

まるで多く喋ると、そこから何か余計なものが出てしまうのを防いでいるみたいだ、とシュタルクはなんとなく感じた。

 

クラフトがそこで小さく息を鳴らした。

 

「お前、返事が面倒だな」

 

アッシェは火を見たまま答える。

 

「よく言われる」

 

その返しに、シュタルクは一瞬だけ目を瞬いた。

今のは少しだけ軽かった。

町で聞いた“聖都の獣”の噂と、目の前で火にあたっている男の口から出る「よく言われる」は、うまくひとつに重ならない。

 

鍋の匂いが立ちのぼり、小屋の中へ干し肉と豆の匂いが満ち始める。

雪と血と風ばかりだった数日からすると、それだけでひどく人間的な匂いだった。

 

フェルンが器を並べる。

クラフトも自然に腰を下ろした。

 

その時だった。

クラフトが暖炉の上へ目をやり、そこに置かれた木像を静かに取る。

膝の上へ置くわけではない。

ただ一度だけ親指で削りかけの翼を撫でて、それから暖炉の上へ戻した。

 

「それ、あんたが彫ったのか?」

 

シュタルクが聞く。

 

クラフトは短く答えた。

 

「暇だったからな」

 

「暇で女神像を彫るのかよ」

 

「他に何を彫る」

 

その言い方には冗談の気配が少しあった。

だが完全に冗談でもない。

クラフトにとってそれは、時間つぶしであると同時に、手を動かすことで祈りを形にしている行為なのだろう。

 

像はまだ粗い。

だが、尖った耳と翼の輪郭だけはもう美しい。

女神の姿は誰も見たことがない。

少なくともフリーレンが生きた千年以上のあいだ、一度も現れていない。

それでも人は、こうして木を削って形にする。

会ったこともないものの顔を、信じることだけで彫り出していく。

 

フリーレンはその像を見て、何も言わなかった。

ただ、会ったことのない存在へ向けた人間の手つきというものを、少しだけ面白いと思った。

 

クラフトは聖典を取り出した。

大きくはない。

旅へ持ち歩くための、手に収まる程度のものだ。

角は擦れ、表紙の金具は鈍くくすんでいる。

だが何度も開かれ、何度も閉じられてきたものだけが持つ柔らかな艶があった。

 

袋の口には、棒の先へ羽を模した細工がついた小さな聖印が結わえられている。

女神の象徴だ。

この大陸で生きる者なら、子どもの頃から何度も目にしている形だった。

 

クラフトは聖典を脇へ置き、当たり前のように手を組んだ。

 

フェルンもまた、何の迷いもなく動きを止める。

鍋をよそう手を下ろし、軽く目を伏せる。

それは作法というより、身体へ馴染んだ習慣に見えた。

ハイターのもとで育った彼女にとって、食前の短い祈りは、器を並べるのと同じくらい自然な手順なのだろう。

 

シュタルクは一拍遅れてから、それに倣うように手を合わせた。

慣れてはいる。

だが、迷いのなさという点ではクラフトやフェルンほどではない。

礼儀として、あるいは旅の中の当然の節目として身についた仕草だった。

 

フリーレンは手を組まなかった。

止めもしない。

ただ、火の向こうからその短い沈黙を見ていた。

彼女は女神に会ったことがない。

少なくとも千年以上、その姿を見た者はいない。

女神の魔法の仕組みも気に入ってはいない。

それでも、この世界において祈りが人の生活の中へ深く沈んでいることだけは、長い旅の中で嫌というほど見てきた。

だから口を挟まない。

それもまた、この場にいる彼女の自然な距離だった。

 

そして、アッシェだけが一拍遅れた。

 

作法は知っている。

協会で育った以上、教会の鐘も、女神像も、食前の短い祈りも、知らないはずがない。

形だけなら合わせられる。

教えられれば、手を組み、目を伏せ、短い感謝の言葉を口にするくらいはできる。

 

だが今、指先を重ねるまでに、ほんのわずかな間があった。

 

祈り、という言葉に触れると、時折、胸の奥のどこかが鈍くきしむ。

理由はうまく分からない。

昔からそうだった。

聞いたこともないはずの声が、ふとした拍子に頭の底で揺れることがある。

 

強い子に生まれますように。

その強い体が、あなたを守ってくれますように。

 

誰の声なのかも分からない。

本当に聞いたことがあるのか、自分の内側が勝手に作ったものなのか、それすら曖昧だ。

ただ、その声だけが妙に古く、妙に近い。

祈りに似ているとも思うし、呪いに似ているとも思う。

どちらなのかは、今でも分からない。

 

だから、食前の短い沈黙の前で、アッシェは一瞬だけ止まる。

 

その一拍を、フリーレンは見ていた。

 

見て、何も言わない。

ただ、その一拍だけが妙に人間らしいと思った。

戦場では迷わない男が、こういう場面でだけ少し遅れる。

それが静かで、少しだけ痛々しい。

 

クラフトの低い声が、小屋の中へごく短く落ちる。

 

「女神よ。

今宵の火と糧に感謝を」

 

長くない。

ただ、生きるための手順としてそこにある祈りだった。

 

フェルンが、ごく小さく続ける。

その声はほとんど息に近い。

それでも火のそばにはちゃんと届く。

 

アッシェは最後に、ほんのわずかに頭を垂れた。

言葉は口にしなかった。

できなかったのか、しなかったのか、自分でもよく分からないまま。

 

沈黙はすぐに終わる。

クラフトが聖典を脇へ置き、フェルンが何事もなかったように鍋をよそい始める。

小屋の時間は、また生活へ戻った。

 

食事は静かに進んだ。

豆は柔らかく、干し肉の塩がよく出ていた。

根菜には、まだちゃんと甘みが残っている。

 

シュタルクは一口目で露骨にほっとした顔になり、フリーレンは暖かいものを口へ運びながら、吹雪に閉ざされた小屋の中にだけある平穏を静かに受け入れていた。

 

アッシェは黙って食べていた。

黙っているが、器が空くのは早い。

フェルンが当然のように少し足す。

アッシェはほんの一拍だけ迷って、それから何も言わずに受け取った。

 

暖炉の火は、食事のあいだに少しずつ落とされていった。

 

火を出す魔法はある。

フリーレンもフェルンも、必要ならすぐに火を起こせる。

だから現実の山小屋みたいに、誰かが徹夜で火種を死守しなければならないわけではない。

むしろ、無理に焚き続ける方が薪を早く食う。

夜は小さく落としておけばいい。

必要になればまた起こせる。

 

クラフトはそれをよく分かっていて、食後、炉の中の薪を組み直し、赤い熾火が静かに残る程度まで火を絞った。

明るい炎は消え、代わりに、炭の芯だけが低く赤く呼吸するみたいに光る。

 

「これで十分だ」

 

クラフトが言う。

 

「夜中に冷えすぎたら起こせる」

 

フェルンが頷く。

フリーレンはもう半ば寝袋へ入っている。

シュタルクは暖かい食事と安心と疲れにまとめて負けて、あっという間にあくびをした。

 

「……俺、先寝ていいか」

 

フェルンが言う。

 

「どう見ても、もう起きていられない顔です」

 

シュタルクは「だよな」と素直に答え、そのまま毛布に沈んでいった。

この素直さが、吹雪の小屋では少し救いになる。

 

クラフトは暖炉の上の女神像を一度だけ見上げてから、自分の寝具へ入った。

何も祈り足さない。

短い食前の祈りで十分なのだろう。

信仰が生活の中へ沈んでいる者は、えてしてそういう静けさを持つ。

 

フェルンは鍋と器を簡単に片づけ、明日のために残す分を荷車の箱から持ってきた布でくるみ、最後に火の具合を確かめてから横になった。

フリーレンは最初から寝るのがうまい。

雪と風の音がいくら大きくても、寝袋へ潜ればそのまま世界から半歩離れてしまえる。

 

アッシェだけが、すぐには横にならなかった。

 

暖炉の前に座り、もう高くはない熾火を見ていた。

 

炎ではない。

赤い芯だけが、小さく残っている。

燃えさし。

消えかけ。

けれど完全には死んでいない火。

 

火を見ているのか。

火の向こうの何かを見ているのか。

それは本人にも分かりにくい顔だった。

 

外では吹雪が続いている。

壁を叩き、屋根を擦り、世界を白一色に閉ざしている。

小屋の中は静かだ。

人の寝息。

たまに木が鳴る音。

熾火がわずかに崩れる音。

そのくらいしかない。

 

誰も火の番をしなくていい夜だった。

必要になれば火を起こせる。

だから、本当なら見張っている必要などない。

なのにアッシェはそこに残っている。

 

眠れないのだろう、とフリーレンは寝袋の中で思った。

 

完全には目を閉じていなかった。

薄く、ほんの少しだけ開けている。

吹雪の白を抜けてきた男が、消えかけた火の前でじっと座っている。

その背中だけを見ている。

 

フェルンもまた、眠ってはいなかった。

瞼は閉じている。

呼吸も浅く整っている。

でも、暖炉の前に残る気配に気づいている。

必要なら火は起こせる。

毛布を一枚足すこともできる。

でも今、アッシェが見ているのは寒さではなく、もっと別のものだと察していた。

だからあえて何もしない。

 

アッシェは、熾火の赤を見ていた。

 

戦いのあと、いつもこうなる。

眠れないわけではない。

眠気がないわけでもない。

ただ、意識がうまく沈まない。

体の方は疲れている。

でも胸の奥にだけ、戦いの残りが少し引っかかっていて、それが夜になると小さく浮いてくる。

 

グラナト伯爵領の平原。

首のない軍勢。

アウラの顔。

“最悪だ”と口にした自分。

聖都の獣。

あれはただの悪態だ。

だが、完全に外れているわけでもないのかもしれない。

 

暖炉の上の女神像が、熾火の赤でぼんやり照らされている。

まだ粗い木肌。

削りかけの翼。

顔も完成していない。

それでも、女神だと分かる。

 

祈り、という言葉に引っかかる。

それ以上のことは、うまく言えない。

 

聞いたこともないはずの声がある。

強い子に生まれますように、と。

その強い体があなたを守ってくれますように、と。

それが誰の声なのか、どこから来るのか、今でも分からない。

ただ、自分の体の奥には、そういう願いの焼け跡みたいなものが最初からある。

 

祝福なのか。

呪いなのか。

考えるたび、境目が曖昧になる。

 

熾火がひとつ、小さく崩れた。

 

その赤い欠片が沈むのを見て、アッシェはほとんど音にならない声で言った。

 

「……面倒だな」

 

誰に聞かせるでもなく。

ただ、火の中へ落とすみたいに。

 

フリーレンはその独り言を聞いて、薄く目を細めた。

獣と呼ばれた男は、夜になるとこんなふうに火の前で小さくなるのかと思う。

それは少し、予想と違った。

 

フェルンは目を閉じたまま、その一言を聞いていた。

面倒だ、と言う声の中に、苛立ちより疲れの方が濃いことだけは分かった。

 

誰も何も言わない。

 

必要なら火を起こせる。

でも今は起こさない。

消えゆく火を、ただ消えゆくままにしておく。

 

その小さな赤だけが、小屋の中でまだ生きていた。

 

暖炉の上では、削りかけの女神像が静かにその火を見下ろしている。

会ったことのない神の形。

人が手で削って作った、祈りの輪郭。

その下で、祈りにうまく座れない男が、熾火を見つめていた。

 

吹雪はまだ続いていた。

だが、同じ雪でも、初日のそれとはもう少しだけ意味が違っていた。

 

最初の吹雪は、互いを無理やり同じ屋根の下へ押し込めた。

今の吹雪は、その屋根の下で少しずつ作られていく時間を、ただ外から囲っている。

 

小屋の中には、まだよそよそしさがある。

警戒もある。

沈黙も多い。

それでも、鍋の匂いと、祈りの短い沈黙と、木屑の落ちる音と、眠れない夜の熾火を、同じ場所で重ねていくうちに、人は互いの輪郭を少しずつ覚えていく。

 

夜は、まだ長かった。

 

 

 

 

 

 

翌朝も、吹雪はやまなかった。

 

夜のあいだに積もった雪が、小屋の屋根へ重たくのしかかっている。

外へ出ると、空と地面のあいだに境目がなかった。

ただ白い。

白の中に風が走り、風の中にさらに細かな雪が混じっている。

世界そのものが、粉にして砕かれた骨みたいに見えた。

 

それでも朝は朝で、やるべきことはある。

 

扉の前を掘る。

屋根の雪を落とす。

荷車の幌に積もった重みを払う。

小屋の中で溶かすぶんの雪を桶へ入れる。

濡れた靴を並べ、昨日の鍋を片づけ、今日の鍋の支度をする。

 

冬山で生きることは、劇的な何かではない。

むしろ逆だ。

同じようなことを、何度も、少しずつ、手を抜かずに繰り返すことだ。

吹雪の中では特にそうだった。

 

クラフトは朝、誰より早く起きるわけではなかった。

だが、誰より起きたあとの動きが早かった。

寝具を畳み、扉の隙間を見て、雪の積もり方を確かめ、無駄のない順番で外へ出る。

 

アッシェも、朝に弱いわけではない。

むしろ、眠りが浅いぶん、体が覚めるのも早い。

だから結局、最初に外へ出るのはだいたいこの二人になった。

 

その朝も、扉を開けた瞬間に雪が少しだけ中へ吹き込み、クラフトが低く言った。

 

「積もったな」

 

アッシェは屋根を見上げる。

 

「そうだな」

 

「そうだな、じゃない」

 

クラフトが雪掻きの柄を手渡しながら言う。

 

「落とすぞ」

 

「見れば分かる」

 

「なら、さっさと手を動かせ」

 

吹雪の中のやり取りは短い。

風が言葉を削るからでもあるが、それ以上に、長く喋る意味がないからだ。

 

二人は屋根の端へ回り、積もった雪を下ろし始める。

 

雪は軽そうに見えて、放っておくとすぐ重くなる。

一晩のうちに、ただ白いだけのものが、木組みを軋ませる重みへ変わる。

それを定期的に落としてやることは、火を起こすのと同じくらい、冬の生活には必要だった。

 

アッシェは、雪を落とす作業が妙に速かった。

 

力がある。

それもある。

だが、それだけではない。

重さのかかる場所、崩す順番、足場の置き方を、体がほとんど考えずに選んでいる。

見ていたクラフトが、珍しく少しだけ目を細める。

 

「器用だな」

 

「そうか」

 

「褒めたつもりだ」

 

「そうか」

 

「面倒だな、お前」

 

アッシェは返さず、もう一山分の雪を落とした。

屋根の端からどさりと崩れた白が、地面へ鈍く広がる。

吹雪の中でそれだけが少しだけ大きな音に聞こえた。

 

やがて小屋の中から扉が開き、フェルンが顔を出した。

頬へ冷気が当たるより先に、彼女の視線は荷車へ向かう。

 

「幌の左側がまた埋まりかけています」

 

クラフトがそちらを見もせず答える。

 

「見えてる」

 

「でしたら先に言ってください」

 

「お前が先に言った」

 

フェルンは少しだけ黙り、それから「それもそうですね」と言って小屋の中へ戻った。

その背を見て、クラフトが鼻を鳴らす。

 

「似た者同士だな」

 

「誰と」

 

「お前とフェルンだ」

 

「どこが」

 

「返しが面倒なところだ」

 

アッシェは、それには答えなかった。

 

小屋の中では、シュタルクがまだ寝袋に絡まっていた。

完全に寝ているわけではない。

起きている。

起きているのに、寒さと眠気の両方から離れきれず、布の中で半端にうごめいている。

 

フリーレンはさらにその先をいっていた。

彼女は起きているのか寝ているのか、一見しただけではよく分からない顔で寝袋へ半分沈んでいる。

目を閉じているようにも見えるし、薄く開けているようにも見える。

 

フェルンは鍋に雪を入れて水を作りながら、まるでそれが当然の流れであるみたいに言った。

 

「フリーレン様」

 

返事はない。

 

「起きてください」

 

少し間があってから、毛布の中から声だけが出る。

 

「まだ朝じゃない」

 

「朝です」

 

「吹雪だから分かりにくいだけでしょ」

 

「では、なおさら起きてください」

 

シュタルクが毛布の中から小さく笑う。

その笑いも、フェルンに一瞥されるとすぐ止んだ。

 

火を起こすのは、確かに簡単だった。

 

炉の中の熾火が完全に死んでいても、フリーレンかフェルンがほんの小さな火の魔法を落とせば、それで済む。

この世界では、火は技術であると同時に、魔法でもある。

だから現実の冬山のように、火が消えたら終わり、という切迫は薄い。

 

だが、火を起こせることと、火のそばで暮らすことは別だった。

 

小屋の中の火は、暖を取るだけのものではない。

鍋を煮る。

濡れた靴を乾かす。

手袋の芯まで温める。

煮え立つ音を聞きながら、人の会話が少しだけ柔らかくなる。

そういうふうに、人の生活そのものを支える火だった。

 

フェルンは新しく起こした炎が安定したのを見て、昨日の残りへ豆を足し、切っておいた根菜を入れる。

クラフトの荷車には十分な積み荷があった。

だから飢える不安はない。

少なくとも、すぐにはない。

 

それが、この冬の時間を少しだけ穏やかにしていた。

 

もし食糧が尽きかけていたら、小屋の空気はもっと尖っていただろう。

口数も減り、視線も鋭くなり、雪は白ではなく単なる敵になる。

だが今は違う。

保存食も、毛布も、油も、修繕道具も、火を囲む生活を続けるだけの量がある。

だから皆は、ただ生き延びる以上のことを少しだけ考えられる。

 

鍋が煮えるあいだ、クラフトは暖炉の上の女神像を手に取った。

 

木の表面を親指でなぞり、膝の上へ置いて、小さな刃を当てる。

しゃり、と乾いた音がする。

火の爆ぜる音より小さく、雪の音よりずっと近い音だ。

 

木屑が一片、彼の膝へ落ちる。

もう一片。

また一片。

 

シュタルクが、それを見ながら言う。

 

「まだ彫ってたのか」

 

「時間はある」

 

クラフトは刃を動かしたまま答える。

 

「吹雪の間は、余るほどな」

 

「でも、なんで女神像なんだよ」

 

「別に何でもよかった」

 

クラフトは一度だけ手を止め、それから少しだけ口元を動かした。

 

「……という言い方は、少し違うな」

 

小さく削った翼の先を見て続ける。

 

「こういう時間に、手を動かしておくのにちょうどいい」

 

「信心深いってことか?」

 

「人並みにはな」

 

それだけで話は終わった。

だが、その短い返しの中に、この男の信仰の重さが少しだけ見えた。

 

大仰に語らない。

熱心さを見せびらかさない。

ただ、時間がある時に木を削って、暖炉の上に女神の形を置く。

その静けさが、クラフトという男にはよく似合っていた。

 

フェルンは、食事の前になると視線を一度だけ自然に暖炉の上へやった。

女神像が置かれている位置を確かめるような、ごく短い目の動きだった。

それから器を並べ、聖典を取り出すクラフトを待つ。

 

食前の祈りは、毎回短かった。

女神よ、火と糧に感謝を。

あるいは、それに似た数語。

吹雪の小屋で長々しい言葉は要らない。

祈りは説教ではなく、火を囲む生活の手順の一部だった。

 

クラフトは自然に手を組む。

フェルンもまた自然に続く。

シュタルクはもう、最初の日ほどぎこちなくはない。

慣れというより、同じ手順が繰り返されるうちに、小屋の時間そのものへ馴染んできたのだろう。

 

フリーレンは毎回、手を組まなかった。

けれどやはり止めもしない。

火と鍋と祈りが、この世界ではほとんど同じ高さに置かれていることを、彼女は長い旅の中で知っていた。

 

アッシェだけが、相変わらず一拍遅れた。

 

ほんのわずか。

本当にわずかだ。

知らない者が見れば、気づかないくらいの遅れ。

だがフェルンには分かる。

フリーレンにも分かる。

毎日繰り返されるものほど、そういう微かな差は目に残る。

 

祈りの作法は知っている。

けれど、手を組む前にほんの少しだけ止まる。

それは不信というより、どこへ手を伸ばせばいいのか自分でも決めきれないような止まり方だった。

 

ある朝、フリーレンがその遅れを見て、鍋を受け取りながら小さく言った。

 

「祈るの、苦手なんだ」

 

責める声ではない。

ただ見たことを言う声だった。

 

アッシェは少しだけ目を上げた。

 

「そう見えるか」

 

「見える」

 

「そうか」

 

それで終わる。

でも、その短さがかえって本当らしかった。

 

苦手なのか。

信じていないのか。

あるいは、信じることにひっかかりがあるのか。

たぶん本人にもまだ整理がついていない。

だから、長く説明できない。

 

暖炉の上の女神像は、日を追うごとに少しずつ形を変えていった。

 

最初は翼の輪郭だけだった。

次は衣の皺が入り、顔の線が出て、指先の位置が整い始める。

頬の柔らかさが削り出され、髪の流れが木目の上に現れる。

冬は外ではほとんど変化しない。

吹雪は吹雪のまま、雪は雪のまま、小屋の外の世界はただ白い。

だが小屋の中では、この像だけが目に見える速度で少しずつ進んでいく。

 

それは不思議な時間のものさしになった。

 

今日の雪は重い。

今日の鍋は豆が多い。

今日のフリーレンはよく寝ている。

そして今日の女神像は、昨日より少しだけ顔がはっきりしている。

そういうふうにして、冬の停滞の中にも日々の差が生まれる。

 

シュタルクはすぐにアッシェを力仕事へ巻き込みたがった。

 

最初の数日は怖がっていたくせに、人間というのは慣れると早い。

いや、シュタルクが単にそういう性質なのかもしれない。

強そうな相手を見ると、警戒するより先に、自分との距離を測りたくなるのだ。

 

「なあ、そっち持つか?」

 

雪の中から斧を引き抜きながら言う。

 

倒木を切り分ける時。

荷車の片輪が雪へ深く沈み、持ち上げ直す時。

屋根から落ちた雪の塊を、壁際へさらに寄せる時。

シュタルクは何かにつけて、アッシェへ声をかけた。

 

アッシェは最初、必要最低限しか返さなかった。

だが、無視はしない。

黙って隣へ立つ。

黙って持ち上げる。

黙って終える。

 

ある日、雪に半分埋もれた太い丸太を二人で動かしていた時、シュタルクが息を切らしながら言った。

 

「お前、やっぱおかしいだろ」

 

アッシェは丸太の片端を肩で支えたまま答える。

 

「何がだ」

 

「重さの感じ方」

 

「そうか」

 

「絶対そうだって」

 

アッシェは少しだけ息を吐いた。

それは笑いではないが、笑いに近い抜け方だった。

 

「よくそれで前衛やってるな」

 

シュタルクがむっとする。

 

「やってるよ!」

 

「そうか」

 

「今のは馬鹿にしただろ」

 

「少しな」

 

それが、この冬の最初の軽口だった。

 

短い。

乾いている。

でも“人に馴染むための擬態”の軽さとは少し違った。

もっと疲れが抜けたあとの、自然な悪戯に近い。

 

シュタルクは一瞬だけ目を瞬かせ、それから悔しそうに雪を蹴った。

 

「次はもっと重いやつ持たせるからな」

 

「そうか」

 

「その返しやめろ!」

 

雪の上へ声が響く。

その声を、小屋の窓越しにフェルンが聞いていた。

彼女は何も言わず鍋をかき混ぜていたが、口元だけがほんの少しだけ緩んでいた。

 

フリーレンは、相変わらず怠けて見える時間が多かった。

だがそれは本当に何もしていないのとは違う。

吹雪の質、雪解けの遅さ、風向き、日照の変化、そういうものを、寝袋の中からでもちゃんと見ている。

 

時々、アッシェが外から戻ると、フリーレンは何でもない声で言う。

 

「今日は風が少し西に寄ったね」

 

あるいは、

 

「明日は雪が軽いかも」

 

そういうことを、まるで眠りの続きみたいに口にする。

 

アッシェは最初、それにどう返せばいいのか少し迷っていた。

戦いの話ではない。

報告でもない。

ただ、今日の空気の話だ。

そういう会話に、自分の口がまだうまく慣れていない。

 

「……そうか」

 

としか言えない日もあった。

 

するとフリーレンは、別に気を悪くした様子もなく、「うん」とだけ返す。

それが少しだけ楽だった。

気の利いた返事を要求されない会話は、アッシェには珍しかった。

 

フェルンは生活の中でアッシェを測っていた。

 

食事の量。

傷の治り方。

雪の中から戻った時の呼吸。

寒さへの反応の薄さ。

そういうものを、一つひとつ口にはしないまま見ている。

 

ある夜、アッシェの濡れた手袋が炉から少し遠い位置に置かれているのを見て、フェルンは無言でそれを少しだけ火の近くへ寄せた。

アッシェはその動きに気づき、少しだけ彼女を見た。

 

フェルンは視線も返さずに言う。

 

「明日の朝、凍っていると面倒です」

 

「そうか」

 

「アッシェ様は面倒だという割に、そういう面倒は放っておきますよね」

 

アッシェは少しだけ考えた。

 

「……そうかもしれない」

 

フェルンはそこで初めて小さく息を吐いた。

呆れたようでもあり、少しだけ納得したようでもある。

 

「自覚があるなら、少しは直してください」

 

「努力はする」

 

「信用できません」

 

それだけのやり取りなのに、シュタルクは横で目を丸くしていた。

フェルンがここまで自然にアッシェへ小言を言うようになっていることが、彼には少し驚きだったのだろう。

 

日が経つにつれて、祈りの輪も少しだけ変わった。

 

アッシェの一拍の遅れは、消えはしない。

だが、初めの日のような硬さは少しずつ薄れた。

手を組むのはまだぎこちない。

言葉は相変わらず口にしない。

それでも、食前の短い沈黙の前で完全に立ち止まることは少なくなった。

 

フリーレンはそれを見ていた。

見ながらも、やはり何も言わない。

 

言葉で踏み込むより、冬の反復が少しずつ人を変えることを、彼女は知っている。

長い時間というのはそういうものだ。

大きな出来事より、鍋の回数と、雪下ろしの回数と、火の前で黙って座った夜の数の方が、人の輪郭を静かに削ることがある。

 

そして夜になれば、熾火が残る。

 

誰も火の番をしなくていい。

必要ならすぐ起こせる。

それでも、アッシェは相変わらず時々その前に残った。

 

毎夜ではない。

だが、眠れない夜が確かにある。

狩りの夜は終わったはずなのに、体のどこかがまだ沈みきらない夜だ。

 

フリーレンは薄く目を開けて、それを見る。

フェルンもまた、たぶん気づいている。

声はかけない。

必要なら火は起こせるし、必要なら毛布も足せる。

でも、あれは寒さの問題ではない。

 

暖炉の上では、木彫りの女神像が少しずつ形を得ていく。

その下で、祈りにうまく座れない男が熾火を見つめている。

その絵は、この冬の小屋にしかない静けさを持っていた。

 

ある晩、アッシェが火を見つめたまま、小さく言った。

 

「……面倒だな」

 

誰に聞かせるでもない。

ただ火の中へ落とすように。

 

フリーレンはその声を聞いて、寝袋の中でほんの少しだけ目を細めた。

 

フェルンは瞼を閉じたまま、その言葉の中に苛立ちではなく疲れが濃いことだけを聞き取っていた。

 

誰も何も言わない。

 

必要なら火を起こせる。

だが今は起こさない。

消えゆく火を、ただ消えゆくままにしておく。

 

その小さな赤だけが、小屋の中でまだ生きていた。

 

暖炉の上では、削りかけの女神像が静かにその火を見下ろしている。

会ったことのない神の形。

人が手で削って作った、祈りの輪郭。

その下で、祈りにうまく座れない男が、熾火を見つめていた。

 

吹雪はまだ続いていた。

だが、同じ雪でも、初日のそれとはもう少しだけ意味が違っていた。

 

最初の吹雪は、互いを無理やり同じ屋根の下へ押し込めた。

今の吹雪は、その屋根の下で少しずつ作られていく時間を、ただ外から囲っている。

 

小屋の中には、まだよそよそしさがある。

警戒もある。

沈黙も多い。

それでも、鍋の匂いと、祈りの短い沈黙と、木屑の落ちる音と、眠れない夜の熾火を、同じ場所で重ねていくうちに、人は互いの輪郭を少しずつ覚えていく。

 

 

 

 

 

 

吹雪には、強い夜と、長い夜がある。

 

強い夜は分かりやすい。

風が壁を打ち、扉を鳴らし、屋根の上で雪が重くずれる音がする。

眠っていても、世界の外側に巨大な何かがいると嫌でも分かる夜だ。

 

だが長い夜は少し違う。

風はそれほど強くない。

小屋も軋まない。

ただ雪だけが、見えない外で、絶え間なく降り続いている。

音もなく積もり、音もなく道を埋め、朝になって扉を開けた時にだけ、その量の多さを知らせる。

静かな分だけ、時間が伸びる。

炉の火の明かりと、鍋の湯気と、木屑の匂いだけが、やけに長く人のそばへ残る。

 

その夜は、そういう長い夜だった。

 

風は弱い。

だから逆に、小屋の中の音がよく聞こえた。

鍋の中で豆がゆっくり崩れる音。

乾いた薪がひとつ、小さくはぜる音。

クラフトの手元で、木を削る刃が木肌をさらう音。

しゃり、しゃり、と一定の間で続くその音は、祈りというより呼吸に似ていた。

 

暖炉の上の女神像は、日ごとに少しずつ形を持ってきていた。

 

最初は翼の輪郭だけだった。

今はもう、顔の線も見える。

目はまだ浅いが、伏せられていると分かる。

尖った耳の後ろで髪が流れ、衣の皺が木目の上へ柔らかく沈んでいる。

完成にはまだ遠い。

だが、粗い木の塊だった頃に比べれば、もう明らかに“誰か”の形だった。

 

クラフトは、会話の最中でも時々その像を膝に乗せ、刃を当てた。

ずっと削り続けるわけではない。

むしろ逆で、沈黙の隙間へ手を入れるみたいに、短く削る。

木屑がひとつ膝に落ちる。

またひとつ。

それだけで、小屋の時間が少し深くなる。

 

食事はもう、最初ほどぎこちなくはなかった。

 

フェルンが鍋をよそえば、シュタルクは湯気に顔を寄せて「今日は塩気がいい」とか「昨日より根菜が多い」とか、余計なことまで言うようになっている。

クラフトはそれにいちいち反応しない。

フリーレンは相変わらず、食べる時だけは意外とちゃんと起きている。

アッシェは黙って食べる。

黙って食べるが、鍋を囲む時間から席を立つことは少なくなった。

 

その夜も、短い祈りのあとで鍋が回り、食事の終わりに近づくころには、小屋の中の空気は吹雪の外とは切り離された別のものになっていた。

 

シュタルクが最後の豆を掬いながら、ふと思い出したように言う。

 

「そういえばさ」

 

誰へともなく置く声だった。

 

「俺たち、いつまでここにいるんだろうな」

 

フェルンがすぐに答える。

 

「吹雪が弱まるまでです」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

シュタルクは匙を持ったまま少し困ったような顔になる。

 

「弱まったあと。俺たち、どこまで行くんだっけって」

 

フェルンが少しだけ眉を寄せる。

呆れている。

だが、本気で怒っているわけではない。

冬の閉じた生活の中では、そういう呆れも少し丸くなる。

 

「北です」

 

「それは分かるよ!」

 

「では、分かっているじゃないですか」

 

「そういう言い方すんなよ……」

 

そこで、フリーレンが鍋の底を見ながらぽつりと言った。

 

「オイサースト」

 

その一言で、小屋の中の空気が少しだけ揃う。

 

シュタルクは「ああ」と頷き、それから首を傾げた。

 

「いや、でもさ。なんでだっけ」

 

今度は、フェルンもすぐには返さなかった。

少しだけ火を見て、それから静かに言う。

 

「北部高原へ入るためです」

 

アッシェが、そこで初めて少しだけ目を上げた。

 

北部高原。

その言葉自体は知っている。

北のさらに奥。

寒さだけではなく、古いものと危ういものの匂いが濃くなる場所。

人が簡単には踏み込めない高原。

 

フェルンは続ける。

 

「私たちは、魂の眠る地を目指しています」

 

クラフトの刃が、その瞬間だけ止まった。

ほんのわずか。

けれど、止まったこと自体が小さな反応だった。

 

シュタルクは、もう何度も聞いているはずの話なのに、あらためて聞くと少し背筋を伸ばすような顔をした。

フリーレンは変わらない。

変わらないまま、火の色だけを見ている。

 

「魂の眠る地」

 

アッシェが小さく繰り返す。

 

その言葉には、否定も驚きもなかった。

ただ、知らない土地の名を、口の中で重さごと確かめるみたいな響きだった。

 

フェルンは頷く。

 

「オレオールです」

 

そこまで言ってから、少しだけ声を整えた。

 

「フリーレン様は、そこへ行くつもりです。亡くなった人と、もう一度だけ話せるかもしれない場所だとされています」

 

小屋の中へ、短い沈黙が落ちる。

 

外では雪が降っている。

見えない白の向こうで、積もり続けている。

その静かな降り方と、“亡くなった人と話す”という言葉は、どこかで似ていた。

遠くて、静かで、簡単には触れられないところが。

 

シュタルクが少しだけ目を伏せる。

フェルンは余計な補足をしない。

クラフトはまた刃を木へ当てる。

しゃり、と小さな音が戻る。

 

アッシェは少しだけ火を見たまま、聞いた。

 

「行けるのか」

 

それは、無理だろうという言い方ではなかった。

行けるのか、としか言っていない。

けれど、その言葉の奥には、そんな場所が本当にあるのかという疑いと、あってほしいと思う人間の方が世の中には多いのだろうという、少し疲れた理解の両方が混じっていた。

 

フリーレンがそこで答える。

 

「さあ」

 

拍子抜けするほど軽い声だった。

 

「あるかもしれないし、ないかもしれない」

 

シュタルクが思わず言う。

 

「いや、そこはもうちょっとこう……」

 

「でも、行ってみないと分からないから」

 

フリーレンは淡々と続ける。

 

「そういうものは、たぶんたくさんある」

 

アッシェはその返しを聞いて、小さく息を吐いた。

変な答えだと思った。

変だが、不思議と嘘っぽくはなかった。

期待を煽るわけでもない。

夢だとも言わない。

ただ“行ってみないと分からない”と言う。

その距離感は、長く生きてきた者のものかもしれなかった。

 

フェルンがそこで話を戻す。

 

「ただ、北部高原へ入るには、一級魔法使いが必要です」

 

「一級」

 

アッシェが言う。

 

「ええ」

 

フェルンは頷いた。

 

「北側諸国最大の魔法都市、オイサーストで試験を受ける必要があります。高原の奥は危険が多く、誰でも入れるわけではありません」

 

クラフトが低く言った。

 

「正確には、誰でも入れないようにしている、だな」

 

フェルンは少しだけそちらを見る。

 

「結果としては同じです」

 

「そうだな」

 

クラフトはそれ以上言わなかった。

だが、その一言の中には、制度というものをやや斜めから見る人間の目があった。

 

オイサースト。

一級魔法使い。

北部高原。

魂の眠る地。

 

それぞれが別の重さを持ちながら、火の前へ順に置かれていく。

 

アッシェは、それを聞きながら少し考えた。

オイサーストへ行くのは自分も同じだ。

だが理由はまるで違う。

 

彼にとってオイサーストは、夢へ至るための門ではない。

まずは報告のための都市だ。

アウラ討滅。

グラナト伯爵領の存続。

七崩賢の一角が消えたという事実。

それを、封書ではなく自分の足で直接持っていく場所。

 

しばらく黙ってから、アッシェが言った。

 

「俺も行く」

 

シュタルクが顔を上げる。

 

「え、オイサースト?」

 

「そうだ」

 

「なんで?」

 

「報告」

 

シュタルクがきょとんとする。

フェルンはすぐに理解した顔になる。

フリーレンは視線だけを向けた。

 

アッシェは鍋の底に残った湯気を見ながら続ける。

 

「アウラを落とした件を、直接持っていく。封書でも済むが、町に長くいたくなかった」

 

そこまで言ってから、少しだけ言葉を切った。

 

誰も急かさない。

外の雪が小さく屋根を擦る音だけがする。

 

「……少し、冷ましたかった」

 

最後の一言だけ、少し低かった。

何を、と訊かれれば困る言い方だ。

戦いの余熱か。

町に残った視線の記憶か。

“聖都の獣”という呼び名に、自分でもうまく答えられない感じか。

たぶん、その全部だ。

 

フェルンは、それ以上聞かなかった。

聞けば答えるかもしれない。

でも今は、そこまで掘る必要はないと分かっている顔だった。

 

代わりにシュタルクが、ずいぶん率直に言う。

 

「つまり、お前もオイサーストに行くのか」

 

「そうだ」

 

「じゃあ、行き先同じじゃん」

 

アッシェは少しだけ目を向ける。

 

「そうだな」

 

シュタルクはそれだけで、少し嬉しそうな、でも表へ出しすぎるのは格好悪いと思っているような、半端な顔になった。

人との距離が縮まる時、この男はいつも先に顔へ出る。

 

フリーレンが小さく言う。

 

「理由は全然違うけどね」

 

「違うな」

 

アッシェが返す。

 

「でも、北へ向く」

 

フリーレンはそこで少しだけ目を細めた。

 

「そうだね」

 

それだけだった。

だがその「そうだね」は、先ほどの“行ってみないと分からない”と同じ重さを持っていた。

違う理由で、違うものを抱えている。

それでも今は同じ北を向いている。

そのことだけを、そのまま受け取る声だった。

 

クラフトが、膝の上の女神像へまた刃を入れた。

 

しゃり、と小さな音がする。

 

「面白いな」

 

と、彼は言った。

 

誰を見るでもなく、木を見たまま。

 

「同じ小屋に集まる理由は吹雪だ。同じ北へ向く理由は、それぞれ別だ」

 

シュタルクが言う。

 

「それの何が面白いんだ?」

 

「別々の理由で同じ方向を向く方が、長く一緒に歩けることがある」

 

クラフトは静かに答えた。

 

「最初から全部が同じだと、少し違っただけで壊れる」

 

フェルンが火を見つめたまま、小さく息を吐く。

 

「含蓄のありそうなことを言いますね」

 

「ありそう、じゃなくて、あるんだろ」

 

シュタルクが口を挟む。

 

クラフトはそこで初めて少しだけ笑った。

 

「たぶんな」

 

暖炉の上の女神像は、その会話を聞いているみたいに静かだった。

削りかけの顔。

まだ眠っているような目。

完成していないからこそ、表情もまだ曖昧だ。

それがこの小屋にいる五人によく似ていると、フリーレンは少しだけ思った。

 

誰も完成していない。

誰も完全に理解されていない。

それでも、火の前で少しずつ輪郭が削り出されていく。

 

鍋が空になり、器が下げられ、吹雪の夜の長さだけがまた小屋の中へ残る。

 

その夜は、珍しくシュタルクが先に眠らなかった。

 

寝具へ入ったあとも、しばらく天井を見ていた。

そしてぼそりと言う。

 

「オイサーストかあ」

 

返事はない。

だが彼は気にせず続ける。

 

「なんか、ちゃんと北に向かってる感じがしてきたな」

 

フェルンが毛布を整えながら言う。

 

「今までも向かっていました」

 

「いや、そうなんだけどさ。こう、もっと……本当にそうなんだなって」

 

言葉が足りない。

でも、たぶん言いたいことは皆に伝わっていた。

 

吹雪の小屋は時間を止める。

それでも止まったままではない。

むしろ、閉じ込められているからこそ、次に向かう先の輪郭が少しずつ濃くなることがある。

オイサースト。

一級。

北部高原。

オレオール。

報告。

それぞれの理由が、火の前でようやく名前を持った。

 

アッシェはその夜も、すぐには横にならなかった。

 

ただ、前の夜と違って、火の前で黙っている時間は少しだけ短かった。

行き先が言葉になったぶん、胸の中の何かも少しだけ整理されたのかもしれない。

 

暖炉の上の女神像を一度見て、それから小さく息を吐く。

 

祈りにうまく座れないままでも、北へ向かう理由はある。

理由があるなら、たぶん歩ける。

 

そういうふうに考えたのか、あるいは考えないまま体が先に納得したのか、自分でもはっきりはしなかった。

 

フリーレンは寝袋の中で、それを薄く見ていた。

この男は、何かを信じているわけでも、きれいに諦めているわけでもない。

でも、向かう先があると少しだけ静かになる。

それは獣というより、旅人の顔だった。

 

小屋の外では、まだ雪が降り続いている。

だが、その白の向こうにある北は、もうただ遠いだけのものではなかった。

それぞれに違う理由で、たしかにそこへ向かっている。

 

 

 

 

 

 

吹雪の夜には、音が二重になることがある。

 

ひとつは外の音だ。

風が壁を撫で、雪が屋根を擦り、扉の向こうの白が見えないまま膨らんだり縮んだりしているのが、耳だけで分かる。

もうひとつは内側の音だった。

炉の中で崩れる熾火。

木が乾ききって小さく鳴る音。

寝返りのたびに毛布がこすれる音。

人が眠りへ沈んでいく気配そのものが、静かな夜ほどよく聞こえる。

 

その夜、シュタルクは珍しく寝つきが悪かった。

 

理由は自分でも半分分かっていた。

行き先がはっきりしたからだ。

オイサースト。

一級魔法使い。

北部高原。

魂の眠る地。

 

旅の目的を、これまで分かっていなかったわけではない。

でも、吹雪の小屋の中で言葉になったことで、急にそれが“次に本当にやってくるもの”へ変わった。

そのせいで、少しだけ気持ちが落ち着かない。

 

だから寝返りが増えた。

増えて、フェルンに「うるさいです」と言われてから、ようやく静かになった。

 

静かになってみると、今度は別の気配が分かる。

 

暖炉の前に、またアッシェが座っていた。

 

炎はもう高くない。

誰も火の番をする必要はない。

必要なら、フリーレンでもフェルンでもすぐに火を起こせる。

だから夜は、わざと熾火だけを残して落としておく。

実用の火ではなく、夜を繋ぐだけの火。

赤く、低く、小さな芯だけが静かに残る火だ。

 

その赤の前に、アッシェはよく残る。

 

毎夜ではない。

だが、眠れない夜がある。

その夜の彼は、何かを見張っているようにも見えるし、何も見ていないようにも見える。

ただ、消えかけた火の前に座っている。

それだけなのに、そこだけ少し空気が違う。

 

シュタルクは声をかける気にはなれなかった。

自分が行くと、何か壊しそうな気がしたからだ。

代わりに目を閉じ、眠ったふりをした。

そうしていると、扉の近くで寝ていたクラフトが、少し遅れて起き上がる気配があった。

 

毛布が静かに鳴る。

足音はしない。

ただ大きな影がひとつ、暖炉の方へ移る。

 

シュタルクは薄く目を開けかけ、だが結局やめた。

代わりに耳だけをそちらへ向ける。

 

クラフトはアッシェの少し後ろ、暖炉の脇へ腰を下ろした。

いきなり話しかけはしない。

それがこの男のやり方だった。

相手の沈黙を破るのではなく、隣へ静かに座る。

そのうえで、必要なら言葉を置く。

 

しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

熾火がひとつ、小さく崩れる。

暖炉の上の女神像が、赤い明かりの中で静かに影を伸ばしていた。

削りかけの翼。

まだ浅い頬の線。

伏せられた目。

会ったことのない神の形が、火の上でほとんど眠っているみたいに見える。

 

やがてクラフトが低く言った。

 

「今夜も沈まないか」

 

アッシェは火を見たまま答える。

 

「たまにだ」

 

「たまに、で済ませる顔じゃないな」

 

アッシェは少しだけ息を吐いた。

 

「そうか」

 

「そうだ」

 

それでまた少し黙る。

 

外の雪は、強いというより粘る降り方をしていた。

朝になれば、扉の前に新しい壁ができているだろう。

その壁をまた崩し、また荷車の幌を払い、また鍋を煮る。

冬はそうやって続いていく。

 

クラフトは暖炉の上の女神像へ一度だけ目をやった。

 

「戦いのあとの顔だな」

 

その言葉に、アッシェの肩がほんのわずかだけ動いた。

驚いたというほどではない。

ただ、的外れではなかった時に人が見せる、小さな硬さだった。

 

「何のことだ」

 

一応そう返す。

 

だが声に力はない。

否定しきるつもりもないのだろう。

 

クラフトはそれ以上追い詰めない。

 

「火の前に残るやつは、だいたい二種類だ」

 

アッシェは黙っている。

クラフトは続ける。

 

「ひとつは、眠るのが惜しいやつ。今ある温かさが消えるのを嫌がる」

 

そこで少し間を置いた。

 

「もうひとつは、眠ると何かが近づくやつだ」

 

熾火がまたひとつ、小さく崩れた。

 

アッシェは、その赤い欠片が沈むのを見てから、小さく言った。

 

「詳しいな」

 

「長く生きてると、両方見る」

 

クラフトの声は静かだった。

見てきたものをそのまま言う時の声だ。

誇るでもなく、慰めるでもなく、ただ事実として置く時の声。

 

アッシェは暖炉の上の像を見た。

女神。

木で作られたその形は、まだ完成していないのに、妙に落ち着いて見えた。

 

祈りというものが形になると、こういう顔になるのかもしれない。

そこまで思って、アッシェはそれ以上をやめた。

 

「俺は、どっちだ」

 

ぼそりと聞いた。

 

クラフトは少しだけ考えた。

 

「両方だろうな」

 

アッシェは眉をひそめる。

 

「都合のいい答えだ」

 

「都合がいいんじゃない」

 

クラフトは火を見たまま言う。

 

「人は大体、そう簡単じゃないだけだ」

 

少し間を置いてから、さらに続ける。

 

「眠るのが惜しい夜もある。

眠ると何かが近づく夜もある。

その両方が同じ顔に乗ることもある」

 

アッシェは、しばらく返さなかった。

 

外の雪は相変わらず静かに降っている。

朝になればまた扉の前に白が積もり、鍋は煮え、薪は減り、像は少しだけ削られる。

冬は、そうやって続いていく。

 

「……面倒だな」

 

やがてアッシェが小さく言うと、クラフトはそれにだけ頷いた。

 

「だろうな」

 

アッシェは笑わなかった。

だが、口元がほんの少しだけ歪んだ。

 

「戦ってる時の方が、静かか」

 

クラフトが聞く。

 

アッシェはすぐには答えなかった。

 

言葉にするには、少し嫌すぎる内容だった。

でも、ここで嘘をつく意味も薄い。

クラフトはたぶん、嘘を剥がすために聞いているわけではないからだ。

 

「……少し」

 

ようやく言う。

 

「少しだけ、息がしやすい」

 

それは第一章の終わりから、何度か彼が自分へ向けて吐いてきた言葉の、もっと静かな言い換えだった。

 

クラフトは頷いた。

 

「そういうやつはいる」

 

否定しない。

気味悪がりもしない。

ただ、“いる”と言うだけだ。

 

その返答が、アッシェには少し意外だった。

 

気味悪がられることには慣れている。

遠回しに距離を置かれることにも。

だが、そういうやつはいる、と数の中へ入れられるのは珍しい。

 

「多いのか」

 

「多くはない」

 

クラフトは少しだけ口元を動かした。

 

「だが、お前だけでもない」

 

その一言は、慰めではないはずなのに、少しだけ体の芯へ沈んだ。

アッシェはそれを自分で嫌だと思う。

簡単な言葉で楽になりたくはない。

でも、人は時々、自分だけではないと言われるだけで、ほんの少しだけ黙りやすくなる。

 

外の雪が、屋根のどこかでずるりと小さく動いた。

 

クラフトはその音を聞きながら、ふいに言った。

 

「長く生きるのが向いてないと思ってる顔だな」

 

今度の言葉には、アッシェも少しだけ本気で目を上げた。

 

クラフトは火を見たまま、こちらを見ない。

 

見ていないのに、よく刺さる。

そういう人間だった。

 

アッシェはしばらく黙った。

暖炉の上の女神像の影が、火の揺れに合わせて壁へ少しずつ伸び縮みしている。

 

「……そう見えるか」

 

ようやく聞き返す。

 

「見える」

 

クラフトは即答した。

 

「お前は、自分が長く生きた先をあまり想像していない」

 

それは否定できなかった。

 

想像したことがないわけではない。

だが、その先に落ち着いた形が見えない。

町の中。

協会の中。

人の輪の中。

どこへ置いても、少しずつずれる気がする。

 

戦いの中でだけ少し息がしやすいのなら。

こういう夜にだけ、少し自分の輪郭が分かるのなら。

長く生きるほど、何かが空になるのではないか。

そういう感覚が、胸の底にいつも薄くある。

 

アッシェは低く言った。

 

「……長生きはするもんじゃない」

 

それは、平原でアウラへ向けて吐いた言葉に近かった。

だが今のそれは、侮辱ではなく、ほとんど独白だった。

 

クラフトは、そこで初めてアッシェの方を見た。

 

「そうかもしれん」

 

意外なほど素直に言う。

 

「だが、長く生きること自体が悪いわけでもない」

 

アッシェは少しだけ眉を寄せた。

 

「何が違う」

 

クラフトは暖炉の上の像へ目をやる。

 

「何を残して生きるか、だろうな」

 

木像の翼は、熾火の赤で半分だけ照らされていた。

削りかけだ。

完成していない。

でも、ここに冬の時間が少しずつ彫り込まれていることだけは分かる。

 

「大したことじゃなくていい」

 

クラフトは言う。

 

「火でも、祈りでも、道でも、誰かの記憶でも。

長く生きる者は、そういうものを少しずつ置いていくしかない」

 

アッシェはその言葉を、すぐには飲み込めなかった。

 

自分に何が置けるのか。

獣だと噂されたものが、何を残せるのか。

そう考えると、かえって息が詰まる気もした。

 

「俺には、そういうのは向いてない」

 

率直に言う。

 

クラフトは肩をすくめた。

 

「今決めることでもない」

 

「そうか」

 

「それに」

 

クラフトの声が少しだけ低くなる。

 

「向いていないと思いながら、生き延びるやつの方が長く残ることもある」

 

その一言は、妙にクラフト自身の影を引いていた。

長く生きている。

信仰を持つ。

冬の小屋で女神像を彫る。

だがこの男も、ただ静かで穏やかなだけではないのだろう。

長く歩いてきた者だけが持つ、言葉にしにくい摩耗が底にある。

 

アッシェはしばらく火を見ていた。

 

やがて、ほとんど独り言みたいに言う。

 

「祈りってのは、残るのか」

 

クラフトは少しだけ目を細めた。

 

「残るものもある」

 

アッシェの視線が、暖炉の上の女神像へ向く。

 

「そういう意味じゃない」

 

「分かってる」

 

クラフトは静かに返した。

 

それでまた少し黙る。

 

聞いたこともない声がある。

強い子に生まれますように、と。

その強い体があなたを守ってくれますように、と。

誰の声か分からない。

でも、火の前で祈りという言葉に触れると、その残響だけが胸の奥でかすかに軋む。

 

あれは残っているのかもしれない。

体に。

骨の奥に。

それともただ、自分が勝手に作ったものなのかもしれない。

 

「残るものもある、か」

 

アッシェが繰り返す。

 

クラフトはそれにだけ頷いた。

 

それ以上、具体的なことは言わない。

祈りが何を作り、何を歪め、何を守るのか。

そこはたぶん、今ここで他人が踏み込む場所ではない。

 

しばらくして、クラフトは立ち上がった。

 

「寝ろ」

 

短く言う。

 

「眠れなくても、横にはなれ」

 

アッシェは見上げる。

 

「命令か」

 

「助言だ」

 

「そうか」

 

「そうだ」

 

また自分の返しを返されて、アッシェは今度は少しだけ、本当に笑いそうになった。

笑いきるほど軽くはない。

だが、口元の硬さがほんの少しだけ緩む。

 

クラフトはそれを見て見ないふりをし、そのまま寝具へ戻っていった。

 

暖炉の前に残った赤は、さっきよりもさらに小さい。

もう起きて見張る理由など、ほんとうに何もない。

必要なら火は起こせる。

 

アッシェは、最後に暖炉の上の女神像を見た。

 

削りかけの顔。

まだ浅い目。

祈りの形。

それが火の残りを見下ろしている。

会ったことのない神。

木に刻まれた輪郭。

そして、自分の胸の奥に残っている、どこから来たのかも曖昧な声。

 

それらがうまくひとつにはならないまま、ただ同じ夜の中へ置かれていた。

 

「……面倒だな」

 

また、小さく言う。

 

でも今度は、その言葉の中にさっきほどの重さはなかった。

完全に消えたわけではない。

ただ、火と会話と吹雪の長さの中で、少しだけ角が取れたみたいな響きだった。

 

毛布へ戻る。

横になる。

 

完全に眠れる気はしなかった。

だが少なくとも、さっきよりは沈める気がした。

 

その一部始終を、フリーレンは薄く知っていた。

 

寝袋の中で目を閉じたまま、暖炉の前の気配が少し変わったのを感じていた。

何を話したのかまでは聞き取っていない。

聞く必要もないと思っている。

でも、あの男が一人で火に残っていた時より、少しだけ輪郭を静めて戻ってきたことは分かった。

 

フェルンもまた、半ば眠りながらその気配を知っていた。

声の内容は分からない。

けれど、熾火の前に残る時間が、ただ苦しいだけではなくなった夜があったことだけは、なんとなく伝わった。

 

吹雪は、まだ外で静かに続いている。

 

だが、小屋の中では、火のそばで交わされた短い言葉が、雪とは別のものとして少しずつ積もっていた。

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