人は制限されている。
人の認識できる世界は、とても狭い。
また、人の支配しているのは、地球の一部分だけ。
人類という種族が、存在できるのは、世界のほんの一部のほんの一瞬。すくなくとも、今のままではこれを覆すことはできない。
ならば、変えなければいけない。
この広大な宇宙に存在を刻みつけるには。
挑戦し、常識を破壊しなければいけない。
つまり──人は、進化しなければいけないのだ。
「それ、人間って言えるの?」
静かな病室、彼女の声はいやに響いた。
変なことを聞く。そう思った。
「……わからないの?」
「君が、人間に崇高の念を抱いてることはわかったよ」
「わかってない!」
激昂する彼女を、僕は冷ややかな目で見つめる。
「姿が変わろうと、何があろうと、僕は僕でしかない。それ以上でも、それ以下でもない。ならば、僕を形容する言葉は人間以外になることはないだろう」
「……っ」
彼女は、何かを言おうとしたが、口元を戦慄かせるだけで、音にはならなかった。
そのまま、彼女は立ち上がって、病室をさっていく。
扉を閉める前、こちらを侮蔑するような目を向けたのが、とても印象的だった。
「ようやく、帰ったか……」
僕は、ようやく静かになった病室で、一人ため息を吐く。
窓から外を見れば、駐車場が見える。
車の合間を、先ほど喚いていた彼女が通っていくのも見えた。
暇だから、彼女がさっていくのを見つめる。
生物学上は母とされる女の姿が車の中に見えなくなって、僕はなぜかホッとした気分になった。
「君が、このプロジェクトに参加してくれることで、私は本当に助かっているよ」
彼女が去って、数時間後。やってきた男は、朗らかに笑いながら、そう言ってきた。
「面白いと思ったから」
「ははは、それでもなかなか人が来てくれなくてね。せっかく人を越えられると言うのにね。まぁ、命をチップにしないといけないから、みんな怖がってるのかな?」
目元は笑っているのに、メガネの奥の瞳は全く笑っていない。変な人だと思う。
たぶん、どこか壊れているのだろう。
「家族との別れは済ませられたのかい?」
「そうですね。向こうは分かりませんけど」
「はっはっは! そんなことを言う奴は君が初めてだよ」
「そうなんですか?」
「ふぐっ、これ以上笑わせないでくれ。あぁ、涙まで出てきた」
男の目元を見ると、確かに涙が蛍光灯の光で反射している。
「さてと、こんな話をするつもりではなかったんだが」
「?」
「いやなに、改めて、明日行う実験について説明しないといけないのでね。それに、君が断ることのできる最後の機会だ。心して聞いてほしい」
おそらく、どこかのマニュアルに書かれているのだろう。そんなことを僕は思った。
必要ないことと言いたかったけど、黙って聞いておくことにする。こういう形式は、いつの時代も重要視されていることは理解している。
「ふむ。我々人類は、情報を制限されている。脳は、常に情報を取捨選択し、負荷を軽減し、あらゆる感覚は画一的に整理されている。鋭敏な感覚があっても、知覚できなければ無意味だ。また、我々は時間に縛られている。空間にも、完全に掌握してるとは言えない。我々の前には、あまりに強大で無慈悲な檻が設けられている。がんじがらめになったそれらの束縛、君は明日、その全てを取り払われ、新しい領域を知覚することだろう。これにより、君は高次元にアクセスし、人でありながら、我々人類の到達し得なかった領域、全ての世界の起源──グレイオース・オリジンに辿り着く…………かもしれない。
全ては、仮定に仮定を重ねた机上の空論。それを、実証する。全てのリミッターを外された君のあらゆる数値を計測することで、人の新たなステージを開拓する。これが実験の目的だ。
ふふ、君が高次元に行ったら、いつか我々人類の誰かがそこへ行くのを楽しみにするといい」
はっはっは、そう高笑いをして、男は去っていった。
彼は僕に断るかどうか聞かなかった。結局、この時間はなんだったのか、謎である。
論理的でない人は嫌いである。
けれど、自分もまた論理的な存在ではないかもしれない。そう思うと、彼の異常な行動も許せてくる。
実験が始まる。
朝ごはんが病院食で、あまり美味しくなかったのは気に入らないが、全てに完璧を求めるのは無理がある。
『それ、人間って言えるの?』
彼女の言葉が頭をよぎる。
彼女にとって、人とはどう言うものなのだろうか。
五体満足で、すべてが正常に機能している人体のことか。それならば、遺伝子に疾患を抱いていたら、人ではないのだろうか? 脳に障害があったら、人ではないのだろうか? 本来、人に知覚できない領域を知覚できたら、人ではないのだろうか?
論理的でない。すべては、感情に基づく否定だ。
僕は、論理的になれるだろうか。
その時、看護師が麻酔をする、と言ってきた。
あまりに自然な動作で、慣れてるんだろうな、なんて思った。
ゆっくりと体から力が抜けていく。
意識が消えていく中で、僕は願った。
目が覚めたら、この世界がすばらしく見えますように、と。
(了)