休日の朝。
私はケイを連れて海へとやってきた。
行き先は江ノ島だ。
潮風が心地よく私たちの髪を揺らしている。
「先生。海というのは不思議な場所ですね」
ケイは橋の欄干からきらきらと光る水面を見つめていた。
「波の音も潮の香りもデータとしては知っていました」
「でも実際に来てみると全然違う?」
「はい。なんだか胸の奥がざわざわするというか」
彼女は自分の胸にそっと手を当てた。
いつものようなシステムエラーという言葉は出てこない。
少しだけ私たちのようになった彼女の言葉が嬉しかった。
私は自然とケイの小さな手を握る。
「っ……先生」
「人が多いからはぐれないようにね」
ケイは一瞬だけ驚いた顔をした。
けれどすぐにギュッと握り返してくれた。
「子ども扱いしないでください。私は迷子になどなりません」
少しだけ口を尖らせるその表情がたまらなく愛おしい。
参道を歩くと美味しそうな匂いが漂ってくる。
「ケイちゃん。あそこのしらすパン食べようか」
「だから誰がケイちゃんですか!」
お決まりのツッコミが青空に響く。
それでも彼女は繋いだ手を離そうとはしなかった。
「先生。あちらの甘い匂いがする食べ物も気になります」
「じゃああれも半分こして食べよう」
「はい。それがいいです」
ふわりと笑う彼女の顔はもうただの等身大の女の子だった。
人で溢れる江ノ島神社の階段へと続くこのなだらかな坂道は見ているだけでも楽しい。
私の隣を歩くケイも珍しそうに周囲を見回していた。
「先生。この辺りはひときわ人口密度が高いですね」
繋いだ手を少しだけ強く握りしめてケイが言う。
「美味しいものがたくさんあるからね」
「美味しいもの……ですか」
ケイの視線がある一点でピタリと止まった。
プシューッというけたたましい音が参道に響き渡る。
同時に香ばしい醤油と磯の香りが風に乗って鼻をくすぐった。
「先生。あちらで局地的な高圧反応が観測されました」
ケイが指差したのは行列ができている丸焼きたこせんべいの店だった。
「あれはね、タコをまるごとプレスして焼いてるんだよ」
「まるごと……プレス?」
ケイは目を瞬かせた。
職人さんが大きな鉄板の上にタコを乗せ上から重そうな鉄板で挟み込む。
キュウウウウッというタコが圧縮されるような音が鳴る。
それを見たケイの口が少しだけ開いた。
「なんという物理的な暴力……いえ大胆な調理法でしょうか」
「ケイちゃん、食べてみる?」
「はい、非常に興味深いです」
ケイは鉄板から立ち上る湯気をじっと見つめている。
その目は完全にタコせんべいの虜になっていた。
「あんなに立体的だった海洋生物がものの数分で厚さ数ミリの平面に変換されるなんて」
「しかもすごく美味しいんだよ」
「私のデータベースにはタコという生物の栄養素や味覚構成は存在します」
ケイは少しだけ早口になって語り始めた。
「しかしあの高温で一気に水分を飛ばすことによるアミノ酸の熱変化……」
「つまり?」
「……すごくいい匂いがします。早く食べたいです」
最後はすっかり理屈が崩れてただの食いしん坊な女の子の顔になっていた。
私はたまらなくなってクスッと笑う。
「よし。じゃあ並んで買おうか」
「はい!……あ、いえ。私はただ未知の調理工程による味覚の出力結果を検証したいだけで……」
「はいはい。検証だね」
「先生。顔が笑っています。私の好奇心をからかっていると推測されます」
むすっとした表情を作るケイだが繋いだ手は離そうとしない。
むしろ早く列に並ぼうと私を引っ張るくらいだ。
自分の素直な気持ちにまだ言い訳をしてしまうところがケイらしくて愛おしい。
私たちは香ばしい匂いに包まれながら焼き上がるタコせんべいを待った。
ついに私たちの順番が来た。
職人さんが重い鉄板を開けるとそこには薄く引き伸ばされたタコがあった。
香ばしい匂いが一気に弾ける。
熱々のそれを紙に包んでもらい受け取る。
私がケイに手渡すと彼女は目を丸くして固まった。
「……」
最初は無言でその巨大な平面をまじまじと見つめている。
そして自分の顔の横に並べるようにして両手で掲げた。
「見てください先生!私の顔よりもずっと大きいです!」
先ほどまでの小難しい理屈はどこへやら。
完全に年相応の女の子のようにはしゃいでいる。
その無邪気な笑顔がたまらなく可愛くて。
私は思わず口元を緩めて彼女を見つめていた。
きっとかなりニヤニヤしてしまっていたのだろう。
はしゃいでいたケイがふと私の視線に気がついた。
途端に彼女の動きがピタリと止まる。
「な、なにニヤニヤしてるんですか!」
耳の先まで真っ赤に染めてケイが声を荒らげた。
「だってすごく嬉しそうだったから」
「う、嬉しそうになど……!これはただ想定以上の表面積に対する純粋な驚きであって……!」
「はいはい。早く食べないと冷めちゃうよケイちゃん」
「だ、か、ら!誰がケイちゃんですか!」
照れ隠しで怒る彼女の顔は手にしたタコせんべいよりも熱そうだった。
そしてそのまま私の口元へと勢いよく突き出す。
「んむっ!?」
「私の驚きをからかった罰です。先生もこの未知の味覚データを取り込んで反省してください!」
ほとんど反撃のような勢いで口に突っ込まれたせんべいを私は慌てて咀嚼する。
サクサクとした心地よい食感。
口いっぱいに広がるタコの旨味と香ばしい醤油の風味がたまらない。
「あ、美味しい」
私が素直な感想をこぼすとケイはふんっと誇らしげに胸を張った。
「当然です。私の計算によればこの高温プレスによる調理法が最も効率的にタコの旨味を引き出しているはずですから」
ドヤ顔で言い放つケイが可愛くて私は再び口元を緩めた。
「でもさ」
「なんですか。まだ私の分析に異論が?」
「これって、二人で同じせんべいを食べてるわけだよね」
私はニマニマと笑いながら手元に残った大きなせんべいと彼女の顔を交互に見つめた。
「つまり、間接キスってやつだよね?」
その言葉が落ちた瞬間。
ケイの動きが完全にフリーズした。
「あぁ!」
数秒の演算処理の遅れのあとケイは素っ頓狂な声を上げた。
手にしたせんべいを取り落としかけて慌てて大事に抱え込む。
「……か、間接……!?」
「ケイちゃんから食べさせてくれたしね」
「ち、違います!これは単なる食物の共有であり唾液の交換を目的とした接触行為ではなく……!」
「でも間接キスは間接キスだよ」
私がさらにニヤニヤして見つめるとケイの顔はタコせんべいよりも真っ赤に染まった。
「なんで先生はそんな恥ずかしいことが言えるんですか!?」
彼女は涙目になりながら私をポカポカと叩いて睨みつける。
その可愛らしい反応に私はお腹を抱えて笑ってしまった。
「あははっ、ごめんごめん。でも本当に美味しいね」
「……もう知りません。私の排熱システムは限界です」
プイッとそっぽを向いてしまったケイと一緒に私たちは神社の赤い鳥居をくぐる。
目の前には頂上へと続く長い長い石段がそびえ立っていた。
「横にエスカーという有料のエスカレーターがありますが……」
ケイが少しだけ恨めしそうに便利な文明の利器を見つめる。
「せっかくだし歩いて登ろうよ。カロリー消費しなきゃ」
「……先生の非論理的な提案には慣れました。私の脚部モーターの耐久テストだと思って付き合います」
文句を言いながらもケイは私の隣を歩き始める。
「でも、転ばないように手は繋いでおこうね」
私がそっと手を差し出すとケイは真っ赤な顔のまま少しだけ躊躇した。
「……間接キスの次は直接的な接触ですか。先生の要求は底なしですね」
ぶつぶつと文句を言いながらも彼女の小さな手が私の手をぎゅっと握り返してくれた。
私たちはパリパリとせんべいをかじりながら一段ずつゆっくりと石段を登り始める。
ケイは食べ終えたせんべいの包装の紙を大事そうに畳んで仕舞った。
長い石段を登りきると朱色の立派な鳥居が見えてきた。
「はぁ……やっと着きましたね」
ケイは少しだけ息を弾ませながら私の隣で立ち止まった。
「お疲れ様。結構いい運動になったでしょ?」
「そうですね。エスカーを使わなかったのも悪くなかったです」
彼女はほんのり赤くなった頬に手を当ててふわりと微笑んだ。
その笑顔にはもう小難しいシステムの話や理屈っぽさは微塵もない。
ただの等身大の可愛い女の子の顔だった。
鳥居をくぐると左手に手水舎があった。
龍の口から透明な水が絶え間なく流れ落ちている。
「ケイちゃん、ここでお清めするんだよ」
「だーかーら!誰がケイちゃんですか!……もう、言い返すのも疲れました」
呆れたようにため息をつきながらもケイは素直に柄杓を受け取った。
「冷たっ!」
水に触れた瞬間、彼女はビクッと肩を揺らした。
「でも……すごく澄んでいて気持ちいいですね」
丁寧に手と口を清めるその横顔はどこか大人びていて見とれてしまう。
本殿でお参りを済ませた後、私の視線はおみくじの箱に吸い寄せられた。
「ねえケイちゃん、おみくじ引いてみない?」
「おみくじなんてただの確率の問題じゃないですか」
ケイは少しだけ唇を尖らせた。
「箱の中に入っている吉凶の割合なんて最初から決まっているんですよ。そんな紙切れに書かれた言葉で未来が左右されるわけないのに」
「まあまあ、そう言わずに。せっかくの記念だし」
私が百円玉を入れて箱を振るとケイも渋々といった様子でそれに続いた。
カチャカチャと音を立てて出てきた番号の紙を受け取る。
「私は……あ、中吉だ」
「私は……」
ケイは自分の紙をそっと開いた。
その瞬間、彼女の動きがピタリと止まる。
真剣な目で文字を追いかけていたかと思うと急に顔を真っ赤にして紙を胸元に隠した。
「どうしたの?凶でも引いちゃった?」
私が覗き込もうとするとケイは慌てて後ずさりした。
「ち、違います!大吉でしたから!」
「ふーん。じゃあ『待ち人』とか『縁結び』のところにはなんて書いてあったの?」
「え、縁結び!?」
ケイの声がひっくり返る。
「な、何も書いてません!『誠意を尽くせば叶う』とか『すぐ側にいる人に目を向けよ』とか、そういうありきたりなことしか……っ!あぁ!」
自分で言っておきながらハッとして両手で口を覆うケイ。
私はもうニヤニヤが止まらなくなってしまった。
「へえ。『すぐ側にいる人』ねえ」
「ち、違います!これはただの確率で……!偶然出ただけで深い意味なんてないんですから!」
必死に言い訳をする彼女の顔はタコせんべいの時よりもずっと赤い。
「そうだね。ただの確率だよね」
「そうです!だからそんなにニヤニヤしないでください、先生のばか!」
照れ隠しで私の腕をポカポカと叩くケイ。
その手は手水舎の冷たい水で清めたはずなのにとても温かかった。
エレベーターの扉が開くと目の前には眩しいほどの青が広がっていた。
「わあ……!」
展望フロアに足を踏み入れたケイから思わず感嘆の声が漏れる。
私たちは江ノ島のシンボルであるシーキャンドルの頂上へとやってきた。
まだ日は高く空も海も透き通るような青色に染まっている。
ケイはガラス張りの窓にぴったりとり付いて外の景色を食い入るように見つめていた。
「先生!見てください!海がずっと遠くまで見えますよ!」
振り返った彼女の瞳はキラキラと輝いている。
そこにはもう小難しい理屈を並べるシステムの面影はない。
ただ純粋に初めて見る絶景に感動している一人の女の子の姿があった。
「本当に綺麗だね」
私が隣に並んで海を見下ろすとケイも嬉しそうに頷いた。
「はい!あっちに見えるのは海岸線ですね。砂浜がずっと続いてます」
「そうだね。今日は天気がいいから遠くまでよく見えるよ」
「あんなにたくさんの人が豆粒みたいです。なんだか不思議な気分ですね」
ケイは窓ガラスに両手をついて背伸びをしている。
その横顔があまりにも無邪気で可愛らしくて私はまた少しニヤニヤしてしまった。
「……先生。また私の顔を見てニヤニヤしてますね?」
ガラスに反射した私の顔に気づいたのかケイがジト目で睨んでくる。
「だってケイちゃんがすごく楽しそうだったから」
「私はただ……高いところからの景色が綺麗だなって、見とれてただけで……」
少し恥ずかしそうに視線を逸らすケイ。
言い訳をする口調もすっかり普通の女の子のものになっている。
「そっか。ケイちゃんと一緒にこの景色を見られて先生も嬉しいよ」
私がそう言って頭を撫でるとケイは少しだけ肩をすくめた。
「……私も、です」
小さな声でポツリと呟いた言葉。
「え?なんて言ったの?」
「なんでもありません!ほら、あっちの方も見てみましょうよ!」
照れ隠しのように私の手を引いて歩き出すケイ。
その手はもう迷うことなく私の指にしっかりと絡みついていた。
私たちは心地よい展望台の空気に包まれながら青空の下の絶景を楽しんだ。
シーキャンドルからの絶景を堪能した私たちは展望台を降りた。
苑内を少し歩くと海風を感じられるお洒落なカフェがあった。
「先生!あのお肉が挟んであるパンが気になります」
ケイがお店の看板を指差して目を輝かせている。
どうやら写真付きで紹介されているハンバーガーのことらしい。
「よし。じゃあお昼はあれにしようか」
私は快諾してメニュー表を覗き込んだ。
その瞬間私の顔からスッと血の気が引いた。
ハンバーガー単品で千五百円。
観光地価格とはいえ予想外の出費だ。
私の財布の中身は現在ひどく寂しいことになっている。
つい先日、高額フィギュアを衝動買いしてしまったからだ。
「えっと……ハンバーガーを一つお願いします」
私は店員さんにそう告げてなんとか支払いを済ませた。
テラス席に座りながらケイが不思議そうな顔で私を見る。
「先生の分はないんですか?」
「私はさっきのタコせんべいでお腹いっぱいになっちゃって」
「そうですか?まだお昼ご飯の時間は過ぎていませんし少し少ない気がしますが」
「だ、ダイエット中だからね」
適当な言い訳をして私は引きつった笑いを浮かべた。
やがて運ばれてきたハンバーガーは千五百円も納得のボリュームだった。
こんがり焼かれたバンズに分厚いパティが挟まっている。
とろけるチーズと新鮮なトマトの彩りも鮮やかだ。
「わぁ……」
ケイは感嘆の声を漏らすと両手でしっかりとハンバーガーを持った。
そして大きく口を開けて勢いよくかぶりつく。
「んっ!」
彼女の瞳がパッと見開かれた。
「美味しいです!お肉の肉汁が口の中に溢れて……」
「そっか。よかったね」
「はい!それにこのパンも外はサクサクで中はふわふわで……」
夢中で頬張る彼女の姿は本当に幸せそうだ。
両手でハンバーガーを掴んでもぐもぐと咀嚼する姿は小動物のようにも見える。
私はこっそり空腹をごまかしながらその可愛らしい顔を特等席で眺めていた。
美味しそうにハンバーガーを頬張るケイ。
その姿を見つめているだけでお腹がいっぱいになる。
はずだった。
ぐぅぅぅぅぅ……。
潮風の音をかき消すような間の抜けた音がテラス席に響き渡った。
音の出処は間違いなく私の腹の虫だ。
ケイの咀嚼がピタリと止まる。
彼女はハンバーガーから顔を上げじっと私の目を見つめた。
「……」
「あ、いや、これは違うの!潮騒の音が共鳴して……」
「先生」
ケイは手に持っていたハンバーガーをそっとお皿に置いた。
そしてテーブルに肘をつき両手で頬杖をつきながら私に向かって少し身を乗り出してくる。
その口元には普段の彼女からは想像もつかないようないたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「さっき、ダイエット中だと言ってましたよね?」
「う、うん。絶賛ダイエット中でして……」
「ふーん。じゃあ、今の音は幻聴だったと?」
「そ、そう!気のせいだよ!」
私が必死に誤魔化そうとするとケイは目を細めてふふっと笑った。
「本当はお腹、ペコペコなんじゃないんですか〜?」
語尾を伸ばして甘く煽ってくるその声に私は言葉に詰まる。
「しかも、私にだけご飯を買って自分が食べない理由……私の演算能力を舐めないでくださいね」
ケイの瞳がまるで私の財布の中身を透視するように光る。
「数日前にシャーレに届いた大きな段ボール箱。あれ、限定版のフィギュアでしたよね?」
「なっ……なんでそれを!」
「先生の浪費癖から導き出される現在の所持金は……ずばり、ほぼ底をついている、ですね?いや、ある程度は残っているが、一応なにかあった時のために残して、それを使うのはいけない。という葛藤に苛まれていた、と」
「うぅ……」
完全に図星を突かれ私はテーブルに突っ伏した。
「見栄を張って私にだけ千五百円のハンバーガーをご馳走するなんて。先生ってば、本当に計画性がなくて……可愛い人ですね」
「かわっ……!?」
「どうですか?目の前で私が食べているこのお肉、すごくジューシーで美味しいですよ?一口、欲しくなっちゃいましたか?」
わざとらしくハンバーガーを持ち上げ私の鼻先に近づけてくるケイ。
完全に遊ばれている。
あの論理的で生真面目だったケイちゃんはどこへ行ってしまったのか。
でも意地悪そうに笑う今の彼女も悔しいくらいに可愛かった。
完全に図星を突かれてぐぬぬと唸る私。
そんな私を見てケイは満足そうにふふっと笑った。
そして両手で持っていたハンバーガーを私の方へとスッと差し出してきた。
「ほら。あーん、です」
「……えっ?」
「お腹が空いているんでしょう?特別に私の一口を分けてあげます」
悪戯っぽく笑う彼女の顔がすぐ近くにある。
ハンバーガーからは香ばしいお肉の匂いが漂っていた。
周囲には他の観光客もいるテラス席だ。
ここで生徒に「あーん」をされるのは大人の威厳としてどうなのだろうか。
しかし私の理性よりも先に限界を迎えていた胃袋が勝った。
私は少しの恥ずかしさを感じながらもおずおずと口を開ける。
「あ、あーん……」
そのままパクリとハンバーガーにかじりついた。
サクッとしたバンズの食感の後に肉汁がじゅわっと口いっぱいに広がる。
「……美味しい」
私が素直な感想をこぼすとケイの誇らしげな声が降ってくるかと思った。
しかし聞こえてきたのはどこか上擦った小さな声だった。
「よ、よかったです……」
ふと顔を上げてケイの方を見る。
そこには先ほどの小悪魔な余裕など完全に消え去った少女がいた。
彼女の頬はまるで夕日を浴びたように真っ赤に染まっている。
差し出した手を微かに震わせながら潤んだ瞳で私を見つめ返していた。
タコせんべいの時の「間接キス」のやり取りを思い出したのだろう。
自分から煽って「あーん」をしたくせにその行為の恥ずかしさに後から気づいたらしい。
普段ならここぞとばかりに「ケイちゃん顔赤いよ」といじり倒すところだ。
しかし今の私にもそんな余裕は残されていなかった。
彼女の可愛すぎる反応を至近距離で浴びて私の顔も一気に熱を持ってしまったからだ。
「……」
「……」
潮風が吹き抜けるテラス席。
私とケイはどちらも顔を真っ赤にしたまま硬直していた。
からかう言葉も理屈っぽい言い訳も出てこない。
ただ波の音だけが二人を包み込むように静かに響き続けていた。
江ノ島の海が茜色に染まり始めていた。
寄せては返す波の音が心地よく響く。
先ほどの照れくさい沈黙はいつの間にか穏やかな空気に変わっていた。
隣を歩くケイの横顔は夕陽に照らされてどこか切なげだ。
「……先生」
「ん?」
「太陽が沈むと本日のスケジュールは終了ですね」
「そうだね。そろそろ帰らないと」
私がそう言うとケイは立ち止まり俯いてしまった。
繋いだままの私の手をきゅっと強く握り返してくる。
「……まだ、帰りたく、ありません」
波の音に消え入りそうな小さな声だった。
「まだこの非論理的な感情のバグを……先生と一緒に検証していたいです」
理屈っぽい言い回しに隠された彼女の素直な我儘。
それがたまらなく愛おしくて私はクスッと笑った。
「じゃあ泊まっちゃおっか?」
「……えっ?」
ケイが驚いて顔を上げる。
「明日も休みだしさ。たまにはこういうのもいいでしょ」
私たちは江ノ島周辺の安い宿に飛び込みで部屋を取った。
値段の割に部屋は綺麗で落ち着いた和室だった。
いぐさの香りがふわりと漂う。
「靴を脱いで上がる文化……畳という床材ですね。素晴らしい弾力性です」
ケイは少し緊張した面持ちで部屋を見渡していた。
しかし彼女の視線はすぐに部屋の中央にある座卓でピタリと止まった。
「先生!あそこにある物体は何ですか!」
ケイが指差したのはお茶請けとして置かれていた温泉饅頭などの和菓子だった。
さっきまでの切なげな表情はどこへやら。
完全に好奇心に支配された目をしている。
「あれは和菓子だよ。お茶と一緒に食べるんだ」
「わ、和菓子……!データには存在しますが実物を見るのは初めてです!」
彼女はタタタッと小走りで座卓に駆け寄る。
「この丸みを帯びたフォルム……表面の艶……中にはあんこという高糖度のペーストが内包されているはずです」
「ケイちゃん、すごく食べたそうな顔してるよ」
「私はただこの和菓子の構造を視覚的に分析したいだけで……」
必死に言い訳をしながらもケイの目はすっかりお饅頭の虜になっていた。
海辺でのエモーショナルな雰囲気から一転。
やっぱりこの子との時間は一筋縄ではいかなくて面白い。
私はクスクスと笑いながらお茶を淹れる準備を始めた。
座卓の上には小ぶりな温泉饅頭が四つ並んでいる。
黒糖の皮と薄緑色の抹茶の皮。
二つの味が二個ずつ用意されている。
私は急須から温かいお茶を湯呑みに注いだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
ケイは正座をして両手を膝に置いている。
その目は完全に二色の饅頭にロックオンされていた。
「それぞれ一個ずつ食べようか」
私がそう言うとケイはこくりと頷いて手を伸ばした。
しかし彼女が取ったのは二つとも黒糖の饅頭だった。
(あれ?なんで同じ味を二つ?黒糖好きなのかな)
不思議に思いながらも私は残った抹茶の饅頭を手にとる。
一口かじると爽やかなお茶の香りと上品な甘さが口いっぱいに広がった。
「んー。美味しい」
渋めのお茶とよく合う。
ふと視線を感じて顔を上げるとケイが私をじっと見つめていた。
自分の黒糖饅頭を小さくかじりながら私の手元の抹茶饅頭を凝視している。
「どうしたの?」
「……抹茶も気になります」
ケイはもぐもぐと口を動かしながら言った。
「私のデータベースによるとその薄緑色はチャノキの葉を粉末にしたものだと推測されますが……」
「うん。すごくいい香りだよ」
「……黒糖の糖度とは違うベクトルの甘味なのでしょうか」
彼女の言いたいことは痛いほどわかった。
さっきのハンバーガーの時のように意地悪な煽りはない。
ただ純粋に違う味も食べてみたいという子供のような好奇心だ。
「……一口、食べてみる?」
私が抹茶饅頭を差し出すとケイはパァッと顔を輝かせた。
そして自分のかけらの黒糖饅頭を私に向かって突き出す。
「では等価交換です。私の黒糖成分も先生に提供します」
お互いに饅頭を持った手を伸ばす。
「あーん」
「あ、あーん……」
私たちは同時に相手の饅頭をパクリと咥えた。
黒糖のコクのある甘さが口の中に広がる。
「美味しいね」
「はい。抹茶の風味も非常に奥深いです」
ハンバーガーの時のような気まずい沈黙はもう訪れなかった。
私たちは顔を見合わせてふふっと笑い合う。
「なんで最初から違う味を一つずつ取らなかったの?」
私が尋ねるとケイは少しだけ照れたように笑った。
「だって最初からそうすれば、先生とこうして『あーん』って、共有できると思ったからです」
「ケイちゃん、意外と計算高いね」
「あくまでこれはただの効率的な味覚共有プロトコルで……!」
顔を真っ赤にして怒る彼女の頭を私は優しく撫でた。
温かいお茶の湯気と一緒にいぐさの香りがふんわりと部屋を包み込んでいた。
私たちは大浴場へと足を運んだ。
暖簾をくぐるともわっとした温かい湯気とほんのり硫黄の香りが鼻をくすぐる。
脱衣所で衣服を脱ぐという行為にケイはすこしまだ戸惑っていた。
「せ、先生……本当にここで全ての装甲を解除するのですか?」
「装甲じゃなくて服ね。温泉に入るんだから当たり前でしょ」
「わ、わかっています!知識としてはデータベースに存在しますから!」
顔を真っ赤にして脱衣所の隅で小さくなっている姿が愛おしい。
私はタオルを手に取って彼女の手を引いた。
「ほら、行くよ」
「ひゃっ……!先生、引っ張らないでください!」
洗い場で体を流し終えいよいよ湯船へと向かう。
ここの温泉は岩風呂になっていてとても風情があった。
「わぁ……」
ケイは湯船の縁に立ち湯気を上げるお湯をまじまじと見つめている。
「これが温泉……地熱によって温められた地下水……ミネラル成分が豊富に含まれているはずです」
「ケイちゃん、早く入らないと湯冷めしちゃうよ」
「だーかーら!誰がケイちゃんですか!」
お決まりのツッコミを入れながらも彼女はおそるおそる足先をお湯につけた。
「……温度解析。摂氏四十二度。人間の皮膚には少し熱いと感じる温度帯ですが……」
「ゆっくり肩まで浸かってみて。すごく気持ちいいから」
私が先に肩までお湯に浸かって見せるとケイもゆっくりと体を沈めていった。
「んっ……」
彼女の口から小さく可愛らしい吐息が漏れる。
「どう?気持ちいい?」
「……はい。なんだか全身の筋肉の緊張が解れていくような……」
ケイの顔が温泉の熱気でみるみるうちに桜色に染まっていく。
普段の凛とした表情がすっかり崩れてぽやぽやとしているのがたまらない。
「不思議です。ただのお湯なのにこんなに心が落ち着くなんて」
「それが温泉の力だよ。ケイちゃんもすっかりリラックスしてるね」
「……ケイちゃんと呼ぶのはやめてくださいと言っているのに」
文句を言いながらも彼女は私から距離を取ろうとはしない。
むしろお湯の中でするすると私の方へ寄ってきて隣にぴったりとくっついた。
「先生の体温も……お湯の熱も……すごく温かいです」
「そうだね」
「私の排熱システムが限界を超えそうです。でも……」
ケイは上目遣いで私を見つめた。
潤んだ瞳と上気した頬が色っぽくて思わずドキリとしてしまう。
「このまま、もう少しだけ……先生の隣でゆっくりしていてもいいですか?」
素直で甘えるような彼女の言葉に私は優しく微笑んで頷いた。
湯煙の中で私たちは肩を並べて静かな夜の温泉を楽しんだ。
ぽかぽかと火照った体で脱衣所を出る。
休憩所の長椅子に座るとひんやりとした空気が心地よかった。
隣には少し大きめの浴衣を着たケイが座っている。
「先生。あそこに冷却された飲料の提供機があります」
ケイが指差したのは昔ながらの瓶牛乳の自動販売機だった。
「お風呂上がりといえばやっぱりあれだよね」
私たちが自販機の前に立つとガラス越しに色とりどりの瓶が並んでいた。
コーヒー牛乳とフルーツ牛乳。
王道の二種類を前にしてケイは真剣な顔で悩んでいる。
「……」
「ケイちゃん、迷ってるの?」
「だーかーら!誰がケイちゃんですか!」
湯上がりでピンク色に染まった頬をさらに赤くしてケイが抗議する。
でもその視線はすぐにまた自販機へと戻っていった。
「コーヒーの苦味と牛乳のまろやかさ……フルーツの酸味と甘味のバランス……」
ぶつぶつと呟きながら彼女はふと私を見上げた。
「先生はどちらの方に気分は偏ってますか?」
「んー……」
私は少し考えてから答えた。
「さっぱりとした酸味が欲しいからどっちかっていうとフルーツ牛乳かな」
「なるほど。フルーツ牛乳ですね」
ケイは小さく頷くと迷いなく硬貨を投入した。
ガコンッという軽快な音が二回鳴る。
取り出し口から出てきたのは二本ともオレンジ色のフルーツ牛乳だった。
「はい、先生の分です」
「ありがとう」
受け取りながら私は少しだけ不思議に思って首を傾げた。
「でも、1本ずつ買ったらシェアできたのに」
さっきのお饅頭みたいに違う味を半分こするのかと思っていたからだ。
するとケイは自分の瓶の蓋をポンッと開けてふわりと微笑んだ。
「一緒に同じものを味わうのだっていいじゃないですか」
その笑顔はもうシステムや演算なんて言葉とは無縁のただの女の子のものだった。
「同じ美味しいを同時に感じるのも悪くないって……先生に教わった気がします」
照れくさそうに目を伏せてフルーツ牛乳を一口飲むケイ。
私はなんだか胸の奥がぎゅっと温かくなるのを感じた。
「そうだね。お揃いの味も美味しいね」
私も瓶に口をつけて甘酸っぱい冷たさを喉に流し込む。
湯上がりのほてった体に二人の笑い声が優しく溶けていった。
部屋に戻ると畳の上にふかふかの布団がふたつ並んで敷かれていた。
湯冷めしないうちに私たちはそれぞれの布団に潜り込む。
消灯した部屋の中は静かで遠くから微かに波の音が聞こえてくるだけだ。
「……先生」
暗闇の中からケイの小さな声がした。
「どうしたの?眠れない?」
「いえ……その」
布団の擦れる音がしてケイがこちらを向いた気配がした。
「アリスにもこの気持ちを今すぐ伝えたいです」
「この気持ちって?」
「海が広くて綺麗だったこととか」
「タコせんべいがすごく大きくて美味しかったこととか」
「それから……こうして先生と同じ時間を過ごして胸がすごく温かくなっていることとか」
ぽつりぽつりと紡がれる言葉にはもう論理的な言い回しはなかった。
ただの素直な女の子の飾らない本音だ。
「そうだね。明日帰ったらアリスにたくさんお土産話をしてあげよう」
「はい。きっとアリスも目を輝かせて喜ぶはずです」
それから私たちは今日一日の出来事を暗闇の中で小さく語り合った。
階段が長くて疲れたことやハンバーガーを半分こしたこと。
たわいない雑談が心地よくて次第にまぶたが重くなってくる。
ふと隣の布団からごそごそと動く音がした。
「……先生。そちらの布団に入っていいですか?」
控えめなでも少しだけ甘えるような声だった。
私は少し驚いたがすぐに布団の端を持ち上げてスペースを作った。
「いいよ。おいで」
「……失礼します」
するりと滑り込んできたケイの体は湯上がりの温もりを帯びていた。
一人用の布団に二人で入るとどうしても体が密着してしまう。
ケイは私の腕に自分の腕を絡ませて胸元にぴったりとすり寄ってきた。
シャンプーの甘い香りとフルーツ牛乳の微かな匂いがふわりと漂う。
「ケイちゃん、狭くない?」
「誰がケイちゃんですか……」
いつもの抗議の声はすっかり弱々しくてとろけるように甘かった。
「……狭いですけど、すごく安心します」
ぎゅっと私の寝間着の胸元を握りしめる小さな手。
「先生の心音……私の演算領域をとても穏やかにしてくれます」
「そっか。よかった」
私は彼女の背中に腕を回して優しく一定のリズムでトントンと叩く。
「おやすみ、ケイ」
「それはそれで寂しいです……おやすみなさい、先生」
少しして規則正しい寝息が胸元から聞こえてきた。
波の音と彼女の温もりに包まれながら私も静かに眠りへと落ちていった。
───
ゆっくりと重いまぶたを開ける。
視界に入ってきたのは見慣れたシャーレの執務室だった。
私はデスクに突っ伏したまま眠ってしまっていたらしい。
頬に張り付いた書類をそっと剥がしながら小さく伸びをする。
はぁ、と息を吐き出すと胸の奥にぽかぽかとした温かい余韻が残っていることに気がついた。
寄せては返す波の音。
サクサクとした香ばしい味。
そして小さな手のひらの優しいぬくもり。
何かとてもいい夢を見ていたような気がする。
けれどその細部は朝霧のようにぼやけていてどうしても思い出すことができない。
コンコン。
ノックの音とともに執務室のドアが開いた。
「先生。またこんなところで寝ていたのですか」
入ってきたのはケイだった。
彼女は少し呆れたような顔をして私の方へと歩いてくる。
「あはは……ごめんごめん。ちょっと書類仕事の休憩のつもりが」
「ベッドで適切な睡眠をとらないと疲労回復の効率が著しく低下します。先生の健康管理も私の重要なタスクの一つなんですからね」
小言を言いながらもその声はどこか嬉しそうで優しい。
ふと彼女の手元に目をやると折りたたまれた小さな包装用のような紙を大事そうに両手で抱えていることに気がついた。
「ケイちゃん。それなに?」
私はいつものように尋ねた。
当然「だーかーら!誰がケイちゃんですか!」というお決まりの抗議が飛んでくるものだと身構える。
しかし。
ケイは怒るどころかふわりと花が咲くように柔らかく微笑んだ。
「ふふ、宝物です」
それは私の胸の奥に残る温かい夢の欠片とぴったり重なるような愛おしい笑顔だった。
紙の正体が何なのか。
そして私がどんな夢を見ていたのか。
はっきりとはわからないけれど彼女の嬉しそうな顔を見ていたら私も自然と笑顔になっていた。
窓の外からはいつもの明るい朝の光が差し込んでいる。
夢よりもずっと温かくて優しい現実がまたここから始まっていく。