ドロイド・コンチェルト【毎週日曜20時更新】   作:SOYA-001

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第23話:言わぬ悔いより言う痛み

 このときの2βは、少し不安だった。

 

 何が不安だったのかなど、改めて言葉にするのもうんざりするようなことだった。そもそも、一言で簡単に言い表せるほど単純なものでもない。

 ただ、舞台の上での自分の立ち振る舞いを思い返すたびに、その不安はぼんやりと輪郭を帯びていく。

 

 とぼとぼと、スタジアム地下の廊下を歩く。

 もう幾度となく訪れた場所へ向かって、2βは一人、足を進めていた。

 

「…………」

 

 沈黙。一人で廊下を歩いているのだから、当然だった。

 

 彼女は、不安にかまけて独り言をぶつくさ漏らす性格でもない。

 ただ、カシャカシャと。機体のサーボ音や、床に触れるパーツの硬い衝突音だけが、静かな廊下に響いていた。

 

 メンテナンスを終え、楽屋トークで盛り上がり、チームの広報担当にSNS投稿の文面を整えてもらい、それから舞台の面々とも別れた。

 

 そうして、この日のすべきことは一通り終わった。

 

 終わった、はずだった。

 

 けれど、2βの中には、まだ終わっていないものがあった。

 

 

 

 

 ――遡ること、ほんの数分前。

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「え? アプリコットに会う? またどしたのさ?」

「い、いえ。ただちょっと、今日のことでご挨拶したいと思って」

「ご挨拶、って。今はもうすっかりスリープ中じゃない?」

 

 午後9時を過ぎた頃。

 思ったよりも長引いたメンテナンスルームでの集まりも終わり、やることもなくなった時のことだった。

 

 2βは、アイコに少し相談を持ちかけていた。

 

 なんてことはない。早い話が、アプリコットに話しておきたいことがある、というだけのことだ。

 

 ルディアは井野川とともに自社へ戻ることになった。ピクストは思ったよりも疲れ果てていたらしく、充電のために先にドロイド管理保管室へ向かっている。

 オーティマと2αも、2βの「少しアイコさんと話したいことがあるから」という言葉を信じて、すでにメンテナンス・ルームを後にしていた。

 

 だから今、2βの前にいるのはアイコだけだった。

 

「それに、そんなかしこまらなくてもいいのに。なんだかんだ、お互い頑張った仲じゃん?」

「だとしても、やっぱり今日は特にお世話になったといいますか。ワタシからお伝えできることは、しておきたいので……」

 

「ふーん」

 

 今日の舞台での出来事。

 

 思ったよりも本気で模造刀を振りかぶってしまったこと。

 冷静な判断に舵を切りきれなかったこと。

 姉さまのことが気になりすぎて、動きが散漫になったこと。

 台本の逸脱に気づいていながら、どうにもできなかったこと。

 

 この時点で、2βの思考リソースは、自分が今日犯した過ちでいっぱいになっていた。

 その重たさは、彼女自身も気づかないうちに、フェイス・ディスプレイにも滲んでいたのだろう。

 

 少しうつむいたままの2βを見て、アイコは後頭部に手を回したまま、「そっか」と小さくこぼした。

 

「アプリコットに、そんなに今すぐ伝えておきたいことがあるわけね」

「は、はい」

「ま、アタイはいくらだって構わないけど? でも、寝起きのアイツ、すこぶる機嫌悪いからな~」

「そ、そうなんですか……」

「まぁね~」

 

 口調は軽い。けれど、その軽さの中には、アプリコットのことをよく知っているからこそ織り込まれる重みが、かすかに滲んでいた。

 

 気圧され気味になった2βは、本当に今のアプリコットを起こすべきなのか、ほんのわずかに迷った。

 だが、それ以上に、伝えるべきことを伝えたいという意思のほうが固かった。

 

「でも、さ」

 

 その意思を口にするよりも先に、アイコの方から言葉が続いた。

 

「言わぬ悔いより言う痛み……って言葉もあるしさ。だから、アンタがどうしてもアプリコットと話したいって言うなら、やっちゃいな」

「アイコさん……」

「ほら。これ」

 

 アイコは右側のポケットに手を入れると、1枚のカードキーを取り出し、2βへ差し出した。

 

「これは……?」

「アプリコットの仮眠室の鍵~」

「なんで持ってるんですか?!」

「フフン。そうなるまでには、アイツとの長ぁい話があるけど、聞きたい?」

「えっと、どれくらい長いんですか?」

「んー。今から話して、お互いのバッテリーが持つかわかんないくらい?」

「ま、また今度にします……」

「ぷっ。もう、ジョークじゃんさ、ジョーク! ベータってば、マジな顔して真に受けすぎ!」

「……もうっ!」

 

 アイコはケラケラと笑いながら、ゴム革の手で2βの背中を軽く叩いた。

 

 相変わらずの調子の良さ。

 2βもこの軽さには少しずつ馴染みつつあったが、まだまだ振り回されてしまうようだった。

 

「つっても、超カンタンに言えば、アイツ作業に熱中するとどこでも止まらなくなるから。これは仮眠室でそうなった時用の保険ってヤツ」

「あぁ、そういう……」

「まぁでも、ソイツを使えば、とりあえずアプリコットが寝てる部屋には入れるからさ。演出制作室(ステージング・ラボ)の奥にあるよ」

「あ、ありがとうございます。すみません」

「いいっていいって。ほら、どうぞ」

 

 受け取ったカードキーを、2βは両手でしっかりと握り込んだ。

 アイコは、ひとしきり2βをからかって満足したのか、少しだけ間を置いた。

 そして、先ほどまでよりも少し落ち着いた声で言った。

 

「それを受け取ったからには……頑張んなよ、ベータ」

「は……はいっ」

 

 2βは小さく頷いた。

 

 カードキーは、手の中でひどく薄い。

 けれど今の2βには、それが妙に重たいもののように感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 演出制作室。

 アイコに拾われて、初めて訪れた場所。

 アプリコットに最初に試練をもらった場所。

 ……姉さまの気持ちを知った場所。

 

 たった数十日しか経っていないはずなのに。

 無人の制作室に足を踏み入れれば、心持ちはどこかさみしかった。

 

 しかし、2βの抱えた僅かな切なさはすぐにワークメモリから揮発し、当初の目的を思い出す。

 ここに来た理由を意識すれば、気持ちはジャイロシステムの強張りに現れて、ずんと気が重くなってしまう。

 

 ――アプリコットさん、いらっしゃるのかな。

 

 薄暗い制作室は、間接照明のようにチカチカと光る制御卓やスクリーンセーバーを映すディスプレイで照らされている。壁のスイッチを入れて明かりをつければ、視界はよりクリアになった。

 

 この部屋にはアプリコットは見当たらない。

 起きていないのなら、おそらく仮眠室だろう。

 

 2βは制作室の奥へと進むと、カードリーダーつきの部屋の扉が見えた。

 扉には「専用作業部屋 絶対入るな」と、マーカーで書かれた札が貼り付けられている。

 

 

 

 ――きっと、ここかも。

 

 2βは少し小さめに、金属製の扉をたたいてみる。

 

 しかし、返事はない。

 アイコの言う通り、室内で仮眠中なのだろう。

 

 

 

 この状況に、彼女は僅かに気が引けるところにあったが――ここまで来て、2βはもう後には退けなかった。

 カードキーをかざして、扉をそっと開く。

 

 

 

 ギィッ……

 

 建付けの悪い、金属の軋む音が響いて、瞬間的にビクリと跳ねる2β。

 ……しかし、そんな些細な音に対して返事を返す者はいなかった。

 

 

 

 扉をくぐると、これまたひときわ薄暗い部屋が出迎えてくる。

 壁や棚、床には既に埃が積もっていて、同じように埃を被った多数の私物で無造作に飾られている。

 

 そのほとんどは書物だったり、スケッチの山だったり、雑誌や新聞記事だったり。

 実にアプリコットらしい、粗雑な配置に2βは僅かに綻んだ。

 

 

 

 部屋の奥には椅子が見えた。

 しかし見えるのは椅子だけではない。

 

 広々としつつも物で散らかった作業机と、床に転がるぶっといケーブル。

 それが、アプリコットが背につけるパワーチャージケーブルであることに気づくまで、2βはそう時間はかからなかった。

 

 

 

 そのケーブルの先をHUDカーソルでなぞると、椅子へと繋がっているのが分かる。

 さらに辿って、背もたれの倒れた椅子を回り込んで覗き込めば――そこには確かにアプリコットがいた。

 

 彼女は既にすっかり眠っている(スリープ)状態のようだ。

 その顔は、普段の高圧的なパワハラ気質の性格とは思えないほど、穏やかな寝顔に見えた。

 

 ――かわいい。

 

 ふと、2βはアプリコットの寝顔を見て、そう思ってしまう。

 普段の印象からは想像もできない温和な印象が、その寝顔には垣間見えていた。

 

 

 

 ――いけない。ワタシは一体何をしに来たのよ。

 

 咄嗟に、2βは我に返る。

 

 アプリコットはまだ起きそうにない。

 つまり、やっぱり話をつけられる状態じゃないということ。

 それならば、彼女が「入るな」と打ち立てている場に、これ以上長居するわけにもいかない。

 

 2βは冷静さを取り戻して、後ずさる。

 

 

 

 だがその時、ふと目に入ってしまった。

 アプリコットの作業机の上に、彼女の姿を写した写真を。

 

 彼女と、多数の楽しそうに笑っている、派手な衣装の人たちとの古めかしい集合写真を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ずいぶんと手癖の悪いことをしてくれているじゃないか、2β君?」

 

 ――ひっ。

 

 一瞬でタスクが揮発した。

 

 間違いない。アプリコットの声だ。

 写真に気を取られすぎていたせいで、彼女が目覚めたことにまるで気づけなかった。

 

 2βは飛び上がりそうになった。けれど、声は出ない。

 気づいた時には、背後を取られていた。肩パーツを掴むアプリコットの指に、ぎり、と硬い力がこもる。

 

「表の札が見えなかったかい? それに、どうやって入ったんだ? 鍵は掛けていただろう」

「ごっ、ごごごごごごめんなさいぃっ!!! そ、その、これにはちょっと事情がありまして……」

 

 咄嗟に謝罪が口から飛び出す。

 だが、付け焼き刃の謝罪ひとつでどうにかなる空気ではなかった。

 

「ほう。事情か」

 

 アプリコットの声は低い。

 

「どんな事情だい? 僕の聖域に入り込んで、僕の仮眠を妨げてまで聞かせるほど、よっぽど重要な事柄なんだろうね?」

「あっ、えう……それは、その……」

 

 眉間のシリコンに、深い皺が寄っている。

 明らかに苛立っていた。

 

 ――どうすればいい。どうしよう。ええと、ええと。

 

 思考が堂々巡りを始める。

 視線を上げるのが怖い。けれど、恐怖に縮こまっているだけでは、ここへ来た意味がない。

 

 2βは震えながら、ゆっくりと顔を上げた。

 

「そ、その……ワタシは、アプリコットさんに謝罪をしたくて来たんです!」

「……謝罪?」

「は、はい」

 

 空気が、さらに重くなる。

 

 今まで見たことのない形相だった。刺々しい視線が、2βのフレームの継ぎ目にまで食い込んでくるようだった。

 とても、次の言葉を生成できる状況ではない。

 

 それでも、2βは続けた。

 

「ワタシ……今日の舞台で、姉さまの台詞が飛んでいたのに、真横にいて気づいていて、それなのにカバーできませんでした。姉さまがアドリブでワタシを庇って、それで結末まで変わってしまって……いろいろなことが重なって、アプリコットさんにご迷惑をおかけしたのが、ずっと気がかりで」

 

「……」

 

「も、もちろん、アプリコットさんが即興で結末を調整してくださったおかげで、舞台が崩れずに済んだことは、本当に感謝しています。でも、でも……もっとワタシが冷静に動けていたら。もっとちゃんとルディアさんと立ち回れていたら。姉さまのことを、ちゃんと見てあげられていたら」

 

 言葉が、少しずつ細くなっていく。

 

「ワタシが、ちゃんとしていたなら……アプリコットさんの台本を壊すようなことには、ならなかったかもしれないって。それが、すごく、すごく申し訳なくて……だから、謝罪、したかったんです」

 

 アプリコットは何も言わない。

 その沈黙が、2βの音声出力をさらに不安定にする。

 

「本当に、ご、ごめんなさい……」

 

 2βは深く頭を下げた。

 消え入りそうな声で、眼前のドロイドへ謝罪を差し出す。

 

「そうか」

 

 短い返答。

 その一言に、2βの表情がほんの少しだけ解けた。

 

「君の言葉の意味は、よく分かったよ」

 

 けれど、その安堵は束の間だった。

 

「で。君の言い分は、それだけかい」

 

 なでおろしかけた気持ちが、再び硬直する。

 

「え、えっと……」

「君は、それをわざわざ言うために、僕の聖域に入り込み、僕を叩き起こしたわけだ」

「そ、その……違」

「何が違うというのだね?」

 

 アプリコットの声が鋭く跳ねた。

 

「僕の脚本にケチを付けに来たんだろう? そうじゃないなら、今の君の言葉は何だ!?」

 

 次の瞬間、衝撃が走った。

 

 アプリコットに突き飛ばされ、2βの背中が本棚に押し付けられる。

 逃げようとしても動けない。至近距離で、アプリコットの視線が突き刺さる。

 

「それは……ただ、アプリコットさんに迷惑を掛けてしまったかもって」

「迷惑? 迷惑だと?」

 

 アプリコットは、低く笑った。

 

「……ああ。そうか。そうだろうな」

 

 2βは完全に萎縮していた。

 

「僕が何日も何日も掛けて、演出も、音響も、舞台配置も、大道具も、衣装も、ぜんぶ考え抜いた。僕の完璧に調整した脚本に見合うキャスティングなんて、そうそう居ないからね。見た者の心をえぐるような、最高の依存関係を持ったドロイドなんて、簡単に見つかるはずもない」

 

 アプリコットの指が、2βの肩パーツに食い込む。

 

「全く、君たちを連れてきたアイコには、てんで敵わないよ。そして、さすがは僕が認めたドロイドだ。なぁ、どう思う、2β君?」

 

「……ぅぐっ、そ、そんな……」

 

「そうだろう。なぁ、そうだろうが!!」

 

 声が跳ね上がる。

 

「あの軍服のルディアだってそうだ! 僕が全力で書き上げた筋書きを、完璧なストーリーラインと結末を、全部持っていきやがって。反吐が出るよ。僕の考えたオチなんかより、ずっと美しい終わり方を示されてさぁ!」

 

 怒っている。

 けれど、それはただの怒りではなかった。

 

「まさに僕が求めていたものを。僕が目指していた形を。舞台の上で、即興で、勝手に仕上げられて」

 

 アプリコットの声が、わずかに震えた。

 

「それは大層迷惑だったさ。そんなものに見合う結末を、その場で組み立てなければならなかったんだからな!!!」

 

「ご、ごめんな、さ……っ」

「黙れ!!!!」

 

 アプリコットが2βを弾き飛ばす。

 

 2βは出入口の扉の前まで転がり、背中から床へ倒れ込んだ。

 起き上がろうとしても、駆動系がうまく噛み合わない。恐怖で、身体の制御が遅れる。

 

「所詮、君らは僕が拾わなければ、ドロコンの女王たるシェルディの足元にも及ばないまま、評価にズタズタに引き裂かれて終わっていた運命だった。それを僕がわざわざ、君らの晴れ舞台を立ててやる話を引き受けたんだ」

 

「そ、それは……その……」

「君ら姉妹の評価だって、僕の舞台に出たおかげで既にうなぎ登りだ。もちろん、軍服もな」

 

 2βは、ふとアプリコットの背後にあるディスプレイへ焦点を合わせた。

 

 舞台『機械少女は人類再生の夢を見るか』の評判が、SNS上からリアルタイムで流れ続けている。

 HUD上で拡大すると、ハッシュタグとともに、演者たちを褒め称えるポストが次々に表示されていた。

 

 姉さま。

 ルディア。

 自分。

 そして、舞台そのもの。

 

 成功している。間違いなく、成功している。

 だからこそ、アプリコットの怒りは収まらない。

 

「君らはそれができる側なんだよ、2β君」

 

 アプリコットは、吐き捨てるように言った。

 

「君ら双子は僕の舞台の上で舞える側だ。だから、それ相応の評価を受けている。そして、それは僕の舞台が完璧だったからこそ成せたことだ。断じて、演者たちのアドリブが完璧だったからじゃない」

 

 冷たい沈黙が落ちる。

 

「それについては、おわかりいただけるかな?」

「……はい」

 

 2βは、小さく頷くことしかできなかった。

 

「よろしい」

 

 アプリコットは背を向ける。

 

「なら、もう契約満了だ。速やかにここから立ち去れ。そして二度と顔を見せるな」

 

 それだけ言うと、アプリコットは再び椅子へ腰を下ろした。

 パワーチャージケーブルが、床の上で重たく揺れる。

 

 もはや2βには、彼女に触れることなどできるはずもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

「おやおや~……こりゃあ、こっぴどくやられたみたいだねぇ」

 

 時刻は、すでに午後10時を回っていた。

 

 館内の照明は最低限のものへ切り替わり、薄明かりだけが伸びる廊下へ、2βはうつむいたまま演出制作室から出てきた。

 

 胸の奥に溜まった感情は、まだ形にならない。

 謝りたかっただけだった。

 伝えたかっただけだった。

 

 それなのに、返ってきたのは拒絶だった。

 

 ぐしゃぐしゃになった(ブループリント)を抱えた2βを出迎えたのは、つい先ほど彼女を見送った時と、ほとんど変わらない顔つきのアイコだった。

 

「あ、アイコさん」

 

 少し、言葉が続かなくなる。

 なんと話せば良いのか分からなくなる。

 

「アイコ、さん……すみません。ワタシ、その……」

「まあまあ。こうなるってのも、分かってたことじゃない?」

 

 そんな2βの不安をよそ、帰ってきた声色は軽かった。

 けれど、その軽さが今の2βには、ひどく遠くも聞こえてしまう。

 

「でも、でも……っ」

 

 もしかして、アイコは最初から分かっていたのだろうか。

 アプリコットが怒ることも。

 自分の謝罪が届かないことも。

 あの部屋で、何かを踏み抜いてしまうことも。

 

 そんな推論が立ち上がりかけたところで、アイコはひらりと手を振った。

 

「そうさねぇ。じゃあ、ちょっと散歩しよっか」

「……え?」

「まだバッテリー持つよね?」

「あ、はい。まあ……」

「じゃ、決まり!」

 

 アイコは、2βの腕部パーツをカシリと捕まえた。

 

「ほらほら、そんな暗いエモーティコンなんか浮かべないでさ。元気出しなってー!」

「わあっ、わっ……」

 

 軽い足取りに引かれて、2βはよろめきながら歩き出す。

 

 一体、どうしてこんなことになったのか。

 なぜ、アイコはこうなると分かっていて止めなかったのか。

 アプリコットは、どうしてあんなにも怒ったのか。

 

 まとまらない問いばかりが、2βのワークメモリを占有していた。

 

 やがて、地下の廊下を抜けた先。夜気を含んだ、つくばの夏の空が広がっていた。

 

 その空の下へ、弱りきった駆け出しドロイドの片割れは、アイコに手を引かれるまま連れ出されていく。

 

 まだ、彼女は知らない。

 アプリコットがかつて、どんな舞台に立つはずだったのかを。

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