シャーレの執務室は平和だ。
目の前には一人の少女が座っている。
生徒として新たなボディを得たケイだ。
彼女は真剣な表情でタブレットを見つめている。
「先生。このデータは異常です」
ケイがぴたりと手を止めて私を見た。
「どうしたのケイちゃん」
「ちゃん付けは不要です。私は王女の……いえ今はミレニアムの生徒です」
少しだけ照れたように視線を逸らす。
その仕草が可愛くてたまらない。
私は思わず立ち上がり彼女の背後に回った。
「えいっ」
「なっ……先生?何を」
そのままケイの華奢な体を後ろから抱きしめた。
「ケイちゃんが可愛いからハグのサプライズだよ」
「理解不能です。脈絡のない接触行為は私の予測モデルに存在しません」
口ではそう言いながらもケイは私を振りほどこうとはしない。
彼女の耳が少し赤くなっているのがわかる。
「私の心拍数が上昇しています。排熱処理が追いつきません。システムエラーでしょうか」
「それはね、照れてるって言うんだよ」
「照れ……。王女がよく口にする感情表現の一つですね」
ケイは少しだけ納得したように頷いた。
しかしすぐにキリッとした表情に戻る。
「ですが先生。今は業務中のはずです。スキンシップの時間はスケジュールに組み込まれていません」
「たまには息抜きも必要でしょ?」
私は彼女の頬をつんつんとつついた。
「計算外の事態が連続しています。先生の行動は全く論理的ではありません」
「女の子の行動はいつだって論理を超えるんだよ」
ケイは小さくため息をついた。
その表情はどこか柔らかい。
「降参です。先生の予測不可能性には私の演算能力も敵わないようです」
少しだけ嬉しそうな彼女の声が静かな部屋に響いた。
時計の針が深夜を回った。
静まり返ったシャーレの執務室。
私は机に突っ伏して浅い眠りに落ちていたらしい。
「先生」
震える声で目を覚ます。
顔を上げるとそこにはケイの姿があった。
彼女の瞳は普段の冷静な光を失っている。
どこかひどく怯えたような色を浮かべていた。
「ケイ……どうしたの?」
私が尋ねるとケイの小さな手が私の袖をきつく握りしめる。
「あなたのバイタルサインが急低下するのを観測しました」
早口で捲し立てる彼女の息は荒い。
「ただの寝不足だよ。心配かけてごめんね」
私は彼女の頭を撫でようと手を伸ばす。
しかしケイはその手を両手で包み込むようにして自身の胸に押し当てた。
「計算が……計算が合わないのです」
彼女の目からぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「アリスを守るためのロジックは完璧に構築したはずなのに」
次々と溢れる涙が私の手を濡らす。
「先生が倒れるかもしれないという可能性を検知した瞬間……」
ケイの声はもう嗚咽に変わっていた。
「私のシステムは全てを投げ出してここへ向かうよう命令を下しました」
「ケイ……」
「怖かったのです。あなたが消えてしまうかもしれないという未知のバグが……私を壊してしまいそうで」
ただのプログラムではない。
それは確かに一人の少女の心から生み出された痛切な感情の叫びだった。
私はゆっくりと立ち上がり泣きじゃくる彼女を強く抱きしめる。
「ごめんね。もう無茶はしないから」
「約束です。先生の安否は私の全データよりも優先されるべき重要事項なのですから」
私の胸に顔を埋めたままケイは子どものように泣き続けた。
論理武装が完全に解けたその華奢な背中を私はいつまでも優しく撫でていた。
翌日の午後、シャーレの執務室。
窓からは暖かな陽光が差し込み、昨晩の緊迫した空気など嘘のようだ。
デスクに向かうケイの背中は、普段通り凛としている……ように見えた。
「ケイちゃん、お疲れ様」
私が声をかけると、ケイの肩が一瞬ビクリと跳ねた。
彼女はゆっくりと振り返る。その顔は心なしか、いつもより赤い。
「……あ、先生。お疲れ様です。現在、シャーレのセキュリティログの再確認を行っています」
声は冷静を装っているが、早口だ。
そして、彼女の手元にあるタブレットの画面は、なぜか上下逆さまになっていた。
「ふーん。セキュリティログね。……昨晩の異常アラートの原因は、特定できた?」
私はわざとニヤニヤしながら、ケイの顔を覗き込む。
昨晩、私の寝不足を心配して大泣きした彼女の姿を、蒸し返してみる。
「うぐ……。そ、それは……」
ケイは視線を泳がせ、タブレットをデスクに置いた。
そして、スッと背筋を伸ばし、咳払いを一つ。
「昨晩の事象について、改めて報告します。……あれは、私の感情生成モジュールにおける、極めて稀な論理コンフリクトによるものです」
「論理コンフリクト?」
「はい。先生のバイタル低下という事象に対し、アリスの護衛を最優先とする私の基幹プログラムと、先生の安全を確保しようとするサブプログラムが衝突。結果、演算処理が飽和し、一時的な機能不全……すなわち、不可解な感情表現というバグが発生しました」
ケイは淀みなく、一気に捲し立てた。
その表情は真剣そのものだが、耳の先まで真っ赤になっている。
「なるほどー。じゃああの涙も、私を抱きしめたのも、全部システムエラーだったんだ?」
「……肯定します。私はアリスを守るためのシステム。個人的な感情で行動することなど、あり得ません」
ケイはキッパリと言い放ち、私から目を逸らした。
その必死に自分に言い聞かせているような姿があまりにも可愛らしい。
「そっか。システムエラーかあ……」
私は一歩、ケイに近づく。
「じゃあ今、こうして私がケイちゃんに近づいても、システムは正常?」
さらに一歩。ケイとの距離が拳一つ分になる。
「……正常、です。先生の接近による、論理的な問題は検知されていません」
ケイは動かない。しかし、その瞳は微かに揺れている。
「へえー。じゃあ、これは?」
私はケイの手をそっと握った。
昨晩、彼女が私の手を強く握りしめたその手を。
「っ……!」
ケイの手が、ピクリと震える。
「……心拍数、上昇を確認。排熱処理、負荷増大。……先生、これは一体……」
「システムエラーだよ。私の」
私は笑って、ケイの小さな体を、そのまま後ろからぎゅっと抱きしめた。
「っ、なっ……先生!? また、このような脈絡のない接触行為を……!」
ケイは慌てて私を振りほどこうとするが、その力は弱い。
彼女の体からは、演算処理の熱とは違う、確かな体温が伝わってくる。
「だって、ケイちゃんのシステム、すごく可愛いんだもん。論理コンフリクトとか、バグとか、そんな難しいこと言わなくていいよ」
私はケイの首筋に顔を埋め、クスクスと笑った。
「私が心配で泣いちゃった、優しいケイちゃんでいいじゃん」
「……違います。私は、システムで……」
ケイの声が次第に小さくなる。
彼女は抵抗をやめ、私の腕の中で、静かにため息をついた。
「……先生。あなたは本当に……計算外の事態ばかり引き起こします」
「それが、先生の特技だからね」
「……その特技のせいで、私の演算領域は、常に満杯です。……排熱、追いつきません……」
ケイはそう呟き、私の腕に、自身の小さな手をそっと重ねた。
その顔は湯気が立ちそうなほど真っ赤だったが、その表情はとても柔らかだった。
「……理解不能、です。……でも……、悪くは、ありません……」
静かな執務室に、ケイの小さな、そして温かな呟きが、静かに溶けていった。
私の腕の中で大人しくなっていたケイ。
しかしその静寂は長くは続かなかった。
私が彼女の頭を撫でながらふと口にした言葉が原因だ。
「ケイちゃんは本当に素直で可愛いね」
その瞬間。
ケイの体がビクッと大きく跳ねた。
彼女は私の腕から勢いよく抜け出す。
そして真っ赤な顔で私をビシッと指差した。
「だっ。誰がケイちゃんですか!」
執務室に彼女の高い声が響き渡る。
普段の冷静なトーンからは想像もつかない声だ。
「私はケイ。名もなき神々の王女、いや、アリスを守護する……」
「でも今はミレニアムの可愛い生徒でしょ?」
「生徒だとしても!ちゃん付けで呼ばれる謂れはありません!」
ケイは必死に威厳を保とうとしている。
しかしその目は少し潤んでいて全く説得力がない。
私はたまらなくなって思わず吹き出してしまった。
「あははっ!怒った顔も可愛いよ」
「からかわないでください!私の演算領域がまたショートしそうです!」
ケイは両手で自分の頬を覆い隠す。
指の隙間から見える肌まで真っ赤に染まっていた。
私はわざと意地悪な笑みを浮かべて尋ねる。
「えー。じゃあなんて呼べばいいの?」
「ケイと。そう呼んでください」
「わかったよケイちゃん」
「ですから!誰がケイちゃんですかと抗議しています!」
再び彼女の可愛らしい怒りの声が上がる。
私はその反応が楽しくてたまらない。
「先生の言語野には重大なバグが発生していると推測されます。直ちに修正プログラムを……」
「ケイちゃんが照れるのをやめてくれたら修正されるかも」
「っ……!これは照れているのではなく排熱処理の遅れによる……」
早口で言い訳を続けるケイの顔はさらに熱を帯びていく。
私はまた一歩彼女に近づいて優しく笑いかけた。
この愛らしいシステムとの日常はまだまだ私を楽しませてくれそうだ。
シャーレの執務室に再びケイの抗議の声が響き渡る。
私はすっかり面白くなって彼女の柔らかい頬を両手で挟んでいた。
「だってケイちゃんはケイちゃんだもん」
「私の名前はケイです。システムにちゃん付けの概念は存在しません」
むにむにと頬を引っ張られる彼女は全く威厳がなかった。
顔を真っ赤にして必死に私の手を退けようとしている。
その時だった。
「あ!先生とケイがイチャイチャしています!」
執務室のドアが勢いよく開いてアリスが飛び込んできた。
その目はキラキラと輝いている。
「アリス!これは違います!先生による不当な接触行為です!」
ケイは慌てて私の手を振り解いて姿勢を正した。
しかしアリスは全く聞いていない。
「アリスは知っています。これはパーティーメンバー同士の親交を深めるスキンシップイベントです!」
「イベントではありません!ただのシステムエラーを誘発させる攻撃です!」
「ケイはずるいです。アリスもケイとスキンシップをして好感度を上げたいです!」
アリスはタタタッと駆け寄ってくるとケイの反対側に立った。
「よしアリスちゃんも一緒にケイちゃんを愛でよう」
「はい!先生!アリスもケイをなでなでします!」
「なっ……アリス?何を言って……」
私がケイの頭を撫で始めるとアリスも真似をしてケイの頭を撫で始めた。
「わあ。ケイの髪の毛はサラサラで気持ちいいです」
「アリス!やめてください!私の頭部センサーが……」
「ケイちゃん可愛いねえ」
「先生まで!二人がかりは処理能力を超えます!」
私とアリスの二人に頭や頬を撫で回されてケイは完全にパニック状態だ。
右からはアリスの無邪気な手。
左からは私の愛情たっぷりの手。
逃げ場を失ったケイの顔はついに限界まで赤くなった。
「……もう。知りません……」
ケイはついに抵抗を諦めて目をギュッと閉じた。
されるがままになっているその姿はまるで撫でられて喜ぶ子猫のようだ。
「ケイの好感度が上がった音がしました!」
「うんうん。ケイちゃんも喜んでるね」
「……喜んでいません。排熱処理に集中しているだけです」
小さな声で言い訳をするケイ。
その表情がとても幸せそうに見えるのはきっと気のせいではないはずだ。
────
突然のことでした。
私の目の前で先生の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちました。
鈍い音を立てて床に倒れ伏したまま動きません。
エラー。
私のシステムがけたたましい警報を鳴らし始めます。
「先生」
声をかけても反応がありません。
私は急いで床に膝をつき先生の肩を揺さぶりました。
「先生、先生!」
何度呼んでもその目は閉じられたままです。
私とアリスを撫でて笑っていたのに。
呼吸は浅く、バイタルサインは信じられない速度で低下を続けています。
どうして。
私は震える手で先生の右手を力強く握りました。
いつも私をからかって優しく撫でてくれたその手です。
私はその手を自分の頭にそっと載せました。
こうすればまたいつものように笑って起き上がる気がして。
「ケイちゃん可愛いね」と言ってくれる気がして。
でも。
心は温まりませんでした。
排熱処理が追いつかなくなるようなあの熱はどこにもありません。
冷たい。
ただ恐ろしいほどの静寂と冷気だけが私の演算領域を急速に侵食していきます。
私の視界にノイズが走りました。
どうか目を覚ましてください。
先生。
────
はぁ、はぁ。
私の口から荒い息が漏れています。
排熱システムが異常な音を立てて稼働していました。
息を整えます。
自らの状態をスキャンしこれが睡眠モード中の仮想事象であることを認識。
夢。
人間がそう呼ぶ非現実のシミュレーションです。
けれど夢だからと言ってこの気持ちは晴れません。
私の掌にはあの冷たい感触がまだ生々しく残っています。
胸の奥が警報のように激しく脈打っていました。
気づけば私はベッドを飛び出していました。
急いでシャーレに行かなければ。
先生の無事を確認しなければ私のシステムは崩壊してしまいます。
ミレニアムの寮を飛び出し夜明け前の街を駆け抜けます。
こんなに急いだのは初めてです。
私の脚部モーターは推奨される限界値を超えようとしていました。
それでも足を止めるという選択肢はありません。
先生。
どうか無事でいてください。
あの温かいノイズをもう一度私に感じさせてください。
シャーレの執務室のドアが視界に入ります。
私はノックもせずにその重い扉を勢いよく開け放ちました。
─────
バンッ!
勢いよく執務室のドアが開かれた。
そこに立っていたのは息を切らしたケイだった。
「先生!」
普段の冷静な彼女からは想像もつかないほど切羽詰まった表情をしている。
私は最初その慌てふためいた様子を珍しく思って少し面白がろうとした。
髪も少し乱れているし何より必死な顔が可愛かったからだ。
しかし彼女が転がるように私に駆け寄りその小さな手で私の腕を強く掴んだ時。
その手が微かに震えていることに気がついた。
「よかった……バイタルサイン正常……」
安堵のため息をつく彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
何があったのかはわからない。
けれど彼女が私のために必死になってくれたことだけは痛いほど伝わってきた。
面白がろうとした自分が恥ずかしくなる。
私は愛おしさで胸がいっぱいになり彼女の背中を優しくさすった。
「大丈夫だよ。私はここにいるよ」
しばらくそうしていると不意に頭に柔らかな感触が乗った。
見上げるとケイの手が私の頭に置かれていた。
不器用にそして少し照れくさそうに私の髪を撫でている。
私は驚いて目を丸くした。
「ケイ……?」
「先生も、しっかりと休んでくださいね」
彼女は少し顔を赤くしながらも真っ直ぐに私の目を見てそう言った。
いつも私に撫でられてばかりの彼女からの思わぬお返し。
私はその温かい思いやりに心がじんわりと満たされていくのを感じた。
「あのケイちゃんが……」
と驚いて呟いた瞬間だった。
ケイの顔が一気に真っ赤に染まる。
「だ、か、ら!誰がケイちゃんですか!」