セックスが淘汰された世界で、唯一の『クソオス魔装鍛冶師』 作:北川ニキタ
七席。
七席、七席、七席。
頭の中で三回唱えてみたが、何も降りてこない。
前世の知識を総動員しても、この世界で十八年間蓄えた常識を引っ張り出しても、「七席」という単語に紐づく情報がゼロだ。
山の工房で五年間、鍛冶と素振りとおっぱいのフィッティングしかしてこなかった男の語彙に、そんなものは存在しない。
ただ、わかることはある。
フィーネの反応だ。
三年間目指してきた、と彼女は言った。毎日鍛錬し、実戦を重ね、ようやく候補に名前が挙がった、と。
それを聞けば、なんかすごいことには違いない。
フィーネの今の表情が、それを雄弁に物語っている。
地面に落ちた自分の剣を拾い上げ、鞘に納めたフィーネは、オレを見ていなかった。オレではなく、自分の手を見ていた。
その横顔に浮かんでいるのは、理解不能と、屈辱と、それでも折れていないプライドだ。
……気まずい。
圧倒的に気まずい。
改めて「あの、七席って何ですか?」と聞ける空気ではない。
三年間の努力を、今この瞬間に踏みにじられた人間の前で「ところでそれ何?」は、さすがに人の心がなさすぎる。
空気を読め。今は黙っていろ。
たぶん、すごいんだろう。
たぶん、オレにはもったいないくらい、すごいんだろう。
……たぶん。
◆◆◆
「じゃ、あたしこれから用事あるから」
リーゼが、何でもないことのように言った。
散々人を好き勝手ひっくり返しておきながら、「用事あるから」。
「フィーネ、この子のことよろしくね」
「…………は?」
フィーネの声が裏返った。
オレも困惑している。
よろしくね、の「よろしく」とは具体的に何を指すんだ。
「リ、リーゼ様!? お待ちください、この男を、わたしに預けると仰るのですか!?」
「うん。フィーネが一番適任でしょ」
「適任って……何のですか!?」
「んー」
リーゼはどこからともなく便箋を取り出した。
あのぶかぶかの旅装のどこかに入ってたんだろう。
便箋に、さらさらと何かを書き始める。小さな手で、しかも迷いのない筆跡。
「はい、これ」
リーゼが書き終えた便箋を折り畳んで、フィーネに差し出した。
「これを学院長に渡せばオッケーだから」
学院長。
また知らない単語が出てきた。
学院長ということは、学院がある。学院長がいる何かの学院。
フィーネは便箋を受け取った。受け取ったが、その手が微かに震えていた。
怒りか。悔しさか。あるいはその両方か。
「……わ、わかりました」
しぶしぶ、という言葉がこれほど似合う返事を、オレは聞いたことがない。
声に出ていない感情のほうが三倍くらいデカい。「わかりました」の裏に「わかりたくない」「納得していない」「でも逆らえない」が全部乗っている。
「じゃねー」
リーゼが手をひらひら振った。
そして。
消えた。
比喩じゃない。
一歩踏み出した瞬間、少女の姿が視界から消えた。あのお姫様だっこの時と同じ速度だ。人間の動きじゃない。残像すら見えない。
訓練場に、オレとフィーネだけが残された。
静寂。
夕方の風が、訓練場の土を舐めていく。
オレの唯一の保護者っぽい人が、いなくなった。
知り合いゼロの王都で。
……前世で、転勤初日に上司が「じゃ、あと頼むわ」と言って帰った時のことを思い出す。あの時も引き継ぎなし、説明なし、いきなり電話が鳴って「お前誰だよ」だった。
転生しても構造は変わらない。偉い人間は説明をしない。
◆◆◆
「あの、フィーネさん」
話しかけた。
話しかけるしかなかった。
リーゼがいなくなった以上、この場でオレの状況を知っている人間はフィーネだけだ。これからどこに行けばいいのか、何をすればいいのか、どこで寝ればいいのか。全部わからない。
パンパンのリュックを背負ったまま、異国の地に放り出された難民の気分だ。
「これから、どうすれば――」
フィーネがオレを睨んだ。
振り向きざまに。
鋭い目だった。
さっきの戦闘の時より、鋭い。
そして――
涙目だった。
目の縁が赤い。
鼻先も赤い。
泣くのを堪えている顔だ。
唇を噛んで、拳を握って、全力で堪えている。
「なんで」
掠れた声だった。
「なんで、男なんかに……」
男なんかに。
男なんかに、負けた。
その一言に、三年間の全部が詰まっていた。
オレは何も言えなかった。
ごめん、と思った。
心の底から、ごめん、と。
フィーネの三年間を、オレは知らない。どんな訓練をして、どんな戦いをして、どれだけの汗を流してきたのか。
それを、七席が何かも知らない男が、よくわからない武器のよくわからない機能が、たまたま一回だけうまくいったことで――奪った。
しかし「ごめん」と口に出すのは違う、とも思った。
謝ったら、それは「お前に勝ったのは間違いだった」と言うのと同じだ。それはそれで失礼なような……。
だからオレは、黙っていた。
気まずい……。
前世で経験した全ての気まずさ――合コンで自分だけ余った夜、会社の飲み会で上司のスベった冗談に誰も笑わなかった瞬間、面接で「他に質問は?」と聞かれて何も出てこなかった時――それらを全部足しても、今のこの気まずさには及ばない。
フィーネは袖でぐいっと目元を拭った。
乱暴に。怒るように。
それから、無言で歩き出した。
何も言わない。
ついてこいとも、ついてくるなとも言わない。
……ついていっていいのか。
いや、ついていくしかない。ここに一人で残されても、オレは王都の地理を一ミリも知らない。
フィーネの背中を追って、訓練場を出た。
◆◆◆
無言だった。
ひたすら、無言だった。
フィーネは早足で街路を歩いていく。オレはリュックを揺らしながら、その背中を追う。
距離は五歩分。近づきすぎず、離れすぎず。この距離がちょうど「ついていっている」と「別に一緒に歩いているわけではない」のギリギリの境界線だ。
フィーネは一度も振り返らない。
振り返ったら、オレの存在を認めることになるから。
道を歩くたび、すれ違う人々の視線がオレに刺さる。
「……男?」
「え、なに、男が歩いてるんだけど」
「珍しっ」
王都の住人たちの反応は、村とさほど変わらない。珍獣を見る目。ただし、村よりも人口が多い分、視線の総量が桁違いだ。
村では一日に会う人間が二十人もいなかった。
王都では、一つの通りを歩くだけで百人とすれ違う。
百人分の「男?」。
慣れろ。慣れるしかない。
……慣れるのか、これ。
◆◆◆
建物の前で、フィーネが立ち止まった。
見上げた。
でかい。
石造りの建物だが、師匠の工房どころか、さっきの城門よりも大きい。
正面に門があり、門の上にはオレには読めない紋章が掲げられている。
門の向こうに中庭が見える。広い。木が植わっている。噴水がある。
左右に建物が連なっていて、奥にもさらに建物が続いている。一つの区画が丸ごと施設になっている感じだ。
前世で言えば大学のキャンパスに近い雰囲気だが、石壁の重厚さが違う。歴史の重みがある。
フィーネは門番に一言告げて、中に入っていく。
門番がオレを見た。
「……男?」
本日、もうカウントするのをやめたはずの「男?」が、それでも耳に入ってくる。
「連れです」と言おうとしたが、フィーネは振り返らない。仕方なく、フィーネの背中を指差して「あの人の、えっと……」と言いかけたところで、門番がため息混じりに通してくれた。
中に入ると、さらに視線が増えた。
歩いているのは、オレたちと同年代の女が多い。制服のような統一された服装。教科書らしきものを抱えている者もいる。
学校だ。
これ、学校っぽいところだ。
ここの学院長に手紙を渡せ、とリーゼは言っていた。
つまり、ここが「学院」か。
すれ違うたびに、女たちの視線が突き刺さる。
「ねえ、あれ、男じゃない?」
「うそ、本物の?」
「なんでこんなところに……」
ひそひそ。ひそひそ。
廊下を歩くだけで、水族館の珍魚になった気分だ。
フィーネは一切気にせず歩いていく。
オレはその背中だけを見て歩いた。
◆◆◆
重厚な扉。
フィーネがノックして、中から「入りなさい」という声。
扉を開けた先は、広い部屋だった。
書棚が壁一面を埋めている。窓が大きく、夕日が差し込んでいる。机の上には書類の山。その向こうに、一人の女性が座っていた。
年齢は――師匠と同じくらいか、もう少し若いか。五十代後半か六十代か。髪をきっちりと結い上げ、眼鏡をかけている。
背筋が真っ直ぐだ。椅子に座っていても姿勢が崩れない。長年そうしてきた人間の背筋だ。
学院長。
偉い人だ。
偉い人の部屋で、偉い人の前に立っている。
パンパンのリュックを背負ったまま。汗だくで。砂利の汚れがまだ服についている。
面接で言えば、スーツを忘れてジャージで来たようなものだ。
学院長の視線がオレに向いた。
「…………」
一拍の沈黙。
来る。来るぞ。今日何回目かわからない、あの台詞が。
「……男?」
来た。
もう驚かない。
この世界でオレに向けられる第一声は、百パーセントこれだ。確定演出。スキップ不可のチュートリアルムービーと同じ。
「フィーネ、これは一体……?」
「リーゼ様からのお手紙です」
フィーネの声は平坦だった。感情を削ぎ落とした事務的な声。しかし、その事務的さの裏に、押し殺した不機嫌がうっすらと滲んでいる。
最低限のマナーは守っている。目上の人間に対する礼儀は崩していない。
ただし、それ以上のものは一切出さない、という意思表示の声だ。
便箋を差し出した。
学院長が受け取り、封を開け、中の手紙を読み始めた。
読んでいる。
オレの運命が書かれているであろうその手紙を、オレの許可なく書かれたその手紙を、オレ以外の人間が読んでいる。
学院長の表情が変わった。
最初は怪訝な顔。それから困惑。さらに驚愕。
「……え?」
手紙から目を上げて、オレを見た。
また手紙に目を落とした。
もう一度、オレを見た。
「え?」
二回言った。
偉い人が「え?」を二回言うのは、相当な事態だ。
「こ、この人が……七席に……?」
七席。
やっぱりオレはそこに入れられるらしい。
何なのかわからないまま。
学院長は手紙を机に置いて、眼鏡を外して、もう一度かけ直した。視力の問題ではなく、見ているものが信じられない時に人間がやる動作だ。前世でも今世でも変わらない。
「規定上は……確かに、可能だけど」
規定上は可能。
男が七席になる。
犬がフォークを持ってフェンシングの全国大会に出場する、くらいの話なのかもしれない。規定に「人間に限る」とは書いていないから、犬でも出られる。出られるが、出ない。
……だから自分を犬に例えるのやめろ。自己肯定感が。
「まあ……リーゼ様がおっしゃるなら、大丈夫なのだろうけれど」
大丈夫なのだろう。
根拠はリーゼが言ったから。
それだけ。
リーゼの一言が、学院の規定より重い。学院長の判断より重い。
あの十歳の少女は、一体何者なんだ。
……いや、十歳じゃないのかもしれない。「子供じゃないし」と本人は言っていた。あの異常な身体能力、異常な魔素量、門番が頭を下げる威光。
考えれば考えるほどわからない。
わからないことが溜まりすぎて、頭の中が満員電車だ。
「改めまして」
学院長が立ち上がった。
机の向こうから、オレの前に歩み出てくる。
近い。偉い人が近い。
「わたしはエルディーラ。このグラグタル学院の学院長を務めています」
グラグタル学院。
名前を聞いてもピンと来ないが、この建物の規模と、学院長の佇まいからして、相当な名門なのだろう。
「よろしくお願いします」
オレは頭を下げた。
とりあえず頭を下げておく。偉い人の前では頭を下げる。
「えっと……ディート、です。魔装鍛冶師の……見習い、です」
自己紹介が貧弱すぎる。
肩書きが「見習い」しかない。
師匠の工房を出てきたばかりだ。正確には「元見習い」ですらない。卒業したのか追い出されたのか、自分でもよくわからない。
エルヴィーラ学院長は、オレの顔をじっと見た。
値踏みするような――いや、困惑しているのだ。
「リーゼ様が推薦する人材」と「目の前の汗だくでリュック背負った男」が、脳内で結びつかないのだろう。わかる。オレでも結びつかない。
「……よろしくお願いします、ディート」
学院長は微笑んだ。困惑を飲み込んだ上での、大人の微笑みだった。この人は処世術に長けている。長年の管理職経験がそうさせているのだろう。
しかし、オレには微笑みよりも先に聞かなければならないことがあった。
ずっと聞けなかったこと。
七席が何かも、学院が何かも、オレがこれからどうなるのかも、何一つわかっていない。
フィーネの前では聞けなかった。フィーネの三年間を思うと、無知を晒すのが申し訳なかった。
でも、もう限界だ。
質問の渋滞が限界に達している。これ以上溜め込んだら、頭の高速道路で玉突き事故が起きる。
「あの……学院長」
「はい」
「えっと……すみません、オレ、これからどうなるんですか?」
声に出した。
やっと声に出した。
今日一日ずっと「聞けない」で過ごしてきた疑問を、やっと。
「いちいち、何がなんだか、全然わかってなくて……」
情けない台詞だった。
十八歳の男が「何がなんだかわかりません」。
小学生の転校初日か。
エルヴィーラ学院長が、目を丸くした。
それから、フィーネのほうを見た。
「……フィーネ。説明していないの?」
フィーネは、ぷいっと目を逸らした。
不機嫌の権化のような横顔だった。
「……聞かれませんでしたので」
聞かれなかった。
聞かなかったオレも悪いが、聞ける空気を一ミリも作らなかったのはそっちだろう。
学院長はため息をついた。
深い、深いため息だった。部下の報告書に誤字が多すぎた時の上司の溜息と同じ深さだ。前世で何度も聞いた。今世でも聞くことになるとは。
「わかりました。では、わたしから説明しますね」
学院長がオレに向き直った。
そして、言った。
「あなたは、ここ――グラグタル学院に、生徒として編入することになります」
…………。
……………………。
「せ、せいと?」